59 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-18 16:47:17 | 日記

59 アキレス腱つながった けど歩けない

 

森友が終わったと思ったら、加計学園か。「もり」から「かけ」?蕎麦屋か?いずれにしても政権を揺るがすような事にはならないだろう。とにかく野党がだらしがない。今回もそうだがマスコミ報道を追随しているだけだ。独自の調査能力が無さすぎる。自ら情報収集をしないと国民は信用しない。実際、テレビでコメンテーターが如何に政権批判しようと世論調査の結果は、なかなか国民は冷静だ。特に民進党は、いつまで二重国籍の党首でやるのだろう?健全な野党がいないと政治は腐敗する。私のアキレス腱も健全な腱に戻って欲しい。

 

 

 常照皇寺に行って来た。相当前である。

 

昔、太平記に魅了された。

楠正成のファンになった。足利尊氏を嫌いになった。普通はそうなる。

 

しかし、南北朝時代を見ていると意外な人物が気になることがある。光厳天皇。北朝初代のこの天皇は、皇統から消された。後醍醐天皇以降の所謂「南朝」が正当とされた為に、北朝の、光厳、光明、崇光、後光厳、後円融まで五代の天皇は系譜から除外された。明治維新後の決定だ。南朝の後醍醐天皇の後の、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇は京の都に在位した期間はなく践祚の儀もやったかどうか分からないが、正当な皇統とされた。それは、逆賊とされた尊氏のせいかも知れない。お陰で今日まで北朝の歴史は消されたままだ。その北朝初代の光厳天皇の生涯が凄まじい。最晩年やっと安らぎを得て創建したお寺が、常照皇寺だ。

 

平家物語や太平記・戦国時代も、そして明治維新でも分かるように、平安京のある京都盆地は、攻めやすく守りにくい。都を治めるためには相当安定した政治力を備えていなければ維持出来ない。一時の勢いで攻め取ってもすぐに挽回されて、守り切れず都落ちとなる。南北朝時代のように確たる政権基盤が成立しない時は、何度も何度も都落ちと、都奪回が繰り返される。武将は仕方ない。気の毒なのはその都度引き回される天皇だ。

光厳天皇は持明院統。大覚寺統の後醍醐天皇の後を継いだが、すでに不安定な時代に突入していた。案の定、隠岐に流された後醍醐天皇が京都を奪回した時には、一時伊吹山まで逃れたという。しかし建武の新政が瓦解し南北朝時代になって京都に還幸した。しかし尊氏・直義の騒乱などに翻弄され、南朝方に捕らわれ吉野に幽閉されたりしている。最後は一出家僧となって禅の修行に打ち込んでいる。

死ぬまで政権に拘り、遺言に「わが身はたとい南山の苔に埋るとも魂魄は常に北闕を望まん」と執念の塊で死んだ後醍醐と光厳とを比べれば複雑な思いがよぎる。

しかも後醍醐を弔う天龍寺の創建については、尊氏・直義よりも時の上皇であった光厳の存在が大きかったのである。それでいて歴史からは消された悲運の天皇の寺を訪ねた。

 

洛外と言うには無理があるほどの遠い京北の地だ。周山街道を高山寺や神護寺を越えてなお30分ほど車でかかる。境内は山中にあり、四季折々の花が見られる。特に九重さくらは国指定の天然記念物だ。本堂の釈迦如来を拝んで、その御陵である「山國陵」を訪ねる。遺言通り誠につつましくひっそりしていた。石段下から遠く眺めるだけだが、穏やかな晩年を過ごし悟りの境地であったのではないかと感じた。

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