湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

吉田くん、冬は何してんだ・・・?

2017年11月25日 |  2.郡山地方史研究会

今日、軽トラのエンジンオイルの交換に、隣村の自動車整備工場にでかけたとき、交換を終えて帰ろうとしたとき、福良村のAさんが話しかけて来られました。

Aさん:吉田くん、冬は何してんだ?
筆者:いろいろ・・・。冬もいそがしいですよ。朝は、除雪作業があるし、午後は、湖南の歴史を調べていますし・・・。
Aさん:湖南の歴史って、何調べてんだ?
筆者:郡山地方史研究会の先生方のすすめで、調べることは多々あります。
Aさん:たとえば・・・。
筆者:猪苗代湖の湖上漕運について・・・。
Aさん:会津丸、知ってるか?
筆者:何度か、写真で見たことがあります。
Aさん:会津丸の船長をしていたひとの孫が持っていた会津丸の写真、おらが持ってんだ!見に来るか?

それで、筆者、Aさんのくるまのあとについて、Aさん宅までついて行きました。Aさんの家は、福良焼きの窯元の家のひとつであるとか・・・。保存されている福良焼きの焼き物を見せていただきました。2015年の湖南文化祭のとき、湖南史談会が福良焼きを特集したときにも展示されていなかった福良焼きの数々・・・。

Aさん:吉田くんは、湖南史談会に入っているのか?
筆者:昨年8月で脱会しました。湖南史談会は、湖南の金持ちの老人会だといわれるので・・・。私は、湖南の歴史や民俗を調べたいので、今は、郡山地方史研究会に入っています。

その話しをしたあとで、Aさん、福良村の門外不出の古文書を数多く所蔵されている、福良村の旧家の方を紹介してくださるとか・・・。福良村の湖上漕運に関する史資料だけでなく、木地師に関する史資料も持っておられるとか・・・。2軒の旧家、今は福良を離れているそうですが、福良に帰ったときは、Aさん宅に立ち寄られるそうで、そのとき話しをしてみられるとか・・・。

思わぬ展開に、筆者、青天の霹靂のような驚きの思いを持ちました。湖南史談会とは別の方法で、湖南の歴史に肉薄することができるかもしれません。

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郡山地方史研究会の研究発表会に参加して・・・

2017年11月18日 |  2.郡山地方史研究会

今日。郡山地方史研究会の研究発表会がありました。

研究発表者は、柳田和久先生と垣内和孝先生の2人・・・。それぞれの演題は、<阿武隈川渡船場の意義について>と<「安積開拓神話」の形成>・・・。

柳田和久先生の講演<阿武隈川渡船場の意義について>は、<阿武隈川における渡船場の運営と役割について>19の史資料と2つの地図の内容紹介・・・。垣内和孝先生の<「安積開拓神話」の形成>は、安積開拓に関する論文・書籍の内容の紹介と、論文・書籍の時系列による研究の変化に関する話し・・・。どちらも、詳細な資料が配布されました。

両先生とも、文献の内容紹介が中心で、その文献の<批判・分析>にまで踏みこまれなかったのは、研究発表会に参加される方々を配慮されてのこと・・・?最後に、郡山地方史研究会の大河先生、史資料紹介による研究発表は、史資料収集の範囲によって研究が制限される・・・、というようなコメントをされていました。

郡山地方史研究会の研究発表会・・・、奥羽山脈のぶところに抱かれた湖南の山郷に埋もれていたのでは、決して遭遇することがない知的刺激に富んでいました。

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『部落学序説』第3章・穢多の定義・・・

2017年11月17日 |  2.郡山地方史研究会

この前の郡山地方史研究会の史跡巡りのとき、郡山地方史研究会の Sato 先生が、筆者のブログを読みたいと言われるので、冊子の形にして提供しようと思ったのですが、なかなか時間的ゆとりがなく、明日、郡山地方史研究会の研究発表会がありますので、そのとき、お渡ししようと思って、今夜、冊子にしました。

A4版、1ページ2段組で縦書き、『部落学序説』第3章、<第1節・穢多の定義>、<第2節・穢多の役務>だけで、68頁の冊子になりました。普通のホッチキスではとめることができませんので、<タッカ>用の針を使って綴じました。



Sato先生の要望は、<2~3頁読んだら『部落学序説』の内容が分かるように要約してくれ>とのことでしたが、そんな要約、意味があるのかどうか・・・。

<『地方史研究法』の著者・古島敏雄は、「はじめから全貌を一度に明らかにするといった方法はない」といいます。もし、そういうものがあるとしたら、「物を正確に知ろうとすることの放棄であるか、或いは一面的な認識を全貌であるとして押しつけることになる」といいます。>(第3章第1節第1項の筆者の文章から)

筆者のブログ『部落学序説』は、<賤民史観>を日本歴史学研究上の<差別思想>と断定する、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢である筆者が、当時、交通の難所だった道を安全に通行できるように、<青の洞門>をノミで掘りつづけた<禅海和尚>と同じ思いで、被差別部落の人々が、先祖のほんとうの歴史を知り、穢多役・非人役の末裔であることを誇りをもって生きていくことができるように小道をたどたどしい言葉で綴ったもの・・・。筆者が『部落学序説』を綴ったとき、筆者の祖父・吉田永學、曾祖父・吉田向學が、信州栗田村の真言宗の観聖寺の住職の家系であることをまだ知りませんでした。難問に対して、岩をノミで砕いていくような作業、宗教者ならではの作業に他なりません。

しかし、今回、筆者がつくった冊子・・・、2~3頁読まれただけで、くずかごにポイと入れられる可能性大・・・。<東北地方には被差別部落はない>といわれる反面、なぜか、差別思想・賤民史観にのっとった<同和教育>だけはしっかりと根を張っている不思議な世界・・・。

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『部落学序説』の第3章・穢多の定義・・・

2017年10月31日 |  2.郡山地方史研究会



この前の、郡山地方史研究会の史跡巡りのとき、郡山地方史研究会の研究者の方が、筆者が、インターネットで公開している『部落学序説』を読んで見たいが、インターネットにアクセスしたことがないと言われるので、プリントアウトして差し上げることにしました。

といっても、膨大なページ数になりますので、第3章だけを、MSWORDでレイアウトし直して、上記の形で提供することにしました。今夜、第3章第1節、第2節まで作業を終えました。あと、第3~9節ありますが、第1~2節で、上記のレイアウトで、ページ数は66・・・。もしかしたら、第3章だけで、9/2*66=297ページになる・・・?裏表印刷で、約150枚・・・。

筆者のこの『部落学序説』・・・、いつかリライトして自費出版しなければならないのですが、その準備作業のために、とりあえず第3章を冊子にすることにしましょうか・・・。



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大河先生から湖上運送の研究をすすめられる・・・

2017年10月30日 |  2.郡山地方史研究会

10月28日の、郡山地方史研究会の史跡巡りのとき、郡山地方史研究会会長の大河峯夫先生から、湖南の<湖上運送>の研究をすすめられました。

筆者、無学歴・無資格、歴史学的研究とは無縁の存在ですので、即答することはできませんでした。これまで、筆者に、<~の歴史を調べてほしい>と話しを持ちかけて来られたのは、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、部落解放同盟新南陽支部のEmura支部長さんから、その地域の被差別部落の歴史を調べてほしいと持ちかけられたのが最初で最後・・・、と思っていたのですが、今回、郡山地方史研究会会長の大河峯夫先生から、湖南の<湖上運送>の研究をすすめられて、昨夜、その可能性があるのかどうか、いろいろ考えていました。

大河先生は、近世幕藩体制下の湖南の輸送は、主要街道を使った<陸運>が主体で、猪苗代湖を使った<水運>は脇役的な意味合いしかなかったと話しておられましたが、脇役の<湖上運送>の歴史を明らかにするには、近世幕藩体制下の輸送全体を視野に入れ、<陸運>と<水運>の両方、またその関連を明らかにしなければなりません。猪苗代湖の<湖上運送>だけに矮小化して調べたのでは、<湖上運送>の本質を把握することはできなくなるでしょうから・・・。

<湖上運送>の歴史研究は、他の湖、または他藩の<湖上運送>との比較研究も必要ですし、近世幕藩体制下の長州藩など瀬戸内海県内の諸藩では、<海上運送>の安全と保護を確保するために、近世幕藩体制下の<海上警察>が配置されていました。長州藩では、穢多身分・茶筅身分のひとがその<海上警察>の職務を担っていましたが、猪苗代湖の<湖上運送>を円滑に行うためにも<湖上警察>が配置されていたことは想像に難くありません。それも視野に入れなければ、猪苗代湖の<湖上運送>の歴史的研究は、不完全なまま終わってしまうことになるでしょうし、会津藩の運送の規制、<入荷>を許可された<いさば(海産物)・竹・鉄・藍玉・塩>、<出荷>を許可された<穀物・酒樽・砥石>の品目の調査も必要になってきます。近世幕藩体制下において、会津製鉄所があった、湖南町赤津村における鉄の生産量と輸送形態も明らかにしなければならなくなります。

その歴史を明らかにするのに、どれだけ、時間がかかるのやら・・・? 無学歴・無資格、歴史研究の門外漢である筆者にできることなのやらどうやら・・・?研究するための基礎資料を持っているのかどうか・・・? 自分の能力を考えますと、その研究を引き受けることはためらいがありますが、湖南の歴史を学ぶきっかけになりそうで、筆者、一気に、猪苗代湖の<湖上水運>に興味をもちはじめました。

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4本指か5本指か・・・?

2017年10月29日 |  2.郡山地方史研究会





郡山地方史研究会の史跡巡りで尋ねた、会津若松市内にある<院内>・・・。

当日、参加者に配布された資料には、「院内御廟案内図」、「会津松平氏系譜」、「藩主の墓・神式のつくり」が含まれています。

上の2枚の写真は、<拝所>として建てられた<碑石>・・・。<個人の姓名・生い立ち・人柄・業績・孝徳を称える分が刻まれている。選文は、当代随一の国学者がこれにあたった>そうです。その<碑石>の土台が<亀跌座>(きふざ)とよばれているもので、<亀石の名で親しまれ、上部に碑石が載っている。耳や牙をもつ伝説上の動物。院内御廟では、<鎮石>や<表石>の方向を向いている>そうです。

この亀は、GPSで測定したところでは<真北>に向いていました。神式なので、亀の顔を向けている方向は、西方浄土の西でも、観音菩薩の浄土の南でもなく北・・・。歴代藩主の亡骸が葬られている<鎮石>の方を向いているようです。この亀のことを<亀跌>とよび、<お墓を守る>と言われているそうです。

筆者のコンパクトデジカメでこの亀を撮影していて、不思議に思ったのは、この亀、2種類あるようです。4本指と5本指・・・。上の亀が5本指で、下の亀が4本指・・・。なぜ、<亀跌>の指の数が違うのか・・・? インターネットで検索してみますと、ほんものの亀は、前足が5本、後足が4本だそうです。筆者が撮影した写真で確認しますと、前足が5本の<亀跌>の後足は4本でした。しかし、前足が4本の<亀跌>の後足は3本でした。しかし、前足5本で後足3本の<亀跌>も存在していました。<亀跌>の指の数、意味があるのやらないのやら・・・。

西日本で<4本指>というのは、被差別部落の人々に対する典型的な差別語・・・。東日本の会津では、そういう差別的表現や差別意識は存在していなかったのでしょうね、きっと・・・。

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会津少年白虎隊の行軍の足跡をたどる・・・

2017年10月29日 |  2.郡山地方史研究会





郡山地方史研究会の史跡巡りで、<滝沢峠>~<戸之口堰洞門>を歩いて、会津少年白虎隊の行軍の足跡をたどりました。

<戸之口堰洞門>を通って<飯盛山>にたどりつく少年白虎隊の姿は、映画やテレビドラマで何度か見たことがありますが、その場所を自分の足で歩いてみるのも、歴史探索のたのしみのひとつです。参加者のひとりが、水が流れる、暗闇の<戸之口堰洞門>を歩くために、長靴を履いて来られていたのはびっくりしました。その参加者の方、他には誰も長靴を持参していなかったので、ひとりで、真っ暗な洞門に入って行かなければなりませんでした。残念ながら、ひとりで洞門に入ることは断念されたようです。

決死の少年隊の行動を、興味半分の現代の年寄りがまねをすることは不可能というか、無謀なこころみでしかありません。その方、カメムシの臭いがする<クサギ>の花と一緒に写真を撮ってくれといいますので、とりましたけれど、<クサギ>と一緒に写真を撮るなんて、なにとなくうさんクサイ・・・。彼は、妻の実家の親類・親戚筋にあたるひと・・・。

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紅葉の会津街道と戊辰戦争の戦跡を訪ねる・・・

2017年10月29日 |  2.郡山地方史研究会





昨日、郡山地方史研究会の<平成29年度史跡巡り>がありました。今回のテーマは、<紅葉の会津街道(太閤道)と戊辰戦争の戦跡を訪ねる>・・・。

午前8:15、郡山駅西口を出発して、午後17:00に同じ郡山駅西口に帰着・・・。

郡山地方史研究会の史跡巡りの特色は、地方史研究会の先生がたが作成された、テーマに関する史資料、歴史地図が冊子として配布されるところにあります。その資料を読み直し、自分の足で歩いた史跡巡りを思い出しながら、後日、同じ行程を、筆者の場合、妻と一緒に尋ねることができます。GarminのGPSに史跡巡りの足跡を地図上に記憶していますので、あまりひとの訪れない場所も、再度尋ねることができます。

上の写真は、<松平家御廟>である<院内>を尋ねたときの写真です。筆者のコンパクトデジカメで撮った写真なのであまりよくありませんが・・・。台風22号接近のため、1日くもり空でしたが、雨が降らないだけでも幸いでした。郡山駅東口の駐車場を出て、三森峠に入るころから、小雨がちらつき始めました。三森峠を越えて湖南に入ったときは、すでに雨でした。

筆者、妻以外のひとと話しをしたのは、ひさしぶり・・・。


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郡山地方史研究会の平成29年度史跡巡り・・・

2017年10月05日 |  2.郡山地方史研究会

今朝、隣村の郵便局に行って、郡山地方史研究会の平成29年度史跡巡りの参加申し込みの返信はがきを投函しました。

今年の史跡巡りのテーマは、<紅葉の会津街道(太閤)と戊辰戦争の戦跡を訪ねる(湖南町から会津城下へ)>。

郡山地方史研究会のKanedaさんの話しですと、湖南の区間(三代宿~黒森峠)は、バスで素通りするだけとか・・・。史跡巡りの日まで、筆者、湖南の区間の国道294号線から見える史跡の案内用のパンフレットをつくることにしました。地方史研究会の方々に配布するには、非学術的な、ずっこけた内容になるかもしれませんが・・・。なにしろ、福良・赤津の歴史は、謎が多過ぎますので・・・。ロマンというよりミステリーな歴史・・・。

はがきを投函したあと、電話でも申し込みました。

昨年夏、湖南史談会を脱会しましたので、筆者が地方史研究を学ぶ機会は、郡山地方史研究会の機関誌と史跡巡りや古文書講習会、研究発表会などの催しものにおいてだけ・・・。

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郡山農業土木史・・・

2017年05月20日 |  2.郡山地方史研究会

今日の午後、<平成29年度郡山地方史研究会>の総会と講演会がありました。

講演会の演題は、「郡山盆地の溜池分布-発展・潰廃・残存について-」。講師は、77歳の高田衛先生・・・。

配布された資料の中に、『地理学評論』(1939年)の竹内常之氏作成の日本の<溜池の分布>地図がありました。それをみますと、筆者の父の生まれ故郷・香川県と、筆者の生まれ故郷・岡山県に匹敵するほど、福島県の郡山を中心とした地域には、溜池が多かったようです。

溜池は、稲作の伝播と同時に、人工的に作られた池のことですが、小規模の溜池は、古代・中世に既に稲作地帯を中心に完備されていたと思われますが、郡山を中心とした地域の大きな溜池は、近世幕藩体制下の1650~1700年間に、新田開発と石高の増大を目指して藩政によってつくりだされたもののようです。配布された資料の中に、郡山盆地の溜池の写真が12枚掲載されていましたが、筆者の生まれ故郷、岡山県児島郡琴浦町の、小さな山あいの溜池とはまったく異なる様相をしています。水田地帯として放棄され都市化が進みますと、農業用水の溜池としての機能を失い、宅地造成のために溜池干拓が行われる可能性があるようです。その溜池の中には、環境保全のために、野生の動植物が生息できる場所として保存の対象になっている溜池もあるようですが、東日本大震災と同じく、想定外の<大旱魃>到来の可能性を否定できませんので、昔のひとの知恵と技術、労力によって作り出された溜池、できるかぎり温存したほうがよさそうです。

今回の講演会を聴講して、筆者、<郡山農業土木史>・<郡山農業気象史>に強く関心を抱くようになりました。

東北地方の農村的地域社会では、<冷害>に関する関心は高そうですが、<干害>に関する関心は相対的に低そうです。湖南の民俗伝承の中から<干害>に関する民話が徐々に姿を消していく傾向にあります。湖南の農家の方々に、筆者が<干害>に関する民話の話しをしても、ほとんどの農家の方は、まったくご存じないご様子・・・。さすれば、<冷害>につていはどうかといいますと、昭和55年や平成5年の大凶作に関する記憶も風化と忘却、著しいご様子・・・。

<平成29年度郡山地方史研究会>は、知的刺激がいっぱい!

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郡山盆地の溜池分布・・・

2017年04月27日 |  2.郡山地方史研究会

今日、<平成29年度郡山地方史研究会総会並びに講演会のお知らせ>がとどきました。

講演会の講師は、東北地理学会会員の高田衛先生・・・。演題は、「郡山盆地の溜池分布-発展・潰廃・残存-」・・・。

<溜池>は、筆者の生まれ故郷、岡山の瀬戸内海地方では、いたるところにあります。中学生のとき、筆者が調べたところでは、倉敷市に合併される前の旧児島市内の溜池の数は、大小2,000近くありました。クラブ活動は理科クラブに入っていましたので、その溜池の生態調査をしたこともあります。灌漑から田畑の作物をまもるために、いたるところに設置されました。

湖南の福良村の真言宗・千手院には、弘法大師由来の、干害から作物をまもるための石蛙伝説がありますが、昔は、湖南の村々でも干害が発生し、それを避けるために溜池が作られたのでしょう。妻の実家のおとうさんから聞かされている<共有地>には、松山の溜池があります。今も、干害になったときの、溜池の水を利用できる<水利権>をもっているとか・・・。

東日本、東北地方、福島県、郡山の溜池についての講演、筆者、とても楽しみ・・・。講演を拝聴する前に、筆者なりに調べてみましょう。

湖南史談会から脱会したものの、地方史研究・郷土史研究とのかかわりはこれからも続けていくつもりです。その場所が、湖南史談会から郡山地方史研究会にシフトしただけ・・・。

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古文書講習会も、復興の足音・・・

2017年03月11日 |  2.郡山地方史研究会

今日、郡山地方史研究会の古文書講習会第49回の最終回がありました。

郡山地方史研究会会長の大河先生指導のもと、講習会のはじめに、全員で、2011年3月11日に東日本大震災の被災者を思って黙祷をささげました。あとに残されたものは、この歴史をあとの世代のものに継承していくとの決意の思いをもって・・・。

大河先生の話しでは、今回の古文書講習会の参加者は96名・・・。平均80名の参加者がいたようです。この数字は、第45回(2013年)55人、第46回(2014年)58人、第47回(2015年)60人、第48回(2016年)62人、そして今年の第49回(2017年)80人・・・。郡山地方史研究会の古文書講習会、東日本大震災の影響を受けて参加者数が激減していたようですが、徐々に回復、今年平均出席者80人に達したようです。

それもそのはずですよね。郡山地方史研究会の古文書講習会、参加者が自分で古文書を読めるようになるための特訓講座ですから、参加者は、自然に古文書が読めるようになっていきます。無学歴・無資格、歴史研究とは無縁の筆者ですら、古文書を目の前にして、不安を抱くことはほとんどなく、判読できない文字をどうして判読していくか、という課題に、果敢に挑戦していくことができるようになりましたから・・・。

来年は、記念すべき、第50回・・・。どういう古文書講習会になるか、筆者、とても楽しみです。第50回の、郡山地方史研究会古文書講習会に参加させていただくために、今日から、再び独習の日々がはじまります。

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郡山地方史研究会の古文書講習会は次回で最終回・・・

2017年03月04日 |  2.郡山地方史研究会

郡山地方史研究会の第49回古文書講習会は、次回3月11日、第6回目は最終回・・・。

古文書講習会の第1~5回目は、近世文書がテキストですが、最終回の第6回目は、中世文書・・・。

今日は、第5回で、近世文書でした。湖南史談会前会長・秋山雄記先生が所蔵されている『秋山家文書』の『御用日記』の抜粋がテキストでしたが、湖南史談会の会員の方々、どなたも参加されていませんでした。秋山雄記先生は、湖南史談会の会員の方々には、『秋山家文書』を公開されていませんので、それを読もうと思えば、古文書講習会に参加する以外に手立てはないのですが・・・。今回のテキストも予習して行ったのですが、誤読が10数か所もありました。筆者の古文書読解力は、まだまだ・・・。

『御用日記』には、天保14年、赤津村周辺にも、<猪鹿出作物踏荒難渋致候>とありました。赤津周辺にも、江戸時代からすでに猪はいた・・・、ということになりますが、湖南の赤津村やその周辺で、猪が増えて農作物に被害が出ているのは、野生の猪ではなく、2011年3月11日の東日本大震災と放射能汚染により、野に放たれた豚と、野生の猪の間に生まれた<イノブタ>によるものだとか・・・。今も昔も、猪鹿の駆除に追われているようです。

第1~5回は、民衆史、あるいは、下級武士に関する古文書がテキストとしてとりあげられているのですが、最終回の第6回目は、中世武家文書・・・。『白河結城家文書』のなかから、<進物次第>1通、<書状>2通、<過所>1通がテキストとしてとりあげられますが、中世東国武家文書の一端を、郡山地方史研究会の先生方から指導を受けながら読むことができるのは、しあわせ・・・。4つの文書の釋文は『白河市史五』(史料篇)に掲載されているようです。とりあえず、独力でどれだけ読めるか試してみます。それと、文学類型としての<書状>・<過所>について、また、<中世東国武家>と<結城家>、<白河結城家>について、手持ちの蔵書で確認してみることにしましょう。

講師の高橋明先生から講義を受けるのは、これで4回目・・・。

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二本松藩の氷室・・・

2017年02月25日 |  2.郡山地方史研究会

今日は、郡山地方史研究会の古文書講習会第4日目・・・。

読んだ古文書は、左の表題の文書・・・。今回、予習しているとき、<100%読めた・・・!>と思ったのですが、7~8箇所、誤読していました。古文書の意味そのものの取り違いはなかったのですが・・・。

今日の古文書の内容は、氷室の氷の販売権に関して・・・。旧暦の6月1日以降に、氷室に貯蔵していた氷を郡山宿に販売するときの価格は、10cm角で4~5文・・・。1m角の氷で、約1両もしたようです。

氷室で氷を作っていた百姓は、<極貧之者>と表現されていますので、百姓が出荷したときの氷の値段は、二束三文だったのでしょう。それが、流通の末端まで行きますと、1m角の氷で約1両にもはねあがっていた・・・!農家に対する搾取構造、昔も今も、あまり変わりはなさそうです。

古文書を読みながら、筆者、<1m角の氷が夏1両で売れるなら、氷室を手に入れて販売してもいいかなあ・・・。運送途中、氷が解けないように創意工夫を凝らして・・・>と思っていました。しかし、湖南から、東西南北、夏の氷の消費地までは峠を越えたはるか向こう6~8里先・・・。やはり無理・・・。湖南で売れば、10cm角の氷は1文にもならない・・・。

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古文書講習会の参加者は約90名・・・!

2017年02月06日 |  2.郡山地方史研究会

今朝、福島民報に、郡山地方史研究会の古文書講習会の記事が載っていました。

<古文書読み解き
先人の足跡を探る
郡山地方史研究会 講習会開講

郡山地方史研究会の第49回古文書講習会は4日、郡山市の中央公民館で始まった。郡山地方に残る古文書を読みながら先人の足跡を探る講習会で郡山地方史研究団体連絡協議会との共催で毎年開いている。約90人が参加した。初回は郡山地方史研究会会員の広長秀典さん、小林成子さんが講師を務め享保2年7月に出された二本松藩の御条目について読み解いた。御条目には藩の決まりなどが記されている。大雪になった場合や夫婦間のトラブルへの対応など当時の庶民の生活ぶりがうかがえる内容で、高齢者の弱者へのいたわりについての記述もあるという。

講習会は全6回で3月11日まで開かれる。>

学歴・経験を問わず、古文書を読みたいひとのために開かれたオープンな古文書講習会です。

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