【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ダークナイト」:本所吾妻橋バス停付近の会話

2008-08-27 | ★門33系統(豊海水産埠頭~亀戸駅)

質屋っていうのは、いまでもやっぱりこういう路地裏にあるのかしら。
そりゃあ、そのほうが入りやすいだろう。俺なんか、暗い夜を狙って質屋通いをしたもんだ。
暗い夜、まさしく、映画の「ダークナイト」ね。
いや、映画の「ダークナイト」は暗い夜っていう意味じゃなくて、闇の騎士っていう意味らしいぜ。
“ナイト”は“夜”でしょう。「アラビアン・ナイト」だって「英語で喋らナイト」だって“ナイト”は“夜”よ。
でも、ちゃんと字幕にも書いてあったぜ、闇の騎士って。
あやしいもんだ。
意固地だねえ。なんでそんなにこだわるの?
夜のシーンが艶やかっていうか、やたらなまめかしいしのよ。
監督が暗い映像に命をかけているようなクリストファー・ノーランだからな。
トゥーフェイスの顔も強烈だったなあ。
人間のくせにちょっとターミネーターみたいでな。
ジョーカーの演技ばかり話題になっているけど、私はそっちに気を取られちゃった。アホ面エッカートがトゥーフェイスをやるなんて!
ああ、バットマンと宿敵ジョーカーの闘いには目を見張るものがあるけど、今回の影の主役は意外にもゴッサム・シティの検事、トゥーフェイスだった。
ゴッサム・シティを浄化しようとして立ち上がったのに、理想論だけじゃうまくいかないって思い知らされて、徐々に悪に手を染めていく。
お前はダース・ベーダーか!みたいな展開。
顔の半分が焼け爛れて半分が素顔のまま残っている。そこに、善と悪の葛藤が象徴的に表現されている。アメリカのコミックとか映画ってこういうわかりやすさがあっていいよねえ。
一方、いくら正義の味方を気取ったところで、かえって犯罪は増えるばかりで、バットマンは人間的に悩んじゃう。細菌を撲滅しようとワクチンを打ったらもっと強い細菌が現れたようなもんだな。
ジョーカーみたいに純粋悪の権化のような人間まで現れるし、バットマンの偽者は現れるし、恋は三角関係に陥るし、すごいボリューム感のある映画。
ごった煮みたいな話なのに、監督のクリストファー・ノーランはしっかりと整理して格調感さえある映画に仕上げた。見事だ。
一瞬も飽きさせず、かといって混乱もさせない。
あのジョカーは「ノーカントリー」の主人公を凌駕するくらいの不気味さだったし。
血も涙もない。それどころか、金銭欲もない。権力欲も何もない。
およそ人間的なところがない。悪の感情だけで動いている。
なんで、最近の映画って、ああいう究極的に救いのない人物を悪者に造型するようになったのかしら。
日本でも、「誰でもいいから殺したかった」なんてうそぶく犯罪者が増えてきたじゃないか。正義の味方だったはずのイラクのアメリカ兵は悪者みたいになっちゃったし、そういう社会全体を覆っている行き詰った時代の空気を制作者が敏感に感じているってことだよ。
そこをうまくすくいとって極上の娯楽映画に転化するんだから、アメリカ映画もまだまだ隅に置けないわね。
理屈じゃなく、空気として表現に取り込んでしまうところに脱帽しちゃうんだ。
単純なヒーローっていうのも、もう望まれていないのかしらね。近頃のヒーローはみんな人間的に屈折しちゃってるけど。
フェリーの危機を救うのが、バットマンじゃなくて、乗船者たち自身だっていうのがまた肝でな。一人の英雄じゃどうにも救いようがない世界。せめて、人々の善意を信じたいという、涙がちょちょぎれるような希望が、かえって世界の絶望感を誘う。
そう。勝っても全然爽快な映画じゃないの。
それがいまっていう時代なのさ。
ヒーローがピカピカなヒーローでいられたころが懐かしいわね。
まったく、俺も質屋通いしていたころが懐かしい。
って、何で過去形で言うの?いまでも通っているくせに。
お、知ってたのか。


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