今井先生のブログ-せかんど らいふ in Elizabethtown-

日本で校長を退職された今井先生の日々のブログです

ESLで学ぶ

2008年02月21日 | アメリカ生活について
 幾つになっても初めての経験はあるもので、10月から通い始めた英語学校もその一つである。この英語学校、Hardin County (ハーディン郡)のAdult Leaning Center であるため、当然ながら生徒諸氏は成年であり、私などは生徒の中で最年長であるかも知れない。
 この英語学校(ESL)は私の勤務時間に入っているために、仕事以外では欠席する訳にも行かず、おかげで、何とか不自由なく日常生活が送れるようになった・・、 などと言えるのは20年も先だろう。世の中には「出直し英語」のような教材も出回っているが、今となっては出直しどころか昔の記憶さえなくなってしまった。ああ、受験を目指し、Ob社発行の「赤単」が黒くなるまで(そこまでしたかな?)勉強したのはもう半世紀近く前の事だ。しかしそれが一体、今の私にどれほど役にたったと言えるのだろう?
 だが、ESLで学んでいるのは英語だけではない。現在、我が教室には日本、韓国、メキシコ、ブラジル、ポーランド、時折はウズベキスタン、タイ、ウクライナなどの生徒が来ているが、このように多国籍の人間が一緒に居れば当然ながらそれぞれの国の文化を学ぶ場が現れる。日本の英会話学校ではこれは難しいかもしれないが、隣の韓国人女性に「消しゴム貸して!」と言ったり、ポーランド人に「この過去分詞は何だっけ?」と小声で聞いたり、ひどい時は先生の流暢な英語が聞き取れず、ポルトガルなまりのたどたどしい英語で通訳してもらったりするのも楽しい。もう既に長く米国生活を続けている人も居て英会話力には雲泥の差があるが、神妙な顔で英作に取り組んでいても、このアメリカのそれを中心としてそれぞれの国の料理や文化・習慣の違いの話になると俄然会話が弾みだす。乏しいヒアリング能力ながらそれらの話は興味深く、各国のいろいろな違いを話しているにも関わらず、私にはどこの国の人間も同じような事を考え、同じような喜怒哀楽と共に生きている事が実感できて嬉しくなる。昨年のクリスマスにはポットラック(一皿持ち寄り)国際パーティを全員で行ったが、各国の代表料理を味わえただけでなく、一味同心、会食しただけで随分と打ち解けあった。そこにはもう国、と言うものは感じられず人だけが居て、少し話が飛躍するが、皆がこうであれば戦争などありえない、とも思うのである。
 そして、大きく感じるもう一つは、このアメリカの懐の深さであろうか。
日本に乱立する英会話学校は全て月謝を必要とし、多くの日本人が英会話に結構なお金を注ぎ込んでいるとも聞いた。が、このESLのあるAdult Leaning Centerの経営はアメリカの国家予算で賄われているのである。我々後から来た者は、ともすればそこにある既存のものを当然のように受け取るだけで、その裏にある苦労を考えず、またその恩恵が何処から来たものかを考えない傾向がありはしないだろうか。このESLでさえ、行って下さい、と言われた時には、正直うひゃーと思ったり、いや、何時か行きたいと思ってた英会話スクールに行く事になった、と張り切ったりもした。が、現実に通うようになると、これだけの事を受益者負担ではなく実施してくれる施設がある事に感動を覚えた。日本でも、少しは外国人のための無料の日本語学校が存在するようだが詳しくは知らない。もしここで私にそれなりの英語力が付いたとしたら、それは私にとって大きな財産をもらったことになる。同僚の若いS先生は、かなりの英会話力を持っているが、それが活き続けるなら一生を左右する宝となりうるだろう。
 ESLには大勢の外国人が来ている。ここで学ぶ人たちは多分みんな、正規の手続きでこの米国に住まわせてもらっているだろうが、現在の米国の抱える大きな問題の一つが不法移民であるという。どんどん入国してくるこれらの移民に対して使わざるを得ない米国の経費は計り知れず、また同時にそういった不法就労の人たちが米国の労働を支える部分もまた大きいという。痛しかゆしの両面に悩むのがアメリカであり、しかしまた、外国人に対して決してむげに排斥せず、援助の手を差し伸べているのもこの国である。好まざるままに住む人もいるだろうが、ここで不自由なく差別もされず生きている外国人である私には、やはり多くの事を学ばせてくれるESLである。
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ぎぶ・みー・ちょこれーと ! 世代

2008年02月01日 | 私について
             
 私の世代より前の方々には「ギブ・ミー、チョコレート!」と言えば、戦後の少年時代のもの悲しさもある中に、何処かしたたかに生きてきた自信も垣間見え、当時の思い出を語れば急に饒舌となることがある。時として私よりもう少し若い世代の方がそれを知っていることもあるけれど、大体は昭和20年生まれ、つまり私がその境にいるようである。
 「ギブ・ミー・チョコレート」を直訳的に説明するなら、時は昭和20年代、敗戦後のわが国に来た米国の占領軍兵士を追っかけ、口々にそう叫びながらチョコやガムをもらった少年時代のやや屈折した思い出のことである。
 当時は、日本に来たアメリカ軍を米軍とか占領軍と呼ぶ事は公式の文書以外には稀であり、通常は「進駐軍」と呼んだ。白人女性がいると、「進駐軍のお姉さんが、」であった。敗戦と終戦と同様に、占領と進駐と、当時の日本人は微妙なニュアンスを使い分けていたのだ。私自身は終戦、引き揚げ、食糧難、を記憶するには幼すぎたが、朝鮮戦争の頃には世の中はだいぶ落ち着いてきた。とは言いながらも、日本人の体格、服装、家庭、社会状況など全てが極めて貧弱であり、それに比べると進駐軍の兵士はみな背が高く、すべすべした肌に皺ひとつない制服、斜めに被った略帽も粋であり、色鮮やかな部隊マークに銀の徽章など、生活に疲弊していた日本人とは全く違う人種であった。
 その頃私は戦災に遭わなかった大都市の少年だったが、進駐軍のジープが来ると追っかけた記憶がある。確かに、時折ぱらぱらっとチョコかガムが飛んできたこともある。小学校に入ると、中年の男性教員は軍隊あがりが多かったし、お父さんが戦死、という同級生も結構いた。
 我が姉は、当時はある美術商の社員として英語を話す職にいた。豊かな米国人や通常のサラリーマン家庭以上のお金持ちの友人や上司もいて、御家庭にはTVがあったとかクッキーをご馳走になったとか話してくれたものである。母が内職をし、父は不在で工場の隅のような2部屋に5人が寝起きする私には正に別世界の話であった。
 そんなある日、私は姉に連れられ米国人のボーイフレンドに会った事がある。そこでぽんとプレゼントされた箱に入っていたのは10枚ほど入ったHershey’s  Almondsであった。ああ、その味、これがアメリカの味なんだ! そして、そんな貴重品が10枚(12枚か?)も入っているなんて!もう世の中に「ギブミーチョコレート少年」はいない時代だったが、学校帰りの一文菓子屋にあるまるでサッカリンで甘さを付けた粘土板の味のようなチョコしか知らなかった私には、それは天国の味であり、アーモンドを食べたのも初めてであった。残念ながら、当時は颯爽としていた姉も今はすっかり老婆となり、私がチョコレートをプレゼントされた記憶ももうない。

 それから半世紀が過ぎ今アメリカ生活をするようになり、日本でもHersheyは全く珍しくなくなった。Wマートにも近所のSロットにも溢れるほどあるHershey’s Almonds、私にはチョコレートとはHersheyが刷り込まれたのである。今の私には買おうと思えば10枚入りの箱を1ケースくらい買い求めるのは何でもない。でも、ちびちびと数枚を求めてもまだ1箱を買ったことはない。文字通り甘さの中に当時の苦さも感じるのである。やっぱり、これもトラウマ、の一種かなあ。

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07年暮れ、 Kentucky   麻布六本木  京都河原町蛸薬師

2008年01月09日 | 私について
 雪が舞うまだ真っ暗なハイウェイを、M先生の車でルイビルへ走っていたのは昨日だった。北向きが雪でほとんど欠航する中、幸運にも南のテキサスへ向かう便は問題なく、もう今日は冬晴れの麻布の空の下である。六本木交差点アマンドの角を右へ芋洗坂を過ぎ、港区役所へ歩く。この間ここへ来たのは米国就労ビザを取るためだった。今日は夏に逝った兄の謄本を取るためである。どの家庭でもそうだが、本籍地の役所に足を運ぶのは一家に大きな変化があった時であろう。ふっと俳優やタレントにすれ違うこともある六本木も、明るい昼間にはそれもない。西麻布の菩提寺の父母へ兄がそちらに行ったことを報告すべきかと思ったが、もうとっくに彼岸の向うで会っていることと思い墓参はまたにする。兄は私たちの知らない曽祖父にも会って幕末・維新の思い出を聞いていることだろう。
 その3日後、京都臨済宗S寺。骨壷から布袋に移した兄の遺骨は私の手の中で崩れ、ほんのふた握りほどになった。ポトンと石塔の中に落とすと、これで兄は4年前に先に逝った嫂とまた一緒になった。住職の読経はまったく理解出来ないが、最後の「本来無一物、喝!」だけは判った。一時帰国の目的のひとつである納骨がようやく終わった。しかし、本来無一物であった筈の兄の家に残された多量のガラクタ整理を思うと気が遠くなりそうである。高齢者施設に移った後、2年前から無人となった兄の家はごみ屋敷であり、暖房もなく昨夜も京の底冷えの中でよく眠れなかった。法務局へ向かう途次、暖かいバスに寝過ごしたら三条河原町を過ぎてしまっていた。三停留所分バックだ。
 ふっと見ると河原町通りにある例の石碑が目に入る。「坂本竜馬・中岡慎太郎遭難碑」である。少年時代、親父に「今井の遠い親戚がこの事件に関わった。」と聞いた。当時は何の興味もなく忘れてしまったが、その後、曽祖父の戸籍謄本が静岡から出て来た事から、或いは?と思うことが始まった。謄本は漢字の墨字で解読できていないのだが・・・。
 慶応3年の11月にあったこの暗殺事件については未だに真相は解っていない。新撰組が派手に暴れたのに対し、幕府の後ろ盾で出来た「京都見廻組」は陰性な活動を行い、河原町蛸薬師の近江屋新助宅に坂本と中岡を襲撃したのは見廻組だったようだ。143年前のことだが、この見廻組、佐々木只三郎の配下に居た「今井信郎」が遠戚に当たるらしい。
 彼は幕末と明治を生き長らえ、晩年を静岡県牧の原で過した様である。明治になってからの彼の自白は信憑性が問われているが、竜馬の前額部を横殴りに斬り付け致命傷を与えたのは信郎とも桂隼之助とも言われている。幕府の下級武士だった曽祖父が徳川の転封に伴い静岡に移り、明治になって父の父が東京市麻布笄町に本籍と住所を帰したことは解っている。江戸や静岡で、今井信郎と曽祖父今井平三郎に何らかの接点があったのかどうか、確かに、今残る信郎氏の面長の写真は亡き親父に似ていなくもない。このケンタッキーでの仕事を終え帰国したら、信郎と我が今井家との縁戚関係の有無を麻布や静岡にまた足を運んで調べてみよう。関係があったとなると、京都では兄の墓参とともに東山に眠る坂本竜馬、中岡慎太郎両氏への墓参りも必要になりそうだ。
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アメリカ自動車運転免許への挑戦

2007年12月07日 | アメリカ生活について
 40数年、バイクが唯二の友であった。高校生の頃から山登りが好きな私は、エンジンの付いた乗り物には乗らないと豪語していたが、1度経験すると風を切る事にハマってしまい、あっさり宗旨替えをしたのである。30代後半には当時では究極の大型バイク、BMW1000ccで北は宗谷岬から南は大隈半島の突端まで走っていた。それなりに事故もやった。私の頑丈なバイクはエンジンガードがひん曲がったくらいだったが、相手の自動車のバンパーが大破した。岐阜と富山の県境近くの山道でのことである。もう、そろそろ年貢の納め時かなあ、感覚だけが残っていて反射神経や運動能力は鈍ってるよなあ、脳みそも縮んだろうし、四輪車の運転免許なんて要らないよ。高速道路を逆走しない内にクルマとは訣別しよう・・・3年前の決断であった。

 が、ここ公共交通機関のないE-townではそうは行かない。ここに住む人には下駄と同じくらい当たり前の四輪車運転に挑戦である。60を幾つか超えた私には、丸いハンドルの免許など、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟が必要であった。しかも外国の地で・・・。
 我が家の「敵」は既に2ヶ月前、あっさりと国際免許からアメリカの免許に切り替えていた。まさか、と思うくらい簡単に路上試験に合格し、ついで私も学科試験に挑戦。かすれた文字の、そして奇妙な日本語の試験問題にも、英語の標識テストもすんなり合格した時には嬉しかった。一緒に受けた米人でさえ落っこった人もいたのにである。
 以来、私はテキが助手席でがーぴー注文をつけるのに黙って耐え、路上を恐る恐る練習したのである。御存知の通りKentuckyでは正規の免許証保持者が同乗していれば路上を走れる。それでも、はじめは左ハンドルの右側通行で、しかも世界に冠たる日本車でなく自動車王国のFORDで、この美しい町を走る事だけでも感動ものであった。助手席側からの騒音もだんだん風の音に近くなり、ここに居るからこその経験と、その機会を下さった大勢の方々に感謝した。

 路上試験はあっさり落ちてしまった。緊張しなかったと言えば嘘であるが、住宅地も25哩を守れたし、ハンドルを握る手に汗もかかなかった。アメリカ独特のFour way交差点も順番を間違えずに通過できた。が、とんでもない失敗をしていたのである。
 住宅地の中で試験官が「戻ってください。」と言った。英語を聞き取れただけで安心したのであろうか、適当な十字路で車を止め、ハンドルを切り直してバックし始めた時、ふっと不安はよぎった。しかし、あまり深く考えずにそのままバックで進入したのは左側の反対車線であった。ん?まずかったかな?という思いはどうも後まで影響したかもしれない。これは致命的な間違いではなかっただろうか。後で聞くと停止線も踏んだらしいし、右折で左に膨らんだようでもある。
 不合格は仕方ないことだが、陰になり日向になって支援していただいた補習校のM先生、S先生に会わせる顔がなく、その日は扇で顔を隠して職員室へ入ったのである。

 やれやれ、自由にハンドルを握っている方々やアメリカの人々には、「日本人が下駄を履くのと同じだぜ!」と言われそうだが、初めて下駄を履いて転ぶ奴だっているさ。第一、ベテランの方々はもうこういった初心者の気持ちは遠いものになったのでは? 本来ならこう言う失敗談は成功後に披露するものだが、そのパターンは時として自慢になり不遜を招くようなので、あえて不合格中の記とした。で、最後にやはり負け惜しみを言うのが私の嫌なところ。「自動車免許は幸運で合格しちゃあだめだ。運はこんなところで使うものじゃない。日本じゃ何十万円も掛けるぜ!」
かくして今日も私は助手席に敵を乗せ、がーぴー言うのを聞きながら単独運転を夢に見、31W路を走っているのです。
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第20回 オープンハウスに思う

2007年11月17日 | 補習校について
5年ぶりのオープンハウスも、今までと同様、大きな成功の内に終わりました。私も当日の賑わいを、運営委員の皆様、保護者の方々、先生方と本校にゆかりある皆様の総力の賜物と、感動をもって拝見し楽しく参加いたしました。
さて、言うまでもなく当日は日本文化を”祭り“に焦点化し、当地でお世話になっている方々への我が国の一部分の発信でした。お祭りの中での行事や夜店の遊び、書道、折り紙、着物の着付け、茶道、武道、バザーのクラフト等々、我々の個々が経験したかどうかはともかく、地域社会や学校教育、民間の習い事などで馴染みの文化ですが、当地で始めての方には正しく異文化であったと思います。皆様全員がご存じない部分のお話として、「このような兜は何処で購入できるのか?」とか、「自分は裏千家で学んだものだが教えて欲しい。」とか、お母さんの作られたトールペイントを見て「これを買いたいのだが。」果ては居合刀を、「売ってもらえるか。」とか・・・。(うーん、売ってしまうと後はWマートにあるプラスチックのNinjya刀で居合練習しないといけなくなるしなあ。)とにかくKYの方々に多くの興味を持って戴いたことは確かです。

 では、補習校の子供たちにとってはどうだったのでしょう。土曜日だけに制限された中での作業ですので、先生たちも無理を言いました。しかし、子供たちが行った準備や見たこと経験したことは、協力して物事を達成すると言う大きな目的活動であると共に、異国の人達の日本理解に具体的な協力活動をしながら我が国の文化を学び直したと言えましょう。多分 日本に帰ると似たような経験もすると思いますが、その地にない異質の文化を意図的に見せる機会はそうあるとは思えません。「日本の伝統・日本文化」を強く意識する場も少なくなります。

普段、子供達は現地校でも日常の生活でも異国の学問と文化を吸収しています。また土曜日には日本語による日本型の学習です。厳しい言い方をすれば、「ここならではの勉強」と「ここでもしなければならぬ勉強」の双方を身に付つけていくための苦労は御承知のとおりで、日本に居る時の2倍のエネルギーを使っているとも言えるでしょう。その中で、補習校の子供達は双方の世界の違いに戸惑い、時として敬遠し、また共感し、驚きや喜びを通して異質の中に共通性を見出し、ああ、人間は皆同じ・・・、と思うに違いありません。そして、それらの中から日本人としての意識を持ち、世界の中の日本を見ていく力が育つのだと思います。日本に帰国する、しないの違いはあっても、これから世界で生きていく補習校の子供たちには否応なく必要とされる資質かもしれません。文部科学省の言う「国際性の涵養」の先端を体現しているのが補習校の子供達ではないでしょうか。5年に1度のオープンハウスに当たった子供たちには(むろん我々大人にも)大変でしたが、やはり幸運であったと思います。
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