乱愚雑記帳

わが鼓動とともに

描かれる身体としての顔について

2017年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 

顔はおよそ二十センチ四方の中に眼、鼻、口、耳がシンメトリーにレイアウトされています。よく見ると実に妙なカタチですね。左右二つの眼と二つの鼻腔、身体を貫く消化器官と呼吸器官の入り口としての口。聴覚器官である左右の耳。身体の外形は左右対称である。身体の中の器官の存在感は痛みなどがない限りその存在感は感じられない。感じるとしたら気が狂う程の感覚であろう?なにせ未経験ゾーン、想像するしかない。クオリア(感覚質)として顔の存在考えると日常的には無意識のなかにあり、器官の存在などは意識しない。視覚は両手や身体の全面を見下ろしている。自らの顔は自らの視覚では見ることは不可能である。見えている身体以外は存在しているのか定かではないのだ。顔の輪郭とこれら顔面器官の微妙な配置とフォルムによって顔の表情、世間的基準によって美貌だの醜顔だのというものが観念付けられている。世間的美貌とは確かに顔の歴史観を秘めているが、最大公約数的であり人それぞれの嗜好に依存しています。私が描く顔はレアリティーな顔ではなく、描く直前に脳裏に浮かぶある種普遍的な顔の表情と、手が求める線なり材質感によって顔への方向が決まってくるようです。顔という表情が見せる人間の内面性を求め、人間の象徴としてのフォルム、身体としての顔が浮かび上がるのです。感覚の総称としての五感を感受する顔という身体は、絵画の絶好な造形要素である。顔を描くというテーマに戻ればこの平面的な顔という領域をどう描くかは、見ることのできぬ自己の顔を思い浮かべて線を走らせます。身体としての顔はトルソーのように身体の一部であるがそれ自体で完結しているように見えます。さて、どういうクオリアに満ちた顔を描けますか。クオリア=英: qualia(複数形)、quale(単数形))とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと。とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される)ウイキペディアより抜粋

「不安は自由へのめまいだ」キルケゴール

Illustration : HIRAO ENDO

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