湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

このまま埋もれさせるのは・・・

2018年01月18日 |  3.湖南史談会

昨日の夕方、湖南史談会のKanedaさんから電話がありました。

<吉田さんをこのまま埋もれさせるのは、湖南にとって損失だから、あらたに湖南の地方史研究会をたちあげないか・・・?>というのが、電話して来られたおはなしの趣旨・・・。

湖南史談会も、地方史研究会としてあまり機能していないのに、その上にさらに別な地方史研究会をつくっても、あまり意味がないのではないかと思われましたし、それに筆者、調べなければならないことを多々抱えていますので、その時間を圧迫するような労力を割く力は、もう70歳の筆者にはありません。

それで、筆者、<郡山地方史研究会に参加させてもらうだけで十分です。>とお答えしました。筆者の関心があるのは、権力史観ではなく民衆史観・・・。郡山地方史研究会の古文書講習会のテキストをみても分かるように、民衆史関連の史資料ばかり・・・。

それに、<埋もれる>というのは、<埋もれる>前には<埋もれていない>状態にあったということが前提になります。<沈む>場合にも、<浮いている>状態が前提にありますから・・・。

無学歴・無資格の筆者のこれまでの人生を振り返ってみますと、<埋もれていない>、<浮いている>状態に置かれたことはいままで一度もなかったように思います。なにかの拍子に、<出る杭>となり、日本基督教団神奈川教区や西中国教区の先輩牧師たちから<出る杭は打たれる>の諺通り、打たれ続け、排除・疎外されてきたことはありますが・・・。

筆者、高校3年生のときに、Sweden Covenant Mission の宣教師から洗礼を受けましたが、そのとき一緒に洗礼を受けた、8歳年上の、花道の先生でお花屋さんのWatanabe姉、<吉田くんを花にたとえると、どんな花かなあ?やっぱし、サフランね。背丈が低く、地面に這いつくばって生きているから・・・>と話しておられましたが、筆者を花にたとえたひとは、Watanabeさんが最初で最後・・・。妻は、その話しをする都度、大笑いします。背丈が低く、地面に這いつくばって生きているサフランの花のよう・・・。サフランの花は、どんなにがんばっても切り花になりません。かびんに活けられてひとめをひくことはありません。それが、筆者の天与の宿命・・・。

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湖南史談会の後継者、確定・・・?

2017年12月24日 |  3.湖南史談会

今日、猪苗代町のホームセンターで、湖南史談会会員の方に出会いました。

なにでも、その方のおくさんの里が猪苗代町で、そのホームセンターのすぐ近くに家があるのだとか・・・。その湖南史談会会員の方、湖南史談会の次期指導者として目されているふたりのうちのひとり・・・。しかし、思いがけない話を聞かされました。その方、湖南史談会を脱会されたとか・・・。

理由は、<今の湖南史談会は、歴史研究ではなく、旅行を趣味にしている老人会でしかなくなった>とか・・・。

話しをお伺いしながら、なにとなく違和感を覚えました。今の湖南史談会を旅行を趣味にしている老人会へと牽引してきた会員のひとりでしたから・・・。その方、さらに、<おらあ、今は年金暮らしだから、旅行の費用は出せねえ!>と話しておられました。

どうやら、湖南史談会の次期指導者争いから落脱し、湖南史談会の次期指導者は、福良村ではなく三代村のKanedaさんに確定したようです。長い間、湖南史談会の執行部は、福良村が独占していましたので、湖南史談会をその設立趣旨にそって再建するには、執行部を福良村で独占しないで、三代村・中野村・月形村・赤津村から幅広く専任したほうがよさそうです。

筆者、<ここらのもんでねえ、よそもん>なので、再び湖南史談会にかかわることはありませんが・・・。

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ならぬことはならぬもの・・・

2017年11月22日 |  3.湖南史談会

会津藩の<什の掟>は・・・

<一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです>。

妻のふるさと・湖南の赤津村は、旧会津藩領地・・・。ならば、赤津村の農家の間にも、この<什の掟>が浸透しているのか思いきや、まったく逆の社会現象がよく見られます。

<一、ここらは年長者の言ふことに背くのが道理
一、ここらは、年長者にはお辞儀をせぬが道理
一、ここらは、卑怯な振舞をするのが道理
一、ここらは、弱い者をいぢめるが道理
一、ここらは、戸外で物を食うが道理
一、ここらは、戸外で婦人を「オイ!」「コラ!」呼び捨てにするが道理
ならぬことなどなにもなし。我利我欲に徹し、人を人と思わぬが道理>。

昔から、<什の掟>が繰り返し説かれたのは、会津のひとは、その<什の掟>からたやすく逸脱して、道を踏み外すひと、会津の精神を貶めるひとがあまりにも多過ぎたためでしょうか?繰り返し、繰り返し、<什の掟>を説く必要があった・・・。そうしないと、会津の精神を維持することができなかった・・・。会津戦争に敗れ、会津城を失った会津藩の武士たちの生き様を昨日読みましたが、悲惨としか言いようがない現実がありました。<ならぬこと>ばかりを繰り返す会津藩の武士や百姓、それを正道に戻すために、常に、<什の掟>の教えが繰り返される必要があったようです。困窮に直面した武士や百姓に<什の掟>は無縁のものであったようです。

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誰だ?反あたり12俵採れたと言ってんのは・・・?

2017年11月20日 |  3.湖南史談会

今日、隣村の自動車整備工場で冬用タイヤの交換にでかけたとき、筆者のあとに冬用タイヤの交換にやって来られたのは、湖南史談会の Niheiさん・・・。

Niheiさん:今年は意外と米がたくさん採れたみてえだなあ?
筆者:そうみたいですね。反あたり12俵とれたひともいるようです。
Niheiさん:誰だ?反あたり12俵採れたと言ってんのは・・・?
筆者:たとえば、湖南史談話会の Kanedaさん・・・。くず米・青米抜きで反あたり12俵採れたとか・・・。
Niheiさん:Kanedaくんの田は、いい田なんだ!Kanedaくんの田なら、今年のような天候でも、反あたり12俵とれても不思議ではねえ!ほんとうにいい田なんだ!

湖南の三代村で、あきたこまちが<反あたり12俵採れた>というKanedaさんの言葉は、三代村の農家がすべて納得していることがらであるようです。

<反あたり12俵採れた>という農家の言葉に、年配の Veteran の農家の second がつく、Kanedaさんという農家、ほんとうに凄い!

湖南の赤津村で、<反あたり12俵採れた>というプロの農家がいても、誰も、second につく他の農家はいません。<反あたり12俵採れた>というプロの農家の自慢話しに、<本人が言ってるんだから、採れたんだろう・・・?>と半信半疑な対応がほとんど・・・。

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湖南史談会とは、かかわりを持たないことに・・・

2017年10月15日 |  3.湖南史談会

筆者と妻は、<ここらのもん>にとっては、余所者である<あっちのもん>・・・。

<あっちのもん>は、<ここらのもん>にとっては、常に、侮蔑の対象・・・。<ここらのもん>の歴史研究、民俗研究の世界には入っていくことはできません。湖南史談会のKanedaさんも、<湖南はおらのテリトリー>と話しておられましたが、湖南の歴史研究の方向性と内容を決めるのは、余所者ではなく、<ここらのもん>である湖南史談会の研究者たち・・・。

湖南史談会の次期会長とうわさされる Kanedaさんに、やがて湖南史談会の指導者になっていかれるでしょうから、筆者、湖南史談会から距離をおくためにも、Kanedaさんの研究分野と抵触することがないように、あまりKanedaさんの世界に深入りすることはやめておいたほうがよさそうです。

『郡山市史』の湖南に関する記述・・・、<間違っている。書き直させなければ・・・>というKanedaさん、日本基督教団西中国教区の山口の小さな教会の牧師をしていたとき、筆者が一番苦手なタイプのひと・・・。歴史研究者、郷土史研究者などの<歴史家>ではなく<歴史屋>のタイプ・・・。筆者が関心を持っているのは、歴史の真実であって、歴史の捏造ではありません。

歴史の真実は、<石>にではなく<紙>に刻むもの・・・。

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湖南史談会会員のKanedaさんが来訪・・・

2017年10月14日 |  3.湖南史談会

湖南史談会会員のKanedaさんが来訪・・・。

この10月28日に開催される、郡山地方史研究会の史跡巡り、郡山駅西口を起点にして、三代宿→福良宿→赤津宿→原宿→赤井宿・・・とバスで通過することになりますが、その福良(口留番所跡)を出るのが9:50・・・。そして赤津宿を通り過ぎるのが10:00・・・。その10分の間、国道294号線を通るとき、その国道の両側の史跡を筆者が紹介するということになっていたのですが、しかし、それを決めたのは、郡山地方史研究会執行部ではなく、湖南史談会会員のKanedaさん・・・。

今日の夕方、来訪されたとき、<昔、吉田さんが湖南史談会の会員をしていたときに撮った写真を資料として勝手に使うことはよくないから、了解をとりに来た・・・>と話しておられました。その写真は、赤津村の北の端にある<夕日城>からみた赤津宿の写真・・・。大内宿と同じ面影がある宿場町が写っていました。筆者、<こういう写真は、誰が撮っても同じ・・・。お好きなように使われたら・・・?>とお答えしました。

湖南史談会会員のKanedaさん、<湖南は、おらのテリトリー>と話しておられましたから、筆者、福良宿から赤津宿をバスで通り過ぎる10分間のガイドは、辞退することにしました。この話し、たぶん、郡山地方史研究会の方々とは無縁の、湖南史談会の現会員・Kanedaさんと、元会員の筆者の間の話し・・・。辞退しても問題はなにもないでしょう。湖南史談会会員のKanedaさんが、参加者に対して赤津の史跡をガイドするときに必要とされる写真・史資料は提供することにしますから・・・。

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収穫したばかりの備中レンコンと赤トンボと妻と・・

2017年10月05日 |  3.湖南史談会

今日、中国人の方の要望で、レンコンを掘り起こす日ではないのに、昨日掘り起こした備中レンコン・・・、注文キャンセルのレンコンとその他のレンコン、野菜直売所・湖南四季の里から引き揚げてきて、小さなレンコンは、わが家の今日の夕食に使用、残りはすべて、湖南史談会の前会長の秋山雄記先生宅に届けました。

秋山雄記先生の奥さま、蓮根の漬物を漬けられるので、たくさん備中レンコンをさしあげても、全部消費してくださいますから・・・。しかし、本格的に蓮根の漬物をつけられるには量が少ないので、そのうち、まとまった量を届けることにしています。

妻に、<備中レンコンの栽培面積、少し広すぎるのでは・・・?>と尋ねますと、妻は、<そんなことはありません。蓮根の栽培農家は、湖南で1軒、吉田農園だけですから、これからも吉田農園の主要生産物にします!>と答えていました。来年は、備中レンコンの生育場所を自然にまかせるのではなく、指定した場所にレンコンが成長してくれるように、どのような対策をとる必要があるか、妻に話しましたら、妻も、<それ、わたしも考えていたの。あなたが、どこで掘ったとき、大きなレンコンを掘り起こしているのか、いつも観察してきましたから・・・。一定の法則があるのよね。その法則に適うように、栽培するということでしょう?>と答えていました。

今日、午後、備中レンンコンを掘り終えて、給水ポンプでくみ上げた、ホースの先から勢いよくほとばしる水で土を落とし、それを妻に渡したとき、妻が、<あなた見て!見て! わたしの肩や手に、赤トンボがいっぱい止まってるでしょう!今までは、あなたの肩や手にしか止まらなかった赤トンボが、今年はわたしの肩や手にとまってるわ!>と喜んでいました。

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会津戦争と湖南に関する記事を検索・・・

2017年08月21日 |  3.湖南史談会

今朝5:00に起床・・・。

インターネットで、会津戦争と湖南に関する記事を検索しました。<ここらのもんでねえ>筆者、会津戦争についても、それに参加した湖南の福良村・赤津村の農兵についても、ほとんど何も知りません。湖南史談会のKanedaさんから、<郡山地方史研究会の紀要に論文を掲載できるレベルではなく、地方史研究以前のレベル・・・>と評された筆者ですが、無学歴・無資格、歴史研究とは無縁の筆者、そう評されても反論する理由はひとつもありません。

それに、筆者、郡山地方史研究会の紀要に論文を掲載しようなどとは、つゆも思ったことはありません。郡山の地方史に肉薄することができる分野があるとすれば、それは、近世幕藩体制下の郡山の司法・警察制(穢多役・非人役)について・・・。しかし、郡山地方史研究会の方々は、<部落史>に関しては、通り一辺の理解しかもっておられないようで、場合によっては、政党や運動団体のイデオロギーをそのまま受容されておられる方々も少なくありません。そのような中で、筆者のブログ『部落学序説』の論理を展開しても、あまり意味はなさそう・・・。つまり、これからも、郡山地方史研究会の紀要に、筆者が論文を投稿することは100%ありません。

今朝、インターネットで検索して、プリントアウトしたのは、

1.会津藩の軍制における会議隊の位置づけ
2.会議隊隊長・野田進の経歴
3.白河口の戦いにおける湖南・福良村赤津村の戦死者
4.湖南の、戊辰の役戦没者の墓
5.戊辰の戦い(『郡山市史9 資料中』)

湖南史談会の会員内の<通説>と、文献から想定される歴史との間には、かなり大きなギャップがあるようです。筆者が関心を持つのは、歴史の事実だけであって、湖南史談会の郷土史観ではありません。これまでに文書化された史資料・論文から、出来る限り歴史の事実を明らかにして、湖南の歴史理解を深めるのみ・・・。

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まだ、1度も目にしたことがない湖南史談会の『会報』・・・

2017年08月20日 |  3.湖南史談会

昨年8月に、筆者、湖南史談会を脱会しましたが、会員になっている間、湖南史談会の研究成果の発表のための機関誌『会報』を読ませてほしい・・・と何度もお願いしたのですが、結局、1度も目にすることなく、湖南史談会を脱会することになりました。

そのため、筆者の手元にある湖南史談会の研究成果は、30~40年前のものばかり・・・。それ以降の、湖南史談会の地方史研究の、史料収集や研究成果については、知りうる手立てなし・・・。郡山地方史研究会の紀要『郡山市地方史研究』のバックナンバーの目次を検索しても、やはり、湖南史談会の会員による論文は、昔のものばかり・・・。

山口に棲息していたときに入手した、湖南に関する本に、こんな走り書きがありました。

<贈呈
半澤右卯右エ門>

<半澤氏 地方文化功労者知事賞受賞
58・5・22 郡山市地方史研究会総会において>

湖南史談会、前会長・現顧問の秋山雄記先生を、<郡山市文化功労賞>に推薦したとか・・・。秋山雄記先生から、推薦してほしいと湖南史談会に申し出があったそうですが、半澤右卯右エ門氏(湖南史談会会長を歴任)が地方文化功労賞を受賞したときは、研究成果を文献として残し相次いで出版されているので、受賞は、ある意味当然・・・。今回、秋山雄記先生が、<郡山市文化功労賞>を受賞されるときの功績としての研究論文ないしは出版物は何なのでしょう?<ここらのもんでねえ>筆者、湖南史談会の『会報』を1度も目にしたことがないのと同じく、秋山雄記先生が出された研究論文や書籍も、筆者の目に触れることがなかっただけなのかもしれません。

湖南の住人なら誰でも知っていることを、<ここらのもんでねえ>筆者は、なにも知らない・・・。

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論文が書けるレベルではないの・・・?

2017年08月20日 |  3.湖南史談会

今日、湖南史談会会員の Kaneda さんと電話で話をしました。

そのとき話した内容のひとつは、以前このブログで書いたことがある、葛西富夫著『続・会津の歴史』に掲載されている左の地図について・・・。

Kaneda さんの話しでは、地方史研究者の中には、間違った資料にもとづいて間違った研究成果を引き出すひとが少なくないとか・・・。この地図で表示されている会津藩領は、間違った地図であるとか・・・。

Kaneda さんによりますと、『郡山市史』の記述も間違っているとか・・・。正しい歴史的記述は、湖南史談会が出した文献のみであるとか・・・。

Kanedaさん、筆者の質問に対して、<吉田くんは、(湖南史談会の会報に)論文が書けるレベルではないの?地方史研究以前の話し・・・?>と問いなおして来られましたが、こんな質問をする筆者に、かなりがっかりされたようです。

Kanedaさんに質問したことで、<謎>の解決に結びついたのではなく、かえって、<謎>が<謎>を呼んでしまいました。

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湖南の歴史の負の遺産・・・?

2017年08月16日 |  3.湖南史談会

夜、手元にある資料をひもといて、左の地図で、近世幕藩体制下の会津藩においてその領地とされていた赤津村・福良村が、<会津領地>からはずされていることについて、その理由を推察し得る可能性のある資料に目を通しました。

湖南史談会が、湖南の<史蹟>に固着して、湖南の<歴史>から目を塞ぐ理由は、湖南に関する<資料不足>にあるようです。昭和53年頃の湖南史談会の置かれた状況だったようですが、それから、約40年・・・、歴代の湖南史談会会員の方々は、それ以降、湖南の歴史に関する史資料をどれほど収集して来られたのでしょう?

たとえ、史資料が少なくても、それを補って、湖南の<歴史>を明らかにする方法はいくらでもあるはず・・・。

今年の7月5日、<郡山市の熱海史談会、猪苗代町の猪苗代地方史研究会で結成した「戊辰戦争150年会津藩母成峠陣跡保存協議会」が母成峠頂部駐車場脇に設置した会津藩陣跡の案内板の除幕式が行われた5日、陣跡で現地案内会が催された・・・>と福島民報に掲載されていましたが、その現地案内会に参加された湖南史談会のKanedaさん、会津戦争のとき、長州藩をはじめとする官軍が、会津城陥落のための進軍を母成峠突破に置き、会津藩の勢力を分散するため、<勢至堂>、<三斗小屋>、<日光口>にも兵を進行させたとき、会津藩の<勢至堂>峠での<徹底抗戦の策>、なぜ効なくして潰れ、そのとき、<湖南徴用>の<守備隊>は、何をしていたのか・・・? それを念頭に置きながら、勢至堂峠での戦場跡を視察されたのだろうと思うのですが、筆者が昨夜と今夜見た資料から判断しますと、それは、湖南の歴史の<負の遺産>・・・?

それを知った歴史研究者は、<会津の名折れ>として、それにかかわった赤津村・福良村を地図から消してしまいたいという衝動に駆られるのかもしれません。会津藩の歴史に肩入れすればするほど・・・。

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『続 会津の歴史』に掲載された地図に思いを馳せる・・・

2017年08月16日 |  3.湖南史談会



昨夜、葛西富夫著『続 会津の歴史』に収録されいている会津藩領地の地図(概略図)を眺めながら、その理由を考えていました。

湖南の赤津村・福良村・三代村は、旧会津藩領地の村・・・。白河街道の宿駅の場所・・・。会津戦争のときまでは、上のような地図、赤津村・福良村・三代村のうち、三代村を残して、赤津村・福良村が会津藩領地から外されている地図は存在しなかったのではないかと思われます。旧長州藩が会津に攻めに入ったときに使った地図では、赤津村・福良村・三代村ともに会津藩の村として書き込まれていますから・・・。

しかし、上の地図は、あきらかに、会津藩領地から、赤津村・福良村を排除する意図が明白な地図です。

なぜ、こういうことになったのか・・・? 昨夜、葛西富夫著『続 会津の歴史』・『会津・斗南藩史』、郡山市史、湖南史談会が発行した史資料をひもといてみました。昨日読んだ資料から、なぜ、赤津村と福良村がこの地図から外されているのか、なぜ、湖南史談会会員で前郡山市会議員の<よしだ金次郎>さんが<会津士魂>を旗印にして市会議員の選挙に臨まれるのか、その理由が分かったような気がしました。 

湖南史談会が、湖南の<史蹟>と<文化財>に固着して、湖南の<歴史>そのものを避ける傾向がある、その理由も分かったような気がしました。 

筆者のこのブログは、湖南の人々は、ほとんど見に来られることはありませんので、このブログで、<どなたかご存知ですか?>と尋ねても、答は返って来ないでしょうが、<どなたか、御存知ありませんか?> 

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吉田農園は、小間使いが2人いるだけ・・・

2017年07月16日 |  3.湖南史談会

今日、妻が、野菜直売所・湖南四季の里に野菜を出展に行ったとき、湖南史談会の会長の Ito 先生から、話しかけられたようです。

会長:社長は元気か?
妻:吉田農園に社長はいません。小間使い2人がいるだけです。

湖南史談会会長の Ito 先生、妻の思いがけない答えに、黙って去って行かれたようです。妻の話しでは、<わたしは、あなたの小間使い、あなたは、わたしの小間使い>だそうです。妻は、旧約聖書の夫と妻の関係のあり方を示す言葉を<小間使い>という言葉を使って言い換えたようです。妻は、湖南史談会会長の Ito 先生に、妻のいわんとすることがつたわらなくて、残念がっていました。

筆者、<Ito先生、耳が遠くなってるみたいだから、A子さんの言葉が聞き取れなかっただけじゃないの?>となぐさめたのですが、湖南の、プロの農家の方々と話しをするときも、注意することが必要です。1.視力はだいじょうぶか?、2.聴力はだいじょうぶか?、3.会話力は大丈夫か?、4.理解力はあるか?、5.ただ単に言葉を交わしただけなのか、その言葉に意味があるのか?

昨日、農道を軽トラで走っているとき、反対車線をスピードを落とさないで直進してくる普通車がありました。筆者、路肩に軽トラを寄せて難をまぬがれましたが、<今のくるまを運転していたひと、日本人じゃないのじゃないの?堂々と右側走行してきた!あんなのが増えると、農道を走るのも命がけになる!> もしかしたら、日本人だったのかもしれません。高齢になって視力が低下して前方がほとんど見えない・・・。それにしては、スピードが出過ぎていたので、中国人か韓国人・・・? 日頃あまりみかけない車種とナンバーでしたから・・・。

上記の1.~5.に判断ミスがあると、人間関係のトラブルにつながってしまいます。

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葛西富夫著『続会津の歴史』が届く・・・

2017年07月12日 |  3.湖南史談会

今日、インターネットの日本の古本屋経由で注文していた葛西富夫著『続会津の歴史』が届きました。

早速、会津藩領地から、赤津村と福良村が外され、三代村だけが会津藩領地に加えられている地図、P352の<会津藩領有地>を確認・・・。関連記事を目で検索してみたのですが、それらしい記述はありませんでした。

まさか、<有栖川宮熾仁親王>が関係しているのではないでしょうね・・・?(会津を征討する東征大総督・有栖川宮熾仁親王に、赤津村・福良村は自ら関係を作りだした・・・? それが、旧会津藩に対する裏切りとして、<会津藩領有地>という地図に反映されていたりして・・・?)

昔、湖南史談会が、湖南と皇室の関係について文章化していますが、それを読んでも、<ここらのもんでねえ>筆者、いまいち分かりません。

湖南のひとはみんな知っているのに、筆者と妻だけが知らないこと・・・、なのかもしれません。今度、湖南史談会員で三代村の歴史研究者のひとり、Kanedaさんにお尋ねすることにしましょう。<赤津村・福良村>と<三代村>の葛藤があったかなかったかについて・・・。

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湖南の反あたりのあきたこまちの収穫量は12~13俵・・・

2017年07月09日 |  3.湖南史談会

湖南史談会の Kaneda さんと話しをしていたとき、Kaneda さん、<湖南の反あたりのあきたこまちの収穫量は、10~12俵ではねえ!12~13俵だ!>と話しておられました。

湖南の専業農家やプロの農家の方々、素人百姓の筆者と妻が、有機栽培・無農薬栽培でコシヒカリを反あたり7俵収穫したと聞いても、驚かない、むしろ、<たった7俵しかとれねえのけ?>と呆られたり、バカにされたりするのがオチであるようです。

仮に筆者と妻が、化学肥料・農薬・除草剤、大型農業機械を使用して、反あたり13俵、あきたこまちを収穫したとして、2.4反×13俵=31俵=30kg入り×62袋・・・。妻の実家の簡易保冷庫に保管できるのは21袋ですから、41袋、処分しなければならなくなります。筆者と妻、JA湖南の組合員ではないので、JA湖南から出荷というわけには行きませんので、生産してもほとんど無駄になります。妻の実家の棚田で栽培するあきたこまちは、とびっきり不味いので、たとえ献品するとしても、老人ホームにおくることにためらいが生じてきます。ありがためいわくの押し付けになってしまいます。

妻は、コシヒカリ、はえぬき、ひめのもちあわせて、36~38袋とれたら十分であるといいます。量よりも質をもとめて、コメつくりに励むことになります。本場のあきたこまちより美味しいといわれる湖南産あきたこまち、しかも反あたり12~13俵収穫できるのですから、湖南の農家は、やはり天才的農家揃い・・・。プロの農家は、20~40反あきたこまちを栽培しておられますので、1俵あたり15,000円で売れたとして、13俵/反×20反*15,000円/俵=3,900,000円・・・。プロの農家は粗売上400~800万円の収入があるということになります。50%経費がかかるとして、実収入は200~400万円・・・。湖南のプロの高齢農家(兼業農家)の方々の月収入は、国民年金4~6万円+農業収入16~32万円(月収入20~38万円)・・・。悠々自適の暮らしと生活(国民年金ではなく厚生年金だとしたらもっと月収入が増えます)・・・。

それをふいにしてまで、コシヒカリを栽培する農家は、ひとりもいないとか・・・。筆者と妻、最初から、湖南のプロの農家の方々とは別世界で、有機栽培・無農薬栽培でコシヒカリ、はえぬきを栽培していたようです。それでも、充実した5年間でしたので、これからも同じ、田舎暮らし・山里暮らし・百姓暮らしを続けていくことになります。

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