湖南村尻百姓記

65歳で、妻の実家のある湖南町に帰郷・帰農して山里暮らし・百姓暮らしをはじめた隠退牧師の日記

福島で見失ったもの、民俗学的関心・・・

2017年12月08日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)








2013年4月1日に、30年間棲息していた山口の地を離れ、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農して失ったもののひとつに、民俗学的遺産を目にする機会がほとんどなくなったことで、福島・郡山・湖南の民俗だけでなく、民俗学的関心そのものも失ってしまったこと・・・。今、それをとりもどす努力をしていますが、湖南て、あまり民俗を大切にしていないのですよね、不思議なことに・・・。

上の写真は、山口の民俗学的資料です。

福島に棲息するようになって、遠くなった世界です。山口の人々は、民俗学的遺産をとても大切にしているようです。

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湖南の歴史と民俗・・・

2017年11月28日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

インターネットの日本の古本屋で、湖南の歴史と民俗に関する古書を検索してみました。

筆者が集めた、妻のふるさと・湖南の歴史と民俗に関する史資料は、2013年4月1日に、湖南に帰郷・帰農する前に集めた本ばかり・・・。それから、5年以上時が経過していますので、もしかしたら、インターネットの日本の古本屋に、湖南の歴史と民俗に関する史資料が掲載されているかもしれないと思って検索してみました。

しかし、1冊もヒットしませんでした。

手元にある湖南の歴史と民俗に関する本は、約40冊・・・。筆者が、インターネットの日本の古本屋で検索して入手した本は、そのときにほとんどインターネットの日本の古本屋のリストから消えてしまったようです。あったとしても、高価過ぎ・・・。ひととの出会いだけでなく、本との出会いも、一期一会・・・。その出会いのときを見過ごしますと再び会いまみえることはなさそうです。

今となっては、約40冊の、湖南の歴史と民俗に関する本は、妻のふるさと・湖南を知る上での貴重な資料・・・。<ここらのもんでねえ、よそもん>の筆者には、十分な資料のようです。

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湖南の知識人の理解しがたい点・・・

2017年11月23日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

妻のふるさと・湖南に身を置くようになって、はや5回目の冬を迎えます。

65歳に、日本基督教団の隠退牧師になり、福島県郡山市湖南町の、妻の実家で、田舎暮らし・山里暮らし・百姓暮らしをするようになって、いろいろなひとに出会いましたが、湖南のひと、なかなか理解しにくいところがあります。

1.ほとんどのひとは無関係・・・
2.日常、顔をあわせるひとは、ほとんどが批判的で排他的・・・
3.少しく親しくなると、普通の会話に卑猥な話しが突然と挿入される・・・
4.少しく親しくなると、話しの間に、手や肩に触ってくる・・・
5.よそものをバカにして楽しむ温泉会議・・・
6.教養とは、カラオケが歌えること・・・
7.米はこまち、酒は花春、それ以外は許せねえ・・・
8.なにかにつけて、親分・子分の関係に置こうとする・・・
9.慣れてくると、使い走りや雑用係をさせられる・・・

筆者が一番、嫌悪感を感じるのは、3.と4.・・・。湖南史談会を脱会したほんとうの理由は、3.と4.につきあえないから・・・。会津の道の駅に行きますと、会津の卑猥な話しを集めた冊子が売られていますが、会津藩の<什の掟>とはまったく無縁の話し・・・。

<朱に交われば赤くなる>ということわざがありますが、筆者、<朱>にも<赤>にもなりたくないので、ひとり、聖書学・医学・農学・歴史学に関する本をひもといて、古の知識人の言葉に耳を傾けている方がしあわせを感じます。学んだことは、妻と共有・・・。筆者が言葉を交わすのは、1.~9.に該当しない方々ばかり・・・。1.~9.に該当するひとは、多かれ早かれ、筆者との交わりが切れてしまいます。筆者は、牧師という職業柄とはいえ、これまでいろいろなひとに出会ってきましたが、湖南のひとは、とびっきり<低俗>なひとが多い・・・。そんな親に育てられた子どもは、どういうおとなになるのでしょう?

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なぜ、照用同意・・・?

2017年03月13日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

湖南の赤津村の臨済宗・長福寺の本堂に掲げられている額に、

<照用同意>(せんゆうどうじ)

という言葉があります。臨済和尚が、<照>(知の働き)と<用>(意の働き)の関係について、4つの言葉で教えています。

先照後用
先用後照
照用同時
照用不同時

その4つの言葉の中から、長福寺は、<照用同時>を選択、書にして、本堂に掲げているのですから、<照用い同時>は、長福寺だけでなく、その檀家のひとびとも、その主旨に深く賛同しておられるのでしょう。

日本基督教団の隠退牧師である筆者は、<先照後用>と<照用不同時>に共感するところがあります。筆者から一番遠いのは、<照用同時>・・・。

臨済和尚の言葉では、<照用同時>は、

<耕夫の牛を駆り、
飢人の食を奪い、
骨をたたき髄をとり、
痛に針錐を下す>

と、具体例をあげておられるようですが、この言葉、<誤解>すれば、現在の湖南の赤津村のプロの農家の方々のことばとふるまいに直結するような状況を生み出してしまいます。<照>と<用>が同時並行で行われるときは、農民の純粋さ、素直さを表現するのではなく、思慮のない単純さ・愚かさを表現するにとどまります。湖南の赤津村では、それが農民の美徳とされる・・・。正しきは、問答に強引な決着をつけることではなく、問答し続けるところ(<照用不同時>)にあります。人間の知の及ばない問題に対する謙遜さを示す言葉です。

湖南の赤津村の、標高550mの棚田で、有機栽培・無農薬栽培でコシヒカリ・はえぬきや野菜を栽培するときは、筆者は、常に、<先照後用>・・・。妻は、逆に、<千用後照>・・・。

日本基督教団の隠退牧師である筆者、臨済宗の教理とは無縁の存在ですので、臨済和尚の言葉を真に理解しているとは毛頭言えないのですが・・・。

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雲林寺の涅槃図と長福寺の涅槃図・・・

2017年03月13日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

昨日の、湖南の赤津村の臨済宗・長福寺での<涅槃会>のときに、祭壇にかかげられていた<釈迦涅槃図>・・・。

筆者、集合時間の1時間以上はやく会場に入っていましたので、その祭壇に掲げられた<釈迦涅槃図>を<観察>(「かんざつ」と読む)しようとしました。

それで、52種類の、<お釈迦様>の葬儀に、その死を悼んで集まってきたという<生物>の数を数えてみました。52あるはずなのに、なかなか52に達することができません。何度も試行錯誤しながらやっと、52種類を確定することができました。

<直会>のとき、和尚さんに尋ねました。<52種類のいきものについては数えることができましたが、その上にいる人の顔をした龍と人の顔をした鳥がいますが、あれは、何ですか? 人の顔をした龍は竜王であると説明がありましたが、人の顔をした鳥についてはありません・・・>すると、3人の和尚さんのひとりが、涅槃図のところへ行って確認されようとしたので、筆者もあとについて行きました。どうやらその和尚さんも、人面龍・人面鳥についてははじめてご覧になられた様子・・・。筆者、<お釈迦様の弔いにやってきた52種類の生きものは殺してはいけませんよね・・・>といいながら、ムカデを指さし、<ムカデもお釈迦様の死を悼んでやってきたんですよね・・・>と語りかけますと、和尚さん、<普通、ムカデみたら、すぐ叩き殺します・・・>といいながら、にこっと微笑んでおられました。

筆者、この和尚さん、<照用不同意の和尚さん・・・?>と思って、親しみを感じました。

筆者が、<釈迦涅槃図>を見るのは、今回が2度目・・・。はじめて<釈迦涅槃図>をみたのは、旧長州藩の吉部村の雲林寺の<釈迦涅槃図>・・・。その涅槃図には、旧会津藩の赤津村の長福寺の<釈迦涅槃図>の52種類には含まれていない<猫>が描かれています。臨済宗・雲林寺は、長州の<猫寺>・・・。

長福寺の<釈迦涅槃図>をじっとみていた和尚さん、<かたつむりも描かれていますね。これは、なんでしょう?>といわれるので、<それは、シシでしょう。神社の狛犬かもしれませんが・・・>と答えましたが、総代世話人会のまとめ役の方、<吉田くんは、いつも、基本的なことばかり質問してくるので、返事に困ります>と話しておられました。

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湖南の赤津村の歴史の浪漫・・・

2017年02月24日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

この前、インターネットの日本の古本屋経由で注文していた、たたら製鉄に関する本、『日本古来の製鉄』、『たたら』(岩田めぐみ写真集)、『たたら製鉄・砂鉄・鉄穴』の3冊が届きました。

たたら製鉄に関する古書は、高価なものが多く、年金暮らしの筆者が入手するには、少しくためらいがありますが、とりあえず、安価なものから3冊を選んで読んでみることにしました。

『日本古来の製鉄』は、日本のたたら製鉄の歴史、『たたら製鉄・砂鉄・鉄穴』は、たたら製鉄法の説明・解説、『たたら』(岩田めぐみ写真集)は、復元されたたたら製鉄の作業過程を写真でたどったもの・・・。

すでに入手した、近接した関連分野の古書は、佐藤任著『空海と錬金術 金属史観による考察』、佐藤任著『密教と錬金術』、佐藤任他著『言密教と古代金属文化』、石野亨著『鋳造 技術の源流と歴史』、柴田弘武著『鉄と俘囚の古代史』、佐藤一男著『ふくしまの鉱山』、<釜石鉱山>、<たたら製鉄>、<安積鉱山>・・・。

その他、被差別部落史に関連したたたら製鉄に関する文献・・・。

<ここらのもんでねえ>、<よそもん>の目から、湖南の砂鉄と製鉄に関する歴史を探索してみることにしましょう。たたら製鉄の知識・技術は、<ここらのもんでねえ>、<よそもん>の技術・・・。しかし、下働きとして赤津村の百姓がかりだされた可能性もありますので・・・。しかし、赤津村の郷土史研究家の方々からはすぐ反論されるかもしれません。赤津村の百姓は、贋金つくりの技術を持っていたと・・・。その技術がどの程度のものであったのか・・・?贋金つくりが、赤津村の冶金を解体へと導いたののではないか・・・?湖南の赤津村の歴史は、浪漫に満ちています。

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たたらに関する本を3冊注文・・・

2017年02月20日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日、インターネットの日本の古本屋経由で、たたら製鉄に関する3冊の本を注文しました。『日本古来の製鉄』、『たたら』(岩田めぐみ写真集)、『たたら製鉄・砂鉄・鉄穴』の3冊・・・。

インターネットの日本の古本屋経由で入手した『古文書調査ハンドブック』によりますと、<鉱山といえば、普通は金・銀・銅山をさすが、これに対して重要なものに鉄がある。鉄の清算と経営には金属鉱山と違って独特のものである。まず、良質の大量の砂鉄と豊富な山林に恵まれた地域によらねばならないため、中国地方と東北地方の一部に主産地は限られる。関係する文書も散逸しており・・・>とありました。

妻のふるさとの名前は、<赤津村>・・・。赤津村の由来については諸説ありますが、筆者は、この赤は、鉄の赤ではないかと思っています。日本基督教団の牧師になるために神学校に勉学していたとき、夏期実習で、岐阜の、美濃の白川(飛騨の白川ではなく・・・)で一夏を過ごしたことがありますが、その村には、白川・黒川・赤川の3つの川が流れていました。川底の土の成分のよって、川の色が変わってくるのですが、赤川は、鉄分の多い川・・・。そういう意味では、赤津村の赤は、鉄分の赤・・・。

赤津村を南北に流れている川は、常夏川・・・。その上流には、近世幕藩体制下の会津藩の<会津製鉄所>があったそうです。その会津製鉄所に関する文献・・・、<関係する文書も散逸>して、その歴史的実態を把握することが困難になりつつあります。鉄分の多い地形では、地図と方位磁石だけでは、正確に山歩きをすることができないようです。磁場の影響を受けて、方位磁石の針は、いつも北を指すとは限りませんから・・・。

たたら製鉄については、すでに7~8冊文献を集めていますが、今回の3冊はその追加・・・。湖南の村の歴史からみますと、会津製鉄所にかかわったひとびとは、湖南の住人ではないひとびと・・・。よって、湖南の旧家にも、会津製鉄所の史資料が存在していない可能性がかなり高いと思われます。砂鉄による製鉄にかかわってきたひとびとは、<ここらのもんでねえ>、<よそもの>に過ぎませんから・・・。湖南にも存在していた鉱山町、鉱山がその使命を終わると同時に鉱山町は姿を消してしまった可能性があります。ひととともに、その関連史資料も流出・・・。湖南には、湖南の農家の方々の遠い記憶の残滓しか残っていない・・・。

それを突破して、赤津村の鉄の歴史を探るには・・・?

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錯誤か虚偽か・・・?

2017年01月25日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

湖南の<ものしり>・・・、いたるところにおられるようですが、いろいろ話をおうかがいしていますと、<うそかまことか>わからない話がよく出てきます。

それをよく調べもしないで、まにうけて、湖南の歴史の事実、民俗の実態などと錯覚して、無批判的に受容しますと、あとで大変なことになります。筆者と妻が、<ここらのもんでねえ>のを前提に、あることないことを話しかけて来られる方々が少なくありませんが、<どこそこの誰々さんは・・・>という話も、<どこそこ>に<誰々さん>は存在していかったりします。<昔は、こうだったんだ!>という主張も、筆者が、妻のふるさと・湖南に帰郷・帰農する前に集めた、湖南の歴史・民俗・地誌・文化などの史資料を見る限りでは、それもひとつの事例に過ぎないと思われるのですが、湖南全体がそうであったというような雰囲気で主張される場合がほとんど・・・。

単なる錯誤なのか、そもそも最初から虚偽なのか・・・?

筆者が、インターネットの日本の古本屋経由で入手した湖南に関する文献は、<錯誤>や<虚偽>の内容を確認することは不可能・・・。<事実>に即したデータを手掛かりに検索することはできますが・・・。

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石仏三部作を入手・・・

2017年01月18日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日、インターネットの日本の古本屋経由で注文していた庚申懇話著『石仏研究ハンドブック』がとどきました。

これで、『日本石仏事典』(1975年)・『石仏調査ハンドブック』(1981年)にあわせて『石仏研究ハンドブック』(1985年)を入手しましたので、庚申懇話会の石仏三部作を入手したことになります。

湖南史談会がこれまで、調査・発掘してきたものを、<研究対象>にして、郷土史研究を少しく前にすすめることができるかもしれません。湖南史談会を脱会することで、開けた視野です。

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橋本武著『茶話百選 随想 会津嶺の感』・・・

2016年09月23日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日、インターネットの日本の古本屋経由で注文していた、橋本武著『茶話百選 随想 会津嶺の感』が届きました。

古本としての価格は、@1,000円・・・。今日届いた、ほとんど未読の新品同然の本・・・。本の帯には、定価は、2,000円、送料は、340円とありました。@2,000円の本を@1,000円で購入したことになります。

筆者、妻のふるさと・湖南の歴史・民俗に関する史資料は、すべて、日本の古本屋経由で入手してきましたが、比較的最近に出版された本は、古本として出回っていないので、入手が遅れることになるようです。

妻の実家の棚田のある地域の名は、<はのき谷地>といいますが、この『会津嶺の感』には、湖南の<はのき谷地>には、<狐、ムササビ、ムジナ、イタチ、ヘビ、カモ、サギ、ケリ、クイナ、山鳥、カラス、フクロウ、トラツグミ>が棲息していたとありました。この中で、筆者と妻がまだ存在を確認していないのは、ケリとトラツグミ・・・。ムササビは、<あれは、ムササビではないか・・・?>と思ったことが何度かあるのですが、確証なし・・・。

湖南では、この<谷地>の田を耕す農家のことを<谷地百姓>といい、そうでない農家からバカにされていたそうです。<谷地百姓>の耕す土を<バカ土>と呼んだそうな・・・。しかし、土地改良事業で、<谷地>の田も区画整理され、面目一新・・・。<湖南地方から「谷地」とか「谷地田」「谷地百姓」などということばがなくなった。「死語」になったのである。これで劣等感から救われた。遠祖以来の悲願が成就し、見渡す限り美田に生まれかわった・・・>。

筆者と妻に対して、湖南の赤津村の農家の方々が<バカ農家>よばわりするのは、湖南の赤津村のとおいとお~い昔の記憶があぶくのように浮いて出てきただけなのかもしれません。

橋本武著『茶話百選 随想 会津嶺の感』、結城昭八著『心象童話 流れる雲と野と人の賛歌』と同種の本だとわかりました。

このブログで紹介している、鉄道唱歌で歌える『湖南讃歌』、旧会津藩領地の福良・赤津・三代の3ケ村が中心ですが、橋本武著『茶話百選 随想 会津嶺の感』を得たことで、旧二本松藩領地の中野・月形の2ケ村の自然と暮らしを歌った歌を追加することができそうです。

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野本民俗学の研究手法・・・

2016年08月15日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日は、年金が入る日・・・。年金が入る日が近づくと、筆者、すぐインターネットの日本の古本屋にアクセスして、読みたい本を検索します。

検索にヒットしても、高価過ぎると、購入は断念してしまいます。なにしろ、年金暮らしですから・・・。しかし、あきらめずに何回もアクセスしていますと、同じ書籍で安価な本に遭遇することがあります。蔵書印が押されていたり、書き込みがあったりした場合は、格安で入手することができます。

そのひとつが、今日、発注した、野本寛一著『生態民俗学序説』・・・。野本民俗学は、数ある民俗学の中で、筆者のフィーリングにぴったりあった民俗学です。山口に棲息していた30年間、妻と尋ねた山口の自然・環境は、野本民俗学でよりよく知ることができるものばかり・・・。

妻のふるさと・湖南には、元湖南史談会副会長をされていた橋本武という民俗学者がつくった湖南民俗研究所があります。他の民俗学者と同じく、柳田民俗学の系譜を引く方・・・。2013年4月1日に、妻のふるさと・湖南に帰郷してから、まだ一度も、湖南で民俗学の研究をされている方々に出会ったことがありませんが、野本民俗学との接点もなし・・・。

野本寛一著『生態民俗学序説』を発注したのは、野本民俗学の研究手法を用いて、湖南の民俗を見直すため・・・。妻のふるさと・湖南に身を置いて、湖南に埋没するのではなく、湖南を研究の<客体>としていつまでも位置づけるため・・・。

筆者:湖南はいいところですね!
湖南人:そんなことはあるはずねえべえ? 若いもんは、みんな、ここさから出て行って、帰って来ねえぞ!帰ってきても、盆と正月だけだ!ほかに行く処がねえんだべなあ?

湖南にとどまるのも地獄、湖南から出ていくのも地獄・・・? 湖南の自然と環境は、そんなひとびとをみて、笑ってる!

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赤津の農家の Ishida さんと稲作について会話・・・

2016年08月07日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日の夜、湖南の赤津村の専業農家の Ishida さんという方と米つくりについて話をする機会がありました。

Ishida さんは、筆者より7つ年上だとか・・・。Ishidaさんとお話しをするきっかけは、Ishida さんが、筆者に、<吉田さんは、楽しそうに米をつくってんなあ?>と語りかけて来られたこと・・・。筆者、いやいや米を作ってるわけでも、米つくりが嫌だと思ったこともないので、<米つくりは楽しいですよ!>とお答えしました。

Ishidaさんとお話しをしていて、筆者、なにとなく、湖南の赤津村の小枝町の農家の方々の<呪縛>から解き放たれたような気がしました。やはり、小枝町の農家(素人百姓の妻の実家をのぞくすべての家)は、赤津村のほかの地区の農家の方々とは少しく異なるようです。妻の実家は、湖南の赤津村で一番小さな農家・・・、ということは、小枝町にあっても一番小さな農家・・・。所有している田畑の広さと、その家の格式や経済的規模が正比例するので、筆者と妻は、家の格式が低く、経済的規模が小さいので、そうでない小枝町の農家に服従しなければならないという、<ここらのもん>の道理が存在しているようです。

そのあと、話をした湖南の赤津村の、別の農家のおくさんは、<あなたのおくさんは、安積女子高校出身でしょう。あなたのおくさんが、安積女子高に進学できたのは、その当時、3つの条件がそろっていなければ進学できませんでした。1.優秀な学力、2.親の理解、3.親の経済力、それがないと、とても湖南からは、安積女子高校に進学することはできませんでした。>と話しておられました。筆者、小枝町の方々は、<安積女子高は、貧乏人のバカでも入れるって話していますが・・・>とお話ししましたが、<そんなことはありません。あなたのおくさんは優秀な方でしたから、あなたのようなひとに出会えたのだと思います・・・>と話しておられました。

その方、インターネットができるといわれますので、筆者のブログ『湖南村尻百姓記』に掲載している<湖南讃歌>を、鉄道唱歌の調べに載せて一度全部歌ってみてください、そうすれば、筆者と妻が、湖南と赤津村とその住人に対して、ほんとうはどういうイメージをいただいているかが分かります、とお話ししました。そして、1番目を歌ってみせました。

ここはふるさと湖の
北に見えるは磐梯山
雄々しき姿の隣には
その名もやさし吾妻山

そのあと、3人目の農家の方と話をしました。妻の実家の棚田にクマが出たこと・・・。その方は、中山間やそのほかの共同作業のときによく一緒に作業される方ですが、東岐の方だとか・・・。クマに関する情報をたくさんお持ちのようです。妻の実家の棚田のさらに上方が東岐ですから、クマに遭遇する機会も多いのでしょうね。昨日、野菜直売所・湖南四季の里に行ったとき、中野と福良の駐在さんが見回りに来られました。そのときもクマの話しになり、布引山の展望台から、観光に来ていた女の子が展望台の建物の下にクマがいるので、おりることができないと110番があった・・・、という話をされていました。

今日、湖南の赤津村の専業農家の方、3人の名前を覚えました。

 

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妻の実家の墓まわりの草刈り・・・

2016年08月06日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

妻が、<おとうさんのお墓の掃除に行かなければ・・・>といいますので、筆者、今朝、下草刈り用の刈り払い機を持って、妻の実家のお墓へ・・・。ついでに、おとうさんのお墓からお地蔵さんのあるところまで、草刈をしました。

妻は、日をあらためて、お墓の掃除に行くといいます。お供えの花は、妻の実家の棚田でとれた稲の穂と備中レンコンの花・・・。妻の実家のおかあさんは、<墓の花は、買って持っていくもんだべえ?なして、そんなもん持っていくんだ?>と怒りますが、墓参りの習慣のない筆者と妻、いわば、おとうさんから受け継いだ田のコメを栽培している部分も、減反政策の対象の田も、荒らさずにきちんと管理していることの報告を兼ねて・・・。

今年のイネの穂は、今年はじめて栽培しているひめのもちの穂・・・。妻の実家の棚田の山側の農業用水路沿いには、萩の花と撫子の花、妻が栽培している菊やほかの花もあるのですが・・・。妻の実家のおとうさんの墓には、ひめのもちの穂とハスの花が一番、似合ってる・・・。

筆者:おかあさん、墓の草を刈ってきた!
おかあさん:はたけ?
筆者:はたけではねえ、はかだ!
おかあさん:草を刈んのははたけだべえ?
筆者:はたけではねえ、おはかだ!
おかあさん:おめえ、ばかでねえのけ?墓のくさとりは17日と決まってんだ!
筆者:17日だと、盆が終わってるべえ?
おかあさん:ここらは、17日に取んだ!おめえ、そんなことも分からねえのけ?ろくでなしだなあ!
筆者:墓参りはいつ行くんだ?
おかあさん:13日だ!
筆者:17日って、11日のことか?
おかあさん:違う、17日は17日だ!11日ではねえ! おめえ、みんながバカだっていってるけど、ほんとうにバカだなあ!

妻の実家のおかあさんにとっては、11日は、jyusithi・・・、17日は、jyuithi・・・?筆者とは、<si>の音と<i>の音が逆転してる・・・? 小枝町の旧家の方の名前は、Eiji と聞こえるのですが、Eiichi が普通の読み方・・・。Eiichi の<ichi>(一)は、Eiji の<ji>(二)と発音されているようです。

瀧川清・佐藤忠彦著『会津方言辞典』をひもときますと、<い>の見出し語に<いa>があります。<いa>は、<イがエとも発音される場合>につけられているようです。しかも、<「シ・ス、チ・ツ」および「ジ・ズ、ヂ・ヅ」が混同されるのは一般的である>とありました。Eiichi-Eiiti はEiidi と発音されるようです。Eiidi の<ii>が<i>に短縮されると、Eiiti は Eidiになってしまうようです。漢字で表現すると、<一>が<二>になる・・・。

<おねしょ>とか<おもらし>では、意味が通じないようです。会津弁では、<いaばり>・・・。

筆者:なにえばってんの?
おかあさん:おらあ、えばってなんかねえ!

この会話って、筆者の方言とおかあさんの方言で翻訳すると、

筆者:なに、偉そうに言ってるの?
おかあさん:おらあ、おねしょなんかしてねえ!

妻の実家のおかあさんとの会話、おかあさんの認知症が会話の障害になっているのと同じく、方言の違いも会話が通じない一因になっているようです。

ちなみに、<会津>の発音は、<いaええづ>・・・。<ええ>は、アクセントがある部分・・・。<いa>と発音しますと、<会津>ではなく<合図>になります。会津では、<「ジ・ズ、ヂ・ヅ」が混同されるのは一般的>なので、<津>と<図>は区別されません。

筆者の妻は、であったときから、標準語を話していますので、使っている言葉にほとんど違和感がないのですが、たぶん、妻が、湖南の赤津村のことば(会津方言)まるだしで話をしていたとしたら、意志疎通が不可能で、結婚にまではいたらなかったでしょう。妻が、おかあさんが何を話しているのか、分からない・・・というのは、妻が、方言を理解できなくなっていることを意味しているのかもしれません。<私は、会津より郡山が好き!>というのは、妻が出た福島県立安積女子高の言語環境・教育環境・文化環境が大きく影響しているのかもしれません。

 

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湖南民俗研究所『布引山東岐製鉄所』・・・

2016年08月05日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

今日、回覧板で、<布引山東岐製鉄所 湖南民俗研究所>という文書が<回覧>されてきました。

筆者、すぐ、複写機で複写して、次の回覧先へまわしましたが、この文書の発行責任者は、<湖南民俗研究所>・・・。

その文章を読んでいて、<この文章は、今年、湖南史談会を止められた Yoshida さんの研究テーマと同じ・・・。内容も・・・>と思いました。筆者が最後に、Yoshidaさんを訪ねたとき、湖南史談会をやめる理由のひとつに、<今、湖南で歴史研究をしているのは、湖南史談会ではなく、湖南民俗研究所・・・>と話しておられました。

以前、湖南史談会で、土橋にある会津製鉄所跡地を調査に行ったことがありますが、そのとき、筆者も下調べでいろいろな文献にあたりましたが、今回配布された文書は、歴史考証が欠落しているように思われます。この文書が発行されたのは、<平成27年5月 NHK総合テレビ「歴史悲話ヒストリア」の取材の際、土方歳三の愛刀は、会津の名刀工「古川兼定」が「布引山下に新しく大きい炉を造り、布引山の砂鉄で刀を打った」と記録されて・・・>いることが大きく原因しているようです。

湖南の座頭市伝説と同じく、湖南観光名所つくりに土方歳三や会津製鉄所が担ぎだされることになったのでしょうか?

近世幕藩体制下の製鉄は、いわば軍需産業・・・。会津藩は、最初は、東岐製鉄所で武器を製造する予定だったようですが、品質が悪く断念・・・。会津藩の武器の製造のため、中国地方の出雲産の鉄を輸入していたようです。幕末の戦時において、その鉄を入手できなくなった会津藩庁は、会津藩領内の鉄で武器を製造しようとしたようです。名刀をつくるには粗悪な鉄を使ってつくられた古川兼定の打った刀、時代の流れの中にあるとはいえ、不本意な作でなかったのでしょうか?

<東岐製鉄所跡略図(土橋)>に記されている池2つ・・・、中国地方で見受けられる製鉄所跡とは、似ても似つかぬしろもの・・・。同じ湖南の三代村の木地師の里に伝承されている製鉄法とも異なる・・・。<東岐製鉄所跡略図(土橋)>では、鉄は製造できない。湖南史談会で調べた製鉄所跡地は、<東岐製鉄所跡略図(土橋)>とは異なる様相を呈していたと記憶しているのですが・・・。

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湖南の恐ろし~い民話・・・

2016年07月19日 |  4.湖南の民俗(習慣・習俗)

湖南の福良村に伝わる聞くも恐ろし~い民話のひとつに、<うまいか清六>というのがあります。

福島県教育委員会編『猪苗代湖の民俗 湖南編』に収録されている<うまいか清六>をそのまま引用します。

<鶴山・亀山・野陣ノ山は、福良で自慢の山で、福良甚句、盆踊りの囃子唄にも

「亀山の勝三郎と野陣の山の弥助坊、鶴山のおつるどんが集ばんねえと、三拍子が揃わねぇ、トーヒャラレロレー、トーヒャラレロレー」

昔、鶴山の東の谷に内越という5~6軒の部落があって、清六はそこの由緒ある家だったが、ある日子狐をつかまえてきて、その夜狐汁をして舌鼓を打っていると、戸んぼの外で、「うまいか清六、においがいいな」と、鶴山鎮座鬼渡神社の太夫様の声がしたので、「アラ食ってしまったところだ。肉半分残っていっから煮っぺー寄っせい」といったら、「おそいから、明晩よんでくれ」といって、入らず帰ってしまった。

次の晩、残りの肉を料理して太夫様を呼びに行くと、風邪で行けないと断られたので、その晩も家の者だけで食べてしまった。すると、戸外で「うまいか清六、流しの下の骨ー見ろ」と2回くり返した太夫の声がした。「太夫は寝ていたのに、今時分に来ておかしなことをいう」と、不思議に思った清六が戸外に出てみると、夜目にも白い雪ノ原を狐が何か背負って逃げていくのが見える。「親狐だ。また来っか知んねえから俺れ、見張ってやっからみんな早く寝ろ」。そこで妻が寝室に行くと、寝せておいた今年生まれた赤ん坊の姿が見えないので、大さわぎとなった。

さっき「流しの下の骨を見ろ」と太夫様がいったからと、流しの下を開けて見て絶句した。

なんと、赤ん坊の体の肉ははがされて骨ばっかりになっている死がいが、子狐を包んでおいた布に並べられてあった。親狐が来て、子狐の残り半分と、赤ん坊の死肉をすりかえて、子狐の遺体をさらって逃げたので、清六は、自分の子どもの肉を・・・。

清六一家はいずこへか駆け落ちしてしまった。内越も今は一軒の家もない>。

この<うまいか清六>という民話・・・、湖南の5ケ村で、いろいろなバージョンが伝えられているようです。それらを比較研究することで、この民話の背後にある歴史の核を抽出することができたらいいのですが・・・。

この福島県教育委員会編『猪苗代湖の民俗 湖南編』は、2009年の春、まだ山口に在住しているとき、やがて帰郷・帰農することになっている、妻のふるさと・湖南について、歴史・民俗・伝承などの文献を集めているときに入手したもの・・・。

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