お寺のこと

真宗大谷派延慶寺の住職です。

かたちの無い自由

2009-08-08 13:54:13 | 住職の思ったこと
最近は葬式を行わない人、家族が増えている。死んでゆく人も、送る人も敢えて葬式を望まないらしい。年老いた親は子供家族(50過ぎて成人した子供もいるのに)への負担を心配して(親が子供を大人にさせない)費用のかからない直葬(病院から火葬場へ)を希望するという。親は子供に迷惑を掛けなっかたことに満足して死んでゆく。子供(中年のおじさん、おばさん)家族は世間で云われる葬式費用の負担から解放されたことを、親の望みどおりに見送ったという大義で正当化できる。双方とも満足のいく形で死後の処理(昔は家で飼っている犬や猫が死ぬと庭の片隅に埋めたりした。)が完了するのだ。しばらくの間(遺骨の行き先が決まるまで)家の中に遺骨と遺影が置かれる。僧侶を呼んで読経することもないから法名も戒名もついてはいない。仏壇もない(仏壇を求める気がない)。やがて遺骨の納め先を考える。田舎の本家のお墓?多磨霊園の御霊堂(預かり期限付き遺骨預かり倉庫)?海、山への散骨(散骨というと少しロマンチックな気がするが、実態は遺骨を捨てていることと同じ)?家の中にいつまでも遺骨があることが自分たちの生活に相容れない物(いよいよ人が物になる)となってくる。
 既成概念や形式にとらわれない自由な形で葬送を考えたいと人は云う。しかし、概念や形式を越えた処に何を見つけられるのだろう。都合と折り合いのついた満足の後には何が残るのか。死者との間にある悲しみさえも時には我優先が癒してくれる、時間が遠ざけてくれる。自由な形は身勝手な形に変わってゆく。末恐ろしいほどの根性が私たちには染みついているのか。自由という言葉を口にするときはよくよく自分の心を覗いてみよう。悲しいほど恥ずかしい自分が見えるかも知れない。
 さて、くだんの遺骨は物となって何処にいくのだろうか?

開教寺院

2009-05-16 23:24:14 | 住職の思ったこと
私が住職をしているお寺は所謂、開教寺院である。開教寺院というと、東京教区以外の地域から来た真宗僧侶が建てた新しいお寺、建物も荘厳もミニマムでかろうじてお寺の仲間入りを果たした寺というイメージがある。事実その通りである。既存の寺院と比べるまでもなく御堂、庫裡、境内の区別も出来ないオールインワンの建物である。お寺っぽくない外観の寺の僧侶が宗門でいう離郷門徒を対象に開教しているのが開教寺院である。一方、代々の門徒を丁寧に教化されているのが既存寺院なのであろう。教化の対象が開教寺院と既存寺院が異なっていることによって、ある意味上手く住み分けているようにも思われる。そして「開教は開教寺院の役割」というような図式ができてしまったようだ。たしかに開教とは新たな地域・対象への教宣であり教化である。しかし真宗の開教はそのことだけを指してはいまい。親鸞聖人の念仏の教えはいつも私たちから、聞法道場たるお寺から開かれ発信されなければならないからだ。言い換えれば真宗寺院はみな開教寺院であったはずだ。「開教の質をもった教化」という言葉がある内局の時に発せられたことを思いだす。
都市部では門徒の寺離れが起きている。既存寺院に限らず開教寺院でも少なからずそのことを意識させられる。核家族化による聞法相続の危うさ、離郷二世門徒(実態)の更なる宗教離れ、これが事実、開教の現場である。
七月からは東京はお盆である。「お盆は13日にお願いします。」
「日曜日の午後1時に。」「その日が無理なら今年はキャンセルします。」「霊園でお坊さんを紹介して貰います。」こんな言葉が電話の向こうから聞こえてくる。家人は自分たちの都合に合わなければ寺を必要としないか、もしくは他を求める。悪気は無いのだが簡単に関係を絶ってしまうのである。真宗は先祖供養を旨としないことを常々折に触れて話をしてきても家人にとってはどうしても先祖供養、故人への供養となってしまう。供養ということがが主体になれば、家人の満足のゆく形がそれぞれの供養となってくる。お経は故人への捧げものとなってしまう。開教はこの現実とのぶつかり合いである。真宗が壊れてかけてゆく、だからこそ開教が使命となってくる、真宗が時代に求められている。 

お斎(おとき)は法事の一部分

2009-04-10 00:15:49 | 住職の思ったこと
法事の後、読経が終わってから食事が用意される、これがお斎(おとき)である。いわゆる法要の後のもてなしです
■法事が終わってから、自宅あるいはお寺の一室、またはレストラン、料理屋などで、僧侶・参会者に食事をふるまう。本来、法事などの仏事の後お斎は不可分なものでした。しかし近年、法事の後にお斎を用意している家が少なくなった、と思っていましたが実はお斎をちゃんと家人は用意していたのです。僧侶抜きの。何故?僧侶をお斎に招かないのか。理由はいくつか想定できます。
1、僧侶には法事の読経を依頼しているのであって、読経が終われば帰ってもらう、その後親戚や親しい者のみで食事をして歓談する。僧侶が居ては気を使うので居ないほうがいい。
2、法事などで僧侶は忙しいからお斎を用意しないほうが良いのでは、と勝手に思い込む。
3、僧侶にお斎を振る舞うことをそもそも知らない。
4、お斎そのものを知らない、または必要と考えない。

家人は参会者が法事のお客(正客)だと勘違いをしているのです。僧侶が正客であるにもかかわらず。僧侶は法要のための読経をし、教えをより伝えんがための法話をする、僧侶が居なければ法事は成り立ちません、大切な役目を担っているのです。
一番大事なことは、お斎の席で僧侶と家人親戚がコミュニケーションをとれることである、そのことが法事をより有意義なものへと深めるきっかけになるのです。
どうぞお斎に住職を招いてみましょう。いろんなお話が出来ますよ。皆さんと同じように住職もお腹空いてますから。ただ、事前にお斎の連絡はお願いします。


葬式

2009-03-11 17:51:03 | 住職の思ったこと
一般的に葬儀には近親者、そして友人、知人、ご近所、本人の仕事関係、家族(特に子供たち)の仕事関係の人たちが弔問に訪れる。亡くなった本人との交友のあった人は勿論のことだが、一度も故人と会ったことのない、所謂義理の弔問、例えば会社の上司の親の葬儀の焼香に行かなければならない人。そんな人たちが葬儀式場に溢れている。遺族にとっては本来悲しいはずの葬式が、大切な家人の死を葬式という儀式を通じて受け入れ、そして最後の別れとしたい葬式が時として社交儀礼の場となっている。葬儀をする側の家族や親戚も、焼香に訪れる側もそのことに違和感を持たない、それどころかその事に重きを置いている。葬儀が弔問者に失礼のないように進み、何事もなく時間通りに終了すれば良いのである。しかしそれは葬儀社にとっての良い葬儀であって遺族が良しとすべき葬儀ではない。葬儀という儀式の中に身を置くことによって、「いのち」そして死を真正面に受け止めていく。家族の死はやがて自分のたどる道でもある。死を一番リアルに感じることのできる場である。参列者全員が祭壇正面に向かってその時間を共有する。不必要な挨拶も歯の浮くような演出も要らないのだ。
主役は亡き人であり、亡き人の「いのち」である。厳粛な儀式にふさわしい本来あるべき葬儀が再考されなければならない。いざという時は、まず住職に連絡をすることが大切である。

将来の設計、死後まで

2009-02-03 22:49:23 | 住職の思ったこと
   (将来の設計、死後まで)
そんな見出しが新聞に載っていたことを思い出した。法事の席でよく話題になるのが自分の死後、仏事を子供たち(子供といっても40、50歳が大半だが)が継承してくれることに期待が持てない、だから出来るだけ子供たちが何もしなくても済むように事前に親が準備し、また負担が少なくていいように、それはそれは親バカと言えるほど考えているのだということである。そこには子を思う親心と、老いて子供の世話になることへの遠慮もあるのだろう。子供に迷惑をかけずに死んでいくことが親のあるべき姿だと思っている。
しかし本来仏事は継承したものが責任をもって行うものである。継承するのは家督だけではない。いのちをバトンタッチされているのだ。一番大切なものを継承しているのだ。家督の継承だけであるなら次を担う者がどのように相続し、どのような価値観で物事を判断してもそれはそれでも構わない。いのちの相続は違う。絶対的な相続である。私たちはいのちの相続が見えていない、物や財産の相続しか見えないのだ。仏事はそのいのちの相続を確認し、いのちの見えない生活に安寧している自身を恥ずかしく申し訳ないと気づかされる場である。年老いた親はいのちの相続に誇りを持つべきだ。老いて子供の世話になり、迷惑をかけることを卑下しなくてもいいのだ。親として本当に伝えるべきことを毅然と示すことが親としての最後の責任であろう。そうでなければ死後の心配に追われる最後になりかねない。子供は本当の大人に成りきれない永遠のチルドレンとなる。
「迷惑をかけてお世話になるけどお願いね」そう言い切りたいものである。生まれてから死ぬまでずっと人のお世話になっているのが私たちだから。我慢してもらい、許してもらい、生かされている私がそこにいる。