今井先生のブログ-せかんど らいふ in Elizabethtown-

日本で校長を退職された今井先生の日々のブログです

9.26 運動会

2009年09月29日 | 補習校について
 久し振りに白組が勝った。多分、翌日には忘れるような勝敗であるが、結果発表の瞬間は歓喜に包まれたり意気消沈したりするのは何処の学校でも同じである。
 本校では伝統的に赤が強いようだ。だから紅白分けでは、断然赤組の希望が多くなる。統計を取った訳ではないが、日本では白の方がよく勝つと聞く。よく知られているように、白は関東の地から立ち上がった源氏の旗印であり、赤は栄耀栄華の果てに西海の藻屑と消えた平氏の旗を指す。優雅ではあるが何処か軟弱な平家より、荒々しい坂東武者の源氏の白旗を選び、勝ち組になりたい気持ちは昔も今も同じである。等質に紅白分けをした筈なのだが、結果はやや片寄る。
 白(赤)は何時も勝つ、自分も白(赤)だ、だから自分も強い、今年も白(赤)が勝つ ・・・・。そういった自己暗示が一人ひとりの子供たちにあるのではないか。その暗示によって十分な力を発揮し、結果を良くしていくことが出来る、と。教育学ではこれをピグマリオン効果と呼んでいる。

対抗戦の紅白の起源は源平の戦いから来たが、運動会は明治に英国人教師が海軍兵学校で対抗競技を始めたのが最初とされる。次いで東京大学(第一高等学校?)が行い、全国に広まって行った。
 江戸期までに、武道に関わって流鏑馬、笠懸、通し矢、相撲、力比べなどは存在した。しかし、これらは競技会と言うより奉納神事であった。有名な長短槍試合や寛永の午前試合など、武技の競技は存在したが、あくまでも特別の階級に限られ、一般庶民は運動の機会はなかっただろう。
 今でこそ、オリンピックやワールドカップでトップにもなる日本人であるが、明治期には、特別な日本人を除いて平均的な体格・体力については外国人に敵わないのが普通であったろう。体力・運動能力の向上は教育でもあり国策でもあった。これらの競技会に保護者や地域から多くの観客が集まり、競技を観るだけでなく、地域の祭りの中で催されてきた集団演舞なども、楽しいパフォーマンスとして加わってきたのだろう。
 そのような目で補習校の今年の演目の「演技」と「競技」を分析すると、演技では「ラジオ体操第一」も含め、「応援合戦」と「チア・リーディング」になる。本校では指導時間に大きな制約があり、これくらいしか出来ないが、毎年、少ない時間の中で先生方が子供たちを懸命に指導した演技である。成果は御覧の通りである。
 また、「綱引き」などは村祭りの中で、A地域が勝てば豊作、B地域が勝てば大漁というような吉凶占いの神事から来たとも思える。4回も闘うと疲労困憊となり、これも子供たちには力を出し切るめったにない機会である。 そして「二人三脚」「千鳥足リレー」「パン食い競争」「スーパーマン参上」「借り物競争」は障害物競技であり、娯楽を含めた親子のふれあいの要素も持つ。
 大いに盛り上がる騎馬戦や棒倒しは少人数の補習校では出来ない。敵の首を取る代わりに鉢巻を取り、落馬させ、或いは大将を討ち取り、城を崩し、という攻防戦の要素からこれらは模擬戦以外の何ものでもない。「しっぽ取りゲーム」がそうであろう。すると、補習校での純然たる陸上競技の演目は「紅白リレー」だけになる。しかし、選手だけでなく、子供の全員参加+保護者はここならでは、である。

 学習指導要領の特別活動編「体育的行事」のねらい通りではないが、日本の離島や山間僻地部での運動会は皆、児童生徒だけのものではなく地域のお祭り要素が重要である。補習校関係者だけでなく、地域の日本人社会全体のお祭り、と捉えれば、運動会を通して更なる懇親のよい機会となる行事である。山は無いけどここは山間僻地、大陸だけどここは離島に同じ ・・・・・。 
 最後に、この運動会の企画・準備・運営に長きに渡ってご尽力いただいた父母会のお母さん方、天候の心配なく実施できる体育館を開放してくださったミツババーズタウンのKさんはじめ、御協力戴いた方々に深く感謝したい。
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劔岳・長次郎の谷

2009年08月19日 | 私について
 帰国の度にその時評判の映画を観ることにしているが、今夏は「劔岳・点の記」を観た。
 明治40年、地図上の空白となっていた富山県の劔岳に、当時の陸軍参謀本部陸地測量部の測量官柴崎芳太郎が、三角点を立てるために苦闘する話である。
 新田次郎の原作はもうずっと前に読んでいた。測量隊が、当時出来たばかりの日本山岳会と初登頂を争う陸軍の圧力の下にようやく頂上に立ったが、そこには既に千年も前に真言密教の修験者が残した錆びた錫状と宝剣があったという話である。まあ、これは登山を趣味とする者なら誰もが知っている話だが。
 測量隊が延々と立山・劔周辺を歩き回り、何処からも登攀出来ない劔へ彼らが最後に選んだコースが、源次郎尾根と八峰の間の、長大な雪渓の沢であった。映画では「三の沢」と言っていたが、ここはその後、その時測量隊の案内人であった宇治長次郎の名を取り、長次郎雪渓または長次郎谷、長次郎沢と呼ばれることになる。
 頂上を目指すため、測量隊は谷の出合までいったん劔沢を下るのであるが、そのシーンを見た時、私は小さく
「おお!」と声が出てしまった。両側から迫る岩の尾根、まるで壁のような陰鬱な急斜面の長次郎雪渓。当たり前だが、42年前と同じ景色がそこにあった。
 
 昭和42年8月18日、当時、剣沢小屋の小屋番であったNと私は、この沢を詰めて劔の頂上を目指した。よく晴れた日であった。出かける前、Nの山靴の紐がぶっつり切れた。
「今日、死ぬかな。死ぬにはいい天気だ・・・。」とNが言った。
私たちは気にしない振りをして剣沢を下り始めたが、今でも覚えている事を思うと登高を前にしてかなり印象に残っていた出来事だった。
 登り始めた長次郎雪渓は、時期が時期だけに左右の岩壁との間にはベルクシュルンド、雪渓はかなりクレバスが開いていた。滑落して停止出来なければ、きっとシュルンドやクレバスの中に叩き込まれるだろう。雪渓の下は音を立てて水が流れている。捜索も大変になるだろう。しかし、1時間も登ると谷は明るく開け、急斜面も気にならなくなった。朝の出来事などもすっかり忘れて私たちは快適な登山を続けていた。
 「熊の岩」から左俣を頂上に登り詰める辺りで、数メートルのスノーブリッジがあった。今日落ちるかどうかは渡ってみないと分からない。ザイルは持って来ていなかった。迂回ルートはありそうになかった。と、Nは私の内心の躊躇を見透かしたように、
「よし!」と言ってすたすたと渡り切ってしまった。私が後に続いたのは言うまでもない。
 映画で、案内人の長次郎と測量官の柴崎芳太郎が先頭を譲り合った場所に、私たちも座っていた。遥かに登ってきた長次郎雪渓と八峰の岩峰を見下ろしながら、Nが言った。
「今井さんも歳とりましたね ・・・。」
 彼が意味したのは、既に社会人となって、共に山を歩いた頃の気力と体力を失いかけていた私への、いや、スノーブリッジを渡る前に一瞬の躊躇を見せた私への揶揄であったのだろう。その時の私は22歳と7ヶ月。42年前の8月の劔岳である。

 映画から帰ったその夜、今は清里の大ペンションの主であるNにメールをした。彼はこの1日の出来事だけでなく、当時、学生を放棄した頃の鬱屈した思いを長い文にして返信してきた。互いに、もう2度とあの斜面を登る事はないだろうとの思いが伝わる文であった。 私もまたこの映画の景色から、遠い昔の初恋の思い出に似た痛みと懐かしさを味わったのである。
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林間学校でした

2009年06月19日 | 補習校について
燃えろよ燃えろよ 炎よ燃えろ
火の粉を巻き上げ 天まで焦がせ・・・

 夕闇の中に子供たちと参加のお父さんお母さん方の声が響き、M先生扮する火の神様からもらった火が次第に大きな炎となって立ち上がって行く。暗がりの中で、誰もが目が離せなくなり、じっと炎を見つめる一瞬である。焚き火や裸火が禁止されている現代の社会の中で、こんなに大きなファイアーを囲む機会は子供たちにはあまりないはずである。

 6月6日、今日で補習校の1/3が終わる日は前半がバレンリバー州立公園のハイキング、後半は更に野の奥にあるボーイスカウトのキャンプ場で林間学校の体験学習である。通常の林間学校の施設と違い、お手洗いは別として、よく言えば野趣豊かな、悪く言うなら何も準備されていない2段ベッドだけの、林と草原に囲まれた廃屋的なコテージでもある。初めて下検分に来た時に、これはいい!と思ったのが何もない所だった。そして期待通り、子供たちはよく働いた。自分達の寝床を作るために、自分達の食事を作るために、自分達で楽しむために・・・。こうでなくちゃ!
日本の学校では、キャンプでの自炊と言えば例外なく飯盒でご飯を炊き、カレーを作るのであるが、薪でご飯を炊くという事、火を起こす事は時として大人にも難しくなっている。新聞紙を入れ、粗朶を敷いて薪を並べ、マッチを擦って点火する事など、若い先生に校庭の隅で事前学習をする必要さえあった。そういえば、Wマートの炭さえ着火剤付きなのだな・・・ここでは。
お母さん方の支援によるナンデモスープは大変美味しかった。お父さん方が付きっ切りで焼いて下さったコーンもジャガイモもホットドッグも、夏の残照の中、爽やかな風が通り抜けるテラスでの夕食も子供たちの思い出に残るものであったろう。バナナやブドウ、コーヒーまで付いた、簡素だが豪華な夕食、沈む夕日の中で静かな一時である。
 食事班もよく働いたが、キャンプファイアーの準備班も、屈強な高校生が楽しんでよく働いてくれた。ノコギリと斧の使い方には少し心配もしたが、これも指導次第である。豊富な倒木のおかげで、楽しむには十分のファイアーサイトを自分達でこしらえた経験は、きっと次に生きるだろう。

8時15分から始まったキャンプファイアーは、途中に珍しい夜間のスイカ割りなどが入り、予定を大幅に過ぎて終わろうとした。ファイアーキーパーの高校生たちは消えていく火を惜しみ、まだ倒木を入れたそうである。「炎を見つめ、それを消さないためには何を投げ入れても惜しくない衝動に駆られる」阿部次郎の「三太郎の日記」である。その通り、燃える火を囲めば、一晩中語り合うことも出来そうだ。次第に消えていく火を見つめながら子供たちは、いや、大人たちは何を思ったのだろう。我々大人には木の燃える匂いは懐かしい原体験の一つであるが、今の子供たちには何が残っていくのだろう。社会が変化し、大人が子供たちから取り上げたものが火と刃物を扱う体験なのである。そして、このKentuckyにはまだ真の闇もある。むしろ、日本の子供たちの方が本当の闇を知らなくなっているような気がする。めったにない恵まれた闇夜ではあったが(事実はこの日、満月が煌々としていた。)生易しいながら「肝試し」も実行出来た。
補習校の子供たちにとって、ここでの野外生活が、かけがえの無い半日であったことを祈念したい。
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09.1.27 冬の嵐

2009年02月13日 | アメリカ生活について
 1月27日(火曜)、深夜からの降雪は朝には凍結も伴い、Hardin郡一帯にウインターストームの警報が出されて学校などは全面休校となった。冬の嵐、というと吹き荒れる風雪のイメージだが、此処では吹雪ではなく凄まじい凍結、結氷である。出勤も出来ないのに、こんな凍てついてスケート場のような道路を走ることもない。テロップで次々に流れる休校のお知らせを見た後、また眠った。
 さて、昼になって目が覚めると、TVは真っ白、電話もインターネットも通じなくなっている。
携帯電話はかろうじて通じるようだが、降雪は続き、雪が降りながらも気温は相当低いのが分かる。この間から−15℃だの−19℃だのが続き、日本の冬装備で外出すると顔が痛いような寒さだった。TVが不通なので正確な気温は解らない。そうこうする内に、友人のS先生から電話があり、
「我が家は停電です。今夜、泊めて下さい。寝袋持って行きます・・・。」
そうだろうて、停電では暖房も調理も出来ないし、暖房なしに眠れる寒さではない。
 しばらくしてやって来たS先生、
「いや、街は酷い状況ですよ。私の住宅地一帯は全部停電です。31号線の信号も付いていません。
パトカーで整理していました。あのスーパーも電気なしで・・・。」
そう言いながら、冷蔵庫に残しておけない食料品を取り出した。

 翌28日、次第に状況が分り始める。かなりの広域で停電、断水、電話、TV、インターネットも不通である。そして、Kentucky中の何万か何十万の人が地域の電気のあるホテル、モーテル、親戚、或いは公共の施設、知人友人宅に避難中という。ガスが通じる家庭は自宅で凌いでいるそうだが、暖炉があってももう薪は払底したとの事で、そうなると温かい物は口に入らない。街のレストランも満員だそうである。浄水場も稼動していないらしく、水道水は沸かして飲むように、とラジオが言い続けている。流れる音楽は陽気だが放送は深刻だ。
裏庭の雑木林は結氷して大きく垂れ下がり、凍結のため大きな枝まで断裂し始めた。これらの樹々や街路樹も電線の切断をもたらし、あちこちで道路上に垂れてしまっている。我が家の地域は電線が
地下に潜っているが、その前後がやられたら私も収容側でなくなる。通電しているかどうかの違いだけで、大きな明暗を分けたのである。私もたまたま幸運な側に居ただけなのだ。

こんな日が一週間続いたが、Mさん宅では暖房なしの家で寒さを凌いだし、大学のS君も家族6人避難なしに頑張り通したと言う。6人家族を収容したW君も広大な敷地の樹木の整理に疲れ切り、 我が家のS先生も7日にわたる寝袋生活では疲労が抜ける筈がない。E-townの街路という街路には凍結で折れた樹々が山積みになった。KY全体では膨大な量だろう。大勢の人が人知れず冷たくなられたと新聞にあったし、救援に配布されたピーナッツバタ−に菌が付着していて急遽回収という騒ぎも付随した。文明を享受している我々の何と脆弱な生活であることか。反面、当地のアーミッシュの人達は平然としていたようだ。開拓時代に此処に居た人達はもっと過酷な自然と闘ったことだろう。
そして考える。これと同じ状況が日本の我が家で起きたとしたらどうか。捨てようと思っていた古い石油ストーブは保管しよう。キャンピング用携帯コンロもある。40年前の山用ラデウスもまだ使える。鍋物用の卓上コンロも、ランタンも蝋燭もある。寝室などは何時でも寒いし我々は堪えられる。神奈川や静岡の全ての学校は食料と備品の備蓄倉庫を持っている。1週間、いや3日間持ち応えられれば日本なら救援が来る。阪神・淡路大震災で我々日本人が学んだ事は多いはずだ。たまには、今日に続く明日がないかもしれないと考えるのも無意味ではなさそうである。

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ハロウィン

2008年11月03日 | 補習校について
 今年は、生徒会の提案で、補習校でもハロウィンの仮装大会をやろうという事になった。登校日との関係で10月31日ではなく1週間の前倒しであった。日本人家庭の子供たちが、ハロウィンの由来や発端となったケルト人の収穫感謝祭の意味を理解しての活動であるかどうかなどは問題ではない。1年の中の伝統的な、また開放された楽しい行事として楽しめばそれでいいのである。
アメリカ式の、明るく楽しむ仮装コンテストは補習校のホームページに写真があるとおりで、子供たちも先生方も「お姫様系」、「怪奇系」、意表を突いた「扮装系」で会場は賑やかであった。

しかし、アメリカのハロウィンで忘れられないのは、もう16年前、つまり補習校の子供達がまだ生まれていなかった頃、ずっと南のルイジアナ州バトンルージュで起きた「日本人留学生射殺事件」である。「Trick or Treat」で訪問先を間違えた日本人留学生が、住人に不法侵入と間違えられ「Freeze! 動くな!」と言われてもその意味を掴めず射殺された事件で、日本人の誰もがアメリカ銃社会について改めて驚愕したのである。更にはその住人は刑法では無罪となり、米国に於ける「憲法で保障された銃の所持権」について深く考えさせられた。当時の普通の日本人にはFreeze、の意味を知る者は多分ほとんどなかったし、私もFreezeとPleaseとを聞き分ける力が自分にあるだろうかと考えてしまったものである。
 また、この行事はことにこの10年、アメリカの楽しい大衆文化として日本に伝播してきたようだ。
 私の住む川崎市では、駅前の商店街のイヴェントとして国内でも大掛りな仮装行列が行われているようで、仮装というものも変身願望を満たし無条件に人を楽しませるものである。日本のアニメのコスプレは世界のマニアには広がっているようであり、昔の高校の文化祭や運動会では仮装行列は付き物であった。そして、古くは安土桃山の終わり頃、園遊会を催した秀吉は「瓜売り」の扮装、家康は「遊女屋の亭主」などの「やつしくらべ」をして楽しんだ、とある。
ただ、あまり難しいことは言いたくはないが、バレンタインデーなどが我が国に入るとたちまちに形を変えて菓子屋の商業主義に乗せられていったというのは気になる所である。とは言いながら、私もチョコをプレゼントされ、「義理チョコかな。」と思いつつ悪い気がしなかったから勝手なものであるが・・・。
まあ、東京でのハロウィンが乱痴気騒ぎとなって電車がストップした事も含め、面白ければいいじゃないか、という風潮や、外国の文化の受け入れに我が国は少々節操が無いのではないかと思うことはある。

 さて、補習校の児童生徒たちにはアメリカに住みアメリカの文化や伝統を学ぶという現在の日々がどんなに貴重なことかは、帰国した後に理解できるに違いない。ハロウィンも、仮装は広がっているが日本の街では「Trick or Treat!」は不可能であろう。しかし、本物を持ち帰れるのは彼等以外にはないはずである。新しい文化の担い手として頑張って貰いたいものである。
 同時に、日本には日本の伝統文化があり、その地域独特の行事などにも同様に参加できるといいなと思う。ハロウィンの祭り一つをとっても、人間の思いは世界共通と思わざるを得ない内容がいくつもある。収穫祭としての発祥もそうであるが、ハロウィンに関係するサウィン祭りでは、火種を持ち帰って家庭で使うと無病息災なんて、祇園八坂神社の「おけら参り」に同じである。(実際にはどこも実行されてない。)魔除けの仮装、あるいは怪物の行列は日本でも「百鬼夜行」として有名である。あの世よとこの世、死者と生者、精霊や魔除けに関する風習や習俗については洋の東西を問わない。帰国したらまた、そのような日本の文化にも興味を持てってくれたらと思う。もっとも、これらを子供達に伝える役目を持つのは現在の親の世代なのであるが。
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Patton 戦車Museum

2008年09月29日 | アメリカ生活について
 ひっそりと静まり返る戦車群であるが、側に寄れば圧倒的なmass, 質量感である。今は冷え切った動かぬ巨獣からは、エンジン音を轟かせ大砲が咆哮する場を想像するのは難しい。しかし、どう考えてもこれらは乗り物の一種ではなく、絶大な暴力を発揮する兵器、凶器以外の何者でもない。
そっと装甲を叩いてみる。厚い鉄板を叩く感じではなく、確かに形は厚さ2インチの鍛造の鋼の板であるが、板、という感じはない。丸みを帯びた巨大な砲塔は鋳造された物のようだが、正しく鋼鉄の塊である。司馬遼太郎氏の随筆に、戦車兵であった氏が訓練中にヤスリを砲塔に当てたが、カラカラと滑るだけでキズも付かず、と言う一節があったことを思い出した。戦場でこんな物が自分に向かってきたら、と想像するだけで立ちすくむ思いである。
 中学生の頃まで、私も並みにプラモ少年であった。と言っても当時はプラモデルもそれなりに高価だったし、戦車よりも「大和」「鳥海」といった旧日本海軍の軍艦を作って池に浮かべて遊んでいただけだったが、友人のT君は戦車ファンであった。彼の古くなった戦車模型の中に花火の火薬を詰め込み、空き地で爆破して遊んだこともある。今思えば結構危険な遊びではあった。そんな半世紀も前に、プラモデルでしか知らなかったものが実物として眼前にある!
 
 ここは、Fortknox基地の中に作られたGeneral Pattonの記念館であるので、将軍の遺品などが展示されている。第二次大戦の終末期にドイツを追い詰めた軍司令官であるが、いろいろとエピソードもある人だったようで、独軍を解体せずに連合軍に吸収し、そのまま当時のソ連へ侵攻する事まで考えたらしい。もっとも、G.Pattonの印象は、ジョージ・スコットが演じた映画「パットン戦車軍団」から来るものでしかないが。むろん、ここまで来た人だから、並の軍人であったはずはない。陳列してある彼の勲章の数々を見るが、ちょっと考えてしまう。なぜなら、高級将官の勲章を見ると、その勲章の裏に流れた敵味方の何万リットルもの血を想像してしまうからだ。
 
 さすが、ここは戦勝国の博物館、日本の九五式軽戦車も南洋風のヤシのディスプレイの中に置いてあった。こんな物でも街の一角に現れたら度肝を抜かれるに違いないが、この博物館の中にある巨大な戦車群からみれば、その小ささに悲しさの方が先に立つ。装甲も薄く、中国大陸で歩兵の戦闘が中心だった日本軍の戦車が、ヨーロッパで強力な独軍戦車と死に物狂いの戦車戦を演じてきた米軍戦車に勝てるはずはない。この軽戦車には弾丸の穴もなく、破壊された姿ではないので、乗員の運命を想像しないで済んだことはよかった。しかし、その当時の戦術、用兵思想、資源、何よりも工業生産力の違いをまざまざと見せられたような気がした日米の違いである。そりゃそうだ。表にドンと置いてあるT28なんて戦車は80tもあって、山間部や河川の多い日本の中では渡る橋さえないだろう。さすがの米軍もこれは持て余したようであって、数台が作られただけと言う。絶対に負けないけど移動が難しくては・・・。

 だが、ここにある鋼鉄の巌の様な米、独の戦車であるが、置いてあった厚さ15cmばかりの鋼鉄板に強力な対戦車砲の弾丸の貫通孔も陳列してあった。まさに矛と盾の関係で、どのような強力な特殊鋼板といえどもそれを撃ちぬく兵器もまた存在するのである。原型をとどめぬまでに破壊された戦車や、一発の弾丸に息の根を止められた戦車の写真も見たことがあるが、そうなるとやっぱりこれは「鋼鉄の棺」と呼んでいいのかも知れない。
 明るい秋の日差しの中、帰路のハンドルを握りながら思う。この博物館は日本の幾つかの記念館の印象とはだいぶ違う。土浦や知覧などの記念館にも兵器は陳列してあるが、ほとんどが戦死者の遺品であるので見学者もひっそりしていた。日本の記念館は「鎮魂の館」であるのに比べ、ここは確かに「兵器の館」である。歴史の違いである。
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ハチドリが来た!

2008年08月20日 | アメリカ生活について
 こんな給餌台で直ぐやってきた。

 日本から帰ってきたある日曜日の夕方のこと。日は落ちたがまだまだ明るい午後の8時、爽やかな風に吹かれて裏庭に座って流れる雲を見ていた。8月、もう秋の気配である。
 ブーンと優しい羽音がして何かが飛んできたようだ。コガネムシかな、と周りを見回したがそれらしいのは居ない。羽音は続いている。ふと、ランタナを見て驚いた。日本のクマゼミくらいの大きさの小鳥が、ランタナの花をホバリングしながら突ついているではないか。
「そうか!お前がかのハチドリか!」
E-townにハチドリが生息している事は聞いていたが、本物を見るのは初めてであった。一瞬にして彼は去っていったが、しばらくしてまた裏庭を高速で飛んでいる。
 この辺りに居ることが判った以上じっとしてはいられず、すぐWマートへ走った。ハチドリ用の給餌台の構造を見ると、要するに甘い水がくちばしから吸えればよいことがわかり、大枚5$を倹約して有り合わせの材料で給餌台を作りにかかった。その間にハチドリがこの辺りから居なくなるのではないかとやや焦りながら。
 翌朝、出来上がった給餌台にエサとなる甘い水を入れて裏庭に出た途端、さっとそばを掠めて飛んだのは彼であった。家の中からそっと見ていたら5分ほどしてやってきた。成功だ! 写真で見るとおりの姿で、空中で停止しながら細長いくちばしで甘い汁を吸っているのが分かる。 私もナスカの地上絵を描いた人と同じになった。で、デジカメで撮ろうと思った一瞬、彼は去ってしまった。

 他の小鳥達と違い、静かに座っていたらハチドリは意外にも私を意に介さず給餌台にやってくることがわかり、日本の友人達に写真を送ろうとデジカメを用意するが・・・。なにせ、突然やって来る、小さい、速い、急停止、急発進、一瞬で移動する。私のデジカメはスイッチを入れてから焦点が合うまで5秒はかかる。彼はホバリングしていても2〜3秒で飛び去ってしまうので撮れないのである。おまけにレンズをズームすると絵がぶれ、チャンス!と思ってシャッターを切っても、見てみると何も写っていない!私には性能のいいカメラも三脚もないので待ち構えられない。
 デジカメのスイッチを入れっぱなしにしたためバッテリー残量が点滅し始め、下を向いていて驚いた。カメラを構えている時には一瞬で消えるのに、撮影出来ない時にはまるで「何してんの?」と言うように私の目の前でホバリングしている。1秒間に50回以上羽ばたきするため翼はあまり見えず、頭と胴体だけが見える。まるで小さなヒョウタンが空中に浮かんでいるようだ。
 神経質で敏感、人の側には近づかないと思っていたハチドリだが、このようにして結構眼前まで近づいて空中停止したり、何度かは窓から家の中を覗きこんだり好奇心の強いひょうきんな感じもする。学校の我がオフィスの窓にも、真っ赤なカージナルやリスが来て室内を覗き込んでいることがあるが、ホバリングしながら我が家の中を覗くハチドリの姿は、何かカメラの眼を持った小鳥型の偵察機に見えなくもない。彼らがやって来て、またE-townの生活が楽しくなったこの頃である。

眼前でホバリング、ちっちゃな脚が。
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夏休みは夏ならではの

2008年05月30日 | 補習校について
 夏になると、いつも必ず少年時代を思い出す。低い山地、水田とむせるようなイネの匂い、イネの葉を裏返し田を渡る風の道、錆と油とタールの臭う鉄道線路、風にざわめく竹薮、誰一人居ない炎天下の村の辻、静寂の中のキリギリスやセミの声、私が草むらを歩けば必ずオニヤンマが先導し、畦道を行けばカエルが田んぼに飛び込んだ。空には巨大な入道雲が立ち上がり、鍵などかけない村の家はどこもひんやりと涼しかった。轟音と蒸気を吐き散らして通過する列車、窓から日焼けした海水浴帰りの乗客が踏切の脇に立つ私を見、列車が去ってしまうとまた元の静寂、夕日の中にヒグラシの声と遠い川瀬の音・・・。そんな中に、ランニングシャツ、半ズボン、虫取り網と虫籠を下げたズック靴に麦わら帽の少年の私・・・。夏の少年の典型的なスタイルだったに違いない。関西の大都市で育ったにも関わらず、思い出すそこは海にも近い母の郷里、丹波の山間であった。
 おそらくこれらは海辺や都市部での違いこそあれ、まだ空き地や野原もあった、我々の世代が共通して持つ原風景であろう。落ち着いてきたとは言え、まだまだ大人には苦しい頃でも、我々少年には今よりもっと多くの自由があった時代である。

 時は移り、社会の変化と大人たちが少年からこれらを奪って行った。その代わり、子供たちは当時よりもっと背が伸び、顎も細くなって容貌もハンサムに変化したし、洟を垂らしたりアカギレや霜焼を持ったりする子も見なくなった。少年サッカーやリトルリーグでの戦術・技術も大人顔負けになり、家族旅行で遠くの風物にふれる機会も増えた。異質のものに出会う事も多くなり、外国人に出会って驚く子供たちはなくなったし、多くの子供達は喧嘩をしなくなった。何よりもパソコンの活用など、30年前には全くなかったリテラシーを身に付けた事は言うまでもない。
 反面、豊かさが減少させたものも見過ごせない。ボールや道具がないと集団で遊べない。おやつに飢えたことがなく家には何時でも食べたいものがある。真の闇は経験した事がない。流星や天の川を見た事がない。プールや海水浴場でしか泳いだ事はなく、川で遊ぶ事は学校から禁止されてしまった。水洗便所しか使えない。小さな虫を極端に怖がり草むらや藪の中に入れず土を触れない。遊びに行くのは綺麗に作られた遊園地やテーマパークの遊具が中心でお金を使わずに遊ぶ経験がない。集団で遊びを創造する事が苦手でゲームとは遊べるが友達と取っ組み合いはせず、けんかの経験がないので殴ったり殴られたりした時のダメージが解らない。人に刃物を使うとどんな結果が出るか想像できない・・・。

 では、大人は、学校は何をすべきなのか。日本の多くの学校ではこれらの子供達の現状を危惧し、普段の体験活動を工夫し、例外的な学校を除いて林間学校や臨海学園を実施している。私が勤めていた殆どの学校では数日間の体験学習を海で行っていたが、ここでのハイライトはカッター訓練であった。カッターは静かな湖でパラソルの女性を乗せて漕ぐボートではない。30人ほどが横4人で、4年生や5年生には重くて太いオールを握るのである。湾から防波堤を過ぎれば伊豆の外洋であり、波の上に持ち上げられた時には、真っ白な別のクラスのカッターが青い海に映えて美しい。しかし、漕いでいる子供たちには見るゆとりがない。なぜなら、波にオールを取られると、他の仲間のオールとからみ合うのである。カッターを漕いだ経験がどう活きるか。そんなものはない。商船学校や海自、海保にでも行けば別であるが、そんな経験が実際に生きる場面は緊急避難のような究極の場であり、まず通常はありえない。
 しかし、わずか3〜4日の体験学習ではあるが、子供達にとっては昨日食べた夕食は思い出せなくても、20年前の集団生活はしっかりと記憶しているものである。いや、記憶なども必要がない。少年期に体験したことは無意識の教育となって、どこかでその子の成長を促す大きな部分となるに違いない。
 集団の体験は社会的成熟の大きな糧となる。また、自然の中での体験は情緒的な成熟を促すという。多くの青少年にとって、現代社会は極めて刺激的で誘惑に満ちた世界であり、自然体験から来る素朴な喜びなどは消し飛びがちになる。もう、無いものを求める事は出来ないが、我々大人が子供たちにできる事は、たまには、そして選択が出来るならば、樹木の匂いと風の音や磯の香と潮騒しかない所へ連れて行き、足の裏に岩の硬さや水の冷たさを感じさせる時間があるといい。
 補習校の子供達よ、行動には制限があるとは言いながらも、このKentuckyには日本にはない大きな自然とゆっくり流れる時間がある。携帯やTVやPCのゲーム、チャットから少し離れ、夏には夏ならではの時間を過ごして欲しい。それらがどんなに貴重な時間であるかが解るのはもっと先だろうが・・・。
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なれは異国の桜かな

2008年04月15日 | アメリカ生活について
これはオーナメント・ペア(ナシの花)

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(在原業平)

 「あ、桜だ!」と思わず足早になってしまった。このアメリカに、桜はワシントンD.C.のポトマック河畔にしかない、と思っていた訳ではなかったが、実際にE-townの中心部の住宅地にそれを見たときには、やっぱりここにもあった、と感激したのである。春浅いケンタッキーにはあちこちにオーナメントペアが咲き誇り、サクラと同じく葉が出ない内に白い花が満開となる。芝生や野原の色が日増しに緑を増し、「ケンタッキーの春は美しいですよ。」との言葉を実感し始めていた中で、桜に出会う事はどこか諦めていたところがあった。
 日本では、春になると日本中が桜の開花に耳目をそばだて、日本中がさわさわと浮き足立つ気配すらある。諸外国の人たちが不思議に感じる日本人の特性だが、それはもう千年以上前から流れている我々の血としか言いようがない。私も同様で、若い頃には敬遠していた花見の宴も、日本人が花を楽しむ一形態と思うにつれて、我が民族が風流を解する気持ちを好ましく感じるようになった。何処どこが今、満開で・・・などと聞くと、そわそわと旧い友人達に会いたくなったり、ついでに少しバイクで走ろうと思ったり、また、明るい日差しの中で理由の無い憂鬱を感じたりして落ち着かないのが日本の春であった。



さなざまの こと思い出す さくらかな(芭蕉)

 まあ、それもそのはずで、川崎の我が家の前には古くからの二ヶ領用水があり、その脇は何百mにも渡って桜並木となり、住吉桜とか今井桜(我が家の氏でなく地域名、ちなみに今井は今居とも書き、鎌倉期以降での新興住宅地 New-townの意味。)と呼ばれている。京都の哲学の道や角館のような情緒はないが、桜並木は美しく、それを愛でに来る人たちを見ているのも楽しい。
 ただ、この時期、武蔵小杉から深夜にこの道を帰宅すると、寝静まった住宅街の中の桜並木の下を通る事になる。誰一人居ない深夜の、満開の桜の中に立たれたことがおありだろうか。人影が途絶え、ライトアップもなく、暗い用水路沿いに浮かび上がる満開の桜の下は不気味で、どこか狂気を秘めている。だから、誰も歩かないのかもしれない。もし美女を背負っていたら、この下では何時の間にか口が耳まで裂けた鬼が背中に居ることだろう、坂口安吾の小説のように・・・。



 そして、私の育った京都は桜ではまた特別である。嵐山の、醍醐寺の、東福寺の、御室の・・・という風に、桜の名所はいくらでもあった。祇園白川沿いの桜も、その時期は花街らしく宴会の賑やかさが微かに聞こえ、町屋の千本格子を背景にした夜桜はまた一層妖艶であった。夜の円山公園の枝垂桜もまた妖しく美しく、ある人がこう言ったことがある。「あそこの桜にはきっと何かが棲んでいます。祇園の女たちの情念のようなものが・・・。」
 驚いたことに、祇園白川の辺りで育った方がこの補習校においでであった。うーん、そういえばどこか密やかな桜の精を感じる方で、「はるはこのけんたっきーは美しいところどすえ。」(最後の三文字は私の作文)と教えていただいたのも彼女である。
 ここで桜に出会わなければ、きっとこんな事は思い出さなかったに違いない。Elizabethtownのソメイヨシノも枝垂桜もやっぱり美しい。遠い国に住むからこそ、このE-townの桜に故郷の桜を重ね、世の無常、人との別れと出会い、人生の節目をこの季節に特に強く感じるのだろう。

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シャワートイレはだめでした。

2008年03月14日 | アメリカ生活について
 Kentuckyへの赴任にあたって、最後まで迷ったのがシャワートイレであった。E-townへ来る直前まで、事情あって叔母の家の整理をしていたが、解体する家において置くのももったいなく、取り敢えず保管していた物である。 
 一昨年の秋、10日間 のKentucky, San Franciscoの旅行で、アメリカでは一度もこのシャワートイレには出会わなかった。M先生に問い合わせたところ、米国ではほとんど普及していない、とのお返事だった。日本では、一般家庭にはかなりの設置率であり、旅館・ホテルでは当たり前、サービス業の店、地下街のトイレ、ちょっとした公共の施設ではみなシャワートイレは普通になって来たのに、この清潔をモットーとする米国に普及していないのが不思議なくらいであった。まだアメリカ人はこれの快適さを知らないのだ! 便器の大きさも調節次第、取り外しと取り付けは、スパナとドライバーさえあれば簡単である。 だが、問題は明らかであった。水道栓との接続はどうするか・・・・・。
・・・・・ ここが、かつて旅したタクラマカン砂漠やチベット奥地であれば何も考えなかっただろう。よほどの所でない限り水洗トイレはなかったし、そこを使うのに水洗かどうかなどはまったく問題の外だった。公共のトイレについては、ドアの有無、も少しは問題ではあったが、そこの筆舌尽くしがたい惨状・・・、入る勇気の有無だけはいつも問題だった。などと大きい事は言えないかも知れない。ほんの50年ほど前までは我が国も水洗トイレは大都市の一部に限っていたし、田舎での用足しには若干の技術も必要であった。まあ、この話は別の項でするとして・・・。
 閑話休題。 トイレタンクへの水道管の口径、調節弁の大きさ、センチとインチの違い、ねじのピッチなど規格の違いを考えれば簡単に取り付けは出来ないことは分かっていた。日本のT社が在るとはいいながらKentuckyに近いかどうかは分からず、第一、接続部分だけ購入する事が可能かどうか? しかし、いろいろな部品を探しだす事が出来て接続が可能なら、ここ数年間の滞在で毎日がどれほど快適に過ごせるかと考えると、やはり簡単に諦めることは出来ない。世の中には知らなければそれで済んだ事が、知ってしまったために起きる不都合はいっぱいあるものだ。かくして、簡易型シャワートイレは海を渡ることになったのであるが・・・・・。   
 「何とかなるかもしれない。」との曖昧な決断では、やはり世間は渡れないものだった。今まで何とかなって来たのはそれなりの計算の上の結果であり、ただの僥倖はそれほど多くはなかったのだろう。ここは日本ではなかった。規格の違いは如何ともしがたく、大きな「R」というDIYでも代用できそうな部品はなく、もちろん日本のT社の製品はない。ここが我が家であれば接続部を日本のままにして水道管を換えるが、借家の水道管そのものにさわる事はご法度である。
 残念! もしここに自力で設置した成功談とそのノウハウを書くことが出来れば、これからアメリカに赴任してくる人達にどれほど貢献できたことだろう。アメリカ赴任にあたり、何を持っていくべきかを迷う人達に、説明図とともにとくとくとして情報提供できないことが本当に残念である。もっとも、まだ完全に諦めたわけではないのだが・・・。
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