また朝焼けの美しい季節となって参りました(勝手な感覚?)
朝、肉眼と肌で体感する恵み。
そして、その後、撮影した写真をジックリ見て味わう恵み。
ブログを見に来てくださる方には、まず写真で味わって頂き、
そして是非、石垣島に来て体感していただきたいと思うわけです。
皆さん、石垣島に是非お出でくださいませ。
聖書
「あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。 」
ヨブ記 38章12〜14節
関東から、懐かしい友人が娘さんを連れて来てくれました。
久しぶりの川平湾。やはり美しい!なんという透明度!
そして、この色!見事なグラデーション!神業です。
友人との再会、娘さんとの新しい出会い、そして、
この神様の創造された自然の美しさを再認識できた、
とても嬉しい一日でした。
(写真の後ろ姿は友人の娘さんです)
聖書
「まことに、水が海をおおうように、
地は、主の栄光を知ることで満たされる。」
ハバクク 2章14節
雲があることで、どれほど空の表情が豊かになることであろうか!
そのカタチ。光と陰。多種多様な色彩。
人知を遙かに超えた、神様による造形美が、ここにある。
聖書
「主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、
主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。
その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。
主は、大洪水のときに御座に着かれた。
まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
主は、ご自身の民に力をお与えになる。
主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」
詩編 29篇 7〜11節
主の年2010年も明けて、早くも半月以上過ぎましたが、
今年もよろしくお願い致します。
きっと神様は、今年も、この場所で、素晴らしい御手の業である
日の出を沢山見せてくださることでしょう。
わたしは、雲間から漏れ出る、美しい光の線が好きです。
今朝も、神様はこのように見せてくださいました。ハレルヤ!
以下は、わたしたち、八重山バプテスト教会の年間聖句として
与えられた御言葉です。今年も、自分の力、知恵に頼らず、
祝福を与えてくださる神様に信頼して歩んで行きます。
聖書
「人間を豊かにするのは主の祝福である。
人間が苦労しても何も加えることはできない。」
(箴言10章22節)
言葉で表現できないような、美しい夕暮れでした。
聖書
「聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」
詩編 30篇 4、5節
石垣島には美しい花が沢山咲きますが、
このホウオウボクもとても見事です。
街路樹としても植えられていて、先日あまりに美しく
咲いていたので撮影に行きました。
ここ何年かデイゴが咲かないので、秋に咲くこの
ホウオウボクが、より一層楽しみです。
このような美しい花を愛でることも、神様からの恵みですね。
聖書
「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、
神はこれほどに装ってくださるのだから、
ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」
マタイ 6章30節
にわか雨の後、見事な虹が出ました。
よく見ると二重の虹。
更によく見ると、虹を境にして空の色が違って見えます。
虹。不思議で素敵な神様からのプレゼント。
決して変わらない契約のしるし。
聖書
「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。
それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。 」
創世記 9章13節
夏。圧倒的な太陽の光と熱を感じる季節。
朝。その太陽が完全に姿を見せる前、
驚。美しい色と光のグラデーションが現れた。
本当に、美しい!
聖書
「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、
私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
ホセア書 6章 3節
今日は、日本で皆既日食が見られるという特別な日でした。
こちら石垣島では太陽の83.4%が月に隠れるということで、
夏休みに入った子どもたちと観測をしていました。
見ていると、雲間に隠れるときに肉眼でもその様子を見る
事が出来たので、カメラで撮影を試みたところ、このような
写真が撮れました。(危険なのでオススメできませんが・・・)
ほぼ一番欠けた頃ではないかと思いますが、この時、
いつもの刺すような日差しが柔らかくなり、そして、辺りは、
ただ「暗い」というのではなく、異様な「明るくない」状態で、
鳥たちが騒いでいました。
太陽が昇り、そして沈む。
それがいつしか当たり前のようになっていた。
まさに日常。
誰かが教えてくれました。「感謝」の反対は「当たり前」だと。
この「日食」という特別な出来事によって、
私たちの地球を照らし、命を育む太陽が与えられていることは
「当たり前」な事ではないと、改めて感じました。
月と太陽の見かけの大きさがほぼ同じになることや、
その軌道が見事に一致して重なることを、
世間では「偶然」と言っていますが、
こんな偶然はあり得ません。
聖書にはハッキリと書かれてあります。
この太陽を創造し、天の運行を定めた方がおられることを。
今こそ、その方、神様に感謝し、褒め讃えようではありませんか!
聖書
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
詩編 19編 1節
「主に感謝せよ。・・・・
大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。
昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。」
詩編136篇1節a、7,8節
放射状に放たれた光は、その「光源」の在処を指し示し、
確かに「光源」があることを指し示す。
そして、その「光源」は遂にその存在を明らかにし、
世界を照らし出し、暖め、命を育むのです。
聖書は、神こそ「光」を創造された方であり、その神ご自身である、
主イエス・キリストが真の光である、と宣言しています。
人が、この光源の存在を認め、信じ、
その光によって心の底までも照らして頂き、
悔い改めに導かれるならば、
その光は、その全ての罪を赦し、救いを与え、
永遠の命を与えてくださるのです。
そして、そのように救われた者を「神の子」「光の子」としてくださり、
あたかも光源から放たれる光のように用いて、
この世にご自身の存在を顕されるのです。
賛美すること、礼拝すること、愛し合うこと、
喜んで生きること、希望を持って生きること、福音を伝えること、
それらすべてをもって、
クリスチャンは、「光源を指し示す光」として用いられるのです。
それは自分の力によってではなく
ただ、イエス様の救いによって
実現することなのです。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 」
ヨハネによる福音書 1章 9節
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
ヨハネによる福音書 12章 36節
「あなたがたは世の光である。」
マタイによる福音書 5章 14節




















