Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ラインの黄金

2017年03月07日 | 音楽
 びわ湖ホールが始めたリング・チクルス。今年から毎年一作ずつ制作していく。新国立劇場がレンタルで済ませているのに対して、こちらは正真正銘の自主制作なので、観るほうとしても力が入る。期待を込めて出かけた。

 演出はミヒャエル・ハンペ。舞台美術と衣装はヘニング・フォン・ギールケ。プログラムに掲載されたミヒャエル・ハンペの「『ラインの黄金』の演出について」という文章の書き出しを引用すると――、

 「どうしたらオペラ歌手たちが水中で泳ぎながら歌えるのか? どうしたら人間よりはるかに大きな巨人たちを創れるのだろう? 観客の目の前で、誰かを巨大なドラゴンや小さなカエルに変身させるにはどうしたらいい? (中略)それに、どうしたら神々がラインの谷にかかった虹の上を歩けるのか?」

 正直にいうと、わたしはこの言葉に違和感を持った。そういうアプローチなのか、本当にそれだけなのか、と思った。

 だが、ミヒャエル・ハンペの言葉に嘘偽りはなかった。徹頭徹尾その視点で演出されていた。ラインの乙女たちは水中を泳ぎ回る。巨人たちは神々の倍近くも大きい。巨大なドラゴンがとぐろを巻き、小さなカエルがピョンピョン飛び跳ねる。神々は虹の上を歩いてヴァルハル城に入城する。

 巷間にはオペラのストーリーを分かりやすく描いた絵本や漫画があるが、わたしはそれを見ているような感じがした。それを是とすべきなのだろうか。何人もの方々が感想を述べておられるが、プロの音楽評論家をふくめて、概ね好評のようだ。びわ湖ホールおよび制作スタッフにはご同慶の至りだが。

 でも、わたしはつまらなかった。なぜかというと、現代との接点が見つからなかったからだ。この演出は、わたしには何の意味も持たなかった。ミヒャエル・ハンペの言葉を読んだときの違和感は、大きな失望感となり、わたしは興味を失った。唯一の独自の解釈として、幕切れで(地中に戻ったエルダが残していったものとして)ノートゥングが出現したが、唐突で、とってつけたような感じがした。今後の展開でエルダの存在感を増す演出のための伏線かもしれないが‥。

 沼尻竜典指揮の京都市響の演奏は、第2幕まではもったりした感じがあったが、第3幕からは積極性が出た。歌手ではローゲを歌った西村悟の滑らかな美声に注目したが、第2幕のローゲ語りではもう一歩の陰影がほしかった。
(2017.3.4.びわ湖ホール)
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