【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「長い散歩」:勝島一丁目バス停付近の会話

2007-01-10 | ★品93系統(大井競馬場前~目黒駅)

この橋は、通称、"かもめ橋"。人だけが通る人道橋だ。
こちら側の人はこの橋を通ってあちら側のダイエーまで買い物に行くんでしょうね。
毎日、長い散歩をしているわけだ。
映画の緒形拳と幼い女の子のように?
いやいや、映画の「長い散歩」はそんなのどかな話じゃないぜ。
わかってるわよ。緒形拳扮する初老の男が借りたアパートの隣の住人が幼い娘を虐待しているのを知って、男はその娘を連れて旅に出ちゃうっていう話よね。
ひとことでいやあ、誘拐だ。
でも、あのまま母親と一緒にいたら何されていたかわからないんだから、緒形拳はあの子にとって神の救いなんじゃないの?
だったら、そのまま警察か児童相談所に連れて行けばいいじゃないか。
それじゃあ映画にならないじゃない。
おいおい、そんな理由で旅に出るのか?
もちろん、違うけど。緒形拳の役も結構屈折した人生を送ってきた役なのよ。
そりゃあ、わかるさ。妻ともうまくいかず、娘ともうまくいかず、まるで「紀子の食卓」の光石研のなれの果てみたいな役だもんな。
拳と研?ひっかけてる?笑ってほしい?
いや、そういうことじゃなくて、幼女を救うだけだったら、一緒に連れまわす必要ないのに、実は緒形拳扮する初老の男も壊れちゃってるんだよな。で、本人は虐待されている娘を救うつもりなんだろうが、実は昔、妻や娘に酷いことをした自分の心のほうが癒されていくって話だよな。
実は緒形拳にとっては、あの幼児は天使だったっていうこと?
まあね。傷ついた天使が傷ついた老人を救うっていう構図だ。
最初、幼い娘が天使の羽根をつけて現れたときには、あざとい仕掛けだなと思ったけど、あれが絵的にも厳しい話を和らげるアクセントになってるのよね。
あれをつけている現実的な意味もちゃんと理由付けしているしな。
体に触られることイコール虐待されることだと経験から感じている娘が、体に触れられそうになるたびにあげるギャーという奇声も聞くのがつらかったけど、緒形拳と打ち解けていくうちにだんだん発しなくなっていく過程が丁寧に描かれていて、ほっとしたわ。
緑の多い田舎の風景も微妙に枯れた味わいで、状況のつらさを緩和しているしな。
癒しの風景ってやつ?
しかし、見ものはなんといってもラストシーンだろう。ハッピーエンドに見せかけといて、結構ビターな終わり方だ。
というか、現実の厳しさを知っているおとなの終わり方よね。あれで映画がきりっとしまったわ。
監督をやっている奥田瑛二も50歳を越えて、いい年だからな。
それでエンディングは、ああいう、世代を感じさせる選曲になったのかな。
それもあるけど、近い世代としてやっぱり初老の男を手放しで肯定するわけにはいかないってことだろう。
彼自身、刑事の役で出てたわね。現実に戻ればあれは誘拐だ、ってことかしら。
社会的にどうか、っていうより老人と幼女の関係がね。これでハッピーエンドにしたらおとぎ話で終わってしまう。すべてをファンタジーへ昇華しては、映画の力が弱まってしまうってわかっているんだよ。
結局、あなたもこの映画を認めるのね。
ああ、あのラストシーンを観ちゃうとな。
この映画は、現実とファンタジーの間にかかった橋みたいなもんだってことね。
そう、この"かもめ橋"みたいなね。その間を二人は歩き去ったってことさ。
そして、長い散歩も終わる。行く末をもっと観ていたい気持ちにさせながら。
いい映画というのはそういう気持ちにさせてくれるもんさ。


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ふたりが乗ったのは、都バス<品93系統>
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