『黒南風の海 加藤清正『文禄・慶長の役』異聞』を読む
(伊東潤作、PHP研究所、2011年)
12年4月19日 レポーター 西村 武
豊臣秀吉の二度にわたる「朝鮮出兵」。
「秀吉の徳を万国に広め民の平安を願う」という大義名分の下、朝鮮国は勿論、朝鮮国を属国としているらしい明国をも秀吉自身の支配下に組み入れようと目論んだ出兵。
その時の大将、小西行長と加藤清正は、一般的によく知られている。
この作品では、その二人の確執を背景に据えながら、武将としての清正と、市井の民の無残な死の光景に時には心痛めたり、次第にその光景に耐えられず、戦を止めようとしたりする人間味あふれる清正が描かれている。
清正にもこのような面があったのかと心が温まる思いがしたが、素直に感動することもできなかった。
なぜなら、歴史上の人物を描く時、視点の当て方によってその人物像が変わってくることはよくあるからである。小西行長が極悪非道な人物として描かれているが、逆の描き方の作品にも出会ったような記憶があるからである。
また、無意味な血を流さないためとの名目で幾度もの講和の努力もなされてはいるが、それも力関係が背景にあってのこと。力で相手を威圧しているだけのことであり、抵抗すれば血を流してでも戦で制圧する。一方的に他国に土足で押し入りながら、従順に従わなければ相手国へ責任転嫁して堂々と血が流されるのである。また、兵士であれば、その死は悲しむに値しないという恐ろしい理屈は、現代でも大手をふってまかり通っているが、この時代も同じことである。
そのような支配の目論みの中にあっては、ちらっと垣間見られる清正の朝鮮国の民への配慮など、感動するに値しないし、それにより罪が許されることでもない。ただ副タイトルが、 ―加藤清正「文禄・慶長の役」異聞― つまり「異聞」なので、その言葉通りに受け入れようと思うのだが、それでも、何だか割り切れない感情が読後も付きまとっていた。「鬼の目にも涙」はいかなる非道な人間でも大なり小なり見られることであるが、なぜ清正を温情ある人物としてクローズアップさせたのか。秀吉の命令とはいえ、たくさんの命を奪う先鋒隊を務めた清正や朝鮮出兵に対して、作者の歴史観を問うてみたい。
ところが、「嘉兵衛」と「金官」、特にこの二人の行動は清正とは違って素直に受け入れることができた。
清正の鉄砲隊の頭を務めていたが朝鮮側についた佐屋嘉兵衛と、朝鮮の咸鏡道の守令をしていたが清正側についた金官(良甫鑑)。
二人は立場が逆転したにも拘らず、朝鮮の民の安寧を心から願い、常に戦を止めさせようと三国(朝鮮、明、日本)の間で命をかけた行動をし続ける姿には大きな感動を受けた。さらに、金官は妹を朝鮮に嘉兵衛は妻と子を日本にそれぞれ残したまま、異国で生涯を閉じようとするその思いを想像すると息苦しくなるほどの切なさと国を超えた人間の素晴らしさとに心が震えてくる。
一度、本を手にして、本当の勇気とは、愛とは、人の生き方とは何かを考えてみるのもいいのではないだろうか。
この作品は、最初から最後まで殆どが時系列的表現方法を採っているが、そういう作品がとかく陥りがちな「飽きる」「本が枕に」ということもなく読み終えることができた。
前述の二人に対する感動が大なのは勿論のことだが、他にも、話が説明的で単調になり始めると、伏線的に配置していた人物を巧みに登場させたり、佐屋嘉兵衛忠善⇒沙也可(朝鮮名 金忠善)として予想外な話(しかし、頷けるだけに大変面白い)に展開していったり、朝鮮出兵に関わった様々な人物に軽重を持たせて読者の頭の混乱を防いだり、機知に富んだ戦法や、戦の場面やその後の惨状などがまさに眼前の光景のように表現されていたりして、作品に分かりやすさや面白さ、スリル感、リアル感などを持たせて描いていることが理由にあげられるだろう。
まさによい意味で、作者の作戦にまんまとはめられてしまったというところであろうか。
最後に、この作品の副タイトルが無いほうが抵抗なく素直に一層の感動を得たであろう。清正が主人公にはなっているが、嘉兵衛と金官たちが真の主人公に思えるからである。
そこで、作者がいかなるこだわりを持って歴史のいかなる部分に光を当てて描こうとするのか。生き方や歴史観を知りたくなった。作者の他の作品をさらに読んでみたいと思う。
もし骨太の信念が感じられたなら、今後もこの新進気鋭作家に期待するところ大である。
≪合評≫
・「さやか」が登場するとは思わず読み進めてびっくり。清正と金官ならぶ主人公の一人だった。「さやか」は司馬遼太郎が『韓のくに紀行』(1978年・街道をゆく2)で書いてからよく知られるようになった。その時の評価は大義なき戦のなかの正義の反逆という感じだったと思う。とにかく、司馬は「さやか」を作品化しなかったが、この作家はこれにはじめて挑戦したことになる。
・レポーターも指摘している通り、「素直に感動できない」面と感動的な面がある。「さやか」と「金官」を前面にだして、二人の友情を主旋律にした作品というのもあり得たのではないか。
・この作品は賛否評価の別れる作品だと思う。小西と加藤という武将たちの比較やら確執を描くことには、さほどの意義が感じられない。侵略された国からみたらどちらも徹底した侵略者にすぎないだろう。オタク的というか、せっかく膨大な資料調査とそのエネルギーが、「国際性豊かな」「現代」の文学として生きていないように感じる。
・戦国武将と戦場をずっと描いてきた作家のようだが、こと国際的な戦さになると、やはりもっとあたらしい切り込みやら視角・視点がほしい。
・偉人伝なのか参戦下級武士の心情を描こうとしているのか中途半端な作品だ。
・いや、附逆や降倭の心情に迫ろうとした意欲はもっと評価してよいと思う。これこそ作家の考える国際性の発露なのかもしれない。この作家ならではの新鮮な切り込みだった。
(伊東潤作、PHP研究所、2011年)
12年4月19日 レポーター 西村 武
豊臣秀吉の二度にわたる「朝鮮出兵」。
「秀吉の徳を万国に広め民の平安を願う」という大義名分の下、朝鮮国は勿論、朝鮮国を属国としているらしい明国をも秀吉自身の支配下に組み入れようと目論んだ出兵。
その時の大将、小西行長と加藤清正は、一般的によく知られている。
この作品では、その二人の確執を背景に据えながら、武将としての清正と、市井の民の無残な死の光景に時には心痛めたり、次第にその光景に耐えられず、戦を止めようとしたりする人間味あふれる清正が描かれている。
清正にもこのような面があったのかと心が温まる思いがしたが、素直に感動することもできなかった。
なぜなら、歴史上の人物を描く時、視点の当て方によってその人物像が変わってくることはよくあるからである。小西行長が極悪非道な人物として描かれているが、逆の描き方の作品にも出会ったような記憶があるからである。
また、無意味な血を流さないためとの名目で幾度もの講和の努力もなされてはいるが、それも力関係が背景にあってのこと。力で相手を威圧しているだけのことであり、抵抗すれば血を流してでも戦で制圧する。一方的に他国に土足で押し入りながら、従順に従わなければ相手国へ責任転嫁して堂々と血が流されるのである。また、兵士であれば、その死は悲しむに値しないという恐ろしい理屈は、現代でも大手をふってまかり通っているが、この時代も同じことである。
そのような支配の目論みの中にあっては、ちらっと垣間見られる清正の朝鮮国の民への配慮など、感動するに値しないし、それにより罪が許されることでもない。ただ副タイトルが、 ―加藤清正「文禄・慶長の役」異聞― つまり「異聞」なので、その言葉通りに受け入れようと思うのだが、それでも、何だか割り切れない感情が読後も付きまとっていた。「鬼の目にも涙」はいかなる非道な人間でも大なり小なり見られることであるが、なぜ清正を温情ある人物としてクローズアップさせたのか。秀吉の命令とはいえ、たくさんの命を奪う先鋒隊を務めた清正や朝鮮出兵に対して、作者の歴史観を問うてみたい。
ところが、「嘉兵衛」と「金官」、特にこの二人の行動は清正とは違って素直に受け入れることができた。
清正の鉄砲隊の頭を務めていたが朝鮮側についた佐屋嘉兵衛と、朝鮮の咸鏡道の守令をしていたが清正側についた金官(良甫鑑)。
二人は立場が逆転したにも拘らず、朝鮮の民の安寧を心から願い、常に戦を止めさせようと三国(朝鮮、明、日本)の間で命をかけた行動をし続ける姿には大きな感動を受けた。さらに、金官は妹を朝鮮に嘉兵衛は妻と子を日本にそれぞれ残したまま、異国で生涯を閉じようとするその思いを想像すると息苦しくなるほどの切なさと国を超えた人間の素晴らしさとに心が震えてくる。
一度、本を手にして、本当の勇気とは、愛とは、人の生き方とは何かを考えてみるのもいいのではないだろうか。
この作品は、最初から最後まで殆どが時系列的表現方法を採っているが、そういう作品がとかく陥りがちな「飽きる」「本が枕に」ということもなく読み終えることができた。
前述の二人に対する感動が大なのは勿論のことだが、他にも、話が説明的で単調になり始めると、伏線的に配置していた人物を巧みに登場させたり、佐屋嘉兵衛忠善⇒沙也可(朝鮮名 金忠善)として予想外な話(しかし、頷けるだけに大変面白い)に展開していったり、朝鮮出兵に関わった様々な人物に軽重を持たせて読者の頭の混乱を防いだり、機知に富んだ戦法や、戦の場面やその後の惨状などがまさに眼前の光景のように表現されていたりして、作品に分かりやすさや面白さ、スリル感、リアル感などを持たせて描いていることが理由にあげられるだろう。
まさによい意味で、作者の作戦にまんまとはめられてしまったというところであろうか。
最後に、この作品の副タイトルが無いほうが抵抗なく素直に一層の感動を得たであろう。清正が主人公にはなっているが、嘉兵衛と金官たちが真の主人公に思えるからである。
そこで、作者がいかなるこだわりを持って歴史のいかなる部分に光を当てて描こうとするのか。生き方や歴史観を知りたくなった。作者の他の作品をさらに読んでみたいと思う。
もし骨太の信念が感じられたなら、今後もこの新進気鋭作家に期待するところ大である。
≪合評≫
・「さやか」が登場するとは思わず読み進めてびっくり。清正と金官ならぶ主人公の一人だった。「さやか」は司馬遼太郎が『韓のくに紀行』(1978年・街道をゆく2)で書いてからよく知られるようになった。その時の評価は大義なき戦のなかの正義の反逆という感じだったと思う。とにかく、司馬は「さやか」を作品化しなかったが、この作家はこれにはじめて挑戦したことになる。
・レポーターも指摘している通り、「素直に感動できない」面と感動的な面がある。「さやか」と「金官」を前面にだして、二人の友情を主旋律にした作品というのもあり得たのではないか。
・この作品は賛否評価の別れる作品だと思う。小西と加藤という武将たちの比較やら確執を描くことには、さほどの意義が感じられない。侵略された国からみたらどちらも徹底した侵略者にすぎないだろう。オタク的というか、せっかく膨大な資料調査とそのエネルギーが、「国際性豊かな」「現代」の文学として生きていないように感じる。
・戦国武将と戦場をずっと描いてきた作家のようだが、こと国際的な戦さになると、やはりもっとあたらしい切り込みやら視角・視点がほしい。
・偉人伝なのか参戦下級武士の心情を描こうとしているのか中途半端な作品だ。
・いや、附逆や降倭の心情に迫ろうとした意欲はもっと評価してよいと思う。これこそ作家の考える国際性の発露なのかもしれない。この作家ならではの新鮮な切り込みだった。
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