湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

<紅葉の太閤の道と宿駅を訪ねる>史跡巡りの下調べ・・・

2016年10月18日 |  2.郡山地方史研究会

今年の郡山地方史研究会の<史跡巡り>のテーマは、<紅葉の太閤の道と宿駅を訪ねる>です。

<若松より江戸までの38駅>のうち、<若松から数えて8里目の三代>、<勢至堂・長沼・牧之内・小屋>の宿駅と会津街道(白河街道)の史蹟巡りです。コースは、<小屋>から<三代>に向けて北上するコースですが、昨夜、今回の<史跡巡り>のテーマに出てくる<太閤の道>の下調べをしました。

下調べをしたのは、<太閤の道>の<三代>から先、<福良・赤津・原>の宿駅を経て、会津背炙山を越えて会津若松城下へ入る道・・・。<太閤の道>は、<太閤の道>と名付けられた<三代>のSpotだけでなく、延々と会津城下に通じています。

<赤津>から<原>へ行くには、2つの峠があります。会津・郡山の地方史研究者の説と、湖南の地方史研究者の説ととでは、<太閤の道>は、それぞれ異なる峠になります。黒森の山の頂上を通る山道か、黒森のふもとを通る山道か・・・。三代の<太閤の道>の風景と延長線上で考えますと、<太閤の道>は、黒森のふもとを通る山道が、実際に通った道ではないかと思われます。

筆者、何度も、妻と2人で、その2つの峠を軽トラで超えたことがありますが、<黒森のふもとを通る山道>は、湖南の赤津村の地方史研究者の方々が<旧会津街道>と読んでいる道です。今は、紅葉のきれいな時期・・・。湖南の赤津村で一番紅葉のきれいな山道です。ただ、道が狭く、マイクロバスはほとんど通ることはできません。乗り合いバスはもってのほか・・・。明治になって、黒森の山の頂上を通る山道が拡張され、やがて乗合バスが通るようになります。

<太閤の道>・・・、それは<街道>ですから、いろいろなひとびとがこの街道を通って会津若松へ向かいます。江戸の末期、この街道を通ったひとに、長州藩の吉田松陰がいます。吉田松陰、冬の積雪期に、この黒森を越えたそうですが、その日程からしますと、黒森の山の頂上を通る山道より、黒森のふもとを通る山道を通ったと考えるのが一般的・・・。

宿駅の<勢至堂>のむらおさ、太閤秀吉に仕えて、<柏木隼人>という名前を与えられたそうですが、妻の実家の親類・親戚筋に、勢至堂の柏木姓があります。当時、<勢至堂>には40軒ほどあったそうですが、歴史は、いろいろなところでからみついてくるようです。田舎の人間関係は、きのこの菌糸と同じ・・・。地中に深く根をはって、数km、数10km、複雑に絡み合い連なってネット状になっているのが普通・・・。

湖南史談会の前会長の秋山雄記先生ご夫妻、筆者の娘が、誰と結婚するのか、とても心配してくださっていました。湖南のどの農家と結びつき、親類・親戚関係を構築していくのか、いろいろ問題が発生すると危惧されていたようですが、娘は、湖南とは無縁の福島市生まれの高校教師の方と結婚しましたので、秋山雄記先生、ほっとされていたようです。

筆者と妻、きのこの菌糸のような、湖南の人間関係の世界には入って行かないことにしています。

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