ダウンワード・パラダイス

このところ、すっかり文学ブログになっておりますが。

恋のような。 それともあるいは、希望について。

2016-10-11 | 映画・アニメ・ドラマ




 「君の名は。」を劇場に観に行ったのが秋分の日だったから、もう半月あまりになるわけで、しかもそのかん、じつは「シン・ゴジラ」も観てるんだけど、相もかわらずアタマのなかは「君の名は。」のことでいっぱいで、日々の雑事に追われつつ、暇さえあれば「君の名は。」について考えている。
 これはいったい何なのだろう。すこし考えて思い至ったのだが、どうも「恋」に近い感情ではないか。
 むろん、本作のヒロイン三葉に(もしくは奥寺先輩に)対してどうこうといった話じゃなくて、「君の名は。」という作品そのものに、恋をしているということだ。なんだか変な申しようだが、しかし、それはぼくだけのことではないんじゃないか。一向に収まる気配のないこの「君の名は。」現象は、そうとでも言わなきゃ説明できないんじゃないか。「誰もが必ずこの物語に恋をすることでしょう。」と神木隆之介くんが書いていたけれど、その言葉が、キャッチコピーの域を超えて、ほんとのことになっちゃったんじゃないか。
 伸び続ける興行成績は、評判をきいて足を運ぶ新規のお客ももちろんだけど、リピーターの存在なくしてはありえない。2回、3回、なかには5回観たという人もいる。「観るたびに新しい発見がある。」ということもあるにせよ、これはやっぱり恋ではないか。好きになった相手に会いたくなるのは、恋愛感情の根本だもの。
 ぼくのばあい、この前は座席がすし詰めで、しかも前の席の兄ちゃんが上映後しばらく何だかやたらとごそごそ動いて肝心のオープニング(大事なヒントがいっぱい盛り込まれている)に集中できなかったこともあり、もうちょっと事態が鎮静化して、せめて座席占有率が80%くらいになってから、2度目、3度目に臨みたい、という感じなのだが、内心では、すぐにでも行きたくてうずうずしている。映画に対してこんな気分になったのは初めてだ。
 この3連休、田園地帯に小さな旅をしたのだけれど、行く先々で、「君の名は。」のなかの風景を思った。「すべての向日葵はゴッホの影響を受けている。」というユニークな言い回しがあるのだが、それをもじってワタクシは、「2016(平成28)年の夏いこう、すべての日本の風景は、四季おりおり、新海誠の影響を受けることとなった。」と言挙げさせていただきたい。しかもそれは、田園地帯にとどまらず、モダンハイテク都市・東京のオフィス街までをも含めてである。言い方を変えると、「いまの日本の情景」は、新海さんの登場によって初めて、比類なき精度をもって映像化されたわけだ(むろん、美化された上でではありますが)。
 さらに大きくいうならば、世界の最高水準を更新し続けてきた日本のアニメは、ここにきてついに、「いまの日本の情景」を、比類なき精度をもって映像化しうる域に達した……ということだ。
 まあ、それは新海監督だけでなく、作画監督を務めたジブリの安藤雅司さんをはじめ、この映画にかかわった全スタッフの功績に帰すべきことなんだろうけど。
 とにもかくにも、「君の名は。」についてはいくらでも語れてしまうし、それを小分けにしていけば、十や二十の記事はほぼオートマティックに仕上がってしまいそうなのだが、とりあえず今回は、この作品のもつ「希望」について、私なりの思いを述べさせていただきたい。ひとつよろしくお願いします。


 「世に倦む日日」といういささか過激、というか万事に対して攻撃的なブログがあって、政治についての激越な言説がそこの売り物なのだけれども、そのいっぽう、宮崎駿の新作が公開されるとすぐにレビュー記事を掲載するなど、サブカル方面への(アニメってやっぱりサブカルですよね?)にもまめに目を配ってきた。何しろ、もともとは「書評ブログ」で、政治よりむしろ学術・文化寄りだったのである。
 とはいえ、この人の価値基準は、ブンガクであれば村上春樹、アニメであれば宮崎駿と、「中学生ですか?」と思わず問い返したくなるようなレベルで、ぼくなども、政治や社会にかんする記事はそれなりにマジメに拝読するけれど、こと話がブンガクだのサブカルに及ぶと、笑っていいんだか悲しめばいいか、いつもフクザツな気分にさせられる。
 この方が、去る9月29日の記事で「君の名は。」をとりあげた。「9月20日の報道ステーションの中で小川彩佳が絶賛した。」ことが、劇場に足を運ぶきっかけだったという。
 そのことはもちろん、かまわない。中年以上の男性にとって、ごくふつうの「入口」であろう。ただ「世に倦む日日」氏というひとは、そうやってご自身が映画館に出向いて作品を観て、あとはネットで関連記事をいくつかチェックして、それだけでもう、あたかもひとかどの「権威」のごとく、大上段から、作品を論評されるのである。そこのあたりがどうもなあ……というのが、ぼくの偽らざる感情なのである。
 9月29日のその記事も、「映画『君の名は。』の魅力――村上春樹を思わせる物語、今の若者の心を代弁」というタイトルで、あらあら、やっぱりハルキなの、と、最初からぼくはガックリきちゃったのであった。
 「君の名は。」において、はじめは互いのからだを共有(?)しながら後半部では「すれ違い」つづける三葉と瀧は、直近の先行作品としては何よりもまず村上春樹の『1Q84』の青豆と天吾を思わせる。これはもう、大半のひとが(それこそ中学生でも)真っ先に思い当たることだろう。それに、新海監督がハルキさんからの影響を隠さず、ことに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を愛読書にあげていることは、ファンならばみな知っている話である。
 さらに「世に倦む」氏は、宮崎駿の名前を出して、この作品を賞揚する。
「ここには、宮崎駿の作品で描かれているような、壮大なファンタジーと男女のラブストーリーの要素がある。その意味で、この映画はジブリ的で、日本のアニメらしい正統のスタイルの作りになっている。」
「彗星の落下というスペクタクルを構想して描き込み、それを基軸に据えて奇跡の物語の展開を作ったことは、われわれが求めているファンタジーのニーズに見事に応えたものだ。」
 なるほど。
 しかしそれを言うのなら、宮崎さんと新海さんとのあいだに、もうひとり、細田守という才能を忘れてはいけない。これは揚げ足取りではなくて、アニメ批評のイロハにかかわることである。ことに、「彗星の落下というスペクタクル」については、細田さんの「サマーウォーズ」が参照されているのが明らかではないか。
 「世に倦む」さんが細田守を知っていて、あえて紙幅のつごうでふれなかったのなら、それはまあ仕方ない。でも、読むかぎり、ぼくにはそうは思えない。「世に倦む」氏は細田守を知らない。そりゃ名前くらいは聞いてるかもだけど、この「君の名は。」論を書いた時には、アタマからすっぽり抜け落ちていた。そうとしか思えないのである。
 むろん、そんなだから「君の名は。」を語っちゃだめとは言わないし、ぼくにはそんな資格もない。だけど、そのていどの知見でもって、ここまで得意げに(いまどきのコトバでいえば「どや顔」で)語っちゃうってのは、万単位のフォロワーをもつブログ主さんとしては、どんなもんかなあ、とやっぱり思ってしまうのである。
 さらに「世に倦む日日」氏は、「幾つかのことを考えさせられた。」として、現実のほうへ話をもっていく。毎度おなじみ、作品を論じて社会批判へと繋ぐ、世に倦む流の論理展開である。ハルキ論でもハヤオ論でも、最後にはけっきょくそちらへ至る。なんていうんだろうなあ、やっぱりこれは、あの昭和の香りも懐かしい、「イデオロギー批評」ってやつの一種なんだろうか……。



「第一は、時代の世相と日本の思想である中今主義の問題だ。作品のメッセージとして、今日一日を大事に生きないといけない、明日は何が起きるか分からない、隕石が落ちるかもしれないし、大地震と大津波で破滅するかもしれない、だから、この一瞬を大事な人と大事に生きようというものがある。この考え方は、特に若い人の間で強く支持されているに違いない。われわれの世代は、かかる本居宣長的な中今主義からはもう少し自由だった。現在は未来のためにあり、人格と能力は無限に完成をめざすものであり、明日のために今日があり、反省と訓練の継続によって将来の成功と幸福に至るのだと、そういう人生観が強かった。個々が人生の時間軸を持っていた。今の若者は、そういう楽観的で平和的な時間軸の人生観を持ちにくい。個体的な物質的基礎(マルクス的な)を持ちにくいからであり、計画的なライフステージの自己像と社会像を前提しにくいのだ。今の刹那を生きるしかない。非正規の職場をクビにならないよう懸命に働くしかない。」

「若者の5割が非正規で、楽観的な将来が前提されていない。今を大事に生きよという中今主義の日本の思想は、経済的な将来のない者には、積極的な真理あるいは託宣として受容され、生きる支えとなり、日常の心構えとして機能する。自己合理化の思想となる。実際のところ、経済的な問題だけでなく、震災や豪雨の被害はいつ我が身に降りかかるかもしれず、そうなったときは人生の破滅に直面させられる。東日本大震災から5年して、熊本で千年に一度の地震が起きた。今の日本は、地雷原を歩くような破滅のリスクに満ちた社会であり、さらに自己責任の社会である。各自に経済的余裕がなく、周囲の弱者に手を差し伸べることができない。助けてもらえる家族や友人を持っていない。若者世代は中今主義の思想に浸らざるを得ない。こうした精神状況になると、時給1500円を実現するための運動や闘争という方向には意識が向かいにくくなる。こじんまりと今日を生き抜くことだけに努力し、他者に嫌われたり疎んじられることを恐れる。大きな観点から社会矛盾に覚醒して抵抗に立ち上がるという動機づけにならない。現世を合理的に改造するというウェーバー的な主体性が形成されない。自己肯定と体制肯定になり、宣長的な非政治主義に萎縮し、自己や社会を改造して再生する意志が発生しない。」

「考えさせられた第二は、「記憶がすぐに消える」という問題だ。そして、スマホやネットを通しての人間の記憶の継承と関係の保全という問題だ。嘗てプラトンは、紙にペンで書き記したものを「インクのしみ」と呼んで軽蔑した。大事なことは脳に格納しなくてはならず、その能力こそが人間の偉大さの証明であり、思考と論理はオーラルで表現されなくてはならなかった。哲学は読み書きするものではなかった。思考を出し入れする記憶装置は脳だった。それが紙媒体の外部記憶装置となり、電子媒体となり、現在の、電子媒体の奴隷と化した人間の生き方に変わっている。脳を記憶装置として使わない習慣が定着し、人は覚えることが苦手になった。本を読んでも、目にしたページを脳に焼き付けようとしない。後で読み直せばいいとか、ネット検索で探せば要点を探り当てられるだろうとか、そう安易に思ってしまい、精神を集中させず読み流してしまっている。(……中略……)『君の名は。』では、スマホに入っていた日記(記憶)が一瞬でサラサラと消える場面があり、切なく愛している相手を前にして、君の名が思い出せないと言い始める場面がある。物語の謎解きの重要場面だが、これにはハッとさせられた。リアルの関係性に緊張感がなく、(言わば無責任な)外部記憶だけが関係性の唯一の根拠となっている。/今が大事、大事な人と一瞬の今を大切にと言いつつ、われわれは、今の大事な時間や関係をかなりルーズに扱い、テレビなどメディアの消費に意識を回収され、後からスマホを見ればいいやとか、ネットで検索すればいいやと杜撰に流しているように思われる。こうした「記憶がすぐに消える」関係性の傾向は、中高年世代より若者世代において甚だしいのかもしれない。」

「第三に思ったことは、若い人たちが、愛する異性を切望していることである。運命の出会いを求めていることを痛感させられた。『君の名は。』は、今の日本の若者の心をありのまま代弁している。現在、独身男性の7割、独身女性の6割が、交際相手がおらず、性交渉の経験もない若者が増えているという現実がある。孤独な中にあり、家族や友人との関係が希薄な中で、奇跡の物語で繋がり結ばれる相手を求めている。今、どうしてこんなに若者に交際相手がいないのかというと、お金がないからだ。働く若者の5割が非正規で、働いていない若者も多くいる。非正規の平均年収は169万円。この収入では、とても自由な恋愛を生活の中に含み入れることはできない。交際以前に結婚ができない。結婚を前提にした交際ができない。結婚を前提にした交際ができないとなれば、その若者の交際は何を前提にした交際になるのか。結婚する自信や可能性がないから、交際というステップに積極的に入れないのだ。 / 日本社会は再生産ができなくなっている。大学の経済学で、「賃金が必要以下に食い込んで再生産ができない」という一般論を聞いたが、なるほどこういうことかと頷かされる。映画館の中は10代と20代の若者がほとんどだったが、皆、どことなく活力がなく存在感が薄い感じに見えた。」



 例によって雄勁(ゆうけい)な文章であり、分析としても腑に落ちるところが少なくないから読まされてしまうが、ただ、「君の名は。」論として読むならば、やっぱりどうも、的を外しているっていうか、最初から「的を狙ってない。」という気がする。
 世に倦む日日氏が「君の名は。」に心を動かされたのは事実なんだろうけど、いざそれを論評するときは、もう作品そのものから離れて、いつもの持論をはじめている。そんな感がある。つまりはそれがイデオロギー批評というやつで、おおむねこれは、昭和50年代ごろの文芸批評が「疎外」とか「アトム化された個人」といった用語をつかってやっていたのと同じようなものだ。
 それに、80年代半ば、バブル時代に青春を送ったわれわれだって、上の世代からは「刹那主義」などと呼ばれた。また、ぼくと同世代で未婚の男女もいっぱいいる。
 そりゃあもちろん、今のほうが状勢は遥かに厳しくなってるとは思うが、若者ってのはいつの時代も大なり小なり似たようなもんで、ここに長々と引用させて頂いた一群の言葉が、どうしても「君の名は。」という映画の存在なくして導き出せないものであるとは、まことに申し訳ないけれど、ぼくには思えないのであった。


 「君の名は。」は、何よりもまず、いまどき珍しいほど力強く、「希望」を語った物語だとおもう。世に倦む日日さんはその点については直接にはふれず、「いまの時代が絶望に満ちているから、このようなファンタジーが求められるのだ。」といった具合に、いわば裏返しのかたちで論じていた。この記事に対し、10月2日の日付で、「さとうこう」さんという方が、コメントを寄せておられた。
 さとうこうさんは、「『君の名は。』はすばらしい作品である。それは疑いがない。」と前置きをしたうえで、
 「50代である私にとって、この映画に感情移入できない点は以下の通り。」として、3つの点を挙げておられる。
「1、最後に二人がリアルに出会えてしまうこと。
 2、惨事がリアルに回避できてしまうこと。
 3、「かたわれどき」のあのクライマックスの場面で言葉による説明が多すぎること。」
 このうちの「3」については、ぼくはまったく同意できぬので割愛させて頂くけれど、1と2に関しては、早いうちに自分でもじっくり考えておかなきゃいけないなあとは思っていた。それで、この機会に書かせていただきます。
 「ふたりの男女が何の説明もなく、時空を超えて(入れ替わりという形で)繋がるという出来事は、『ねじまき鳥クロニクル』の「井戸の壁をすり抜ける」という暗喩によって描かれたパソコン通信時代のネットコミュニケーションに連なる表現だ。」
 というのがこの方の解釈であり、「私のようにネットのない時代を生きてきた者にとっては、ネットで出会うことと、現実に出会うこととは等価ではない。だから、どうしても映画の最後に醒めてしまう。」と書いておられるのだけれど、ぼく個人は、これにはかなり異なる感じをもっている。
 「生霊(いきりょう)が飛んで誰かに会いに行く。」というのは、源氏物語でもおなじみの、日本古来の感性である。ぼくの見たところ、「君の名は。」の「入れ替わり」はそれに近くて、むしろ三葉と瀧が「ネットを介して会話をしたりチャットをしたりはできない。」ことこそが、作品を貫く大切なポイントだったと思う。ふたりがスマフォを利用するのは、あくまでも日記アプリであって、それはノートでも代用できるものだった(むしろノートを使ったほうがよかったような……)。
 だから、ネット云々に関しては、ぼくはこの方とまったく違う意見であり、ふたりはそんな最新ハイテクとは関係なく、それこそ「前世からの縁(えにし)」で結ばれていたと解釈している。それゆえに、ふたりが最後に出会うことについて、まるで違和感は抱かなかった。というか、もしあれで最後に三葉と瀧とが出会わなかったら、映画館の帰りに居酒屋に寄って、ひとしきり荒れなきゃあならなかったところだ。
 それよりも問題は、2の「惨事が回避できたところに、リアリティを感じることができない。」という点だ。
 これは、「君の名は。」のもっとも重要なテーマに関わることである。
 「君の名は。」が「シン・ゴジラ」とおなじく、「ポスト3・11」の作品だということは、これもまた誰の目にも明らかであろう。「ポスト3・11の作品」とは、たとえ直截に震災のことを扱ってなくても、五年前のあの震災がなければ、けして生まれなかったであろう作品のことだ。小説であれば、むろん、いとうせいこうの『想像ラジオ』がその代表である。
 しかし、新海監督ご自身は、インタビューなどでも「君の名は。」と震災との関係をはっきりとは認めておられない。ある意味それは当然であって、理由はもちろん、現実は現実であり、ファンタジーはどこまでもファンタジーだからだ。
 すでに起ってしまったことは、悔やんでも、嘆いても、怒っても、けして元には戻らない。取り返しがつかない。それがわれわれの生きるこの世界、すなわち現実ってものだ。しかし、それを承知しているからといって、ぼくたちが、悔やんだり、嘆いたり、怒ったりするのをやめられるわけではない。そしてそこにこそファンタジーの、もっと言うなら「物語」の生まれる土壌がある。
 ファンタジーなり物語なりは、けっしてたんなる現実逃避の手段ではない。
 なぜならば、それがわれわれの「強い思い」から生まれるものであり、いうならば「強い思い」の結晶である以上、それは(過去は変えられないけれど)未来を変え、「現実」を変える力をもつ……少なくとも、「変える力をもつ可能性はある。」からだ。
 ぜひ注意を払っておきたいのは、「君の名は。」はあたかも瀧が三葉(と糸守の人々)を助けるために「過去を変えた」話のようにも見えるけれども、正しくは、三葉が瀧の力をかりて、「未来を変える」物語であるということだ。主人公はあくまで三葉なのである。
 「君の名は。」が、ぼくみたいなおじさんから見てもただの「綺麗事」に終わることなく、じゅうぶんに感情移入できるのは、まさにその点であり、だからぼく個人は、「惨事が回避できたところにも、リアリティを感じることができた。」のだった。
 これについては、ライターの葦見川和哉という方が、このような文章を書いておられる。
「美しい風景描写や、近づき、そして離れゆく心の距離感を巧みに描くことに定評のある新海誠監督ですが、本作では、3.11のあとに誰もが心から願わずにはいられなかった、「もしもあの日に戻ることが出来たなら」という、叶わぬ想いを実直なまでに真正面から描き、叶わないからこそその希望を「縁」「出会い・巡り合い」に託した監督の、クリエイターとしてではなく人間的な優しさが染み込んだ物語になっていたような気がします。そこに、多くの観客が魅了された理由があり、現実に起きてしまったあの大災害のあと、ただただ立ち尽くし、言いようのない不安を背負った私たちが、せめて瀧と三葉に叶わぬその想いを重ね合わせ、気付けば二人を必死になって応援していたのではないでしょうか。そしてその先に見せた新海誠監督の答えこそが、レクイエムになっているように思えました。」
 レクイエム(鎮魂)という言葉をつかっておられるので、これは、ぼくが述べてきた「未来に向かって」という話とは少しニュアンスが異なるけれども、それでもやっぱり、作品のなかに「希望」を感じ取ったという点で、作品の本質をとらえた言葉ではないかと思うわけである。


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