ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

戦後民主主義。

2016-09-05 | 戦後民主主義/新自由主義
 「71年めの夏。」は、あと2回ほど書くつもりだったのに、城山三郎にまつわる資料などを読んでいるうち、9月になってしまった。城山さんは昭和2年生まれで、前回紹介した三人よりもなお年少だったのに、志願して海軍に入った。
 志願とはいっても、あの時代、ものごころついた頃から軍国教育しか受けていないのだから、いわば洗脳されて、そうするように仕向けられたようなものである。そして軍人および軍隊のイヤな面を、文字どおり「イヤというほど」目の当たりにした。
 だから戦後、城山さんは腹を立てていた。温厚で紳士的な方であったが、内面ではずっと腹を立てておられたのである。その怒りが、氏の創作の原動力となった。
 ……と、いったようなことを書こうと思っていたけれど、結局、8月は続きを更新できぬままおわった。
 もちろん、とても大事な話であるから、9月になろうと10月になろうと、どんどん書くべきところだけれど、とりあえずもう、「夏」という感じではない。サブタイトルをかえて、城山さんの話は、また別の機会にいたしましょう。
 ところで、夏の終わりというものは、なんだかひどく物悲しい。同じく季節の終わりといえど、春や秋や冬とは明らかに違う。冬の終わりなんて、むしろ復活なり再生の時期といったイメージで、気分が上向いていくのがふつうではないか。
 夏休みは長いし、郷里に帰ったり海へ行ったり、外でよく遊ぶから楽しい思い出が多い……というようなことは、とくに子供さんや学生にはいえるかも知れぬが、それだけが理由でもなかろう。やはり夏は生命の盛りの季節であり、それが静まって衰微していく印象があって、それが寂しいのだ。
 秋という季節は、それだけですでにもう物悲しい。上田敏の名訳になるヴェルレーヌの詩に見るとおりである。
 そういえば、ポップソングにも、「過ぎ行く夏」やら「夏の終わり」をうたった名曲が少なくない。
 ただ、その手の感傷も若いひとたちの特権で、ぼくなんかの齢になると、年がら年中、矢のごとく飛び去る光陰の速さにただただ面食らっている、というのが実情に近い。
 ブログをはじめて、今年ではや10年になる。
 最初はべつのタイトルで、とりとめのないことを漫然と書き綴っており、一回あたりの分量も、はるかに短かった。
 何年かして「世に倦む日日」というブログを知り、過去のものも含めて、半年くらい熱心に読んだ。
 影響をうけた、といっていいと思う。ただ、とりあえずそれは、内容がどうとか主義主張がどうとかいうより、「ブログでこれほど長文をやってもいいのか……」という驚きと、「ブログでこんなに小難しいことを書いてもいいのか……」という驚きによる影響であった。
 そのあと、「ダウンワード・パラダイス」と名をかえて、内容もずいぶん改めた。ほぼ、今のような具合になったわけである。
 OCNブログサービスの廃止に伴い、ここgooブログに越してきたわけだが、それ以降はもっぱらブンガクを中心にやっている。それまでは、「世間に物申す」ではないが、わりと社会時評めいたことも書いていた。
 ちなみに「ダウンワード・パラダイス」とは、「下り坂の楽園」といったていどの含意で、すなわちこのニッポンのことだ。
 「世に倦む日日」は、司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」をもじったタイトルなのだれども、ちょっと隠者じみたそのタイトルとは裏腹に、過激さで売ってるブログである。
 スタンスを見れば明らかに左翼、それも今どき珍しいほどの左翼っぷりなのだが、しかし今の天皇陛下と皇后陛下を強く尊敬している点において、ふつうの左翼の方とは一線を画している。とはいえそれはけっして奇をてらってのことではなくて、両陛下が、この戦後を生きるほかの誰よりも、「戦後民主主義者」であられるがゆえに、お二人を尊敬する、ということなのである。
 このあたり、法理論を厳密につきつめるならば、ものすごくアクロバティックな理屈……ということになる気もするのだが、ともあれそれが、「世に倦む日日」氏の立場だ。
 いずれにしても、「世に倦む日日」氏は戦後民主主義の信奉者であり、もとより自身も、生粋の戦後民主主義者である。
 だから、左翼は左翼でも、60年代の学生運動を担った「新左翼」ではなく、むしろその新左翼に違和を覚える「旧左翼」のほうなのである。
 スタンスからいけば、丸山真男~大江健三郎型の、いわゆる「岩波文化人」にも近い。ただ、丸山さんや大江さんは紛れもない「戦後民主主義者」ではあっても、「左翼」(マルクス主義者)ではなくリベラリストだから、「世に倦む日日」氏とはそれとも違う。
 このあたり、なかなかにややこしい話で、書いているぼく自身、「めんどうくさいな……」と思ってるくらいなのだが、今回の記事の本旨にかかわる話であるから疎かにはできない。
 あらためて、整理してみたい。
 まず、「左翼」とは、このニッポンにおいて、厳密な(本来の)意味では「マルクス主義者」のことである。
 そして、戦前・戦中、さらには戦後しばらくのニッポンにあっては、「マルクス主義者」といったら、それはほぼ「共産党員」のことであった。
 もちろん、党に所属することなく、ひそかに「資本論」などを紐解いて勉強していた人たちだっておられたと思うが、しかし徒党を組まねば「勢力」にはならない。組織化されない個人は、どこまでいっても個人でしかなく、せいぜい「世論」の一端を醸成するくらいであろう。
 ゆえに、戦前・戦中、さらには戦後しばらくのニッポンにあって、「勢力」を成しうる「左翼」は、ほぼ、イコール「共産党」だったわけである。
 じつにわかりやすい、シンプルな時代であったと思う。世の中ってものは、豊かになるほど爛熟して、妙に複雑になってくる。昭和50年代ごろでさえ、今と比べればずっとシンプルで、わかりやすかった。
 それはさておき。
 戦時下のニッポン、正確にいえば大日本帝国にあっては、「勢力」を成しうる「左翼」なんてのは最大の脅威だったわけだから、もちろん、共産党は徹底的に弾圧された。
 とはいえ、昭和16年に太平洋戦争が始まってからは、「共産党」どころか、今でいうリベラリスト、すなわち「べつにマルクスを信奉しているわけじゃないけど、かといって体制に唯々諾々と付き従うわけでもない人々」も敵視されたり、はたまた、難しい理屈はわからぬままに、ただたんに「戦争は厭だなあ……」と漠然と思ってるだけの一般人ですら、それを表に出そうものなら、「この非国民めッ」ということで一緒くたにされて、憲兵などから酷い目にあわされたわけだが……。
 アメリカに負けてそのような時代が終わり、「大日本帝国」が「日本」となって、奇跡とも呼ばれる経済成長が始まり、戦後ニッポンはみるみるうちに豊かになった。
 そのような中で、日米安全保障条約、いわゆる「アンポ」に対する反対運動、というか反対闘争をきっかけとして、従来の「共産党」とは袂(たもと)を分かつ新しい「左翼」の集団がいくつも生れ、台頭してきた。
 それが、今につながる「新左翼」である。
 「左翼」という用語についてのぼくなりの説明はひとまずそんなところだけれど、いっぽうに、「戦後民主主義者」という用語もしくは概念がある。
 ふつうに「戦後民主主義者」というばあい、とりあえずそれは、第9条すなわち「平和主義」を堅持する立場の人、という印象をうける。
 もちろん、「国民主権」と「基本的人権」もたいそう重要に違いないけれど、この2点については、いわば、ほぼ自明の原則として、表立って論争の俎上に乗せられることが少ない。
 侃々諤々(かんかんがくがく)、とかく意見が割れてきたのが、「平和主義」である。戦後日本はずっとこの問題を引きずっている。「自衛隊」はなぜ「日本軍」と名乗らないのか。「近隣諸国の軍事力増強による、わが国を取り巻く情況の変化」(うーん……オトナの表現……)によって、このテーマは、ますます喫緊のものとなっている。
 というか、安倍内閣のもとで、事態はすでに(なし崩し的に?)動きつつあるというべきかもしれない。
 それはそれとして、では「左翼」と「戦後民主主義者」とはどのような関係にあるか、という話になると、これがまたまたややこしい。じつはぼく自身、うまく整理しきれてないところもある。
 それというのも、上で述べた「新左翼」のひとたちは、「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」ことを標榜しながら台頭してきた、という経緯があるからだ。
 たとえば、当ブログでよく名前の出る吉本隆明も、その理論的支柱のひとりであった。
 ぼくは吉本さんの本もよく読んだし、それとは別に、全共闘にまつわる文献もそこそこ読んだつもりなのだが、さてしかし、恥ずかしいことに、≪「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」≫というのがいかなることか、いまだに実感としてわからないのである。
 文章として見ればたいそう勇壮で、果敢でカッコいいのだけれども、具体的にいって、それってどういうことなのか。
 まあ、「よくわからないけれど、大体はこんなとこなのかな……」という、暫定意見みたいなものはある。いちおうそれを書いてみよう。
 1960年代の「新左翼」ってのは、とにかく「ラディカル」だったのである。ラディカルには、「過激」のほかに、「根底的」という意味もある。物事を根底的につきつめると、否が応でも過激になるのだ。「革命」がその最たるものだろう。
 いっぽう、「戦後民主主義」とは、文字どおり「戦後民主主義社会」の礎をなす理念である。
 いいかえれば、穏健な市民社会の基盤となる理念であるということだ。
 だから、1960年代のラディカルな「新左翼」のひとたちにとっては、これはどうしようもなく生ぬるいものと映った。当時のサヨク用語でいえば「体制順応イデオロギー」と映った。だからこそこれを、《批判/否定し、「乗り越える」》ことが課題となった。
 そんなところではないのかな、というのが、今のところのぼくの理解である。
 だがしかし、その後のニッポンってものを振り返るなら、革命なんて夢のまた夢、夢想というより妄想のレベルで、市民社会はどんどん爛熟して高度大衆消費社会となり、果てはバブルの饗宴へと至った。
 かつての学生運動の活動家たちのなかにも、バブルを享受するどころか、その担い手となったひとも少なくない。糸井重里氏もそうだし、高橋源一郎氏もそのひとりだろう。ほかならぬ吉本隆明御大も、その内に数えることができるかもしれない。
 ありていに言えば、それは「変節」という表現がもっとも近いと思うのだけれど、そこはもちろん、それぞれにそれぞれの考えなり言い分はおありだと思う。
 ただ、いずれにしても、ひとつ確実にいえることがある。
 そのような態度が≪「戦後民主主義」を批判/否定し、それを「乗り越える」≫ことであった、とは絶対に言えない、ということだ。どう考えても、それはただたんに「バブルに浮かれた」だけだろう。
 浮かれ騒いでいるうちに、「戦後民主主義」の話も、取り紛れてどっかに行っちゃった……。
 ただそれだけのことではあるまいか。
 何ちゅう「ええかげん」な話やねん……。
 思わず大阪弁で呟いてしまう。
 いうならば、「戦後民主主義」という大命題は、なにひとつ解決しておらず、この40年あまり、ただ棚上げにされていたのである。
 だから、80年代バブルが文字どおり泡とはじけて、「失われた10年」が過ぎ、中国の目ざましい勃興のなか、「景気低迷」が常態となった時代が来て、何だか知らんがミサイルもぼんぼん飛んでくるし、宗主国・アメリカの緩やかな衰退もあり、中東をはじめとする世界情勢が何やらいよいよキナ臭くなってきた今日、あらためて「戦後民主主義」が、大命題として迫(せ)り上がりつつある……。
 それが日本の現状ってものではないのかな、と考えているわけである。

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