乱愚雑記帳

わが鼓動とともに

顔・隔離された身体

2017年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 

身体から切り離され、象徴記号化した顔は内部と外部との接点で情報が混成舞踏するステージである。脳細胞を内包した身体としての顔は外界を感受し顔の各器官が瞬時に反応し表情を形成する。顔はその時代の社会的規範や慣習に従属され、幾重にも分節(articulation)された身体なのです。顔は身体の象徴記号としてまさに文明の顔として人類史を彩ってきました。古代エジプトのミイラに被せられた黄金の仮面は黄泉の国への旅支度であり、再構築された永遠の眼差しを放射する仮面である。人間が自然や宇宙へ交信するために再構築された顔は各民族特有のコスモロジーのなかで、神々とともに壮大なドラマが演じられてきた。古代から今日に至る化粧行為の歴史は変身願望として日常から非日常空間へ変換されルものであり、ファッション文化の彩りのなかでモード記号となる。化粧行為は生きた仮面身体である。世界各地に見られる仮面の造形は土俗的信仰と結びつき、本能的エネルギーに満ち溢れている。仮面は身体の象徴として民族の顔として凛然と輝いている。歌舞伎役者のくまどり(歌舞伎役者のメーキャップ)は顔と仮面の両義性のなかで見得を切った瞬間、大向こう掛け声とともにすべてが静止し、天才浮世絵師、写楽の時空を構成するのです。まさにペルソナの仮面をである。自己同一性と他者との葛藤の中で、ペルソナの仮面は自我の領域で『身体としての顔』を構成し,顔は外界へさらされる身体の中心として拘束された身体記号を確立するのです。見る見られるという両義的概念のなかで顔は極めて自己陶酔と嫌悪を反復する。鏡に映る自己の鏡像を自己として認識し、絶望に打ちのめされた幼年期の記憶が甦る。顔(あるいは頭部)という概念は身体から逸脱し、他の器官を限りなく見えない。頭部のない古代ギリシャのトルソーの彫像はそれ自体で完結し、身体の確固たる存在感は顔を必要としない自立性をもち、改めて身体から分節された顔とは何かという命題を突きつけられるのです。今日、若者たちのエキセントリックな化粧行為は失われてゆく顔への身体性、自然へ回帰をそこに見るようです。顔への執着と彩りは各時代の社会背景を反映し、モナリザからピカソの解体された顔に至る表現の系譜は、身体から分節化された顔という領域への表現行為は多様を極める。鏡の中に映る己の顔が不思議そうに私を見ている。そこには既に自己喪失した不確実で危うい遠近法を映し出す。そこから逃れるには、ニューギニアの土着民のように色鮮やかなメーキャップを施し、自然と身体を対峙し、神々と踊りまくるしかないのかもしれない。アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローの無数の顔は、二十世紀大衆消費社会の象徴としてコピーし続け、未だ亡霊のように脳裏の中でうごめき、現代の顔は限りなく身体から分節され、記号化された商品へ変換を余儀なくされる。私の顔は液晶モニターのなかでデジタル記号に変換され、電子化された私の情報は無限大に拡散し、電子文明の光と影が不確定な未来へ向け漂っているではないか。無限に拡大する暗黒の宇宙に、一粒の青いガラスのようなこの地球という奇跡の星で、壁に張り付いているゴキブリと私の差異を考えながら…。二十世紀初頭、カフカが遭遇した迷宮の時空からおよそ一世紀、分節された顔たちがアンドロイドのように光り輝く電子都市を行き交い、あのゴキブリは私の顔を確認するためにやってきたカフカの亡霊であろうか。今日、悪夢のような変身は電子回路からやってくるのだ。顔が顔を求める。生命のゆらぎのなかで自己の顔を切り取り、その存在の痕跡を描き続ける画家たち。フランシス・ベーコンの溶解する身体から獣のようなうめき声が機械都市に共鳴しているではないか。顔という器官はA.アルトーの『器官なき身体』から『アンチ・オイディプス』のドゥルーズとガタリの新たな解釈のなかで器官はけして統合する事のない新たな身体の可能性を切り開き、解剖学的領域を超越した何ものにも属さず、器官と身体の関係性への地平を指し示す。

Illustration : HIRAO ENDO


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