妖しい亜熱泰

タイと東京、アジアと和の話題など。
出かけたついでに一枚をつづります。

「カラーでよみがえる日本60年前~米国人の撮った戦後 写真展」

2006-01-30 | Weblog
どんな子供だって鼻たれ小僧だった……そんな記憶を持っているのは昭和30年代生まれまでくらいの世代ではなかろうか。そんな懐かしい、否もっと古い親達の世代の日本の姿をアメリカ人のカメラがカラーフィルムで収めていた。銀行のロビーで開かれてる写真展という、軽い気持ちで出かけたのだが、予想以上の充実した内容に驚き、見入ってしまった。

この写真展は意外な偶然が発端になっている。当時通産官僚だった、細田前官房長官がワシントンに留学していた際、ステイ先で見せてもらったカラースライドに日本の戦後の姿が映し出されていたからだった。たまたまその家の主人が進駐軍として来日していて、日本で結婚し、いわばハネムーン写真代わりのような形で日本の写真を大量に撮っていたのだという。この写真をきっかけに、同様の写真がアメリカに残っているのではないかと、毎日新聞支局の協力を得て集まった1万枚のスライド中から120枚を選び出したのが、今回の展示会だ。

会場には、焼け野原になった東京や、無残なゼロ戦の残骸といった戦争直後を象徴する作品もあるが、笑顔の子供たちや、リヤカーの金魚売り、木炭車、横浜駅舎、秋葉原界隈など当時の世相や風俗を伝える歴史的に見ても充分に価値のある内容が盛りだくさんだ。なによりも、戦後間もない日本の姿が色付き(カラー)で写っているというのが衝撃的だ。

日本とアメリカが戦争をしたことを知らない世代にも、戦中戦後を生き抜いてきた人たちにも是非見てほしい展覧会だと思う。

また、会場では誕生日の毎日新聞の一面をコピーしてくれるサービスもある。これは、自分の誕生日が何曜日であることが確かめられるという点で、私のようなタイ好き人間にとってもまた、別の意味で貴重な場所でもあります。

この写真展は、霞ヶ関、新生銀行1階のロビーで、2月14日まで見ることができますし、毎日新聞社から「にっぽん60年前」として出版もされています。
一度足を運んでみてははいかがでしょうか。

タイカラデビュー

2006-01-29 | Weblog
上野にあるレストランのような店に行った。目立たない看板、入り口まで来ても一見さんにはわからないタイ文字が並んでいるだけ、そんな扉をあけると「サワディクラップ」。声の主は残念ながら日本人だった。

レストランというよりは、香港に住んでいた当時何回か行った、タイ人向けカラオケレストランのスタイルだ。香港でも日本人向けのカラオケ店は日本と同じつくりだったし、国が違っていても自国にあるスタイルの店づくりになるのは単なる偶然なのだろうか。鍵の手型にテーブルと椅子が並びスクリーンが二つ。日本のようにステージはなく、マイクが各テーブルを巡回していく。歌いたい人が歌い、他の人たちは話したり、飲んだり、食べたり…そんなふいんきがいかにもタイ的な感じがする。
向こうの席で歌っていた人がいつの間にか合流してきたり、リクエストした曲がなかなか見つからなかったり、メニューにあるビールが品切れだったり、とにかくここは本当に上野かいな?というノリであるのが面白い。
が、もっと面白かったのは、そんなふいんきの中で客が全員日本人だったということだ。

ほとんどの人とは初対面だったが、そんな店のムードになんの違和感もなく溶け込んでしまうのがタイ好き人間のタイ的環境同化能力なのかもしれません。

ギャラリートーク 紙と装幀デザインの考察

2006-01-22 | Weblog
私たちは書店で本探しをするとき、カバーデザインや本のタイトル、作家名などを頼りに膨大な書籍の中から一冊を取り出し、目次やら、帯やら、解説などをさらっとあるいはじっくりと読んで、興味があると購入するという手順を踏んでいると思う。

ところが、今日だけは本の内容そっちのけで、本のカバーだの、表紙だの、表紙の裏に貼り付けてある紙などについて、目で見、手で触ったりを繰り返しながら、「なるほど」を心の中で何回も繰り返していた。

銀座にある「紙百科」で行われたギャラリートークに行ったら、そんなことになっていた。今回はブックデザインをやっている工藤強勝さんと、紙を作る側として、特種製紙・製紙デザイン研究所長である杉本友太郎さんの対談だった。
「眠かったら、寝ちゃってください!」
という意表をつく言葉で始まったトークだったが、パワーポイントやスライドさらには、実際に工藤さんが装幀した本の回覧などあって、まさにソウテイ外に面白かった。

まずは、杉本さんのファンシーペーパーという紙作りの話、工藤さんの装幀デザイン時の紙選びの話を映像で紹介。この30分ほどの間にふだん何気なく開いている本について、大変な頭脳と工程が積み重ねられて出来ているものだと痛感。
工藤さんは深夜の青山墓地を歩いてブックデザインのアイデアを練り、杉本さんは日常の光景や美術館、織物などから紙作りのヒントを得るという。縄文土器の文様や、川の中にある岩、雪が積もった道などから色々な意匠を凝らした紙ができているとは想像だにしなかったことだ。
また、参加者を驚かしたのは、工藤さんが紙博士と呼ぶ杉本さんの紙をみる鑑識眼の鋭さだ。工藤さんが装幀した本をみせるとものの1秒で、表紙やカバーの製品番号を判定してしまうのだ。これには工藤さんもびっくりされていた。
もうひとつ面白かったのは、工藤さんがイメージして選んだ紙は、杉本さんがヒントを得た元のものとはまったく違う、かけ離れたものだったことだ。一枚の紙が、装幀を経て、一冊の本として書店に並ぶという過程でそれぞれに異なった価値観を帯びてくるようで、これも新しい発見の一つだった。

今度、書店をのぞくときは、違った視点から本選びが出来そうだ。

日本銀行金融研究所 貨幣博物館

2006-01-19 | Weblog
三越本店近くに位置する日本銀行の重厚な建物は、隣接する三井を冠した銀行のビル群と相まって独特の景観をかもしだしている。この日銀の建物の向かいに、この長たらしい名前の博物館があります。

ここでは日本貨幣史を時系列で紹介してる常設展示と企画展示をやっていて入場無料です。中に入ると常設展示から順路に沿って進むようになっている。いきなり砂金のキンキラに目を奪われる。続くコーナーには歴史の時間で習った「和同開珎」や「皇朝銭」がずらりと並んでいる。時代が下って中世になると、当時の流通を担った宋や明といった中国の貨幣がたくさん展示ケースに収まっていた。これだけ並ぶと、ひとつひとつの展示物がとても重要なものだという感覚が麻痺してしまいそうになる。
そして、真打と言うかメインと言うか、その後に「天正大判」や「慶長小判」といった金貨のオンパレードとなって、頭の中が千両箱状態になってしまった。いったい、千両箱一杯の金貨というのはどのくらなのだろうなどというよりも、目の前の金貨1枚に目がくらみそうになる。江戸時代に盛んに発行されるようになった藩札や明治時代のお札(これが予想以上に多くの種類でびっくり)などを見ていると、おなじみの今使っているお札が出てきて、次は企画展のコーナーになる。
今回の企画は、「黄金の分銅(ぶんどう)」と名づけられてる。分銅というのは扇を二つ重ねたような形の金の塊のことで、この形は両替商の看板にも使われたという。大型のものは165kg、小型で375gある。現存しているのは小型のみです。今回の展示では当館が所蔵する「吉」「桐」「亀甲桐」「定」の4種類を、これまた惜しげもなくずらりと、拡大鏡まで使って見せてくれている。分銅は戦さや備蓄用に作られたもので、豊臣秀吉や徳川家康が、金貨鋳造に携わった後藤家に作らせたものだそうだ。

いやあ、しかし、宝くじにはずれた後こんなところに来ると、ため息ばかり、ですな。

ザビエル教会

2006-01-15 | Weblog
セナド広場から離島行きの小型バスに乗って、マカオ半島から飛び石のように続いている路環(コロアネ)島に向った。橋とも堤防道路ともいえるような道を二回通り抜けるとほどなく終点に着いてしまう。ロータリーには人影もなく閑散としていて、わずかに少し歩いたところにあるその当時(1999年)有名だったエッグタルトの店の中だけにまばらに人がいる程度だった。出来立てのタルトをほおばりながら、海から1本内側にある道をしばらく行くと唐突に聖堂が現われた。
聖フランシスコザビエル教会という、日本人にはおなじみの名前がついていた。


司馬遼太郎の「街道を行く 南蛮のみち」を読み始めたら、6年前に訪れたマカオの離島のことが急に思い出されてきた。というのは、司馬さん一行はこれからスペインとフランスの国境地帯にあるバスク地方に行くのだが、日本にはじめてやってきたバスク人、それもポルトガルの船に乗ってやってきたのが、ほかならぬフランシスコザビエルだったので、この人についてかなり多くの枚数を割いている。


ザビエルについて調べてみると、鹿児島に入ったのが1549年、豊後からインドに向けて旅立ったのが1551年だから、日本に滞在することわずかに2年だ。が、日本にキリスト教をもたらしたという事実によって、後世にまで歴史の教科書にその名を残すことになった。
ザビエルらイエズス会は、インドのゴアや中国の上川島(マカオ沖)を拠点にアジアでの布教をすすめていた。ザビエルは、日本からインドに向う途中で上川島に立ち寄り、結局この島で生涯を終えることになる。そんな関係からか、死後この路環の地に彼にちなんだ聖堂が建てられた。

聖堂はこじんまりとした、しかししっかりとしたつくりで、鮮やかな黄色が印象的な建物だった。中はほとんど人がおらず、日本での知名度とは異なる評価がされているのかと感じるほどだったが、それでもよくみると、日本語のチラシと、日本人向けの訪問記念ノートがあってたくさんの日本語でいっぱいだった。こんな辺鄙なところで、長らく離れていた故国を思い出すことになった、そんなことが記憶をたぐるように本を読んでいるうちに、思い出されてきたのだ。

折りしも、先日同じ旧ポルトガル領だったブラジルの料理を食べる機会があり、ポルトガルと言うこれまた、一見自分の人生とは無縁とも思える世界が過去と現在を結ぶ細い糸のような形でつながってきたために、ここにとどめておきたいと、昔の写真を引っ張り出してきたわけなのだ。