南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

何しに行った?

2010-02-28 16:42:02 | 旅行
 一日、ほとんど車の中、失敗だった。パレンバンから西南西方面の山を目指した。そこには、美しい滝とか渓谷とか、ヒンドゥーの遺跡などがあるはずで、それらに出会うはずだった。それというのも、地図を眺めると、この県の海岸方面の半分は湿地帯ということになっていて、地図上に町は全くないしリゾート地もなし、大体、道がないバンカ島の海岸からは、スマトラが見えたが、スマトラのこのあたりは海岸へ行けないことが分かった。
 さて、ドライバーの話によると、朝、7時に出れば目的地全部に行って、17:00過ぎにはホテルへ戻ってくることができることになっていた。
 ところが実際にはガイドもドラーバーもその方面のことは何も知らなかった。行ったこともないし、聞いたこともないことが、車に乗って2時間ほどして分かった。これは、とんでもないここになると予感した。事実、地図上でその遺跡や名所がある町へ入っても、彼らは、食事をまず、しようと、レスオランを探し始めた。レストランは後にして、其の場所を聞いてくれと頼んで、聞いてもあったら、その地点から、もっと先60kmだとか、もう一ッ箇所は通り過ぎて30kmほど手前だとかで、どうしようもない。12時過ぎて、戻る途中で食事をし、通りすいたという、遺跡へ寄って、パレンバンは帰ることにした。
 その遺跡に行けなかった。というのは、30km手前で左に曲がれば行けるということだったので、実際、遺跡の名前の看板が出ていた。しばらく行って、いくつか交差点があったので方向が間違っていないことを確認してもらった。そこで、また、がっくりした。道は間違っていなかったが、そこから60km先だという。その上、そこら辺から舗装が無いでおぼこ道に変わっていた。ずっと、道の状態はこのままかと聞いたら、もっと狭く、でこぼこになると聞かされた。やーめた。さっきの、左へ曲がった地点に戻って、ホテルへ向かわせた。そこから、何時間かかるか聞いたら、二時間だという。実際には三時間かかった。
 今日の一番のハイライトはなんといっても、広範囲の洪水地帯を見物した事でした。Musi川という大河がこの辺一帯を右往左往しながらとうとうと流れている。そして、その両岸には堤防が無い。川のどこかで大雨が降れば、どこかの水位が上がり、両岸にじわじわと水が溢れだす。一本の国道と一本の線路は1~2m土を盛って作ってあるので冠水していない。だから、洪水の深さは最大で1m前後ということになる。そして、何年も同じことを繰り返しているのでしょう、家は1mほどの高床式になっている。道の両脇ぎりぎりまで水か来ていて、家から道まで狭い木の橋を掛けてある。勿論遠いところは小舟を使っている。慣れたものだと思うが、何とかしようとしていていないようでもある。

 家の前で、釣りをしている人多数。水遊びをしている子供、うん子やおしっこをしている小さな子供、などなど、悲壮感はない。
 ホテルの道を隔てて反対側のレストランのオープンテラスから、こういう風景を見ると、インドネシアも、変わったなと思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。三月一日にPT.NANBUで押出の成形が始まります。佐々木会長を迎えて、押出だけのささやかなスイッチオンを行う予定です。
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パレムバン

2010-02-27 19:19:25 | 行きすぎ

 朝、03:00起き04:00出発、スカルノハッタから07:00離陸、パレンバンには08:00到着、新しい、斬新なデザインのターミナルでまだ、汚れていない。大都市の予感がする。タクシー紹介のシステムも、場所は違うが、ウングラライやスカルノハッタのようにタクシー会社のカウンターで申し込むことになる。空港でホテルを紹介してもらい、そのまま、街の中心にあるホテルへ直行した。30分ほどで、7万5千Rpでした。
そんなことで、今どこにいるかというと、スマトラ島の南東、パレンバンです。先日紹介したバンカ島の西です。戦時中、日本の落下傘部隊が降下した作戦は、当時、大きく戦果を報道されたとか、父親から、聞いたことがありました。早速,博物館(Sultan Mahmud Badaruddin ⅡMuseum)行くと、そこの管理人が、インドネシア人の観光客が入れないように扉を閉めてしまって、管内の明かりも全部点灯し、私を案内してくれた。日本人の兵隊が私の親と一緒に独立戦争を戦ってくれたとかで、“真白き富士の気高さ・・・”と、歌いながら、得意げに案内してくれた。インドネシアでは大変珍しく、管理人の住処のようになっていないで、また、陳列品の手入れも良く、埃がかぶっていることはなかった。次に行った博物館(Bala Putra Desa Museum)は受付がいなくて、大声で読んだら出てきたが、どうも、奥の扉の後ろで、何か食べながら、テレビを見ていたらしい。全く、案内もせず、展示品も、ところどころ、隙間があって名札だけがあって、展示品が無い。
 その管理人が家に良いものをしまってあるので、良かったら見ていって欲しいと言われて、すぐ隣の家までくっついて行った。見せられたのは、日本軍が占領時代の軍票である。大日本帝国政府と書いてある。10Rp札を買わされた、1千円で買った。記念品である。私が今まで見たことが無いものだった。

 町中に織物をしていて直売している店が並んでいる通りがあった。Songket(ソンケット)
言って、バティックとは別物、バティックはロウケツ染めでが、ソンケットは様々な色の糸を編みこんで、繊細な模様を出すのです。織っている作業場を見学したが、大変複雑で、何をしているのか分からなかった。

 昼間も、其のあたりを通り、近くから遠くから眺めた、インドネシアでは有名なSungai Musi(ムシ川)にかかるJembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップの風景を見に夜出かけた。月がきれいだった。Palembangの人たちの誇の橋であり、憩いの場所である。
ホテルはその橋の近く、ベチャで8000Rpの距離、Hotel Awarna Dwipaです。ツインデッドルーム40万Rpです。

 しばし、現実から逃避して、エンジョイしようと思う、
Jembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップと月。
藤、ロタン?ラタン?の作品、近い将来、プラスチックのイミテーションを作ろうと思っている。
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気分は忙しいが

2010-02-26 19:12:58 | 行きすぎ
 明日から三連休、そして、PT.MAKUTAでの生産は終了する。三日間でPT.NANBUの中へ、全て引っ越しである。その間に、電気、水、空気の配線配管も終了させる。かなり、厳しい、日程になるが、何とか、3月1日から、始動できることを望んでいる。3月1日には本社の会長が午前中、寄るので、その間に、押出機の始動セレモニーが形だけでも出来ればいいと思う。
 というわけで、私の子供たちには、休日出勤をしてもらって、準備をしてもらう。大変、忙しい、日々になるはずである。ところで、私は、何をすればいいのでしょうか、何もすることはない、何もできることはない。今日、先ほどまで、私がすべきこと、全てが終わってしまっているからである。それらの日々は、私がいても仕方が無いし、うろうろしていればなお、皆さんに気を使わせてしまって、邪魔になる。
 そこで、皆さんにお任せして、私は旅に出る。気分は落ち着かないと思うが、現場でうろうろしたり、家でうろうろしたりするばら、旅に出た方が良い。というわけで、28日の夜にデルタマスへ戻ってくる。一日、一回だけ、ディッキ君に電話を入れる。

 旅に出ることもあって、先ほど、新しいキタスを受け取った。ブクビルの中身とマルティリエントリーパーミットも更新した。まだ、何点かの届け出や受け取らなければならない、カードなどがあるが、それらは急がない。また、それらを受け取るたびに幾らかの費用が発生する。
 何カ月か後に、PT.MAKUTAからPT.NANBUに替えるのだが、PT.NANBUとしての申請が先で、申請が終わってから、PT.MAKUTAのビザを取り消すことになる。
某イジップの某プリンター屋さんにお邪魔し、ローカルスタッフに会い、先日は、挨拶だけだったが、今日は押出成形品のサンプルを貰ってきた。図面をちらつかせていたが、図面を貰うことはできなかった。しかし、図面に書いてある原料のグレードまではメモを受け取った。見積もりを出すことはできる。
一日にまた、南部の人と一緒にその会社へ、開店の挨拶に行く。そのときには、相当、高い地位の人と面会することになるが、話題の提供にもなる、そんなこともあって、今日、訪問したのでした。ローカルと和気あいあいで話をすれば、誰もが、警戒心や緊張感は無くなってしまう。今日も、上司の日本人の名前は勿論、ハンドホンの番号、性格まで教えてくれた。いつか、其の人と会うことになるでしょう。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。詳しい住所と電話番号FAX番号が決まりました、南部化成本社をリンクしました。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html
インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。ビザの入手が各種手続きの始まりということが分かります。
ニュールンベルグの家の居間です。
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ダメだこりゃ

2010-02-25 17:44:58 | 生活
 PT.MAKUTA からPT.NANBUへ移るために手続きをしなければならないが、タイミングが非常に微妙で、もう、一か月早くPT.NANBUができていれば全然問題が無く切り替えることができたが、そう、うまくいかなかった。2月26日で一年経過するのでそれ以前にPT.MAKUTAをクローズしてPT.NANBUとして労働ビザを申請し、クローズから二週間以内にシンガポールへ行ってビザを習得できるなら、それが、ベストの方法である。
 PT,MAKUTAをクローズするために必要な書類を全て整えて、エージェント、コンサルタントとしているJ社に渡した。しかし、J社から申請できる日程がはっきりしないので、取りあえず、PT.MAKUTAとして延長しておいてくださいと言われ、書類は返され、それにしたがった。なぜ、J社が、PT.MAKUTAの延長からクローズそして、PT.NANBUのビザの収得まで、一連の流れとしてやろうとしなかったのでしょうか、それも、理解できない。
私がいつも使っている近所のエージェントに延長をお願いした。申請に必要な費用はまず、お決まりの1200US$と手数料約700US$支払った。1200US$は一年分なので、一年過ぎない時期にビザを返す場合は、申請すれば、一年後に余分に払った分だけ、返してもらうことができる。それが、二週間前だった。明日、キタスを受け取ることになっている。
しかし、今日になって、J社から、もういつでもシンガポールへ出て、PT.NANBUとして、ビザを収得できると言ってきた。
 まったく、気がすっきりしない。それなら、2000US$近くを使う必要が無かった。PT,MAKUTAとして延長をしてほしいと言った時点で、PT,NANBUとしての私の申請をストップするのが常識だと思うが、私の方のプロセスを無視して、手続きをしていたのでした。PT,NANBUは私のビザ申請用の費用を払ってしまってあると聞かされて、なお、すっきりしない、割り切れない気持ちになってしまった。書類を返された時点で、J社にPT.NANBUとしてのビザを頼むつもりはなくなっていた。PT,NANBUに頼むことは、必要書類を出してもらうことだけで、申請費用も航空運も安く済ますことができる。
KITASが手に入ることが各種申請の始まりで,延長の手続きはまだ進行中で、全部が終了するまでに一か月くらいかかるかもしれない。そんな状態で、いつでも、シンガポールへ行ってビザを収得してほしいといわれても、直ぐに、出来るわけがない。
 私としてはJ社に、もう、頼みたくないし、私は一度も、彼らと会ったこともないし、話をしたこともなかった。顔を見たこともない人や会社に振り回されている状態なので、もう、ダイレクターの申請がどうのということは、どうでもいいから、J社を無視しようと思う。少ない報酬で手伝おうとしている私にとっては、まったく、無駄金を使わされてしまったという心境だ。そのお金使っていなければ、従業員との食事会が何度もできる。報酬が少ない従業員への困った時の積立金にも充当できる。もったいない話である。こういうことができるように、また、旅もできるように、日本人としては極端に安い家賃の家に住んで、日本食レストランや日本食材スーパーには行かないのにで、ある。
 そして、PT.MAKUTAのビザを取る消すのに5万円ほどかかる。
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インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。ビザの入手が各種手続きの始まりということが分かります。
 
 渋滞になれば路肩も塞がってしなうが、どういうわけか、中央よりに路肩に代わる車線ができている。そこは、渋滞でも、割り込んで車で完全に塞がることはない。救急車やパトカー先導のVIPは中央を通過する。
 田舎ではない、街でもちょっと外れるとこういう風景の場所が多い、こういう中に町工場が隠れている。
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営業始めますかね

2010-02-24 19:23:50 | 情報

 昨日書いた某PVCチューブメーカーのある営業担当者からの情報で担当者を教えてもらい、EJIPの某プリンターメーカーを始めて訪問した。
PT.K社では営業するなと言われ、PT.A社では、品質に責任を持てる状態ではなく、客先に迷惑をかける心配があって、新しい仕事を獲得する状態にはなかった。
 某プリンターメーカーは押出成形品を創業当時からずっと日本から輸入していることと、こちらの購買が現地で出来る会社を探していることも、10年以上前から知っていた。しかし、当時の会社状況では、其の仕事を引き受ける状態になかったので、10年間以上私からは訪問をしなかった。
 今回、やっと、引き受けられる状態になったと判断したので、自己紹介に伺った。その会社に日本人は山ほどいるが、全く、ゴルフなどでも有ったことが無い。そこで、PT.A社の営業が紹介してくれた現地購買担当者を訪ねた。
 原料は何か、形状は二種類あることなどは何年も前から知っていたが、その姿は次第に明らかにする。

 Cikarang Barat(チカラン バラッ)の高速道路からの出口、特にジャカルタ方面からの車が、出る前の本線上にあふれてしまうほどの渋滞になる。料金を払って一般道に出るところで、なかなか、出られないのが原因です。そこで、左側に1km以上、二車線の出る車専用の車線を作った。そうすれば、通り過ぎる車は渋滞なしで通過できる予定だったのでしょう。
 ところが、其の左わきに二車線は一杯になって、なおかつ、本線の路肩にも出る車が、並んでしまって、本線が其の位置までやはり大渋滞になっている。渋滞の頭の位置が500m位、ジャカルタよりになっただけである。渋滞の長さは同じか、長くなってしまって、一つ手前のMM2100(ティビトゥン)の出口まで尻尾が届くようになり、MM2100で、出る車も今までのようにスムーズに出られなくなっているようだし、私のようにMM2100から、東に向かう車は、いきなり、渋滞の中に割り込むことになってしまった。

  一般道の流れがネックになっているので、高速道路沿いに車をためる場所を作っても、渋滞の場所が移動するだけである。
 今も、其のあたりで、道を拡張したり、橋を掛けたりしているが、目的が見えてこない、チカラン出口の前に、出口を増やすのでしょうか、直接、ジャバベカかデルタシリコンの工業団地に向かうインターが出来れば、渋滞が解消するはずだが、今の様子ではまだ分からない。
 私はJABABEKAやEJIPへMM2100から行くときにはDERTAMASまでいってしまい、一般道を戻る。今日も、そうした。そうした方が早く着くし、かかる時間も一定である。
 PT,NANBUの射出成型機の一部です。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。詳しい住所と電話番号FAX番号が決まりました、南部化成本社をリンクしました。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html
インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。
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考え違いの困った人

2010-02-23 18:11:39 | インドネシア
  客先指定のスペック原料をある原料メーカーから購入して製品をつくっている会社がある。その会社の品質管理や納期管理が大いに問題があり、客先からクレームが絶えない。それでも、技術的にも組織的にも人的にも改善しないで、内部には、ISOなど収得する必要はないと豪語している。
 多くの客先は、其の会社離れをしたいのは当然である。その会社から買って其の社内やそれを使う上作って納めた製品が心配でならない。不用品を受け入れたら、受け入れ検査の責任になるから、受け入れ検査も慎重に厳重にやらなければならない、不良で返品しても、製造工程の遅れを招くし、製造ラインのストップにもなりかねない、これは,購買の責任になる。仕入先を変えたち。
 その旨、仕入先の会社に告げると、其の会社の代表者は、「原料は、内にしか,売らない、どこかが、同じものをやろうとしても、原料メーカーは出荷しないから、他の会社がやるとすれば、原料を指定以外のものを使ってごまかして作るでしょう、それでもいいか」と、言うそうです。私の会社に相談に来たお客さんがそう言っていた。要するに、其の会社は品質や納期管理で勝負するのではなく、他の会社が原料を入手できない状態にすることで勝負したいのです。面白い会社がありますね。

 原料メーカーの上層部の日本人にはそういう約束をさせていることはその人たちから聞いていて、買いたいと現金を振り込むと、日本人は見ないふりをして、現地人同士の話で、遅滞なく原料をだすし、安全シートやどんな添加剤が何%ずつ入っているかの明細書も出してくれる。知らぬは、他社に同じ原料を出荷しないと約束を取ったはずのその社長さんだけである。面白いですね。ローカルチューブメーカーは全然困っていない。もう出荷してしまっているのだから、今さら、メーカーも、出荷停止というわけにはいきません。

 他社が原料供給を受けられないようにしているはずの会社は、言っていることに意味が無いことを知らない。どんどん、ローカルチューブメーカーに指定の原料が流れていて、品質で勝負出来ない日系の製品メーカーの仕事は次第に減りつつある。インドネシア人が独立開業すれば、価格的にも勝負できない。仕事は減り続くるでしょう。冷蔵庫のガスケットも、同じ運命に流れ出していることを知らない。其の原料メーカーは、他からの評判を聞いて、たまりかねて、品質や納期に関して十分留意するように注文を付けたくらいですが、経営者は、手の打ちようが無いので、相変わらずのNG流出を続けている。従業員も、着いて行けず、他社へ逃げたり、独立開業に走ったりしている。
 それ、プラス、ロ-カル企業の原料メーカーも小さいながら、数が増え続けている。日系の軟質塩ビ原料メーカーも、あと、数年後には、かなり、厳しい経営になる可能性が高い。
 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。詳しい住所と電話番号FAX番号が決まりました、南部化成本社をリンクしました。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%204.html
インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page123.html/
援助したが閉じる会社。今は解散して実存しないPT.KITAGAWA INDUSTRIES INDONESIA1996年から、今でも、インドネシアで関わっている。
二年以上前から閉じようとして、解散はしたが、まだ、売りに出せる状態になっていない。原因ははっきりしているが、それを解消する能力が無い。

 塩化ビニールのベースになる原料や添加物を混ぜて、求める物性の原料を作っている
ロ-カル企業、粉末まみれになって工場内が曇っている。40年ぐらい前の日本の塩ビ工場もこんなだった。インドネシアでは、こういう工場がどんどん増えている。日本で技術を収得した人が、いま、独立起業をし始めているのです。
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応援を惜しまない

2010-02-22 18:16:52 | インドネシア
インドネシアで楽しく暮らす 15-525()
斜めからインドネシアを眺めよう 525
インドネシアの民間の工場は、どういうわけか、森の中や商店街や住宅街の一角にあったりする。会社や工場を経営している人の大部分は、中華系のインドネシア人である。インドネシア人資本の工場の多くは、比較的大きな町のまわりの辺鄙な場所にある。そして、目立たない。狭い、舗装されていない、舗装されていても、舗装されていない方がいいくらいに舗装がはがれてしまっている道をくねくね進んでいくと、やがて、高い塀に囲まれた工場らしき場所に着く。会社の目印なるものはなく、看板もない。あるのか、番号だけである。その番号が順番になっていないで、道に沿って番号を探していくと、大きくなったり、小さくなったり、いきなり三ケタになったり、同じ番号がいくつか続いたり、道を隔てて、向かい側と連続番号になっていたりする。初めて、タンゲランやスルポン等の工場密集地へ工場を訪ねて行くときは、住所は勿論、必要だが、それに、目標になる会社や店を教えてもらうことが必要、それでも、結局、分からないことが多いので、電話を何回も掛けて、訪ねながら行かなければばらない。その工場のすぐ近くに来ているのに分からない、その場の人に尋ねると、その通りから、やっと、キジャンが通れるくらいの塀と塀に挟まれたが道があって、その道に入って100mくらい先に求める工場があったりする。細い道に入るところに目印や会社名はないし、100m先の鉄板の門扉にも会社の名前は書いてない。
そういう工場に入ると中は広々としていて、良くあんな狭い道を入ってこられたなと思うトラックが、原材料を満載して駐車し、下ろすのを待っていたり、出荷する製品を積みこんだりしている。これだけを見ていると、入口の状況からは全く想像ができない。中国系インドネシア人が経営する工場は全てがこんな様子をしていて、万が一の、暴動に備えているようだ。

それに比べて、中華系以外のインドネシア人が経営する会社は、もともと、資本力は少ないし、スポンサーも着かないので、自分で場所を借りたり、買ったりしなければならない。そこで、どうしても、森の中になってしまう。粘度の様な舗装されていない道も普通である。環境としては劣悪で、それでも、工場を作って自立しようとする人々が増えてきているのです。やっと、最近になって、日系企業で10年15年と修行した人の中の一部の優秀な人たちが、親離れをして、自立しようとしだしているのです。残念ながら、そういう、有望な人たちの面倒を見て、のれん分けをするという、気のきいたことをする日本人はいないし、そういう会社もない。

 店を借りて工場を作ろうとしている。展示装置ではなく、間もなくPVCチューブの生産が始まります。中華系の独占が次第に薄らいできます。
塩ビの原料は、写真の様な市販の塩ビポリマー(粉末でインドネシア製)と可塑剤、安定剤、滑剤などを適当量混ぜれば誰でも作ることができる。日系企業もうかうかしていられないほど原料メ-カーも増えている。私はやる気はないが、まとまったPVCの仕事をやることになれば、原料は自分で作ります。PVC(塩ビ)の仕事は、成形は簡単だし、原料も粉末や液体薬品を買ってきて作れるのです。独立してやりたい人には、原料の作り方の指導もします。PVCの仕事(医療用以外)はローカル企業に任せればいいのです。日系企業がやることではない。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page123.html/
援助したが閉じる会社。PT.KITAGAWA INDUSTRIES INDONESIA1996年から、今でも、インドネシアで関わっている。

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援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。詳しい住所と電話番号FAX番号が決まりました、
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インドネシアで知っていて、お得な情報です。予期せぬトラブルに巻き込まれないように、こんな知識が必要です。
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違いが分かる男

2010-02-20 19:17:11 | 環境
雨季の最終章、朝から夜中までずっと降り続き日が多くなっている。
今回は、既にPT,NANBUのダイレクターとして届けが出ているらしい。インドネシアの住民になっているのは私だけ何ので、私の名前で色々な申請がされているらしいが、何の申請に私の名前が使われているのか知らない。納税証明書や健康保険証のコピーを総務から求められた。作業を進めるそれぞれの担当者は全員がKITAGAWA時代の同僚でお互いに分かりあっているので、話は通じやすいし、遠慮が無い。良い傾向です。

 今後一二か月の間に、射出関係の日本人が各事業所からの寄せ集めで最低、6人は入ってくる。キタガワと最初から大きく違うのは、製造会社としての取り組み方である。日本側が、仕事を探し、其の仕事が軌道に乗るまでチームが面倒をみるやり方です。打ち合わせは、日本会社同士でやるので、話は正確で早い。南部化成の今までの海外製造拠点は全部、日本のどこか一か所が面倒を見ていたが、インドネシアのPT.NANBUは三か所の事業所からの仕事が入る予定で、それぞれが面倒をみるのか、纏めて一か所が面倒をみるのか、まだ決まっていない。いずれにしても、チームを組んで、一プリジェクトで最低5人くらいは乗り込んでくるはずで、各位事業所から、それぞれのプロジェクトで乗り込んでくれば一遍に15人位が来てしまう事になる。
もし、そんなことにならないにしても、射出成形の仕事ばかりなので、面積的にも売り上げ的にも押出部門はかすんでしまうようになる可能性が高い。利益面では別です。確実に利益はあげてゆきます。日本側が押出の面倒をみることはないし、私を望まない、勉強に来るなら、私が面倒をみることになる。
そんな環境になるので、押出を高く評価する人間が来る可能性はほとんどない。結局、KITAGAWAやAFMIのときと同じ扱いにされてしまうことを恐れる。経験から、代表者には、分離独立の組織と経理をお願いしている。固定費の配分も、私が納得できる比重にしてもらうことを頼んである。組織上、上に位置していても、実際に何も知らないで、押出に係われない人たちは固定費の対象から外してもらう事にする。従業員の人事考課も私がする。給料の査定も私がする。利益面で、少しでも会社全体にプラスになっていれば、オペレ^ターに厚く配分をする。私が経営していた太田化工の様にである。

購入する5ラインのストローを作っていた押出機、水槽、引取機、自動カター、補助押出機三台で600万円、韓国製で、平均8年ものである。
今日、行ってきたカラワンのイムグレ事務所、三十分もかからないで手続きは終わり、来週、水曜日に、新たな住民票(KITAS)を受け取ることになる。しかし、今回は特別で、一か月後前後には、キャンセルしてしまい。PT.NANBUからのインビテーションレターを待って、直ちにシンガポールでワーキングビザを取り直す。この手続き全てを、他の日本人とは別行動で、安く、早く、仕上げてしまい。そういうことができるという見本を皆さんに示す。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html
インドネシアの主な島には全部行っています。旅行記はこちらからです。それでも、行きつくしてしまったと感じることはない。来週は、スマトラのパレンバンへ行くことになっています。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
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任せてほしい

2010-02-19 17:11:48 | 体験
今まで、仕事の環境を何箇所か経験した。
それを大きく二つのパターンに分けると、押出成形だけと、射出成型と一緒になる。
前者は、裾野の富士プラ精工で夜勤専門の一年半、そのあと20何年かの太田化工にいた時、そして、直近のインドネシアでPT,AFMI, PT.MAKUTAのとき。
後者は、22歳から東プラ精工の7年間、1996年から、PT.KITAGAWA,
もう一つの分け方はその場を私が仕切ったか、他の人間の下にいたかで分けられる。その場合は、PT.AFMI時代が、射出と一緒の会社の方に移る。
 それはまた、製品を売る会社と技術を売る会社にわけた場合と、作業者(オペレーター)重視か機械(金型)重視かで分ける場合に見事に一致する。

PT.AFMIは押出というより軟質PVCのガスケットとチューブを作っていただけで、技術は持っていなかったし、樹脂の知識も全く素人だった。だから、押出成形の会社とは言えないものだった。様々な仕事を引き受けることはできない会社だった。それを、私が、何でも引き受けることができるようにしましょうと、手伝い始めたが、経営者に見事に拒否され、私が作った装置と、私がお手伝いしたお客さんと、それぞれの金型を与えた処で、追い出された。前日のハイド氏状態でした。

これは一例で、私がやるか、任されたとき期間は、仕事が楽しかったし、大きな実績を上げ、私も多くの蓄えを作ることができたが、従業員にも大きな配分をした。皆さんと利益を分かち合うことができた。評価も利益配分も私がやったからです。
ところが、それ以外のときには、押出部門は、一種の荷物、邪魔者として扱われた、私の部下たちも、冷遇され、給料の評価も低くされた。押出は人間が作る、射出は装置、金型が作る。と、いくら口を酸っぱくしていっても、射出しか頭にない経営者の押出に対する評価は低かった。若いころ、サラリーマンのころからそれは強く感じた。インドネシアへ来て、射出は掃いて捨てるほどあるが、押出を出来るのは私一人だけなのに、うまく使うことができないどころか、成功を妨害するためのイジメが直ぐに始まった。
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PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。
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インドネシアの主な島には全部行っています。旅行記はこちらからです。それでも、行きつくしてしまったと感じることはない。来週は、パレンバンへ行くことになっています。

PT.NANBUの押出部門の新戦力となる、押出成形ラインの何台かです。工場が出来上がるのを待っています。

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ジキル氏とハイド氏

2010-02-18 19:35:17 | 人間
私の体験から、外向きに、妙に丁寧な口のきき方をする人、妙に腰が低い人、ざっくばらんに話をしない人の100%は内向きには、乱暴な口のききかたをする。外面と、内面は反比例する。これははっきりしている。例外は全くない。だから、妙に丁寧な人と一緒に仕事をしないようにした方がいい。外面で割合、礼儀知らずの様な、ざっくばらんの様な口のきき方をする人は、内面も同じである。反対ということはない。仕事を一緒にするならこういう人の方がいい。
 私を怒った人は、インドネシアで四人です。その人たち全てが、最初は、非常に丁寧な言葉使いで、私に接していた。私を既に知っている人に対し、其の人は私を、持ち上げて紹介してくれていた。しかし、しばらくすると、私以外の社内の他の人たちに怒鳴りつけることが、多いことが分かってきた。その内容が、かなり、利己的で、自分が間違っていることに気がつかないで、ただ、強引に怒りをぶちまけているだけで、大変醜い状態になっていることにもきがついていない。
 これは、何かあれば、必ず、私のところへも来るなと、予感する。そして、なにかで、ご機嫌が悪い時、我慢の堰が切れて、私に対しても怒鳴ってしまう。一度怒鳴ってしまうと、次からは、続けて怒鳴るようになる。そして、あからさまなパワーハラスメントに発展する。四人とも、全く同じパターンでした。
もう一人、若者で、私が手ほどきをし、技術を教え、インドネシアの色々な会社に工場見学ということで、私が運転して何十か所もつれていったり、休みの日には、ドライブに誘ったり、ゴルフで車が無いときに私が送り迎えをしたり、数え切れないほど食事やカラオケで私が払ってやったり、彼のために何時間使ったか、お金をいくら使ったか、何時間待たされたか、分からないし、其の事を何とも思っていなかった。
子供以上に面倒を見ていたが、其の若者は、私に捨て台詞を言って日本へ、帰って行った。「家に食事を誘って、行くと約束した時、なかなか来ないから、電話をしたら、『寝ていて、忘れていた、御免』と言っただけで、言い方がきにいらない。約束は守れ、」でした。私はそのことを全く覚えていなかったが。彼はいつからかずっと根に持っていたのでした。
其の彼は、インドネシア人の目上の人にも、いつも怒っていた。どう見ても、彼が言っていることが通じていなかったのに、「分かったと言っただろう、分かってないなら、かからないと言えよ」と、怒っていた。それが、続けば、インドネシア人からこの若造が、と、恨みを買う。彼は、家族を誘拐するぞと、脅迫を受けた。私は、脅迫をしたインドネシア人が誰か知らないが、ありそうなことだ、こいつではと思った。彼の運転手は、いつも、運転の仕方が気に入らないと怒鳴られていた。それも、殴りかからんばかりの剣幕である。恐れを成して、二、三カ月で辞めてしまう。私が、運転手になっても、キット怒鳴るのでしょう、そういう人は。ね、君のことですよ。

そして、技術に優れた人は、話し方はぶっきらぼうで、あまり、外と内と態度は変わらない、上と下との話し方にもあまり差はない。私は、典型的な技術者ですから、上だからと思って、妙に気を使って話をしたことはない。下に対しても怒ることはない。上からも下からも、怒ってくれば、そういうときは、その人間の考え違いで、冷静らを欠いていることが100%なので、私も黙ってはいないで怒り返すが、冷静さを失うことはない。上からでも下からでも、私に対して冷静さを欠いて、説得力無く怒ってくる人は、本当に可哀そうだと思う。能力が低い人で、経験も実績もない人です。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
Bekasi Cyber Parkブカシバラットインターを出て左側、モールメトロポリタンの向かい側、ブカシでは最大のIT機器ショップです。オリジナルのウィンドーズオフィスのソフトを買いに行ってきた。ワード、エクセルなど最低で80万Rp(八千円)でした。
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半月後の予定

2010-02-17 17:35:47 | 仕事
 近い予定だが、予定は未定にして決定に非ず、です。
3月1日から、PT,NANBU PLASTICS INDONESIA(NPI)エヌペーイーの人間になる。インドネシアで四番目の会社になる。解散したPT,KITAGAWAの私の子供たちのうち約30人をこの日から従業員として迎えるというより、一緒に同じ会社の社員になる。KITAGAWAから、早めに出された人たちですが、私が評価すれば、契約社員として、残っている人より能力が高い。人事、総務、経理、入出荷、QCなどは、トップに全員キタガワからの人たちを使うことになった。射出が行動を始めれば、金型のメンテナンスや設計(3D図面の製図ができる)人間も私の人脈から選出して来て貰うことになって、彼らとは、いつから、報酬はいくらで等の契約を交わして、他へ行かないように約束してある。私を知っているインドネシア人は全員、私と一緒に仕事をしたいと思っている。
 これからも、私を信頼して、多くの仲間が来てくれることでしょう。

今月中に、出来れば、現在のお客さんとは売買契約をPT,MAKUTAから切り替えていただくことになります。三月一日からPT、NANNBUが納品を始めます。

客先への営業もスタートする。現在、他社から、高い価格で購入していている会社回りを優先します。それらの会社には現在の価格の0.8掛けを話のスタートとさせていただく事になります。対象の会社は六社です。

 ISOは直ちに申請します。見積もりも取って、エージェントも決まっています。ISOの収得を二回経験している担当者がいるし、私も其の都度かかわってきましたので、やることは分かっているので、書類的にはほぼ準備が終わっているので、エージェントも仕事は簡単になるはずです。三か月で二種類まとめて取ってしまうつもりでいます。

 EPTEに関しては、同じく、PT,K社時代の担当者だった人に入ってもらうことに決まったので、彼女に任せれば、これも三カ月以内に資格を取れることを目標にします。ハード面で、垣根というか囲いの高さを2mにすることと、税関職員の詰め所を正門付近に作ることも直ちに始めます。

 売り値を20%下げて提案すれば、EPTE以外の会社から買っているお客さんは実質的に30%の支払いを減らすことができます。その上、品質に関しても、ISOを収得していないところから買うよりも保証度が高く、安心度が増します。

PT.NANBUとして、お客さんに対し、自信を持って技術と安心と満足価価を売り物にして営業ができる体制に早くすることを最優先とします。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page123.html
始まる会社と閉じる会社。1995年からインドネシアで関わっている。
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社内の人間関係

2010-02-16 17:34:48 | インドネシア
 2007年後半に、PT.K社がインドネシアに在っても意味が無いという話が起きだし、閉じるなら、買いたいという会社があり、K社長に頼まれて、私が仲介をした。2008年初めから交渉が始まったが、結局、現地の例の下手ノという代表者が、明け渡しのための、手続きは遅らせる(意識的だが、能力的理由で自然でもある)し、それも、間違いが多かった。それに、買い手の会社の人が、何回かPT.K社を訪問しているが、自分でも、何時になるかわからないと言っていたし、目標日も明らかにできなかった。おまけに、買ってくれなくてもかまわないような横柄な態度で接したという。買い手の会社の人たちが、あの人では、会社を潰すはずだよ、と、言っていたし、あの人と、話したくないと言っていたし、太田さんの病気の原因が分かったよと、妙なところで同情してくれた。

下手ノのもたもたぶりで、交渉は今中断せざるをえない状態になっているが、まだ、買う方(PT.NANBU)はキャンセルしているわけではないので、そのことも確認しながら、明け渡しが完了する日を待っている。そのあとに何社かから買いたいという希望は入っているようですが、優先権は私が仲介したNANBUが持っている。
 既に、最初の交渉から、二年過ぎようとしている。いくら底なしの脳なしでも、そろそろ、目標日くらいは本社に示して欲しいものです。自分がインドネシアでのんびり釣りができるからと言って、いつまでも、知らん顔をしていないでほしいものです。多くの人の邪魔をしていることに気が付いてください。
もう一度、この文章の事実について、反論がある人は、ぜき、ご意見を聞かせてください。

 私のパニック障害は、悪くなる方向ではなく、良くなる方向に、常に向かっている。薬を減らす方向でいて、今の、仕事の忙しいこともあって、時には、パニック障害を忘れていて、薬を飲むのを忘れることがある。三か月分の薬が、五カ月位は持ちそうだ。

私のブログを、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。
 読んだ人で、これらの人々と知り合いの方は、こういうことがあるということを伝えていただきたいと思います。下手ノは領事館の人と釣り仲間になったと、妙な自慢をしていたが、そういう人脈があるなら、会社解散についても、私の病気に対する自分の行動について相談したらいいと思うのだが、とにかく、そういうことは思いつかない。

 インドネシアで、うつ病になった人を何人か知っています。そして、何人かから相談も受けています。それらの人は、全て、全てです。三四人の日本人の同僚?からかなり厳しいストレスを受けていた人です。私が、パニック障害になる前も、その会社の事情を聞いてほしいと、話をして人が何人かいました。技術的にも、人間性でも優れている人たちです。そういう人がパワハラの対象になりやすいのです。現地人や部下からは尊敬される人は同僚や上司からうとまれるのです。上司や同僚の能力が低いほど、排除の対象にされるのです。
そして、その人たちは全て、間もなく、インドネシアから去りました。
14年間の間に、残念ながら、自殺した人を三人知っています。全員がうつ病と思われます。その時、日本人社会で話題になりますが、間もなく、忘れられてしまいます。多く
の、人は数年で入れ変わってしまうからです。
ということで、私のパニック障害にかかわる話と其の時の環境についての、物語は、ひとまず、終わりますが、自殺願望は一度もなかった私はうつ病ではなかったので良かったと思います。

バリやロンボクで多く栽培されているタバコ。オドンオドンという移動遊具です。
田舎の路地に現れます。
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究極のパワハラ

2010-02-15 17:49:23 | インドネシア
セントバレンタインデー(Hari Kasih Sayang)とイムレック(春節)が重なった。イスラム国家でも、両方とも賑やかである。イスラムの人も両方に参加する。両方を楽しむ。ジルバブの女性が薔薇の花を持って、真っ赤な飾りをしてあるお寺の境内にいるという風景は面白い。

最初から、他の人に出きるだけ迷惑をかけないように、私自身が、帰国のタイミングを探っていたのです。実際日本人の誰の世話にもならなかったし、頼りにする人はいなかった。邪魔な人の世話をしただけだった。早ければ早い方がいい。そのために、いろいろなところへ行き、いろいろな専門家の意見を聞きたかったのでした。しかし、結局、どこからも、誰からも其れに従おうという処置や意見を聞くことはできなかった。インドネシアにいてはどうにもならないで、自分がどんどん壊れていってしまうことを感じて、最期の決断をした。血液が時々脳細胞に行かなくなり、細胞が死んでしまうことを一番心配した。症状が治まっても、脳障害が残ってしまっては、程度にもよるが、仕事ができなくなってしまうことを心配した。早く治すにはどうしても帰国すると決めた。
一番、私が助かったのはマリアさんの行動力でした。彼女のおかげで、行動ができたし、帰国もできた。私が、もともと、彼女をプレマン(チンピラやドッラッグ)の世界から、助けたのですが、それ以上に彼女は、私の我侭を聞いてくれた。其れに引き換え、下手ノとうどウの無知と行動力の無さと、気遣いの無さにはほとほとあきれるばかりでした。言うことなすこと、ピントが外れていた。 “どうしようもない”だった。
 マリアさんの爪の垢を煎じて飲んでもらいたいくらいだ。彼女より、行動力、知識欲、など相当低い。モラルも低い。
どこまでもひどいもので、彼らは他人に、私が頑固で彼らの言う事を聞かない困った人だと言っているし、自分たちのお陰で、太田は助かったと言っている。「あいつは、参ったといわない、」と、周りにふれ回っていると同じ事、厄介な駄々っ子である。邪魔しただけなのに、的外れのことを口走っていただけなのに、なにも、私のための行動をしなかったのに、私を理由なくけなしただけなのに。
  彼らパワハラがなければ発病しなかったかもしれないし、早く回復していたかも知れないと思う。中傷ではない、真実である、それは本人たちが一番承知している事であるその証拠に、私がこれだけ書いても、何の反応もない。自分の行動が間違っていないと思っているなら、堂々と書き込んでください。それが出来ないことは分かっていますが。  
  皆さんはくれぐれもこういう目に会わないように祈っています。もしこういう目に会いそうなら、私に相談してください。
 大使館や領事館の人は広報で心の悩みや分からない病気にかかった人は、相談するように呼びかけてもらいたいと思いますし、同僚は何も分からなくても、対策について、領事館に相談するくらいの知恵と行動力を持っていて、いただきたいと思います。
 海外で、駆け込み場所もなく、会社では窓際に追いやられ、日本からの出張者からもしかとされ、それでも、客先に対しては責任を取らなければならない。上司は無知で行動しないのに、口から出まかせで、怒鳴る。こんな状態に置かれて、黙って引っこんでいるというのでしょうか。まだまど、書いていない、直接のパワハラはある。
 
 結局、彼らが、会社をたたむ方向に向かわせ、閉じる仕事を、最後はしているのですが、なかなか、明け渡すことができない状態で、実際、何もしないでまだ、インドネシアにいる。彼がいるだけで、通訳や運転所を含めて100万円以上浪費していることも、感じていない。
パニックがほぼ治って、手伝った会社もひどかった。この会社については、書く機会が必ずあります。それは、この会社が、やはり、立ち行かなくなったときです。そう遠い先ではありません。
この文章の事実について、反論がある人は、ぜき、ご意見を聞かせてください。
 K工業の方はぜひ読んでください。K工業になったころ、最大の貢献した人物が、現在、K工業の足を引っ張ってぶら下がっているだけの人に外国で、強烈なパワハラにあっているのです。
 私は、結局、日本のK工業には40年以上から係わり、インドネシアのPT.KITAGAWA創業から撤退まで、15年かかわっていたし、今も、関わっている。K工業にとって、こんなに長くかかわっている人は他にない。私が、今係わっている人の中で最長のはずです。日本でも、太田化工で、まだまだかかわり続けるはずです。
まだ、撤退できていないので、関わり続けるが、撤退した後についても他の会社になって、そこの跡地に関わることになるでしょう。必ず再入場します。
もう一社、再入場する会社があることも予告しておきます。EJIPではありませんMM2100です。
技術をもっていて、気持ちに余裕があり、他人にやさしい人は、どこでも、求められるのです。K工業にもそういう人が多くなってもらいたいと思います。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。

ブカシバラットのインターチェンジ近いショッピングモール。マンガアフリカという名前のマンガです。マンガマドゥに匹敵するおいしさ、甘さです。宮崎マンゴーも真っ青の味だと思う。日本へ持っていって、桐の箱へいれて売れば、1万円でも買い手がつくでしょう。これは一個百円位です。マンガの中では高い方です。
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パニック障害から脱出成功

2010-02-14 17:27:49 | 喜び
胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。
 まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。

 早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。
その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。
この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。
うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。
死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
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http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page222.html
下手ノとうどウが立ち行かなくして、閉じる方向に向けてしまった会社です。

今日の話、久しぶりにジャカルタ、スディルマン、スナヤンのラトプラザへいってデスクトップ二台、ラップトップ二台、スキャン付きのプリンター一台、プリンター、FAX、スキャン機一台を購入した。全部で、22万円くらいだった。実に安い。数年前に比べれば三分の一である。
インドネシアでは一級のIT機器を扱っているモールの一つです。ジャカルタの中心地にあるので、外国人の客が多い。価格も、グロドックやマンガドゥアなどと比較しても高くはない。インドネシアに不慣れな日本人にはここを紹介している。
ラトプラザの内部のほんの一部と、正面出入り口の様子、雨だったので、車まで送るアルバイトをしている少年がいた。ここは地下駐車場が広いので、この仕事はあまりもうからないと思うが、地上の駐車場が広いショッピングモールでは良い仕事になるので、大勢の子どもがこの仕事をしている。雨季は彼らにとって小遣い稼ぎのキャンスである。
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覚悟の脱出劇

2010-02-13 18:25:53 | 情報
この前後の何日かの投稿を、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。普通の人では同じようにはできません。私だから出来た行動でした。

彼らが見張っているので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、ハラパンキタの入院手続きを待ちながら、うろうろしているだけで、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様に」と言い残していなくなった。私の病気については何も考えていないのである。
11、12,13日、経理の大津さんが総務のユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。直ぐに、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。脱出前に受け取れた。感謝です。

別の話だが、経理の手伝いに来ていた大津さんもパワハラの対象になっていた。一年くらいいて日本へ戻った。私とは三カ月ほどオーバーラップしただけだった。しかし、彼には世話になった。事務所で下手ノやうどウから大声で、どなられているのを何回か目撃した。怒っている理由が、やはり、二人の知識なしだったことは明らか。

決行について、もし、下手ノに話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、退院手続きをした後、病院に頼んで、出発時間まで、居させてもらった。そして、誰にも告げず13日、22時病院から抜け出し、直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で、感謝感激で分かれた。再会を誓った。インドネシアからの決死の脱出劇でした。
私が下手ノに言ったことに耳を傾けず、自分で医者に確認することもしないで、「帰れ、帰れ」と言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、「帰ってはならない、」になってしまった。
私が、彼らを無視して、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、「太田はとんでもない奴だ」と、話したそうです。帰らなくてもトンデモナイ、帰ってしまってもトンデモナイ。今でも、彼が、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。 通訳の意識的な間違った噂を吹き込まれ、操られていた操り人形(ワヤン)であることに気が付いていない。下手ノは現在でも、其の通訳の紐を切られたくないので、唯一の頼りだから、仕方が無い。

サテライトでも機内でも、何度も脈拍が飛んだ、其のたびに、もうだめかと思った。真夜中のフライトで一睡もできなかった。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココでもAIUが効く)に転がり込んだ。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。普通は12:00前に家に着くが、この時は17:00過ぎていた。妻には知らせてあったので、あまり深刻に考えていなかったようだった。生きて、自力でたどり着いて、コンナほっとしたことはなかったが、これから、また、試練が待っていた。

今日に話。チカンペックの高速道路の終点から東へ5Km位のゴム園の中にあった韓国人経営のストロー製造会社を見に行ってきた。15ライン以上のストローしか作らない会社でした。
二ヶ月くらい前に立ち行かなくなって韓国人は消えてしまった。跡をその土地の人たちが管理しているらしい。電気代も滞納で切られていた。当然、給料も未払いのままである。装置を買うつもりで見に行ったのだが、どうも、その売ってお金をどういう具合に配分することになっているか決まっていないらしくて、お金を払っても、安全に持ち出せるかどうか心配になってきた。代表らしき人は、幾らかの金をばら撒かなければならないと言うが、誰にいついくら渡せば安全が保障されるのかはっきりしてほしいと頼んだが、はっきり言えないらしい。
会社まで、届けてもらって、支払うということにしないと、どうも危なそうでる。韓国企業らしい締め方である。
ストローの折り曲げ部分のジャバラを着ける装置、一分間に250本出来るそうです。韓国製。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
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