これが、団藤氏が「ブログは現状でマスメディアのレベルを凌駕しているという幻想に酔いしれている」と読んだブログなのかどうかはわかりませんが、
改めて感じるのは既存のジャーナリズムを凌駕しているという点です。この事故を通して、決して既存メディアからではなく、ブログからいろいろな視点を提供いただいたことを私は忘れません。
という一文に目が止まったので、そのあたりに触れてみようかなと。
東武鉄道伊勢崎線竹ノ塚駅付近で起こった踏切事故。
3月22日の朝日新聞の社説「東武踏切――危険を放置するな」は、事故を引き起こした保安員だけではなく、この踏切を放置してきた鉄道会社や行政の責任をも問うものとなっています。
その中で、
近くには大きな団地があり、人通りも多い。この線の周辺を見ても、高架になっていないのはここだけで、地元の人たちからは、高架の要望が出ていた。(太字は引用者による)
とあるのですが、この
太字部分、ブログでは地元の事情についてより突っ込んだ情報が流れているのですね。
冒頭の一文を書いた
大いなる夢:エゴイズム 竹の塚踏切事故を考える2にそのまとめがありますが、コメント欄も含め、さらに抜粋して箇条書きにすれば、以下のようになります。
- 線路を隔てた竹ノ塚駅東口と西口では、成り立ちの違いなどから、商業の集積度に大きな差があった。
- 東口と西口の駅前商店街には温度差があり、どちらも行き来が便利になることで相手側に客が流れることを恐れていた。特に西側は、大型店舗の多い東側に商圏を浸食される懸念を持っていた。
- また、道路をアンダーパスさせると、自分たちの店の前に道路がなくなってしまう踏切そばの利権者たちの反対もあった。
- ただし、通学などで東口と西口を行き来することも多く、安全確保のために立体交差化の要望が出されていた。
- 一方で、この踏切を通学路から外していたように、地元の人たちは、それぞれのやり方で「開かずの踏切」に対処していた。
- 例えば自動車やバイクなら、別の立体交差の場所へ迂回してもそんなに時間は変わらない。歩行者なら、新設された竹ノ塚駅のエスカレーターを利用して通り抜けて行くこともできる。この踏切の必要性が高いのは、自転車利用者と、歩き慣れた道を選ぶ高齢者である。
- 鉄道会社としては、利益が無く、行政からの資金の保証もなく、将来事故が起こるかもしれない、というだけではなかなか大型の工事には踏み切れない。
つまり、地元は一致して立体交差の要望を出していたわけではないし、そうである以上、少なくとも鉄道会社としては簡単に動けなかった、ということになります。「地元の人たちからは、高架の要望が出ていた」と簡単に片づけた朝日新聞が、ここまで突っ込んだ取材をしていたとは考えられません。
こういう状況で冒頭の一文が書かれたわけですが、これはブログがマスメディアを越えたというよりは、よく言われるマスメディアの取材不足といっていい事例でしょう。
この事例では、ネットは、マスメディアが取材できなかった一次情報を流す役割を果たしています。おそらく、ネットの優位性というのはそういったところにあるのでしょう。しかし、それはイコール、マスメディアに取って代わるということではないはずです。
ネットは新聞を殺すのかblog:記者はもっとネットを利用すべきは、記者はもっとネットを利用すべきと主張しています。この主張を私なりに引き取って考えてみると、記者は、取材を自らの足に頼ることの限界を認めた方がいい、ということになるのではないかと思います。
上に挙げた東武鉄道の事故でいえば、竹ノ塚のことをよく知らない記者が、地元の複雑な事情になかなか気付くことができないのは、ある意味では無理のないことです。取材を重ねればたどりつけるのかもしれませんが、そういう地道な作業がなかなか許されないというのが、現場記者の切実な悲鳴であったりするわけです。
そこで、記者とは別の視点(例えば地元の視点、被害者の視点など)から発せられるネットの情報を活用すれば、今までたどり着けなかった情報にも楽々到達できるようになるはずで、より深い取材を行い、説得力を持った記事を書くことにつながることが期待できると考えることができます。
つまり、マスメディアとネットが、互いにそういう合意をするわけではなくとも、必要に応じて一種の連携を行うような形になります。
こういうのは、取材の実状を知らない素人考えと一蹴されるのかもしれません。
ただ、
ブログ時評:京都議定書、本当の問題点を言おうの「マスメディアははっきり伝えないし、オルタナティブであるネット上の言論にも認識が乏しい」とか、
週刊!木村剛:果たしてブログは市民権を持ち得るのだろうか?にある「マスコミに対するそういう制御の力として、ブログというものが存在し得るのか、というのが、私自身の関心事でもあります」といった、マスメディアとネットを対置する考え方だけで、この二者の関係を捉えてしまっていいのだろうかと、そんな風に感じるのです。