こんにちは。
東京は年末年始も晴天の予報ですね。
大掃除も終わり、今日はゆっくりと事務所で
メールやら手紙を書いたりとしています。
今日はいつもより長文になるので、
時間のあるときに目を通していただけると
私の中の青年会議所が少しでも理解していただけると嬉しく思います。
もう8年も前になるのですね。
2000年の8月に東京都三宅島の雄山が噴火をし、
翌月の1日から全島避難したことを覚えているでしょうか?
そのときに避難場所の一つとなったのが
あきる野市にある旧秋川高校で、
あきる野青年会議所はそこにおいて児童や学生を支援を行なっていたんですね。
全国から山のように送られてくる支援物資を仕分けしたり、
構内の整備をしたりと、それは大変だったようです。
それは私が青年会議所に入会する前のことです。
すでに入会しないかといわれてはいたのですが、
もともと人とコミュニケーションをとったり、
話をすることが苦手な私としては青年会議所どころか、
周りに対して何かをするなど、本当に興味が湧きませんでした。
ですが、
これから生きていく中で、一人では生きていくことはできないし、
いままでの「何か」を変えたいと思っていたこともあり入会を決めました。
当時は一職人として、
ニッカを着て現場で仕事をしている頃の入会でしたから
そのまま青年会議所に行くこともありましたね。
ちなみに、そのときの目標は
・人とコミュニケーションをとることができるようになる。
・人前で話ができるようになる
・パソコンが使えるようになる
その頃を知っているメンバーからすると、
今の私は想像つかないようです。。。
さて入会をして3ヶ月ほど経ってからでしょうか、
ある事業に関係することになり
そこから私の中の「何か」が大きく変わっていくことになるのです。
というのも、たまたま時の理事長さんが
あるミュージシャンと仕事の関係で知り合いになり、
青年会議所のことや三宅の件を話したところ、
「夏に三宅の人たちに向けてシークレットライブ」をやろう
ということになったのですね。
真夏の体育館
夏の朝独特の香り
さんさんと差し込む太陽の光
うるさいくらいの蝉の鳴き声
楽しそうな子どもたちの声
そんな中、ライブは始まりました。
もっと詳しく書きたいのですが、私の記憶もそれだけです。
あまりのことに覚えていないのでしょう。。。
そしてライブ終了後、
三宅の人たちを体育館の出口で送り出しているとき、
一人のおばあさんが「ありがとう。元気をもらいました。」
と私に言ってくれたわけです。
事業の準備中、うっすらと思っていた、
「こんな自分でも人の役に立てる」
それが確信に変わったのでしょう。
そのときの写真はないし、
そのときのことを知っているメンバーも少ないですが、
私の中では何よりも大切な出来事です。
人はいつ、どんな出会いで
どんなになるかはわかりませんね。
えんどうりゅういち