相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

昭和・平成の隠れた“女工哀史”

2013年01月04日 | 書評
[書評]
昭和・平成の隠れた“女工哀史””
――橿日康之『織姫たちの学校―大阪府立隔週定時制高校の40年』(不知火書房)
 
 隔週定時制高校という学制が、つい最近まであったことをご存知だろうか。本書は、この「隔定」(以下、隔週定時制高校をこう呼ばせてもらう)で四十年間教師を勤めた著者の決して短くはない教師人生を振り返ったものだが、普通見かけるような回顧録と全く趣きが違うのは、この本がそうした自己史に向け批評的な視線を終始貫かせることで、戦後高度経済成長期のこの国の陰の部分を、底辺からリアルに捉えた異色の時代批判ともなっている点だ。
 ここに登場する「隔定」は、大阪府泉州地域の繊維企業の工場で働く女子工員を対象にして1966年(昭和41年)に開設され2006年(平成18年)まで存続した。学校数は全部あわせて貝塚、和泉、泉南、横山の四校。つまりは女子を対象にした非全日制の高等学校である。通常の定時制高校とも違って、「隔定」は「先番(早番)」と「後番(遅番)」が一週間ごとに入れ替わる、この業界特有の二交替制の勤務シフトに合わせてカリキュラムが組まれていたのが特徴だった。「先番」が月の一週目と三週目に当たれば、その週は登校して午後三時過ぎから七時半まで授業を受け、また「後番」となる二週目と四週目は週に三日間、朝九時から十一時半までを他の高校の通信制のスクーリングとして授業を受ける。その後に、生徒達はまた仕事に就くという変則の時間割が採用されていた。「隔定」という呼び名の由来は、この定時制と通信制が隔週でまわる“定通併修”のスタイルから来ている。
本書の構成は、なかで大きくふたつに分かれる。Ⅰ部は「隔週定時制高校の四十年」という通史で、この部分は著者が勤務した貝塚隔週定時制高校の記念誌『かがやき―貝塚隔定40年のあしあと』に寄稿されたものの、その後、資金提供企業からの意向で割愛された文章がもとになっている。またⅡ部は「教師失格の記」という著者の四十年間にわたる教師生活におけるさまざまなドキュメントによって構成されていて、そのどれもが実に泣かせる内容なのだ。告白すると私はこれらを、世間でこれまでほとんど知られてこなかった「隔定」を舞台にした、戦後日本の得難いひとつの陰の物語―いわば“昭和・平成の女工哀史”として読んだ。
「泉州の織物業で働きながら高校卒業資格を!」といううたい(・・・)文句(・・)で、厳しい労働環境下、安い労働力を求めていた当時の繊維業界は、地方の中学卒業の子女をおあつらえの“金の卵”として大挙募集した。それに応じた彼女らの大半が、戦後日本の経済的豊かさに取り残された遠隔の地方からの出身者で、多くの場合、彼女らは自家の貧しい家計を助けるために、企業側から支払われる違法な「支度金」を代償に、遠い大都市の工場に働きに出たのである。こうした生徒達は十五歳で親元を離れてからは、来る日もくる日も分刻みの時間に追われるような生活環境のなかで、それぞれのアドレセンス期を送ることになる。だが、著者が伝える彼女らの面影は決して暗いばかりのそれではない。「彼女らは貧しさゆえに働きに出たが、なんとか高校に進学し、さらに短大や看護学校に行きたいと意欲満々であった。隔定はこうした意欲的な生徒たちの熱気と活気に溢れ、各地の方言が飛び交うにぎやかな坩堝となっていた。」(30頁)―こう著者が述べているように、文面から伝わってくる「隔定」の日常の様子は、十代後半の娘たちが織りなす学校というコミュニティが普遍的に持つ微笑ましい側面をも伝えている。だが、十五歳の青春盛りに田舎から初めての大都会に出てきて、世間もまだろくに知らないなかで働きながらの寮生活。しかも親に仕送りしたり、自分でも貯金して経済的にまがりなりにも自立しているとすれば、そこに付け入られた故のさまざまな私生活上の問題が起こらない方がおかしい。特に異性間で発生するあれこれなどは、最も多く教師の側にも心配の種を播いたであろうことは想像に難くない。
 ところで「隔定」が設立され、完全にその役目を終えるまでの1966年から2006年までの40年とは、わが国にとって果たしていかなる時代だったか?大局的には高度経済成長からオイルショック、ドルショックを経て、バブル経済の膨張と崩壊、さらに90年代の「失われた10年」、そして2000年代に入ってからは「構造改革」の名のもとでの構造的な不況が慢性化する紆余曲折のプロセスだった。これは、わが国が貧しかった「戦後」を脱して以降、ふたたび成長の見えない「戦後」後に足を踏み入れるまでの期間にほぼ該当すると言っていいだろう。この間、一時は隆盛だった泉州地方の繊維産業も安い外国産品に押されて斜陽になり、「隔定」に生徒を送りこんでいた企業側にも倒産したり工場を移転させる会社が多発、また2001年には中卒女子の採用を政府補助金が出る中国からの研修生に切り替えるところが出るに及んで、「隔定」を取り巻く環境は大きく暗転していくのだが、私にはこの間、「隔定」という小社会の辿った道筋が、その後わが国が追随することになる道程の縮図のように思えてならなかった。
 社会の矛盾は、その底辺にある一番弱い部分にもっとも集約的に現れる。恐らく著者が本書を著すにあたって最後まで手放さなかった批評的な観点の背後には、こうした矛盾にさらされた弱者の姿を、「隔定」で自分が担任として受け持った女生徒たちの上にもくっきり投影させていたという姿勢があったのは間違いない。その証拠に、著者が彼女たちに注いできた視線は突き放すようなそれではなく、おしなべて言えばむしろ慈愛に溢れているからだ。「織子」や「女工」と呼称された繊維業界の女子労働者を、教育者としての著者は一貫して「織姫」と呼ぶ。本書のタイトル『織姫たちの学校』という素敵な語感も、著者の彼女らを慈しむこうした感性が結晶化したものだと言えよう。
 著者は自らを恐らくは幾分かの自嘲もこめて「教師失格」と規定しているが、果たしてどんなものだろうか?私は教育界の常識というものをまったく知らないが、本書のどの部分をどの方向から読んでも、そこに失格教師の横顔を見出すような要素は見出せなかった。むしろそこには、自己保身や出世意識をまったく度外視し、自分の生徒達それも順調に卒業していった生徒より多くの教師が顧みなかった様々な事情で屈折した生徒に対して、通常の接し方いじょうの踏み込んだ対応を、教師としてよりも一個の人間として示し続けた著者の生き様こそが鮮明である。例えば、とても印象的なエピソードがある。生き別れた父親と大阪で再開し、仕事も学校も辞めていった生徒がいた。本人の転校の手続きをするために、後日連絡をとったところ、教えられた連絡先の電話番号は父親の勤め先の“一流商社”ではなく、ドヤ街にあるアパートだった。著者はそこに乗り込んでいって、自分の生徒のほかに三人の少女を救出するという離れ業までやってしまう。その娘の父親は、彼女らを風俗まがいの仕事に就かせていたというのだから、驚きだ。つまり著者は、とても普通の職業意識ではそこまでやらない(できない)所作を、自らのやむにやまれぬ思いからこうしてつい実践してしまうのだ。職業上の分限を超えて、みずからの責任範囲外の行動を取ってしまうことは、確かに職業人失格なのかもしれない。しかし、人間としての責任感から、著者がこのような行動に出たであろうことは行間からも容易に読み取れる。誰から褒められることもなく、自分にも何の得にもならないのに、それでも絶対にやらなければならないと決心する瞬間が、このように人間にはあるのだ。本書が体現する独特なドラマ性のそれが本質なのだと、全体を読み終えてからしみじみと思った。
「隔定」という現代日本の隠された物語に初めて日の光を注ぎあてた本書の意義は、決して小さくない。
 (添田 馨・そえだかおる/詩人・批評家)

『季報 唯物論研究』121号より転載→http://kiho-yuiken.jimdo.com/

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