Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マイスター/読響

2017年12月13日 | 音楽
 読響の首席客演指揮者を務めているコルネリウス・マイスターが、マーラーの交響曲第3番を振ったが、わたしの感想はまとまらなかった。今回はブログを書くのは止めようかと思った。でも、皆さんの感想を見ると賛否両論のようなので、わたしも感想をメモしておこうと考え直した。

 読響は先月、カンブルランの指揮でメシアンの歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」の完璧な演奏を成し遂げたので、その反動が出るのではないかと懸念した。それは聴衆としては止むを得ない懸念だったと思う。

 結論からいうと、読響はよく踏ん張った。虚脱状態とか疲れとか、そんなものは感じられなかった。聴衆は、読響にかぎらず、何度か痛い目にあっているので、心配してしまうが、読響をはじめ一部のオーケストラは、もうそういうレベルは超えているのかもしれない。

 だが、金管の出だしが揃わなかったりするなど、小さな傷が散見されたことは、やはり聴く者を不安にした。「アッシジ‥」の完璧な演奏を一度聴いてしまったので、もう後戻りはできない。後戻りしたくない。読響には超一流のオーケストラになってほしい。そういう気持ちの裏返しでもあっただろう。

 マイスターの指揮を聴くのは、読響では2度目だが、前回と同じような印象を受けたことが、欲求不満の一因だ。たとえていうと、淡水の流れのように、濁りがなく、淀みもないのだが、後になにも残らない。言い換えるなら、ドラマトゥルギーに乏しいのだ。

 わたしは2012年2月にドレスデンでマイスターの指揮する「ルル」を聴いたが(シュテファン・ヘアハイムの新演出だった)、そのときの演奏には本当に感心した。やはり濁りも淀みもない演奏だったが、それが「ルル」の音楽を雄弁に語っていた。

 なので、読響を振ったときのマーラーで、結果が出ないことが、もう一つ腑に落ちないのだ。新感覚のマーラーが期待できそうなのに、なぜそうならないのかと。

 今回、声楽陣はすばらしかった。第4楽章で藤村実穂子が歌いだすと、その声はホールの空気を一変させた。どちらかといえば散漫だった空気が、ピリッと引き締まった。第5楽章で勢いよく立ち上がったTOKYO FM少年合唱団とフレーベル少年合唱団が、澄んだ声を響かせると、その声は藤村実穂子の声の世界とつながった。また新国立劇場合唱団の女声合唱も美しかった。
(2017.12.12.サントリーホール)

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