学校教育における「居場所」論再考⑤ ~集団の在り方の変化~

2017-02-09 08:21:37 | 日記
序章 生徒の「居場所」論再考 ~生徒の実態を捉え直す~

第3節 生徒の「個」の変容(承前)

(5)「動物化」する消費社会的な生徒たち
 ところで、ヘーゲル研究家のアレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』の中で、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼んだ。人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。
 対して、動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく。戦後アメリカの消費社会は、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。
 これは別に揶揄でもアイロニーでもないが、コジェーヴの呼ぶ「動物」は、そのまま「消費社会的な生徒たち」の姿にも当てはまるのではないかと思う。学校や教師はかつてのように権威もなければ威厳もないわけだから、学校文化を生徒にそのまま押しつけることもできない。従来型の学校では、生徒は教師の指導をすり抜け、逃げていく。挙句、生徒は知らぬ間に退学していく。生徒にとって学校はもはや環境を否定する行動ができない機関になり、生徒は生徒の「ニーズ」に合った学校に調和して生きているだけになる。これは冗談ではなく、現実である。
※以上の「動物化」の考え方は、東浩紀の『動物化するポストモダン』、諏訪哲二の論を参照されたい。

(6)集団の在り方の変化
 生徒の「個」のありようの変容にともなって、生徒たちの集団の在り方もたしかに変わった。それは新しい「共同性」のありようによって、新しい問題が様々なかたちで生じてきているということでもある。プロ教師の会の喜入克が「プロ教師の実践スタイルをいかに受け継ぐか」の中で明快に分析しているように、生徒たちにとっての「規範」は「『この私』の自己決定であり、誰もそこに口を差し挟むべきではない、ということである。それほどまでに、『この私』は神聖にして不可侵であるということが、彼らの間では暗黙の了解になっている」のである。つまり、今日の生徒たちの人間関係は、「相手の気持ちに立ち入らないように、相手にとって大切な部分には決してふれないように、大変な労力を費やして配慮し合う」のである。もはや、「固有名」として生きている生徒たちには、「この私」を捨象し、しかも否応なく「他者」とかかわっていくような「集団生活」など「うざい」ということなのだ。
 しかし、人間の「自我」は外部との接触においてはじめて形成される。諏訪哲二に倣って言えば、厳しい現実と何度も何度もぶつかることで、どうやったら自分の思い通りになるのか、自分の立ち現われ方をどうすればつねに自分のまわりとのバランスを取ることができるのかを考えていくのである。それは 同時に、自分とは相異なる「他者」との距離の取り方を学んでいくということでもある。
 人間は「社会的存在」である。だが、今日の生徒たちは、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルがない。言い換えれば、「関係性」の距離の取り方が非常に苦手である。いうまでもなく、生徒たちは生徒と生徒の「関係性」を通して、お互いを傷つけ合い、つながり合うしかない。L・ベラックを引くまでもなく、「人間」は、そうした傷つけ合いを繰り返す中で、お互いの「距離」の取り方を学び、「大人」になっていくのである。繰り返すが、人間の「自我」は、自分とは相異なる「存在」を認めてはじめて形成される。だが、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルを身につけていない今日の生徒たちの「自我」はただ「肥大化」(諏訪哲二)されるだけである。したがって、教育困難校や底辺校の生徒たちの「個」はむきだしのまま浮遊しているといってよい。
 異質な者同士が出会える「場」としての「公共性」が叫ばれる今日、私たちは学校現場の中で、人と人との「関係性」をきり結ぶスキルのない生徒たちに、いかに異質な者が出会える「場」を設定できるか。それが生徒の「居場所」を確保するカギとなるだろう。

続く

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