最近は葬式を行わない人、家族が増えている。死んでゆく人も、送る人も敢えて葬式を望まないらしい。年老いた親は子供家族(50過ぎて成人した子供もいるのに)への負担を心配して(親が子供を大人にさせない)費用のかからない直葬(病院から火葬場へ)を希望するという。親は子供に迷惑を掛けなっかたことに満足して死んでゆく。子供(中年のおじさん、おばさん)家族は世間で云われる葬式費用の負担から解放されたことを、親の望みどおりに見送ったという大義で正当化できる。双方とも満足のいく形で死後の処理(昔は家で飼っている犬や猫が死ぬと庭の片隅に埋めたりした。)が完了するのだ。しばらくの間(遺骨の行き先が決まるまで)家の中に遺骨と遺影が置かれる。僧侶を呼んで読経することもないから法名も戒名もついてはいない。仏壇もない(仏壇を求める気がない)。やがて遺骨の納め先を考える。田舎の本家のお墓?多磨霊園の御霊堂(預かり期限付き遺骨預かり倉庫)?海、山への散骨(散骨というと少しロマンチックな気がするが、実態は遺骨を捨てていることと同じ)?家の中にいつまでも遺骨があることが自分たちの生活に相容れない物(いよいよ人が物になる)となってくる。
既成概念や形式にとらわれない自由な形で葬送を考えたいと人は云う。しかし、概念や形式を越えた処に何を見つけられるのだろう。都合と折り合いのついた満足の後には何が残るのか。死者との間にある悲しみさえも時には我優先が癒してくれる、時間が遠ざけてくれる。自由な形は身勝手な形に変わってゆく。末恐ろしいほどの根性が私たちには染みついているのか。自由という言葉を口にするときはよくよく自分の心を覗いてみよう。悲しいほど恥ずかしい自分が見えるかも知れない。
さて、くだんの遺骨は物となって何処にいくのだろうか?
既成概念や形式にとらわれない自由な形で葬送を考えたいと人は云う。しかし、概念や形式を越えた処に何を見つけられるのだろう。都合と折り合いのついた満足の後には何が残るのか。死者との間にある悲しみさえも時には我優先が癒してくれる、時間が遠ざけてくれる。自由な形は身勝手な形に変わってゆく。末恐ろしいほどの根性が私たちには染みついているのか。自由という言葉を口にするときはよくよく自分の心を覗いてみよう。悲しいほど恥ずかしい自分が見えるかも知れない。
さて、くだんの遺骨は物となって何処にいくのだろうか?