湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

『たたら日本古来の製鉄技術』・・・

2017年02月27日 |  2.真言密教と修験道

昨夜、インターネットの日本の古本屋経由で入手した、黒岩俊郎著『たたら 日本古来の製鉄技術』をよみはじめました。

黒岩俊郎氏は、東京大学工学部冶金学科卒。博士論文は、<製鉄技術発達過程の技術史研究>・・・。この本を執筆されたときは、専修大学教授で大阪大学講師・・・。

黒岩俊郎氏によりますと、<たたら>は、<日本独自の技術>・・・。世界で、<砂鉄から鋼を製錬するのは、インドと日本だけ>とか・・・。日本の製鉄は朝鮮由来との説もあるようですが、<韓国・・・どうも大分日本とちがった国のよう>だそうで、<韓国の製鉄技術>は、日本の製鉄技術とは異なるとか・・・。韓国のそれが<原始的な製鉄>であるのと比べて、日本は、かなり高度な製鉄技術に達していたようです。

延喜5年(西暦905年)の、日本各地の鉄の価格表に興味ある数値が出ていました。旧長州藩領地に属する周防・長門国と、旧会津藩領地が含まれる陸奥・出羽の国の価格比は、6:14・・・。2.33倍の価格差があります。その理由について、黒岩俊郎氏は、1.東北地方でまだ十分製鉄が発達していなかった、2.この年代では、中央政府はまだ東北の製鉄集団を支配下に置いていなかった、可能性があると解釈しています。

柴田弘武『鉄と俘囚の古代史 蝦夷と「征伐」と別所』によると、後者の可能性大ですが・・・。東北における2つの製鉄技術の接点、それが、妻のふるさと・湖南にある可能性があります。湖南の赤津の<会津製鉄所>の前史がどこまでさかのぼることができるのか、<ロマンにみちた>世界であるようです。

<そんなこと調べたって、1銭の得にもなんねえべえ?おめえ、バカと違うけ?>、そんな湖南の雰囲気の中で、どこまで、歴史探求の<ロマン>に浸り続けることができるか、わかりませんが、関心を持ち続けることにしましょう。

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俗山伏・・・

2017年01月09日 |  2.真言密教と修験道

昨夜、定本・柳田國男集第9巻の『俗山伏』を読みました。

柳田國男によりますと、<中世の山伏>と、近世の<真言宗>、<聖護院>(天台宗)においては、それぞれ、髪型が異なっていたようです。

1.中世の山伏は、<切下>
2.近世の<真言宗>は、<圓頂>
3.近世の<聖護院>(天台宗)は、<有髪>

筆者の父祖・吉田永學、曾祖父・吉田向學は、信州・栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系ですが、真言密教の修験の流れをくむ寺・・・。真言宗では、真言密教の修験の寺の住職だけでなく、山伏も、<圓頂>(剃髪して丸坊主頭になること)を強制したようです。<呪験の行者>とは一線を画していたようです。

<俗山伏>は、<本當二山の下には附かず寒垢離浄瑠璃祭文などを家業として乞食同然の生活をなし、それでも足らずして常は百姓の山番をさせて貰っておるので、一に又山守山伏とも謂ったとある。・・・一部の山伏には一転して破落戸となり得る素質があった・・・。彼等をして右の如く変化自在ならしめたものは即ち其髪の毛であった>。

柳田國男によりますと、江戸の<下町の各町裏に店借をして何々院が住んで>おり、<俗山伏>の<院>は、<今日の何々教会の数よりも多かった>そうです。

近世幕藩体制下の江戸の修験者=近代明治天皇制下の基督教会の神父・牧師、類似点・・・?

信州・栗田村の真言宗・観聖寺の住職の家系をひく筆者が、日本基督教団の牧師になったというのも、決して不思議ではないということなのでしょうか・・・? 下級宗教家の流れ・・・? 筆者の先祖、2.近世の<真言宗>に所属していてよかったという気持ちがどこかにあります。<俗山伏>でなくて・・・。

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真の自己を見るために・・・

2017年01月01日 |  2.真言密教と修験道

今朝届いた、柞木田龍善著『修験の山々』の本の帯にあった言葉を読みました。

<55歳になった途端、定年退職になった私は、その1年後、自分にはこの飯豊の、雪の大日岳をどの程度越え行く力が蔵されているものか、56歳に近づいている自分の肉体と気力を験してみるには絶好の機会と、「25年間も日本全土の名ある山岳に登っているこの俺には、まだまだこの連峰を独りで縦走していけるだけの気力も体力もあるはずだ」と考えた。以前の私は、山に登ることに格別の思案をいめぐらして登ったことはなかったが、56歳の私は、雪の飯豊山に登に当って、こうした気持ちを自分にいい聞かせ、自分で自分を納得させて飯豊に向かうことにした。まだ残っているはずの自分の力を確かめるためには、苦難を乗り越え得るか否かの山岳登攀という実際経験によって、証明する以外にはないと思ったからである。

実社会からもう用がなくなったといわれたこの俺の身体の健康状態と、気力をどのくらい発揮出来るのか、ただ1人で35kgはある特大のキスリングを背負って、あまり知られていない未知の、東北の大きな山岳への登攀という苦難を乗り越えて見ないことには、自分を証明することは出来ない。頭に学問を蓄積しただけでは真の自己は見えないはずだ>。

真の自己を見るために、東北アルプスの嶺を登攀・・・。

昨年の湖南史談会の一泊研修会の史跡探訪は、修験霊山のひとつ日光の二荒山・・・。湖南史談会の方々が、何度も日光に行きたがるのは、精神的背後に修験道とのつながりがあるのかもしれません。筆者、マイクロバスで旅する修験道の聖地めぐりより、<学問を蓄積>して、筆者の父祖・吉田永學、曾祖父・吉田向學などの先祖の足跡を知ることにしました。先祖の歴史、筆者のルーツを探求する旅で、筆者は、100%、近世幕藩体制下の司法・警察である<非常民>(「穢多」役、「非人」役)とは無縁の存在であることを文献上確認することになりました。

今年69歳の筆者にとって、修業の場は、遠くにある修験霊山でも、身近にある里山の修験場でもなく、標高550mの湖南高原の、妻の実家の棚田の3枚の田・・・。修験道の行者の持つ金剛杖ではなく、田の草取り鍬をもっての、筆者の<真の自己を見る>ための修業・・・。

形は、修験道の行者のごとくなれど、心は、基督教の信仰・・・。

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修験道の本質・・・?

2015年03月20日 |  2.真言密教と修験道

修験道とは何だったのか・・・?

日本基督教団の隠退牧師である筆者、人生の晩年の研究課題のひとつにすることにしました。筆者の視点・視角・視座からしますと、修験者は、単なる民衆を惑わす呪術家などではありません。非科学的・民俗宗教的な存在ではなく、むしろ科学的・合理的宗教家であるように思われます。

湖南史談会の史跡調査のために集めた史資料の中に、そのことを想定させられる関連書籍がたくさんありました。修験者は、現代的な言い方をすれば、地理学・気象学・農学・土木・鉱業などの知識・技術をもって村の経営にかかわっていたプロ集団・・・。

もちろん、単なる山岳宗教としての宗教的悟りを求めて、純宗教的に修験道の道を究めようとした人もいるでしょうが、村に定住することになった修験者は、その村にとっては、別な意味でなくてならぬ存在だったようです。

ただ、そのことに直接触れた文献はそう多くはなさそうですが、これまで入手した書籍を精読して、修験道の隠された側面を明らかにしていきたいと思います。明治政府の修験道禁止令によって、修験道の歴史まで葬り去られた可能性がありますから・・・。修験道の知識・技術は、明治政府の近代化・欧米化政策によって、なにに置き換えられていったのか・・・?

修験者の中で、<社僧>と言われていた人々は、妻帯を許され、神主の娘を嫁にしていたようです。父祖・吉田永學、曾祖父・吉田向學の先祖、信州栗田村の真言宗観聖寺の住職は、代々、修験でありながら妻帯していたようですから、<社僧>の可能性もあります。<吉田>姓を名乗っていたのもそのためかもしれません。

郡山地方史研究会の古文書講習会の最終日にとりあげられた修験道に関する古文書・・・、その原本を今日まで受け継いでいる方は<吉田豊>さん・・・。吉田姓と深く結びついているようです。

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世義寺について調べる・・・

2015年03月20日 |  2.真言密教と修験道

筆者の父祖・吉田永學、曾祖父・吉田向學のふるさと・信州栗田村の『信州栗田村古文書集成』の巻頭の<栗田村の歴史(概略)>の中に次のような説明が出てきます。

<観聖寺跡 舎利田(吉田氏宅地内)にあり、創立寛永14年(1637)舜良開山、新義真言宗修験伊勢国度会郡中本山世義寺の末>

その<吉田氏>によりますと、筆者は、間違いなく<観聖寺>の住職の流れをひくもので、17代目になるとか・・・。

昨夜、<新義宗>と<世義寺>をキーワードにインターネットで検索、ヒットした文献をプリントアウトして読んでみました。明治政府による廃仏毀釈・神仏分離政策によって、伊勢国<世義寺>は、壊滅的打撃を受け、解体されてしまったようですが、その<世義寺>の末寺である<観聖寺>も中本山である<世義寺>と同じ運命をたどることになったのでしょう。<世義寺>の本山にある数ある堂の中には、聖徳太子をまつった<太子堂>もあるようですから、吉田家の先祖は、まるっきり、真言宗の修験道の寺院の僧侶であったようです。その姿は、頭を丸めた僧侶、栗田村に定住し、妻子を持ち、田畑を耕し、他の神主と同じく百姓を兼ねていたようです。記録に残っている田の耕作面積は6俵収穫できる田であったようですから、自給自足用だったのでしょう。

<世義寺>は<大峯奥駆という大峯山脈の山奥を駆ける修行>の先達職の寺・・・。<観聖寺>の住職も、栗田村のひとを<大峯奥駆>に連れて行ってたのでしょうか・・・? 信州には、たくさんの霊峰があるというのに・・・? この前の郡山地方史研究会の古文書講習会のテキストの中に修験道に関するものがありましたが、講師の方の話では、修験道の本山は、<郡山>の霊場で終わらず<大峯奥駆>をするように勧めていたとか・・・・<大峰山>は単独で実在していた山ではなく<聖域>の名前であったとか・・・。

筆者、日本基督教団の隠退牧師として日々を過ごしていますが、<身体・言葉・意識>について、15~16歳のときから、すべて基督教の教理になじんで今では血肉化していますので、吉田家の先祖の修験道に回帰することは100%ありませんが、聖書の自然観で修験道の自然観を読み直すのも一興かもしれません。

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曽祖父・吉田向学とは・・・?

2015年02月26日 |  2.真言密教と修験道

信州においては、明治8年に廃仏毀釈が徹底して行われたといわれます。

信州栗田村で真言宗の観聖寺の僧侶の家系である、筆者の曽祖父・吉田向学は、明治8年以降、長野県庁に勤めていたようです。筆者の父の書類箪笥の中にその辞令が保存されていました。

国の宗教政策で、寺社に大きな変革が行われた際、神主・僧侶は、その生活の糧を失ってしまいます。そのとき、国も地方行政も、彼らが露頭に迷うことがないように、彼らに公務員としての門戸を開きます。筆者が30年間棲息していた山口においても、そのような事例は何度となく見聞きしました。おそらく、筆者の曽祖父・吉田向学が長野県庁に勤めるようになったのは、廃仏毀釈により真言宗・観聖寺の経済的基盤が破壊されることになったための配慮が働いたためと思われます。

修験道の、神仏混交の寺社が、片や神社、片や寺院に振り分けられた基準は、その寺社で何が祭られていたかということと大きく関連しているようです。明治政府の神秖官は<権現号有之分ハ神と相定>としていたようです。それから察するに、観聖寺は、太子堂として聖徳太子を祭っていたので、神道ではなく仏教に振り分けられたのでしょう。

明治初年におきた<天皇暗殺未遂事件>のひとつに、<御岳業者皇居侵入事件>というのがあります。明治5年2月18日のことです。その7~8年前に御岳行の行者となった熊沢利兵衛は、外の9名の帰依者と共に、山伏の白装束で皇居に侵入、4名がその場で銃殺、1名が重傷、その外は逮捕され裁判にかけられることになります。<日本伝統の保持者>であると自負している彼らにとって、明治政府が出した<肉食勝手令>は、<精進潔斎をその前提とする山岳信仰者たちの意識に衝撃を加えた>そうで、熊沢利兵衛のような、肉食で大和の大地がけがされてしまったとして、<当今夷人渡来以降、日本人専肉食ヲ致ス故、地位相穢、神ノ居所無之>と主張する修験道の行者が出てきたようです。

その年、明治5年4月に<僧侶の肉食妻帯蓄髪勝手>、6月には<神社祭典への僧尼参詣許容>・<神社参詣に際しての死穢の緩和>のお触れが出され、9月には<修験宗>が廃止されます。

<肉食>をめぐっては、明治政府によって排除・疎外された人々の中で、<穢多>と言われた人々は屠殺・食肉に深くかかわることで、それとまったく逆に、<修験宗>は屠殺・食肉を忌避することで、両極端を形成していたと思われます。明治政府は、<唯一神教>の欧米諸国に対抗するため、近代日本を<唯一神教>化するために、日本古来の伝統的な<多神教>の世界を総合的に排除・払拭していったようです。

明治政府によって、切り捨てられた人々は、決して少なくありません。筆者の曽祖父・吉田向学、祖父・吉田永学も、明治の国家の政策によって、切り捨てられていった部類に入ります。しかし、筆者が高校生のときに見た、曽祖父・吉田向学、祖父・吉田永学が書いた文章や書簡を読んだ限りでは、彼らは、明治天皇制の枠組みの中にすっかり身を置いていた人物です。その愛国主義的なものの見方、考え方は、筆者にも受け継がれています。天皇に対する敬慕の念も・・・。曽祖父・吉田向学も祖父・吉田永学も、非政治的人間であり、<非常・民>ではなく<常・民>としての生涯をまっとうしていったようです。

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村里生活と修験道・・・

2015年02月25日 |  2.真言密教と修験道

結城哀草果著『村里生活記』には、村里生活と修験道のかかわりについての文章がいくつか含まれています。

この本の初版は、昭和10年2月10日・・・。今から80年前に出版されたものですが、時期は戦前・・・。その時代にあって、なお修験道は盛んで、村里生活をする農民にとっては無視することができない存在であったようです。

著者の結城哀草果氏は、<登山精神>という文章の中で、修験道の歴史の概略をつづっています。山岳信仰は日本に古来から存在するものだったようですが、弘法大師は、唐から持ち帰った仏教とこの山岳信仰を結びつて、<日本的真言宗>を創設したそうです。日本の古来の山岳信仰と弘法大師の真言密教が結びついて修験道が完成・・・。明治政府は、修験道を仏教として排除する姿勢を持っていたとか・・・。

<玉瀧行>には、木曽福島の御嶽山で修行する<御嶽行者>が押し寄せるさまが描かれていました。登山する行者だけでなく、<自動車は下山の行者で満員だった>。<白衣に後鉢巻をして、金剛杖を持って>乗る、東京からやってきた<をとめ>たちもいたようです。

<冬至>という文章には、村里の住人から嫌われる修験者(偽修験者)と、村里の住人から慕われる修験者がいたようです。

明治5年、明治政府の宗教弾圧によって<修験道禁止令>が布告されますが、日本の民衆の間にすっかい定着していた修験道を根絶やしにすることはできなかったようです。<大和民族は山々を開拓することによって先住民族を征服し、峰々に神仏を祭っては、山岳を崇敬するの精神を植え付けたのである>とありましたが、戦前に修験道が盛んになったのは、この大和民族の鼓舞となんらかの関係があったためでしょうか?

無学歴・無資格、無学・無能の筆者、知らないことが多すぎます。

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父祖・吉田永學はなぜ岡山の児島を終の棲家に選んだのか・・・

2015年02月23日 |  2.真言密教と修験道

筆者の祖父・吉田永學は、なぜ岡山県児島郡琴浦町下之町を終の棲家にしたのか・・・?

今日、インターネットで検索していて、その理由を想定することができるような記事に遭遇! このところ、風邪気味の筆者、一挙に熱が出そう・・・。祖父・吉田永學、曾祖父・吉田向學は、信州・栗田村の、<新儀真言宗修験伊勢国度会郡中本山世義寺の末>である、寛永14年(1637)に創立された舜良開山・観聖寺の住職の家系・・・。『近世栗田村古文書集成』に収録されている栗田村の<宗門人別書上帳>には、住職の名だけでなく、その妻子の名前まで記載されていますので、近世幕藩体制下においても世襲されていたのでしょう。現在、長野市栗田に住んでおられる吉田さんは、17代目とか・・・。古文書集成の史料では、観聖寺は聖徳太子を祭る太子堂の側面と、修験道の寺の側面とがあります。

修験道の僧侶の流れを汲む祖父・吉田永學がなぜ、信州・栗田村を離れて、岡山県児島郡琴浦町下之町を終の棲家にするに至ったのか・・・? 筆者、父から概略しか教えられていませんが、父は、吉田家が真言宗の僧侶の家系、修験道の系譜をひいているとはひとことも語らないで世を去りました。ところが今日、岡山県児島郡琴浦町下之町が、修験道と深い結びつきがあることを知りました。<697年、役小角(修験道開祖)が朝廷から謀反の疑いをかけられ、伊豆大島に配流された際、難を逃れる為、役小角が赦免された701年、門弟たちは備前児島半島柘榴浜(現在:児島下之町・琴浦)に上陸・・・紀州熊野本宮を遷座・・・。・・・修験道の本拠を児島に置き、義學・義玄・義真・寿玄・芳玄の五大門弟(五流修験の始祖)・・・>。

筆者の生まれ故郷・児島は<児島修験>の<聖地>であったようです。筆者が生まれた家は、瀬戸内海に面した海沿いの商店街の一角にありましたが、そのあたりの浜辺が<柘榴浜>と呼ばれていたのかもしれません。修験道の系譜をひく祖父・吉田永學は、修験道のひとつの聖地・児島(琴浦・下之町)に身を置くことにしたのかもしれません。生まれた家の玄関のガラス戸には<吉田屋>と大きく表示されていましたが、筆者、吉田は<屋号>とばかり思っていましたが、そうではなさそうです。神仏混交時代の修験道の真言宗の寺の僧侶としての吉田姓であるようです。

妻の実家の、現在の家と庭のある場所は、旧会津藩領地の赤津村の神職であり、幕末期には赤津村の寺子屋で教えていた神主の屋敷があった場所・・・。その姓は、よしだ・・・。

筆者の祖父・吉田永學や曾祖父・吉田向学がどのような生き方をしていたのか、それを知ろうと、先祖の歴史、ルーツ探しをしていたのですが、プリントアウトした史料を前に、筆者、風邪が悪化して熱が出そう!<観聖寺>の<観聖>は<観音聖地>の略語であるとことも分かったのですが、筆者のこれまでの67年間の人生に、そのことはどれだけ影響していたのやら・・・。

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田中利典著『体を使って心をおさめる修験道入門』・・・

2014年05月25日 |  2.真言密教と修験道

昨日、田中利典著『体を使って心をおさめる修験道入門』の第一部を読みました。

この本の表紙に、<修験道は、いわば仏教と神道という仲のよい夫婦のあいだに生まれた子どものような存在である。神も仏も崇拝する日本人の心に深く根ざした宗教であり、山に分け入って、山を拝む山岳修業がその大きな特徴となっている。この身体的行為によってこころの乱れを鎮めるのが山修業の神髄であり、そこには不安な時代を生きるための智慧が息づく>とありました。この本の構成は、

第1部 修験道は日本独特の宗教
第2部 山伏ってなにするの?
第3部 現代社会と修験の心

筆者、この新書版によって、はじめて、修験道の聖地が<ユネスコの世界遺産>に登録されているのを知りました。そして、修験道の神である<蔵王権現>が≪歴史の神≫であることをはじめて知りました。人間の過去・現在・未来を救済する神・・・。修験道は、明治政府によって禁令になりますが、欧米の基督教に対峙するための日本固有の宗教のひとつになりえた存在であるようです。

筆者の祖父・吉田永學、曾祖父・吉田向學は、長野県長野市栗田村の出身・・・。その本籍地には、吉田姓を名乗る方が住んでおられますが、近世における観聖寺の17代目にあたる方・・・。その観聖寺、明治政府によって廃寺に追い込まれた寺のひとつですが、聖徳太子をまつる<太子堂>としてだけでなく、修験道と深いかかわりがあったようです。それで、筆者、修験道の本を読み始めたのですが、山口県周南市金峰・・・、<金峰>と書いて<みたけ>と読むのですが、筆者も妻もその由来を知りませんでした。<金峰>は、山口県における修験道の聖地のあった場所とか・・・。

<高佐廻り地名記>の中にも、修験道に関する言葉がいたるところに埋め込まれています。幕末期に作られた寺子屋の教科書である<高佐廻り地名記録>に記されている、長州藩の村の宗教的環境・・・、明治政府の廃仏毀釈とはほど遠い世界にあったようです。
  

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