古代エジプトの秘法、「運命の書」。( 副題 星と数の調和。名前。 )
フランス革命のとき、あるひとりの若い兵士が、自分の運勢を占ってもらおうとして、あるひとりの老人の星占い師の扉を叩きました。
老人の占い師は、その若い兵士の出生図をつくり、その一生を語り始めました。
「あなたは、島で生まれた。
そして、星占いによれば、やはり、島で死ぬ。
生まれた島より、ずっと寂しい島でな。
あなたは、この生と死の二点の間に、このうえない権力の頂点に立つであろう。
そして、何事も、意のままになるであろう。」
その若い兵士は、
「どのようにしたらそうなれるのでしょうか。」と、
その老人の占い師に尋ねました。
その老人の占い師は、いいました。
「あなたのイタリアでの名は、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテであるが、
フランス式の、ナポレオン・ボナパルトという名に変えれば、
星占いによるあなたの出世時と一生を通じての神秘数の13が調和して、
願いのようにかなえられるであろう。」と、
星と名前の数の調和が運命の願いを導くという不思議なことを告げるのでした。
その若い兵士は、ナポレオンという名で、フランス革命後の混乱に、彗星のごとく現れました。
その人生の中で、「余の辞書に不可能の文字はない」という広く知られた名言を残しています。
ナポレオンは、イタリア、コルシカ島の出身でした。
その後、老人の占い師は、古代エジプトの王家の墓に眠る「運命の書」を手に入れるように伝えました。
そして、ナポレオンは、エジプト遠征に行くことになります。
1798年、エジプト遠征に同行した学術調査団は、古代遺跡から一巻のパピルスの書を発見しました。
ファラオの占いを伝える不思議な「運命の書」です。
ナポレオンは、『運命の書』と呼ばれるこの書をイギリス帝国の大艦隊の包囲網の中、軍隊と調査団はそのまま置いて小船に乗りフランス本国に秘かに持ち帰りました。
その後の人生は、政治家として活躍しています。
ナポレオンは、人生を左右する決断を下す際にこの運命の書を必ず用いたと伝えられています。
不思議なほど高い的中率を誇るこの書を使い、1804年には、ついには、35才の若さで、皇帝の座にまで辿り着きました。
しかし、やがて、その老いた占い師が死に、その後、1813年にライプチヒの戦争が起こりました。
残念なことに、不思議なほど高い的中率のこの書を、ナポレオンは、1813年のライプチヒの戦いで紛失してしまいました。
この戦いでナポレオン軍は、対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰ることとなります。
その混乱の最中に、こともあろうに、「運命の書」を置き忘れてしまい、その書は敵のプロシャ軍の手に渡ってしまいました。
その書を失ってからというもの、何故か急速に凋落し、ついには1821年に、セントヘレナ島に於いて失意のうちに一生を閉じてしまいます。
その後、急速に凋落していった彼の生涯を見ても、この一巻の 占いの書が、ナポレオンの栄光に大きな影響を与えていたことがわかります。
占いは、このように、ナポレオンの人生において、とても大きな影響を与えました。
占いについては、ナポレオンに影響を与えたもうひとりの女占い師がいます。
その占い師は、ルノルマンといいます。
ルノルマンは、1772年にフランスに生まれました。
幼少の頃、修道院で養育されました。
彼女には、霊感があったそうです。
その後、革命の影響もあって、修道院を出て、パリに移りました。
ジョゼフィーヌは、評判の高かった彼女を、お抱えの占い師としました。
タロットの達人であったとされます。
ジョセフィーヌの夫であるナポレオンも、また、ルノルマンの占いに頼りました。
ジョセフィーヌとの仲が悪くなったとき、ルノルマンは、ナポレオンに、占いを告げました。
「ジョゼフィーヌと離婚すれば、あなたは、大きく運を失うでしょう。」
ナポレオンは、その後、ジョゼフィーヌと離婚しましたが、やがて、大きな敗北を喫しています。
ちなみに、その後、ルノルマンの名に寄せて、タロットの小アルカナを独立させたルノルマン・カードは、作られました。
これは、二人の占い師と、一つの不思議な書、そして一人の英雄の不思議な占いの物語です。