韓国朝鮮子どもの文学&オリニネット

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『南のひと北のひと』(李浩哲)を読む

2009年06月12日 | オリニの会レポート=韓国文学
『南のひと北のひと』を読む
      (李浩哲(イホチョル)作・姜尚求(カンサング)訳・新潮社・2000年)
                  レポート 09年6月 仲村修

この作品は南北分断を決定づけた朝鮮戦争の断面を描いた作品である。
作品の大きな特徴は作家(1932年〜)の体験的・自伝的な作だという点にある。つまり、朝鮮北部の元山(ウォンサン)生まれの作家は人民軍兵士として戦に参戦している。高校3年生のとき人民軍に狩り出されて南下し、韓国軍(国軍)の捕虜になる。その後捕虜の身から解放されて、南に越境して(越南して)きたのだ。
作品を読みながら筆者の見聞した越南児童文学作家のことを思った。平壌の和信百貨店の支店長の息子だった張寿哲(チャンチョル)。かれは黄海(西海(ソヘ))を船で南下した。姜小泉(カンソチョン)はおなかの大きい奥さんを置いてリュック一つでひとり38度線を突破した(かれの越南には北にいられない事情があったと語る人もいる)。38度線は北朝鮮から外部への移動を禁じたロシア軍によって、厳重に警備され、動くものすべてに対して日夜銃撃が加えられた。
金英一(キムヨンイル)(日本大学芸術科卒)は解放をむかえて日本人の妻を安全な日本にいったん里帰りさせたが、結局は生き別れになった(のちに二人は韓国と日本でそれぞれ別の家庭をもった)。かれは北の故郷(信川)にもどらずソウルで暮らしつづけたので、越南したのも同じだった。
書道がうまいとの理由で町の人民委員会の書記(町役場職員)のような仕事を任されて、若者のなかでひとり戦場送りをからくも免れて、その後越南した童謡詩人の朴京鐘(パクキョンジョン)。(かれは小学生のころ、児童文化運動の先駆者方定煥(パンジョンファン)が学校に口演童話をしに来たのを聞いたことがあると、生前小生に語ってくれた。年配の児童文学者でも、方定煥(パンジョンファン)が早世したため直接会ったことがあるという人はめずらしい)
解放後ずっと平壌で新聞記者をしていた朴洪根(パクホングン)は、自分に出征の順番が回ってきたという噂を聞きつけて、その夜のうちに平壌を脱出。しばらく故郷の妻の実家に潜伏したのち、1・4後退のとき米軍のLSTにのって南下、巨済島(コジェド)に上陸した。この先生はのちに不思議なご縁で小生の児童文学上の恩師となり、児童文学作家を数多く紹介してくださった。(代表作は少年小説『ヘラン江(ガン)のながれる街』新幹社・拙訳・1992年)
小生がソウルに留学していたころは(1990〜93)、週1回電話で飲み屋に呼び出されてごちそうにあいなり、その酒席でさまざまな児童文学者と知り合ったことは、いまとなっては懐かしい思い出だ。
また、少年時代に家族に連れられて越南した人では童謡詩人の劉庚煥(ユギョンファン)・車元材(チャウォンジェ)等。越南ではないが、学徒出陣で出征して人民軍の捕虜になったのは石庸源(ソクヨンウォン)で、南北捕虜交換のとき38度線の「自由の橋」をかけぬけて九死に一生を得た人だ。
また、反対に越北作家としては、植民地時代には特に社会主義的な傾向を見せなかった児童詩人の尹福鎮(ユンボクチン)(大邱出身、日本大学芸術科卒、金英一の友人)。この人は北で長生きしたし国会議員に当たるような職にもついた。評論家としても有名だった李貞求(イジョング)。演劇や詩でも有名だった申孤松(シンゴソン)等。
社会主義がキラキラと輝いていた時代のこと、もっとたくさんいるはずだが、韓国での越北児童文学作家研究はさほど進んでいない。上記のように自らすすんで北に行った作家たちのほかに、1950年の夏ソウルが人民軍支配下になったときの「モシギ(모시기)作戦」(各界著名人を平壌にお連れする作戦)による強制的な拉致連行にも注意を払わなければならない。
一昨年の2007年4月に亡くなった権正生(クォンジョンセン)もまた、解放(戦後)2年後に一家が日本から引揚げのおり日本にのこった二人の兄たちとは政治的立場の関係上、終生会うことがなかったという意味では離散家族である。
在日の童謡詩人のK氏は、韓国慶州(キョンジュ)に異腹の兄姉たちがいるという意味で離散家族である。
近年びっくりしたのは韓国の児童文学研究家・評論家の李在馥(イジェボク)氏の場合だ。かれは現在50歳手前だが離散家族だった。年のずいぶんはなれたお姉さんが平壌に住んでいるというのだ。児童図書流通会社の発行する情報誌『開かれたオリニ(열린어린이)』06年7月号掲載のかれのエッセイ「涙は人の体に花を咲かせる」によれば、06年韓国内の年のはなれた兄姉たち3人が38度線で、平壌から来たその姉に面会したというのだ。規則により韓国からは近親者3名しか面会できなかった。平壌のお姉さんは不思議なことに、親兄弟のだれも持っていなかった懐かしい家族写真をたくさん持っていた。
じつは人民軍がソウルを侵攻統治した1950年の夏、平壌のお姉さんも他の三人の兄姉もソウルに住んでいたという。当時女学生のお姉さんは熱誠者大会に動員され、その場で従軍看護士になることを決意し、帰宅もしないで学生服のまま部隊について下っていった。その後米軍の仁川上陸作戦で戦況が一変し人民軍が北に追い上げられたとき、お姉さんはソウルのわが家にそっと立ち寄ってアルバムから写真をはがして持っていったのだという。まるでドラマのような話だった。筆者と李氏はもう15年の付き合いになるが、これまでこのお姉さんの話は一度も聞いたことがなかったので、ほんとに驚いた。
つい脱線が長くなった。本日の作品に話をもどそう。
作品を読み始めて、一度読んだことがあったことに気づいた。とにかく面白くない。面白い作品は二度目に読んでも面白いはずなのだが……。数百人という、南に下る補充新兵の一団のなかの連中と主人公との心理的な葛藤のような内容ばかりで、作品に動きがない。その葛藤も作品全体のなかでどんな役割をすることになるのか見えてこない。ひょっとしてこのまま作品はだらだらと終わってしまうのではないだろうか。骨太の構成がないのだ。そういえば、「南風北風」(『韓国の現代文学』1長編小説1・柏書房)もまったく面白くなくて最後まで読み通せなかった。
ところが、レポーターはつらい。レポーターでなければ、「面白くないのでホーキ!」と答えればすむのだが、レポーターはそれが言えない。口頭であれ文書であれ報告はしなければならない。がまんにがまんを重ねてやっと4分の3ほど読んだころ、最後の章「南のひと北のひと」から動きが出てきて、面白くなってきた。人間が描けているのだ。やっと金源一(キムウォニル)の「冬の谷間」水準になってきた。あとがきによればこの作品は、1984年から12年かけて書かれた作品だというから、その間に作家も創作技術が成長したのではないだろうか。むろん、これだけ長くかかったのには、もう一つの理由もあると思う。それは素材が素材だけに反共対決風土だったその当時の韓国で、非常に慎重に取り扱わなければならなかったということだろう。
この作家は小説創作の力量で評価されてきたというよりは、元人民軍兵士という特異な体験から、南の人びとでは知りえなかった、人民軍・北朝鮮の内情のようなものを描くことで名をなした、という感がある。もちろん民主化闘争でも積極姿勢をしめし獄苦も味わったというような進歩的姿勢も評価のなかに含まれているのだろう。
作家が来日したときのインタビュー記事を読んだ、かすかな記憶があった。そこで大阪市立中央図書館に電話して朝日新聞記事データーベースで年月日を調べてもらった。わかった情報をもって、つぎに西宮中央図書館に自転車で走ってめでたく記事をキャッチした。本書が日本で翻訳出版された年2000年に来日していた。記事は同年10月21日の夕刊、見出しは「「共に暮らす」統一こそ・一般レベルでの交流を・大切なのは人間の品位」で、インタビューをしたのは韓国朝鮮畑を得意とする記者のひとりの音谷(おとたに)健郎だ。(氏は小生が翻訳冊子「メアリ(こだま・메아리)」を1983年に創刊したとき取材してくれた。いまはもうご退職)
印象的な部分があった。

(音谷)「統一」をどう見るか?
(李浩哲)「統一」という言葉は手あかが付いてしまった。「統一事業」と言えば肩ひじ張って圧迫感すらある。私は「ハンサルリム(共に暮らす)統一」を主張している。五千年来の暮らしの皮膚にあったもの、生活感覚にあったのもが大切だと思う。……統一の場合、一番必要なのは人間そのものの品位だ。相互で鏡になり映し合うことが必要ではないか。

そうだと思う。60年前の大地主だったときの土地文書を握りしめて「統一創造」ならぬ「統一復古」を待ち望む、越南組やその子孫もまたいるのだと聞く。
作家の来日からすでに9年、新大統領のもとで統一はいよいよ遠のくようにみえるが、あたらしい契機の訪れを待ちたい。数ならぬ財産はもちろんのこと、わが身の命一つわが意のままにならぬ「生死の流転劇」を、もう東アジアの民族はひとしく体験したではないか。
ついでながら、つい先月かれの短編集『板門店』(姜尚求訳、作品社)が出版された。生きのいい新作がたくさん入っていればと思いはするものの、それはもう作家の年齢からみても、初期の代表作「板門店」を書名にしているところからみても期待できないだろう。
≪合評≫
・退屈さかげんに関する話はレポート通りだと思う。
・高3の年の人民軍体験だから、人間観察が一面的なのではないか。その時の強烈な印象だけでもって小説を書いたという感じだ。前半は作家の取捨選択や、のちの人生観の深まり、創作性が生きなかった。
・同じような指摘だが、同じ時代の正規軍の話や北朝鮮社会の話も、もっとしっかり描かれていたらと思う。
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児童文学作家 児童文学者 市立中央図書館 データーベース 中央図書館 人民委員会 ウォンサン 高校3年生 1932年
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