学校教育における「居場所」論再考⑫ ~学校アジールの定義~

2017-02-13 20:36:44 | 日記
第3章 学校アジール構想を描く

第2節 学校アジールの定義

 教師はいかに「学校アジール」を構築することができるか。その第一歩は、教師の「権力性」を保持したまま、ズラしていくことである。今までの「権力性」は生徒たちに何かを「させる」ために機能していた。これからの「権力性」は、教師の「権力性」をひとまず明け渡していくことだ。「自分の教師性を捨てて、学校を子どもたちに明け渡していくこと」であり、「権力がないと明け渡せない」という自覚を教師側が持つということなのである(『脱「学級崩壊」宣言』)。こうした教師の振舞い、換言すれば、権力性のズラしこそ、「学校を守る」という行為なのではないか。

 私たちが今考えなければならないことは、「アジール」の問題である。「アジール」とは「避難場所」という意味があるが、ここでは二つの意味として解釈したい。一つは、生徒たちの「逃げの空間」、つまり「居心地のよい場所」である。これは精神的なアジールだ。しかし、これだけでは「学校の家族化」をもたらしかねないし、社会的自立に至らない。一つ目を生徒に保障したら、次のステージを教師が用意することが必要だ。それは「生徒たちの問題を生徒たちで解決できる場所」、つまり「自分たちが自分たちの手で仕切っているという実感を持てる場所」、である。「学校アジール」を積極的に語るためには後者を強調することであり、これは「教師」の介入がなければ起こり得ない。教師の「権力性」の自覚は、「学校アジール」を確保し、生徒たちが仕切れる「特別な空間」を育てていくためにあるのだ。

  第3節 権力の脱構築

(1)「親密圏」の必要性
 私は20年ほど前、浦和商業高校定時制に勤務していた(昨年、日本テレビ『テージセイ』で4週にわたって取り上げられた定時制高校)。ちょうど私が勤務する前年度から、生徒が相対的に大人しくなりはじめ、小学校・中学校の頃に不登校を経験したことのある生徒が全入学者の7割に達した。そこで浦和商業高校定時制(以下、浦商定と略す)の教師集団は、そうした生徒たちといかにかかわっていくかといった議論を徹底して行っていった。
 浦商定の一致した方向性は、学校を生徒たちの「居場所」として位置づけることであった。だから、まず、職員室を開放し、不登校の生徒たちも学校に登校しやすい「場」にした。職員室は生徒たちタムロする場に変容し、今まで不登校だった生徒たちは授業には出ないが、学校の職員室にはいるといった状況がつくれるまでに至った。つまり、「職員室登校」である。さしあたりここで言いたいことは、生徒たちにとって学校が精神的な「アジール」(避難場所)になっているということである。私はこうした「場」のことを「親密圏」と名付けたい。

 ところで、「親密圏」とは「穏やかな結びつき、折りに触れて訪ね合う友人たちの関係や議論・雑談を楽しむための『サロン』的な関係」(齊藤純一『公共性』)が成り立つような生徒たちだけの言説空間を意味する。「親密圏」での会話は、同じ価値を共有する者だけが集まってくるような空間であるため、閉じられた等質的なコミュニケーションとして映るかもしれない。だが、この「場」では、生徒たちのもろもろの情報や意見の交換を通じて、生徒たちが直面している「問題」への認識が深められる。ここで話し合われた事柄が、政治的な「場」に乗せられるというわけだ。
 浦商定の「親密圏」は、「職員室」だけではない。「職員室」から自立して自分たちの「場」を持ち始めようとする生徒たちは「昇降口」に集まってくる。とりわけここには、暴力的な臭いを漂わせていた生徒たちや、中学校時代に教育研究所に通っていた不登校の生徒たちが年齢に関係なく集まり、この「場」で言説空間を仕切っていた生徒が全校のリーダーとして立ち上がった。生徒たちは、この「場」で自分たちの人生を語りはじめ、「学校がおれたちを変えたんだ」という「思い」を共有するに至った。さらに、後に生徒会執行部や卒業式実行委員会といった組織集団へと膨れ上がり、全校生徒が卒業していく生徒たちへの手づくりの「卒業式」を送った(浦和商業高校定時制四者協議会『学校がオレを変えた』を参照されたい)。

 浦商定の教師集団は、生徒たちの「声」は生徒たちの「場」の中で取り上げてはじめて生かされるということを知っていたために、生徒たちだけの「場」を「アジール(聖域)」と位置づけ、無断で踏み込むことを拒んだ。もちろん、当然、生徒たちだけの空間は閉鎖的な空間である。それは危険を伴う空間でもある。だから、「まなざし」だけはしっかりとそそいでおいて、教師たちはその「場」から撤退していく。そんなスタンスをとった。

(2)権力を「脱構築」する
 教師の「まなざし」はしっかりと生徒たちにそそがれつつ、その「場」から撤退していく。つまり、これは教師が持っている「権力」を生徒たちに明け渡すことを意味する。教師は「権力」を持つ存在だ。しかし、それを解体させるには、教師は教師の「権力性」を保持したまま、ズラする必要がある。
 ズラすとは、教師の「権力」によって、生徒たちに限定した「場」を与えていくことであり、その「場」を見届けていくことである。生徒たちに「場」を与えていくということは、ハンナ・アレントに倣って言えば、教師側から「テーブル」を生徒たちの前に置くということである。「テーブル」を置くということは、なんらかの「権力」が働かないとできない。教師の「権力」を学校の中で発動させなければならないのは、生徒たちに「場」を与えるときこそ有効なのである。もちろん、「権力」を握るということは「責任」が問われることであり、また、「権力」には生徒や保護者からの信頼がなければならないことだ。つまり、教師集団のヘゲモニーに対する保護者のバックアップがなければ成立しないことでもあるだろう。大澤真幸は「教育内容にも生徒や親の意思を反映させることによって、権力への信頼や承認を下から形成することが可能になるはず」と述べているが、このことは、教師の「自己改造」を促す契機にもなるだろう。

続く

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