導かれる小前提

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思考について

2017-07-23 21:40:42 | ゴミ箱
思考するのはおっくうだ。疲れる。できれば余計なことは考えずに、日々の忙しさの中で労働の充実感だけを味わって生きていたい。自分の役割を持ち、これをひたすら他人のために役立てる。これ以上に幸せな生きた方はきっと人間には存在しない。であれば、考えることは無駄か。いや無駄ではない。少なくとも積極的な思考は無駄ではない。消極的な思考、つまり考えたくなくても考えてしまうことは、人は当然考えるが、特に考える必要に迫られていないこと、つまり積極的な思考はあまりしないものだ。仕事においても、過去に導かれた正しいやり方を実行し、そのうえで浮かび上がってきた問題に対処していく、というスタンスをとるのが普通だろう。そのことに異論を唱えるつもりはないが、積極的な思考はきっとプラスアルファの効果をもたらしてくれる。

では、積極的な思考とはどのようにすればいいのか。『思考の整理学』の著者である外山滋比古は「思考の整理は、低次の思考を抽象のはしごを登ってメタ化していくことにほかならない」と述べている。これはどういうことか。まず「低次の思考」とは「思いつき」のことである。あるときふと思い浮かぶアイデアのことである。そして思いつきはそのままでは役にたたないものなのだ(それどころかむしろ振り回されたりもする)。だから思いつきは昇華させなければならない。それが「抽象のはしごを登る」ということだ。言い換えれば「哲学化する」ということになり、つまり「思いつきを徹底的に自分自身で解明する」ということにほかならない。そうすることにより低次の思考がメタ化され、高次の思考に変化を遂げることができるのだ。外山氏は、思いついたメモを別のノートなどに書き写すだけでもメタ化になると説く。書き写すだけでもまったく同じ内容にはならないものなのだという。写す作業だけでも、書いているうちに新しい考えが浮かんだり、情報を追加したりするものなのだ。私も、ブログや記事を書くときなど、ネタをどこかに書き付け、下書きを一回二回書き、そのあとに人に読ませる文章に仕上げていく。それだけの作業でもメタ化されているということが分かる。つまり「自分の思いついたことをきちんとした文章にして人に読ませる」ことは、思考を鍛える上で良い方法ということになる。

さらに、メタ化させ仕上げた文章を、今度は寝かせることが重要なのだという。書いた文章のことを忘れてしまうのである。そして、寝かされた文章を忘れたころに読み、それでも風化していないのであれば、それが自分にとっての哲学、自分にとっての古典になるのだという。古典というものは寝かせなければ古典にはならない。ある一定の期間を経ても風化していないから古典といえる。文章を寝かせて、書いた内容を忘れ、それを後で読むことで自分にとっての古典かどうかの「確認ができる」ということだ。10年前の文章を読んで「なんてくだらないことを書いていたのだ」となればそれは古典ではない。逆に10年前の文章が「ああ、やっぱり必要だな」と思えたら、自分自身の古典と考えて間違いないだろう。

ひたすら勉学に励むことができる学生と違い、忙しい中での社会人の思考は散発的になりやすい。つまりアイデアだけで終わってしまうことになりがちだ。思考のメタ化により思いつきを役立つものに昇華させ、さらに自分の古典を発見し自分自身の役割を明確にすることで、より豊かな人生を送れるのではないだろうか。
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