アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

89 アチャコの京都日誌 再びの京都 光悦寺のエントランスは絶景

2017-07-08 12:50:24 | 日記

89  アチャコの京都日誌 再びの京都 光悦寺に行って来た。

前回の続き

まず、本阿弥光悦とは、

本阿弥家はもともと刀剣の鑑定(めきき)や研ぎの家であったが、

刀剣以外への幅広い才能を家康に認められ、この地、鷹峯に広大な土地を賜った。

寛永の三筆の一人にも選ばれている能書家。(書が上手い)

また、俵屋宗達などと琳派の創設者でもある。尾形光琳がいたので(琳派)

その本阿弥光悦の墓がある「光悦寺」入り口は見逃しそうな狭いエントランス。

 

京都は、このエントランスを重んじる。

結界とも言う。神社の鳥居が典型的だ。俗世間と神域の境目をはっきりさせている。

寺ならば、山門・三門だ。茶室ならば、露地や躙り口。普通の生活とただならぬ非日常をはっきりと分けている。

その様に見ると、ここ光悦寺のエントランスが格別良い。

人とすれ違うにも苦労するような狭い長い参道を歩く。なだらかな下り坂を引き込まれるように歩く。

左右に迫る青紅葉。紅葉の季節には絶景だろう。足元には、長い歴史を感じる杉苔が続く。

歩き出した時に流れていた汗は、次第に引いている。本堂前の受付に着くと、すっかり俗世間を忘れている。

数々の茶室を見て回る。

有名な「光悦垣」緩やかなカーブが美しい。

奥には、鷹峯三山という緩やかな山並みを、借景として眺めることが出来る。

ゆっくりと光悦の墓を拝んで帰る。

もう一度、エントランスを振り返る。

ただ、光悦。身分制度に厳格な保守的な思想の持主であったようだ。

従って相当な秀吉嫌いで、成り上がり者と批判している。

関ケ原の直後から大阪の陣までの、まだ徳川政権が安定していない時期、

家康は太閤びいきの多い京都で、光悦をプロパガンダに上手く利用したのではないか。

結局、腹黒同士の駆け引きか?