被差別部落の地名とタブー

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目次

2015年03月09日 | 地名とタブー 目次

筆者のブログ『部落学序説』で紹介した研究方法を用いた実践事例のひとつです。従来の<部落史研究>の枠組みではたどりつくことも解明することもできなかった世界を描き出しています。


目次

1.はじめに
  はじめに

2.山口県地名総覧と被差別部落
 1.「地名」とは何なのか・・・
 2.野本民俗学から見た「地名」
 3.山口県地名総覧と被差別部落
 4.長門国のある被差別部落を尋ねて・・・

3.タブーと被差別部落
 1.「タブー」の語源・・・
 2.続・「タブー」の語源・・・
 3.「感覚・信念としての禁忌」
 4.「習俗・儀礼としての禁忌」
 5.部落問題研究者と禁忌
 6.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌
 7.佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 1.地名に関する禁忌
 2.差別名字と差別戒名
 3.人名に関する禁忌
 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌
 5.「別火別婚」という禁忌について

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 1.<高佐郷の歌>
 2.<高佐郷の歌>の伏字について
 3.<高佐郷の歌>に関する資料
 4.<高佐郷の歌>を研究するときの姿勢
 5.<高佐郷の歌>に出てくる地名
  1.<少岡>と<垣ノ内>
  2.高佐郷の垣ノ内のある風景
  3.山部は穢す皮張場

参考資料
 参考資料1 歌うことができる<高佐廻り地名記>
 参考資料2 <高佐廻り地名記>緒論
 参考資料3 <高佐廻り地名記>関連地図
 参考資料4 <高佐郷の歌>探訪メモ


       

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資料3 <高佐廻り地名記>関連地図

2010年02月16日 | 地名とタブー 参考資料

下の地図は、『むつみ村史』に掲載されている<むつみ村遺跡図>に、筆者が、<高佐廻り地名記>の村内巡回の経路を想定して街道に色付けをしたもの。北のは、旅の出発点の陣館山、南のは、旅の帰着点の末永村です。

Img024_2 <高佐廻り地名記>がつくられた嘉永7年ころの高佐郷の状況は、<長門國奥阿武郡高佐邑風土物産記>(天保)の記述とそれほど大きな違いはないものと思われます。

<百姓支配の部>
本百姓 218軒
門男百姓 101軒
社家 3軒
山伏盲僧 2軒
           計1318人
<武士支配の部>
在郷諸士 2軒
陪臣 13軒
穢多 13軒
宮番 2軒
           計64人

筆者が、<非常民>の範疇にいれる、司法・警察、軍事従事者の数は、穢多・宮番を含む武士支配の30名と、百姓支配の16名の計46名。

<高佐郷>の通常の治安維持には、武士支配の穢多13人・宮番2人、百姓支配の庄屋1人・小都合庄屋1人・目代3人・畔頭5人・給庄屋6人があたっていたものと思われます。通常の警戒時には、それぞれ、十手をもって出動。強盗などの刑事事件に際しては、<高佐廻り地名記>に歌われている<ひしぎ・早縄・腰道具・六尺二歩の棒>が使用されたようです。彼ら、非常の民によって、千数百人の高佐郷の百姓は、安心して日々の暮らしを続けることができました。

日本の歴史学に内在する差別思想である<賤民史観>は、<穢多・非人は差別されていたが故に人の嫌がる下級警察の仕事をさせられていた>と解釈しますが、大いなる間違いです。それでは、同じ<人の嫌がる下級警察の仕事>に従事していた村方役人も<賤民>の範疇に加えなければならなくなります。<穢多・非人>を<賤民>と認識するは、日本の歴史学の底の浅さ、浅薄さを物語るのみ・・・。


  

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資料2 <高佐廻り地名記>緒論

2010年02月15日 | 地名とタブー 参考資料

1.文献

①高佐村国大由来境目書(『地下上申』)・②吉部村石高由来境目書(『地下上申』)・③長門国奥阿武郡高佐邑風土物産記(『風土注進案』)・④長門国奥阿武郡吉部邑風土物産記(『風土注進案』)・⑤高俣村村誌(『山口県風土記』)・⑥吉部村村誌(『山口県風土記』)・⑦『むつみ村史』・⑧波多放彩編『ふるさとの唄・むつみ村』・⑨北川健著『防長風土注進案と部落の歴史』・⑩北川健著『山口県の部落解放の文芸と歴史』・⑪北川健著『山口県の文芸の中の部落の歴史』(『いのち11』)・⑫北川健著『防長風土注進案と同和問題』・⑬桜の森の桜谷においでの瀬織津姫さま(『梨の木平の桜』)・⑭布引敏雄著『長州藩被差別部落成立の一形態 <垣之内>地名を手がかりとして』・⑮古島敏雄著『明治大正郷土史研究法』・⑯日本歴史地名大系36『山口県の地名』・⑰西村睦男編『藩領の歴史地理―萩藩―』

2.執筆年代

<蔵田家文書><奥書>には、この<高佐廻り地名記>がつくられた年号が記載されています。<嘉永7年>(1854)。しかし、現在残されている<高佐廻り地名記>は原本ではなく写本です。この写本がつくられたのが<安政5年>(1858)。現在のところ、<高佐廻り地名記>の成立年代について立証することができる傍証はありません。

執筆されたのは、<高佐廻り地名記>の<64>番目に<逸も霜月初の申>とありますから、11月。その月の終りに<嘉永7年><安政元年>と改元されます。

3.執筆者

<奥書>によりますと、執筆者は、嘉永7年73歳であった吉岡順平。号は祐永。筆者、<高佐郷>の歴史について寡聞にして、吉岡順平の社会的地位に関する情報をもちあわせていません。『むつみ村史』の記述から類推するに、吉岡家は、<給領庄屋>であったと推定されます。その写本をつくった人は、当初、<高佐廻り地名記>が発掘された当時は、<藤田安治郎>とされていましたが、『むつみ村史』では、<蔵田安治郎>と改訂されています。しかし、この<蔵田安治郎>についてもいかなる人物であったのか特定することができません。

古文書の本文批評の原則のひとつに、他の史料によって立証することがむずかしい案件については難解な読みを優先するという原則がありますが、その原則に立つと、写本を残した人物は、<蔵田安治郎>ではなく<藤田安治郎>ということになります。『むつみ村史』が、部落差別に関する記事を削除・隠蔽する傾向があるところを考慮しますと、この<藤田安治郎><高佐郷>の穢多身分であった可能性も排除できません。

この吉岡順平作<高佐廻り地名記>を今日まで残したのは、<蔵田家文書>のひとつとして収集・保存した阿武郡大庄屋蔵田家が大きく貢献していることは間違いありません。

執筆者の帰属する社会層は、執筆者の吉岡順平、その写本を残した<藤田安治郎><高佐廻り地名記>を残した大庄屋・蔵田家・・・、そのいずれも、近世幕藩体制下における、司法・警察の職務を果たした<非常民>(非常の民)です。

4.文学類型

7・5調で綴られた詩文。郷土史家は、7・5調から逸脱した表現は、<写本にあたり、地名に数カ所の誤字を生じ、難解である・・・>といいますが、最終的には<どうにかまとまったものにした・・・>といいます。そのとき、この<高佐廻り地名記>が詩文であるとの認識はあまり強く持っていなかったようです。<9>番の、<中に大川・往還筋、 宿の人馬も賑はしや>は、原文は、<中に大川往還筋に郷家あり、宿の人馬も賑はしや>ですが、7・7・5・7・5となっており、乱れが生じています。筆者は、<中に大川往還筋に、○○○○○○○郷家あり、宿の人馬も賑はしや>が本来のことばではないかと想定しています。

執筆者の吉岡順平は、<高佐廻り地名記>を最初から最後まで創作したのではなく、執筆に際して、いくつもの伝承を組み込んだと思われます。<高佐郷>の<穢多>を歌っていると思われる部分は、山口県文書館の北川健先生が独立したものとして抽出した通り、他の部分と異なって、かなり完成度の高いものになっています。相当長い期間伝承として語り伝えられた歌なのでしょう。

<高佐廻り地名記>が公表される際に、<原文>と郷土史家による<注・解釈>が区別されていません。たとえば、『ふるさとの唄』では、『むつみ村史』では削除されることになる、<20>番の<非人と食(非人徒食)の歳の宿>という注は、写本をつくった藤田安治郎がつけた注なのか、それとも、郷土史家が活字にする際につけた注なのか、必ずしも明確ではないからです。<非人>は、たとえば、火事で家を喪失した村人も<非人>に数えられる場合があります。<食><乞食>(<こつじき>を含む)のことですが、それらをも含めて<徒食>と表現するのは、注を付した者の差別的なまなざしのあらわれ。おそらく、郷土史家の筆になる注なのでしょうが、<写本>の作成者による注と郷土史家による注は明確に区別する必要があったと思われます。

5.歴史的背景

『むつみ村史』<高佐廻り地名記>についての紹介文の中に、<地名と歴史を織りこんだもの・・・>であるとの表現がみられますが、そのことばの通り、<高佐廻り地名記>、<65>の4行詩の中に、<高佐廻り地名記>の執筆された時代、また、その中に組み込まれた伝承がつくりだされた時代を彷彿とさせる表現がいたるところに見え隠れします。

伝承の中には、古代・中世・近世初期を想定さえることば・表現を確認することができますが、<高佐廻り地名記>が執筆された時代状況については、豊富な表現がみられます。主なものは、天保一揆後の淫祠解除(<いんしときのけ>と読む。筆者は<いんしかいじょ>を40番において<解除(かいじょ)なしたる古所の宮>として読む)、黒船による開国と長州藩の攘夷の動きなどが、<高佐廻り地名記>に時代性を添えています。<42>番に

少し岡は水ケ峠 
不動の堂より詠れば
嘉永六年相生の
松の噂も高佐ごや

とありますが、<嘉永六年相生の>は、原文は、<嘉永六から相生の>です。そのままでもよかったのですが、<嘉永六>というのが<嘉永六年>のことであることを強調するために<嘉永六から><嘉永六年>と読み替えました。嘉永6年は、アメリカの軍艦4隻が浦賀にやってきて日本に開国をせまった事件があった年。長州藩ではその年の8月、<異国之説大行、人気騒然>という状態に陥ります。このことばは、高佐郷の北の隣村。<29>番に<後は広き宇生賀村>とうたわれている<宇生賀村>の医師・古谷道庵の記録です。<長州藩域に伝わった風聞は、実態以上に誇張して伝えられており、民衆が非常な恐怖心をいだいていた・・・>(小田国治編『山口県の歴史』)といいますが、<高佐廻り地名記>の執筆者・吉岡順平の対応はいたって冷静です。<嘉永六年相生の松の噂も高佐ごや >と<噂>に過ぎないと、<噂>に付和雷同することをたしなめています。

長州藩は、嘉永6年、幕府の命を受けて、<相模国警衞を担当し、国元から相模国へ軍事動員がなされ、対外防衛の実践的取り組みが開始>(上同書)されます。<攘夷>を主張する長州藩は、長州藩の軍事力強化をはかり始めます。長州藩と石州藩の国境の村・<高佐郷>も、その軍事力強化の空気がただよってきます。

<50>番には、<今は白崎は賑わしや 上の大炮御稽古場>と歌われ、<攘夷>のための大砲・銃器の訓練がなされ、<51>番では、<御紋幕打ち御上覧 陣笠揃ふて西目峠>と、そこに長州藩の部隊が実戦配備され、 非常事態にあったことをうかがいしることができます。同じ非常民であるといても、<警察>と<軍事>とでは、大きな違いがあります。

<淫祠解除>については、<4番>の<古木の松に杉檜、若宮御社に引並び、龍神様ぞましまする、牛馬の守りありがたや>、 <41>番の<昔由緒のある宮で、解除なしたる古所の宮、詣ふでも気おふ鈴の音、柏手絶えぬ五社参り>、<65>番の<宮居に積もる冬の月、末永々と往く年も、豊作続く高佐郷、五穀繁昌地名の記 > などにみられます。

<淫祠解除>は、天保2年の百姓一揆が大きく影響しています。長州藩は藩財政の逼迫からすくうため米価を操作しようとします。豊作になると米価がさがり、藩の収入が減少することを防ごうとして、長州藩の役人(武士階級)は、<龍神>を故意に怒らせて<風招き>(加持祈祷によって台風を引き寄せる所作)をしようとしたことが百姓に発覚、村内あげての長州藩批判に発展します。長州藩のいたるところで百姓一揆が勃発、長州藩の<上役>(藩士)は、武士支配の<下級>役人・<穢多>にすべての責任を押しつけてしまいます。そして、いたるところで<穢多>の屋敷が襲撃されます。いまでいう、民衆による警察署・派出所の襲撃です。

あとで処罰されたのは、高佐村近辺では、<吉部村の一揆指導者弥右衛門ら3人>で、<死刑あるいは獄中で病死>したといわれます。しかし、<死体は保存された上で、さらし首となった>そうですが、<地元の人びとによって義民としてまつられ>ているとか・・・。

天保・百姓一揆で大きな衝撃を受けたのが、長州藩・・・。村田清風は、<御家と御国を百姓蹴立て候口惜しさ>を語って、長州藩の藩政改革に着手します。<百姓一揆>を再発させないため、<荒畠地の租税廃止>で百姓の経済的負担を軽くするとともに、<淫祠解除>(いんしときのけ)政策を実施します。<淫祠>とは、長州藩の許可しない神々をまつることを禁止すること。たとえば、百姓一揆で摘発され処刑された農民を義民として祀ることなど・・・。明治以降の<国家神道化>のひな型を長州藩は、<民衆支配>の方法として確立していくのです。

<荒畠地の租税廃止>は、<16>番の<岸高村の高面所 >、<46>番の<森地の田地高面処>、<53>番の<森地の田地高面所>などにみられる<高面所>・<高面処>は、税金(石高)の免除された農地・・・、という意味です。

しかし、<高佐廻り地名記>においては、<41>番<昔由緒のある宮で、解除なしたる古所の宮、詣ふでも気おふ鈴の音、柏手絶えぬ五社参り>のことばのように、藩から<解除>されても、なお村人によって崇拝の対象にされ続けてきたようです。

山口県文書館の北川健先生(現在山口大学講師)によると、長州藩の中で、この淫祠解除に抵抗した地域に、<高佐郷>があるとか・・・。迫り来る<外圧>に対応するためとはいへ、民衆の間で信頼されこころのよりどろことなってきた神社を<淫祠解除>するなどもっての他・・・、という思いがあったのでしょう。しかし、藩の<分断政策>によって、宗教者である<神主>と一般民衆<百姓>の間に楔が打ち込まれます。結局<神主>は、藩に追従して、藩による人民支配の方策としての<淫祠解除>を受け入れてしまいます(明治になって、その功績から、<百姓>身分から<士族>階級になる・・・)。日本の宗教者・・・、権力追従指向は、長い歴史があるようです。

<淫祠解除>は、近代に入ってからも続けられます。<全国的に大規模な神社の統廃合>が行われたのは明治39年のこと・・・。神社は、<日露戦争後の国民の統合>の必要性から、<神社は我が国体と相連契して・・・忠君愛国の思想と相一致して国運の隆替に関するものなり>と(木京睦人著『明治末期山口県の寺社整理について』)とされたのです。

<国運の隆替>・・・、時を同じくして、近世幕藩体制下の司法・警察であった<穢多村>は、<日露戦争後の国民の統合>のための<負の存在>に追いやられるのです。<天皇御領>の非常民としてその歴史を生き抜いてきた、<高佐郷>の<穢多村>の末裔たち・・・、日本の近代中央集権国家・明治天皇制国家の犠牲者として、<天皇の恩恵によって生かされる民>のひな型としての<特殊部落民>にされていくのです。<天皇制>に誇りをもっていた民が、<天皇制>から切り捨てられていく・・・。部落差別は、本質的にはそのような側面をもっていますが、<高佐廻り地名記>に織り込まれた<高佐郷>の人々の生活を読み取っていきますと、<高佐廻り地名記>では、近代的部落差別は片鱗すら存在しない・・・。

少し岡は垣之内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷
何そ非常のあるときは

ひしぎ・早縄・腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

筆者が<高佐郷の歌>とよぶ、<11>番、<12>番のことばは、<高佐郷>の最も中心的な部分<高佐本郷>の歌です。その<高佐本郷>は、大正中期まで、その機能をもっていました。しかし、大正7年村役場が移転、大正9年には駐在所が移転、その他法務局の出張所など公官庁があいついで移転して、急速に衰退していきました。意図的につくりだされた<被差別>・・・、そこから、<吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ・・・>という水平社宣言のことばに呼応して、<水平運動>が起こっていきます。

6.字句の解釈

別稿とします。

  

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資料1 歌うことができる<高佐廻り地名記>

2010年02月13日 | 地名とタブー 参考資料

ブログ人からGooブログへ移行中に文書が破損しましたので、暫定的に再掲載しました。

高佐廻り地名記  
     吉田向学校訂 2010・2・12
     大田剛志指導 2010・3・2
   
(注1)蔵田家文書にある表紙奥書きを入れて半紙22枚に達筆で書かれたもの、吉部の賦の三倍はある長編で嘉永7年(1854)73翁吉岡順平祐永の作で、その4年後の安政五年の春、蔵田安治郎がこれを写したことになっている。地名と史実を織りこんだもので、高位の歴史はこの地名記にすべて盛りこまれているといってよいほどの力作である(『むつみ村史』)。

(注2)下記の高佐廻り地名記は、吉田向学によって校訂されたものです。7・5調の4行詩に組み替え、鉄道唱歌のメロディーで歌うことができるようにしたものです。校訂の際に、『むつみ村史』の高佐廻り地名記の中から削除された、被差別部落の歴史と伝承にかかわる部分を『ふるさとの歌』に初出の高佐廻り地名記を参考に復元しました。この歌の歴史的背景と意義については別稿とします。

(注3)3月1日と2日、期せずして<高佐郷>在住の元高校教師で郷土史研究家の大田剛志先生ご夫妻と出会い、『高佐廻り地名記』の原文(古文書)のコピーをいただき、筆者の<歌うことができる高佐廻り地名記>について校正していただきました。原文、大田剛志先生ご夫妻の校訂、高佐村の住民の方とのふれあいで得た情報をもとに以下の通り訂正しました。
 


高佐廻り地名記

1
山廻村始めとし  (やままわりむら はじめとし)
陣願山の境内は  (じんがんやまの けいだいは)
昔の小名は城構  (むかしのおなは しろがまえ)
麓に大休堀の川  (ふもとにたいきゅう ほりのかわ)
2
岡は武稽古馬場広き  (おかはぶけいこ ばばひろき)
古事書留めて記録谷  (こじかきとめて きろくだに)
境に三ケ所峠越えて  (さかいにさんかしょ たおこえて)
敷草野山・井屋ケ迫  (しきくさのやま いやがさこ)
3
谷尻久箱宝林と  (たにじりくばこ ほうりんと)
過ぎて境内福寿山  (すぎてけいだい ふくじゅさん)
高佐を守る氏神社  (たかさをまもる うじがみしゃ)
八幡様ぞましまする  (はちまんさまぞ ましまする)
4
古木の松に杉桧  (こぼくのまつに すぎひのき)
若宮御社に引並び  (わかみやおんしゃに ひきならび)
龍神様ぞましまする  (りゅうじんさまぞ ましまする)
牛馬の守りありがたや  (ぎゅうばのまもり ありがたや)
5
広き氏子に大宮司  (ひろきうじこに だいぐうじ)
後は子の日植松に  (うしろはねのひ うえまつに)
前は荒人・色気谷  (まえはこうじん いろけだに)
若狭盛りの境内は  (わかさざかりの けいだいは)
6
竹木は茂き森ケ台  (たけぎはしげき もりがだい)
切畑川の水流れ  (きりはたがわの みずながれ)
宮の馬場より詠むれば  (みやのばばより ながむれば)
東は高き観音地  (ひがしはたかき かんのんぢ)
7
妙性院の大寺あり  (みょうしょういんの だいじあり)
寺内広き開作地  (てらうちひろき かいさくち)
当寺十二世発明の  (とうじじゅうにせい はつめいの)
慈限和尚の仕置にて  (じげんおしょうの しおきにて)
8
淀の写しの水車  (よどのうつしの みずぐるま)
鳴滝村の境内は  (なるたきむらの けいだいは)
半田・正亀・滝の平  (はんだしょうがめ たきのひら)
勝負ケ迫や小助峠  (しょうぶがさこや こすげたお)
9
穴観音の奥深き  (あなかんのんの おくふかき)
前の芝より詠れば  (まえのしばより ながむれば)
中に大川・往還筋  (なかにおおかわ おうかんすじ)
宿の人馬も賑はしや  (やどのじんばも にぎわしや)
10
脇に行者の貴法院  (わきにぎょうじゃの きほういん)
不動明王・愛宕様  (ふどうみょうおう あたごさま)
螺貝・錫杖音高き  (ほらがいしゃくじょう おとたかき)
竜王山の麓には  (りゅうおうざんの ふもとには)
11
少し岡は垣之内  (すくなしおかは かきのうち)
山部は穢す皮張場  (やまべはけがす かわはりば)
長吏の役は高佐郷  (ちょうりのやくは たかさごう)
何そ非常のあるときは  (なんぞひじょうの あるときは)
12
ひしぎ・早縄・腰道具  (ひしぎはやなわ こしどうぐ)
六尺二歩の棒構ひ  (ろくしゃくにぶの ぼうかまい)
旅人強盗制道し  (たびびとごうとう せいとうし)
高佐郷中貫取  (たかさごうちゅう つなぎとり)
13
前は郷家の店酒屋  (まえはごうかの みせざかや)
諸事の買物閊なし  (しょじのかいもの つかえなし)
懸木・てね木の売旦那  (かけぎてねぎの うりだんな)
上は三安座頭坊  (かみはさんやす ざとうぼう)
14
匹季の神徳引くときは  (しきのしんとく ひくときは)
錫杖・琵琶の手面白や  (しゃくじょうびわのて おもしろや)
百八煩悩数珠とりて  (ひゃくやつぼんのう じゅずとりて)
土民御祈躊・地神経  (どみんごきとう じしんきょう)
15
門前・須通り・中尾村  (もんですどおり なかおむら)
向こうに見えし安附の  (むこうにみえし あんづけの)
元結山の麓川  (もったいやまの ふもとがわ)
久保や神田を打過ぎて  (くぼやかんだを うちすぎて)
16
岸高村の高面所  (きしたかむらの たかめんじょ)
上は白砂・両家村  (かみはしらすな りょうけむら)
薄地の田地石安き  (うすじのでんち こくやすき)
鐘地ケ峠より詠れば  (かねちがたおより ながむれば)
17
東向こうの大歳は  (ひがしむこうの おおとしは)
大歳神と大晦日  (おおとしがみと おおみそか)
宮ケ浴をば左に見  (みやがえきをば ひだりにみ)
有の木迫や大丸子  (ありのきさこや おおまるこ)
18
大伝村や大迫の  (だいでんむらや おおさこの)
浴谷深き下谷の  (えきたにふかき しもたにの)
湧き出る清水・済ケ迫  (わきでるしみず すみがさこ)
水の流れの両平は  (みずのながれの りょうひらは)
19
大地ヶ浴や寺ケ浴  (おおぢがえきや てらがえき)
船地ケ迫の分れ道  (ふなちがさこの わかれみち)
北は小村の歳の森  (きたはこむらの としのもり)
祝い小餅に飛びかざり  (いわいこもちに とびかざり)
20
水の流れの川上は  (みずのながれの かわかみは)
諸国御法度・博打岩  (しょこくごはっと ばくちいわ)
藁で囲んで昔から  (わらでかこんで むかしから)
非人と食の歳の宿  (ひにんとじきの としのやど)
21
岡は片亦大境  (おかはかたまた おおざかい)
日々に儲けの日用原  (ひびにもうけの ひようばら)
西は高佐の羽月村  (にしはたかさの はづきむら)
馬の名物昔から  (うまのめいぶつ むかしから)
22
横和の松の境内は  (よこわのまつの けいだいは)
千本松と名も高き  (せんぼんまつと なもたかき)
森地の田地・開作地  (もりちのでんち かいさくち)
北は福田の大境  (きたはふくだの おおざかい)
23
道祖ケ峠と申すなり  (どうそがたおと もうすなり)
往還下れば猫亦の  (おうおかんくだれば ねこまたの)
岡は恐ろしいぎの平  (おかはおそろし いぎのひら)
日も晩景の暮石は  (ひもばんけいの くれいしは)
24
身廻り谷の淋しさよ  (みもおりたにの さびしさよ)
昔狸の化け物や  (むかしたぬきの ばけものや)
産女の出たる咄あり  (うぶめのでたる はなしあり)
岡の広きは上野台  (おかのひろきは うえのだい)
25
茅やあえらの草深き  (かややあえらの くさふかき)
近辺諸村の草刈場  (きんぺんしょそんの くさかりば)
前のひろきは道祖ケ原  (まえのひろきは どうそがはら)
夜深に通る人々は  (よふけにとおる ひとびとは)
26
古狼・狐の声を聞く  (おおかみきつねの こえをきく)
西の麓は横貝と  (にしのふもとは よこがいと)
高佐七つの清水川  (たかさななつの しみずがわ)
来光山の高大寺  (らいこうざんの こうだいじ)
27
諸国当国御札所  (しょこくとうこく ふだどころ)
月賞拝す観世音  (がっしょうはいす かんぜおん)
高山登る道筋は  (たかやまのぼる みちすじは)
午王の森や塔の森  (ごおうのもりや どうのもり)
28
岡は大社の宮ぞあり  (おかはたいしゃの みやぞあり)
日熊権現ましまする  (ひのくまごんげんましまする)
社内も広き大宮司  (しゃないもひろき だいぐうじ)
竹木は茂き御立山  (たけぎはしげき おたてやま)
29
後は広き宇生賀村  (うしろはひろき うぶかむら)
前は地吉の畠あり  (まえはじよしの はたけあり)
箕面平と申すなり  (みもおりだいらと もうすなり)
山根や持や坂本の  (やまねやもちや さかもとの)
30
百性方の立来よし  (ひゃくしょうかたの たつきよし)
腕をさすりて我勝てに  (うでをさすりて われがてに)
水の流れは妙ケ崎  (みずのながれは みょうがさき)
西の麓は金拳  (にしのふもとは かなこぶし)
31
寺ケ浴には行者あり  (てらがえきには ぎょうしゃあり)
不動明王信心に  (ふどうみょうおう しんじんに)
螺貝・錫杖賑はしや  (ほらがいしゃくじょう にぎわしや)
養寿院とは申すなり  (ようじゅいんとは もうすなり)
32
所帯吉野の庭の花  (しょたいよしのの にわのはな)
後の谷に草穴の  (うしろのたににくさあなの)
奥の深きはわらんべう  (おくのふかきは わらんべう)
下は中山小村でも  (しもはなかやま こむらでも)
33
高佐由緒のある村で  (たかさゆいしょの あるむらで)
八幡宮の祭礼に  (はちまんぐうの さいれいに)
御能写の道具あり  (おのううつしの どうぐあり)
獅子・羯鼓や笛・太鼓  (ししかっこうや ふえたいこ)
34
笙・篳篥の鳴物で  (しょうしちりきの なりもので)
車の上の百芸は  (くるまのうえの ひゃくげいは)
中山村の家伝なり  (なかやまむらの かでんなり)
車錺るは畑の村  (くるまかざるは はたのむら)
35
楽に揃うて行水で  (らくにそろうて ゆくみずで)
信心社内にひき附る  (しんじんしゃないに ひきつける)
付と賑ふ獅子の舞  (つけとにぎわう ししのまい)
中山村の水流れ  (なかやまむらの みずながれ)
36
大坪なのる地名あり  (おおつぼなのる ちめいあり)
首塚や灰塚や  (なまくびつかや はいづかや)
正守長者の古跡あり  (まさもりちょうじゃの こせきあり)
金銀留めてある咄  (きんぎんためて あるはなし)
37
見ざる知らざる土の底  (みざるしらざる つちのそこ)
昔咲いたる花のあと  (むかしさいたる はなのあと)
法恩・白砂・薄地なり  (ほうおんしらすな うすじなり)
少し下れば坪の内  (すこしくだれば つぼのうち)
38
ふいつく山を向こうに見  (ふいつくやまを むこうにみ)
松尾まがりの真中に  (まつおまがりの まんなかに)
後井村の境内は  (うしろいむらの けいだいは)
鶴生山の三岳寺  (かくしょうざんの さんがくじ)
39
弁才天様ましまする  (べんさいてんさま ましまする)
七観音も御寺に  (しちかんのんも おんてらに)
月賞・柏手絶へもなし  (がっしょうかしわで たえもなし)
神仏信心詣ふであり  (しんぶつしんじん もうであり)
40
ぼんすい山の後には  (ぼんすいやまの うしろには)
深きれん淵・水流れ  (ふかきれんぶち みずながれ)
雑穀作る畠の中  (ざっこくつくる はたのなか)
原に古跡は正八幡  (はらにこせきは しょうはちまん)
41
昔由緒のある宮で  (むかしゆいしょの あるみやで)
解除ならぬ古所の宮  (かいじょならぬ こしょのみや)
詣ふでも気おふ鈴の音  (もうでもきおう すずのおと)
柏手絶えぬ五社参り  (かしわでたえぬ ごしゃまいり)
42
少し岡は水ケ峠  (すくなしおかは みずがたお)
不動の堂より詠れば  (ふどうのどうより ながむれば)
嘉永六から相生の  (かえいむつから あいおいの)
松の噂も高佐ごや  (まつのうわさも たかさごや)
43
南はたかき伏馬山  (みなみはたかき ふしまやま)
後は広き吉部の平  (うしろはひろき きべのひら)
前は山畠・小松原  (まえはやまはた こまつばら)
高佐五ケ村草苅場  (たかさごかそん くさかりば)
44
北は小村の高の峰  (きたはこむらの こうのみね)
竹沢山や村の財  (たけたくさんのむらのざい)
修甫山近く重宝の  (すおやまちかく ちょうほうの)
漆ケ久保や宮面の  (うるしがくぼや みやつらの)
45
少し岡は塔の本  (すくなしおかは どうのもと)
弥生に四方の花見峠  (やよいによもの はなみたお)
前尻村の境内は  (まえじりむらの けいだいは)
石神森の大清水  (いしがみもりの おおしみず)
46
湧き出る水も村の財  (わきでるみずも むらのざい)
森地の田地高面処  (もりちのでんち たかめんじょ)
岡は往還通り筋  (おかはおうかん とおりすじ)
少し下れば段午房  (すこしくだれば だんごぼう)
47
萩山口の分れ道  (はぎやまぐちの わかれみち)
長き世を得る鶴巻の  (ながきよをうる つるまきの)
運ぶ連者の足出原  (はこぶれんじゃの あしでばら)
寒暑を除る景の邑  (かんしょをさぎる かげのむら)
48
万年山の高徳寺  (まんねんやまの こうとくじ)
七堂伽藍の大寺も  (しちどうがらんの おおでらも)
大仏・地蔵に般若経  (だいぶつじぞうに はんにゃきょう)
先住和尚の仕置なり  (せんじゅうおしょうの しおきなり)
49
前の家蔵岸高き  (まえのいえくら きしたかき)
向ふに廣き馬一ツ  (むこうにひろき うまひとつ)
低い東の麓には  (ひくいひがしの ふもとには)
往世も絶へぬ川瀬の音  (いくよもたえぬ かわせのね)
50
水の流れは正木川  (みずのながれの まさきがわ)
白崎吉部の大境  (しらさききべの おおざかい)
今白崎は賑わしや  (いましらさきは にぎわしや)
上の大炮御稽古場  (うえのたいほう おけいこば)
51
両度に郡の御代官  (りょうどにぐんの おだいかん)
御紋幕打ち御上覧  (ごもんまくうち ごじょうらん)
陣笠揃ふて西目峠  (じんがさそろうて にしめたお)
少し上は居場ノ原  (すこしくうえは いばのはら)
52
亀山麓川尻に  (かめやまふもと かわじりに)
羽宿・目代の継場あり  (はじゅくめだいの つぎばあり)
人馬出浮の役所あり  (じんばしゅつふの やくしょあり)
前の地名は鍛冶屋の田  (まえのちめいは かじやのた)
53
森地の田地高面所  (もりちのでんち たかめんじょ)
川の向こうは畑の村  (かわのむこうは はたのむら)
山口往還通り筋  (やまぐちおうかん とおりすじ)
日々に通路の諸商人  (ひびにつうろの あきんどら)
54
奥は深山・滑谷  (おくはふかやま なめらたに)
杉や檜の名木が  (すぎやひのきの めいぼくが)
浴々谷に積りなし  (えきえきたにに つもりなし)
これぞ御上の御立山  (これぞおかみの おたてやま)
55
猥りの採用御制道  (みだりのさいよう ごせいとう)
御山方の御役人  (おんやまかたの おやくにん)
木印を入れて御採用  (きいんをいれて ごさいよう)
御山の立札恐ろしい  (みやまのたてふだ おそろしい)
56
東は生雲の大境  (ひがしはいくもの おおざかい)
頬白峠と申すなり  (つらじろとうげと もうすなり)
坂の麓は足谷の  (さかのふもとは あしだにの)
谷水深き深山口  (たにみずふかき みやまぐち)
57
東の後に村があり  (ひがしのあとに むらがあり)
雨風日除けの笠ケ迫  (あめかぜひよけの ささがさこ)
野山も広き下谷に  (のやまもひろき しもたにに)
笹ケ迫の修南山は  (ささがさこの すなやまは)
58
山芋つづら沢山な  (やまいもつづら たくさんな)
秋は松茸・なば・しめじ  (あきはまつたけ なばしめじ)
水の流れの両平は  (みずのながれの りょうひらは)
滑段田が西東  (なめらだんだが にしひがし)
59
肉食好む鳶の巣の  (にくしょくこのむ とびのすの)
坂の麓は神田川  (さかのふもとは かんだがわ)
東向ふの谷深き  (ひがしむこうの たにふかき)
堅ひ浮世の石ケ浜  (かたいうきよの いしがはま)
60
秋は栗・柿沢山な  (あきはくりかき たくさんな)
春は浴々蕗のあり  (はるはえきえき ふきのあり)
りふぼふとりや蕨摘み  (りうぼうとりや わらびつみ)
郷家へ売りて銭儲け  (ごうかへうりて ぜにもうけ)
61
奥山・石組・陰地なり  (おくやまいしぐみ かげちなり)
下は森本・中蔵の  (しもはもりもと なかくらの)
当尾の山の庵の跡  (とうおのやまの あんのあと)
解きたる跡も虎の尾の  (ときたるあとも とらのおの)
62
春は美々し花風吹き  (はるはうつくし はなふぶき)
廉名ケ坂の麓には  (かどながさかの ふもとには)
安光谷の水流れ  (やすみつだにの みずながれ)
末永村の境内は  (すえながむらの けいだいは)
63
中に古木の厳嶋  (なかにこぼくの いつくしま)
大明神様ましまする  (だいみょうじんさま ましまする)
安芸の宮島写しにて  (あきのみやじま うつしにて)
羽がいの白い五烏が  (うがいのしろい ごからすが)
64
神の御使い恵比寿さま  (かみのみつかい えびすさま)
御山詣ふでの鈴の音  (みやこもうでの すずのおと)
拍手たへぬ五社参り  (かしわでたえぬ ごしゃまいり)
逸も霜月初の申  (はやもしもつき はつのさる)
65
宮居に積もる冬の月  (みやいにつもる ふゆのつき)
末永々と往く年も  (すえながながと ゆくとしも)
豊作続く高佐郷  (ほうさくつづく たかさごう)
五穀繁昌地名の記  (ごこくはんじょう ちめいのき)

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5.5.3山部は穢す皮張場

2010年02月06日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

<高佐郷の歌>の第2句です。

1962年『ふるさとの歌 むつみ村』<高佐廻り地名記>で公表されて以来、この第2句の<山部><山部>として表記されています。

おそらく原文は明確に<山部>で、<山辺>と読まれる可能性はほとんどないのでしょう。

筆者、この第2句を前に、<山部><山辺>の違いについて思いを馳せざるを得ません。これが、最初から<山部>ではなく<山辺>であったなら何の問題も感じることはなかったでしょうから・・・。

民俗学の柳田國男は、その著書『地名の研究』の中で、<地名そのものから、大凡発生の時期を推測し得られる>と語っていますが、<山部><山辺>のいずれをとるかによって、<大凡発生の時期を推測し得られる>場合もあれば、それを逸する場合もあります。

これまでの<高佐郷の歌>の解釈者は、<山部><山辺>として解釈しているようです。それは、地形に根ざす地名であって、それ以上の何ものをも意味していないと・・・。

この<山部>・・・、山口県文書館の研究者の間では、<地形>として評価されたり<地名>として評価されたり、<高佐郷の歌>の一般読者の差別性を考慮して、伏字にされたり、原文通りに表記されたり、23年間紆余曲折を経てきました。結局、1985年、<地名>であることが確認され、原文通り漢字表記されることに落ち着きました。

しかし、<高佐郷>の村の住人たちは、近世幕藩体制下の<被差別部落>の在所に直結する<山部><地名>として、部落史の学者・研究者・教育者によって確定されたことで、その研究結果を忌避、その村史から<高佐郷の歌>そのものを削除してしまいます。

1985年時点では、<山部><地名><皮張場><地名>ではなく一般名詞として認識されていたようです。

そう認識する理由は何なのでしょう・・・?

無学歴・無資格、文学的素養皆無の筆者、韻文・詩文についてはほとんど解釈能力をもっていません。小中高を通じて、国語で<5>をとったのは中学3年生のとき、国語の中島先生から・・・。あとは、韻文・詩文の解釈の問題で常に誤答・・・、成績はいつも<4>とまりでした。

そのときの苦手意識から、60歳を過ぎた今も韻文・詩文の解釈には自信がありません。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

筆者、<誤答>をおそれず、<山部>について、あらたな解釈を提示すれば、それは、<地名>用語ではなく、<人事>用語であると・・・。

確かに、<高佐廻り地名記>は、その歌の末尾にこのように歌われています。

逸も霜月初申は
宮居に積もる冬の月
末永々と行く年も
豊作続く高佐郷
五穀繁盛
作る地名記

高佐郷にまつわる地名を綴った歌であることはいうまでもありませんが、<高佐廻り地名記>には、<地名>ではなく<人事>を歌った句がいくつも出てきます。

・御国御定めの御札場
・前は郷家の店酒屋
・非人と食の歳の宿
・正宗長者の古跡あり
・はこぶ連者の足出原
・先住和尚の仕置なり
・御山方の御役人
・当職様の御名あり

そういう意味では、<高佐郷の歌>の第2句の<山部>を、<地名>ではなく<人事>に関する用語として受け止めることも不可能ではありません。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

<山部>は、<長吏の役>・<御山方>・<当職様>と同じ、<役職>名として受け止めることも、あながち間違いではないでしょう。

<山部>が、<高佐郷>で語り継がれてきたある<役職>であるとしますと、<穢す>ということばは、その<山部>に帰属する人々の営みを意味することばとして解釈することができます。<山部は穢す>は、<高佐郷><山部>といわれた人々の、その職務を高らかに誇った歌であると解釈されます。そしてこのことばは、<皮張場>に対する修飾語句です。

<高佐郷の歌>の第2句に出てくる<皮張場>には、それが近世幕藩体制下の<穢多>身分による皮革に関することばでありながら、山口県文書館の研究者が指摘するような、彼らを<賤民>と断定することになる<「穢」の観念>や<「けがれ」のイデオロギー>が作り出す負のイメージはどこにもありません。

<山部>は、権力によって押しつけられた職務を嫌々しているのではなく、その職務に積極的にかかわり自ら<穢している>というのですから・・・。<高佐郷の歌>の第3句の<長吏の役は高佐郷>に出てくる<長吏の役>同様、その職務に<誇り>を持ち、それを担って生きているとさへ解釈することができます。

<高佐廻り地名記>は、<嘉永7年・・・吉岡順平祐永の作>とされていますが、吉岡順平氏、<高佐廻り地名記>をつくるとき、その歌の中に、語り継がれてきた伝承をいくつか組み込んだようです。その伝承は、<地名>というよりは<人事>を歌った部分に多くみられます。

その<高佐廻り地名記>から<高佐郷の歌>を独立したひとつの伝承として抽出したは、山口県文書館の北川健氏の卓見というべきものでしょう。

この<高佐郷の歌>の伝承・・・、古の伝承にふさわしく、その中に<古語>をとどめています。そのひとつが第2句の<山部>・・・。

<高佐郷の歌>・・・

近世幕藩体制下の<穢多村>の姿だけでなく、近世をさかのぼる中世・古代の姿をも秘めているようです。

近世の<穢多村>に関する史資料は、多くの場合、差別につながるとして、その内容を問わず一括して非公開にされるのが常ですから、近世の<穢多村>の前身となる中世の<穢多村>、さらにはそれをさらにさかのぼる古代の<穢多村>に関する史資料も、一般の国民から隠蔽されてしまいます。しかし、歴史の真実はどんなに隠そうとしても隠し通せるものではありません。

少ない資料から判断しますと、<山部>は、<高佐郷>が帰属する阿武郡が<皇室御領>(阿武御領)であったとき、京都の<山部>の支配を受け、<山部>と同じ職務を遂行していたのではないかと・・・。<阿武御領>は、皇室に<牛皮8張>・<鹿革20張>などを献上していますから、<高佐郷><山部>もそのことに大きく貢献したのではないかと思われます。

<高佐郷><山部>・・・、京都の<山部>と同じように、司法・警察である非常民の職務を遂行するとともに、<非常>ならざるときは、付与された農地を耕したり、皮革の生産に従事していたと思われます。

<高佐郷の歌>に歌われている<山部>の起源は、近世幕藩体制下ではなく、それ以前の中世・古代にさかのぼるものです。近世幕藩体制下においては、<高佐郷>から分離された<吉部郷>に、萩藩の代官所が設置され、司法・警察機能が集中されます。長門国北穢多寺もこの<吉部郷>にありますが、そういう意味では、高佐郷の<穢多村>はその地位が相対的に低められます。しかし、<高佐郷>の、古代・中世由来の、司法・警察としての非常民である人々(<山部>・<長吏>)は、自らの非常民としての歴史と伝承を堅く保持し、そのことを生きがいにしていたのではないかと思われます。

被差別部落に伝えられる天皇制とのつながりをしめす伝承・・・、部落史の学者・研究者・教育者は、被差別部落の側の作り話しとして唾棄すべきものと捨てて顧みることはありません。『被差別部落の伝承と生活』の著者・柴田道子氏も、<自分たちの先祖が高貴な人たちんであったことに力を入れて語る。部落の人たちは、こうした伝承を心の底から信じている。由緒ある家だった・・・という伝承は、他にもたくさん聞いた>・・・、<うんざりする>とでもいいたそうです。

しかし、無学歴・無資格、常民・百姓の末裔である筆者の視点・視角・視座からしますと、<高佐郷の歌>に歌われている近世幕藩体制下の司法警察である非常民として<穢多>が、その歴史の発端で、<山部>役・<長吏>役をになっていたことに<誇りある歴史>を伝承していたとしても何の不思議も感じない・・・。被差別部落の歴史が、古代の天皇制・中世の天皇制と深いつながりを持ち、<被抑圧者>の側ではなく<抑圧者>の側に側に身を置いていたとして何の不思議も感じない・・・。

戦後の部落史の学者・研究者・教育者が、彼らから、司法警察である非常民としての歴史と伝承をはぎ取り、人間として本質的に賤しい者として差別され抑圧された存在であるという<賤民>でしかなかったとして、被差別の側に伝えられた<誇りある歴史と伝承>を、部落史研究の通説である<賤民史観>に違背するものとして、徹底的に否定するのは、あまりにも、<「穢」の観念>や<「けがれ」のイデオロギー>に拘泥していることにならないのでしょうか・・・?

筆者、<高佐郷の歌>の第2句<山部は穢す皮張場>に出てくる<山部>は、<山辺>の宛字、地形・地名をさすことばではなく、古代・中世の天皇制下にあって、天皇御領の<山部>・<長吏>として活躍していた人々・・・、のちに、長州藩の政治改革の中で、一律<穢多>という範疇が適用されるようになった人々であると解したい・・・。

彼らは、<奴婢>、隷属民などではあり得ない・・・。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

無学歴・無資格、歴史学の門外漢の筆者の目には、この歌は、次のように解される・・・。

少岡(地形)は垣ノ内(機能)
山部
(役職)は穢す皮張場(機能)
長吏
(役職)の役は高佐郷(地名)・・・

<高佐郷の歌>は、<高佐郷>の単なる被差別部落の歌ではなく、<高佐郷>そのものの歌・・・。<高佐郷>の旧穢多を含む非常民の歌・・・。現代の部落史の学者・研究者・教育者がいう<差別>・<被差別>の<被差別の歌>ではなく、<差別>・<被差別>の区分がない時代、区分があったとしても<差別>・<被差別>以外の指標で区分された時代を反映した歌であると推測されます。<高佐郷>の一般農民と、司法・警察である非常民としての<穢多>(<山部>・<長吏>)とが違和感なく共に生きていた時代があった・・・、そんな時代があったことを教えてくれます。

 

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5.5.2高佐郷の垣ノ内のある風景

2010年02月01日 | 地名とタブー

民俗学者の柳田國男・・・、<地名の研究に關しては、私は可笑しいほど澤山の無駄な苦勞をして居る・・・もしこの経験が何等かの役に立つとすれば、それは唯諸君にもう一度同じような、無駄をさせないというだけの、消極的な参考になるに過ぎない・・・>といいます。

筆者、今回、<高佐郷の歌>に出てくる地名を探索していて、柳田國男がいう<無駄な苦勞>を積み重ねてきたような気がします。しかし、その<無駄な苦勞>、徒労に終わることなく、高佐郷の<穢多村>にたどり着くことができたことはさいわいでした。

柳田國男、<地名>は、基本的には<二人以上の人の間に共同に使用せらるゝ符號である>といいます。そういう意味では、<地名>なるものは無数に存在し、あまり一般的でない<地名>を探索するのは容易ならざるものがあると想定されます。

<滅多に用ゐぬ村の小名などは、一旦間違ったらもう発見が困難である・・・>。

部落史の学者・研究者・教育者によって、被差別部落の元の地名になんらかの細工が施された場合、筆者のような、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢であるただの人が、その地名が示す在所にたどりつくことはほとんど不可能であるといえます。探しあてたとしても、膨大な時間と労力を費やすことになります。

しかし、<諸君にもう一度同じような、無駄をさせない・・・>という柳田國男の言葉に甘えるならば、柳田國男の《垣内の話》という短文は、<高佐郷の歌>に出てくる<垣ノ内>を探索するのに、有力な情報を提供してくれます。

柳田國男、<中世以前の垣内については、やや豊富に過ぐといふ程の古文書の資料が傳はつて>いるといいます。その<垣内>・・・、<一つの垣内の中に畠もあれば田も含まれ・・・荒野というものが付属していた>といいます。<垣内>は、<荘園>の原風景でもあったようです。<荘園>という漢語に対応する和語が<垣内>であった、というのです。

<垣内>は、差別された場所ではなく、<もと一つの農村の成長力であった・・・>といいます。

全国各地の<垣内>をたずねる際、それがたとえ被差別部落につながる<垣之内>・<垣ノ内>であったとしても、<屋敷又は家地>を視野に入れて探索する必要があるといいます。

柳田國男・・・、<今はまちがいない知識を、ちつとでも多く積み貯へて置きたい・・・>と、歴史学的研究にではなく、民俗学的研究に大きな期待を寄せています。

<高佐郷の歌>に歌われている内容、近世幕藩体制下の長州藩に組み込まれた高佐郷の姿だけでなく、近世以前の中世、あるいは古代社会における高佐郷の姿が歌い込められていて、上記の柳田國男の<垣内>に対する解釈をそのまま適用できる部分がかなりあります。

<高佐郷の歌>に歌われている<被差別部落>・・・、近世史の枠組みだけでなく、中世史・古代史の枠組みの中でも検証する必要がありそうです。

<高佐郷の歌>に歌われている<少岡><垣ノ内>、柳田國男の《地名の研究》《垣内の話》の記述を参考にして、その在所にたどりつくことができましたが、<高佐郷の歌>に出てくる<穢多村>のある風景・・・、ついでに、『柳田國男全集』をひもといて探索することにしました。筆者、無学歴・無資格、学問・芸術・文学とはほとんど縁がなく、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方から、たとえば、岡山の伊里中学校の人権教育担当の藤田孝志氏から何度も指摘があったように、筆者の文章は拙文に過ぎず無知・無学の体を示すものでしかありません。<高佐郷>をたずねて、その被差別部落の姿を表現するのに、その姿を的確に表現する文才はほとんど持ち合わせていません。

それでも、筆者の目に映る<高佐郷>の被差別部落の姿を表現しようとして、柳田國男の文章を転用させていただくことにしました。

「・・・という村だけは、一度諸君にも見せたい。斯ういふ古くて美しくて、人に知られて居ない村も珍しいからである。・・・地の「名」・・・住民ももう其意味を忘れて居るのである。・・・しかし地形や隣部落との距離から考へて、家は三十餘りしかないが、やはり獨立した昔の一領だったと思われる。さうしてそれを立證すべきあらゆる文書資料が、今は悉く失はれて居るのである。・・・何よりも珍しいのは村の形、境川の対岸の岡から眺めると、ほぼ眞直に南北一列に、大きなゆったりした屋敷ばかりが竝んで居るので、何か昔風の宿場を裏から見るやうな感じがする。村に入って見るとこれが實は表通りで、前をきれいな用水が流れ、家毎に橋を架けておる。流れに沿うて一筋の村があるからである。私は此路が中古の往還では無いかと思って気を付けて村をあるいて見た。土地の人に教えられて知ったことは、村の南手にやや大ぶりな小山があって、それが此邊一帯の風よけになって居る・・・」。

『柳田國男全集』の最後の巻にあるINDEXに<皮作村>として紹介されている村のことです。

<皮作村>を訪ね、その村と周辺を自分の足で歩いた柳田國男が、その<皮作村><古くて美しい村>と表現しているのです。柳田國男がこの文章を発表したのが昭和16年・・・。

筆者、この柳田國男の文章を読んでいますと、<高佐廻り地名記>に知るされている<高佐南穢多村>とその周辺の風景を綴った歌とイメージがダブってきます。筆者、高佐郷を訪ねたのは5、6回しかありませんが、高佐郷・・・、春夏秋冬を通じて美しい自然と村がある場所・・・

前の芝より詠むれば
中に大川、往還筋に郷家あり
宿の人馬も賑はしや
・・・
竜王山の麓には
御国役の御定めの御札場
祐の久保とは申すなり

少し岡は垣之内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

そこには、部落史の学者・研究者・教育者によって構築されてきた、差別思想である賤民史観の描く、<穢多>・<皮田>の住む、差別され抑圧され排除された貧しき悲惨な村の姿はどこにもありません。

無学歴・無資格、部落史研究の門外漢である筆者が、<高佐郷の歌>に出てくる地名ことばを手がかりに訪ねた、近世幕藩体制下の<穢多村>が、筆者にその姿を明らかにしてきたのは、筆者が、被差別部落とその住人をおとしめる差別思想である賎民史観の持ち主ではなかったからでしょう。

 

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5.5.1<少岡>と<垣ノ内>

2010年01月30日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

<高佐郷の歌>に出てくる、<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>という言葉は、山口県文書館の部落史研究を専門とする研究員によって、多くは被差別部落に関する<地名>と認定され、この<高佐郷の歌>は、被差別部落を歌った地名入りの歌として認知されるようになります。

この<高佐郷の歌>が発掘されてから23年後、高佐郷を含む『むつみ村史』<高佐廻り地名記>が収録される際に、全文削除されてしまいます。

『むつみ村史』には、同和教育・同和対策事業について、10数行の短い説明が記載されているのみ・・・。「昭和44年同和対策審議会を設立、昭和48年同和教育推進委員会を設立し、同和対策事業や同和教育事業を推進してきた・・・」とありますから、<高佐郷>内の被差別部落においても、同和対策事業が展開されたのでしょう。

古は<高佐郷>に含まれていた<吉部郷>には、浄土真宗の<長門国北穢多寺>があります。<高佐郷>は、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての<穢多>の姿を明らかにするのに最適な場所・・・、しかし、その情報は、<高佐郷の歌>に見られるように、削除され、衆目に曝されることを忌避される傾向にあります。

なぜ、郷土の<誇り>を歌った<高佐郷の歌>が、現在の<高佐郷>の歴史と伝承から削除されるようになったのか・・・? 『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者の推定では、<高佐郷>の末裔の方々が、<誇り>ある歴史と伝承が、日本の近代歴史学の差別思想である賤民史観にからめ捕られ、被差別の悲惨さを物語る<屈辱>の歴史・伝承へとおとしめられていくことに耐えがたい思いをもたれたからではないかと思われます。

<賤民史観>という差別的なあらしが通り過ぎていくのをじっと待っている・・・。

そして、再び、<高佐郷の歌>が郷土の<誇り>の歌としてうたうことができる日がきたなら、<高佐郷>の末裔の方々は、再び、その歴史と伝承として、<高佐郷の歌>を刻みこむことになるでしょう。

筆者、山口県立図書館の研究員の方から、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群で執筆している内容を証明する多くの史資料が死蔵されていると聞かされています。そして、<部落史研究の方向性が変わることがあれば、やがて、公開される日がやってくる、そのとき、あなたの主張していることの正しさが証明される・・・>と。

筆者、その日をイメージしながら、この文章を書いていますが、今回とりあげるのは、<高佐郷の歌>の最初の1節<少岡ハ垣ノ内>・・・。

山口県文書館の研究員の方は、最終的には、<少岡>と<垣ノ内>は<地名>であると判断されましたが、ここでいう<地名>とは何なのでしょうか・・・?

筆者の手元にある、<高佐郷>の<地名>を綴ったものに、『防長地下上申』(享保12~宝暦3年)、『防長風土中進案』(天保12年頃)、『山口県風土記』<明治8年の大小区制>『高俣村郷土史』(大正7年)がありますが、<小村>・<村内小名>・<字地・小字地>のいずれにも、<少岡>・<垣ノ内>は出てきません。

近世・近代・現代を通じて、<高佐郷>の<少岡>・<垣ノ内>は、<地名>として登場してくることはありません(山口県文書館の研究者あるいは郷土史家によって、出版される段階で削除されてしまったともあるでしょうが・・・)。つまり、<少岡>・<垣ノ内>を<地名>として、それを手がかりに<高佐郷>の被差別部落にはたどりつくことができないことを意味しています。

それなのに、山口県文書館の研究者は、最終的には<少岡>・<垣ノ内><地名>と断定しています。山口県の部落史研究の中枢である山口県文書館の研究員によって、<少岡>・<垣ノ内>が被差別部落にかかわる<地名>と断定されることによって、『むつみ村史』の記述から<高佐郷の歌>が抹消されてしまいます。

<少岡><垣ノ内>・・・、それは、<地名>なのか<地形>なのか・・・、あらためて検証してみることにしましょう。

<少岡>は、『ふるさとの唄 むつみ村』(1962年)<高佐廻り地名記>を入手する前までは、筆者、この読みを<少なき岡>と読んでいました。インターネットで検索していて、<少なき岡>という言葉に遭遇したからです。

松浦武四郎は蝦夷を北海道と命名した人で、彼が二十歳の時に高千穂を訪れた際の紀行文を天保14(1843)年に書き上げています。その中に次のような文を見ることが出来ます。<眞名井といへる細き流れを越て高天(タカマ)原と名付たる小山あり。いと少なき岡なれども樵夫も恐れをなして立入る事なき故、樹木繁茂したり。此岡の中にて折により管弦の音聞こゆる時あり。若もさよふの時は里人共は家内に慎みかくれて、一人も其辺へ立寄ものもなく高天原の神遊びと尊み恐るゝよし也・・・>。

それを根拠に<少岡><少なき岡>(すくなきおか)と読んだのですが、『ふるさとの唄 むつみ村』<高佐廻り地名記>を入手したことで、<少なき岡><少し岡>と訂正することになりました。

<高佐廻り地名記>には、<少岡>は、次のような形で出てきます。

<少し岡は垣之内>
<少し岡は水ヶ峠>
<少しの岡は塔の本>

<水ヶ峠><地名>に出てきますので、上記の表現は、<地形>をもって<地名>を表現している文章である可能性があります。ということは、<地形><地名>はひとつのもであって、<少し岡><垣之内>は同一場所を表現しているに過ぎないということになります。<少し岡>は、地名<垣之内>の属性を示す言葉ですので、<少し岡>を訪ねることで<垣之内>にたどりつくことができることを意味します。

しかし、何をもって、<岡><少し岡>と判定することができるのでしょう。

<高佐廻り地名記>には、<少し岡>だけでなく<岡>そのものも頻出します。

<岡は武稽古馬場広き>
<岡は片又大境>
<岡はお恐ろしきいぎの平>
<岡に大社の宮ぞあり>
<岡は往還通り筋>

<岡>の大きさを推定するために人工物と比較しますと、<岡に大社の宮ぞあり>の表現から察するに、神社のある岡は<少し岡>には該当しない・・・、と想定されます。<少し岡>・・・、言葉から想像される以上に小さな土地のようです。

高橋文雄著『続・山口県地名考』によりますと、<岡>について、次のような説明があります。

「岡。オカ。丘(最近とくに団地名などに多く使われる)とも書き、県下至る所にある地名で、単に岡というものだけでも148ヶ所あり、これを上下、東西、前後に区分したり、あるいは地形、状態などによって分けたものなどを合わせると数千ヶ所にもなる。その主なものだけでも、岡田・岡村・岡山・岡原・岡ノ辻・岡畑・岡平・岡畠・岡河内・岡垣内・・・。オカ(岡、丘)の語源を『大言海』は「峰処(オカ)ノ義トイフ」といい、地方によると「尾根、山の背」のこともあるが、普通には「小高い所」のことをいう。」

それで筆者、<高佐郷>の国土地理院の2万5千分の1の地形図、航空写真・衛星写真を入手して、<高佐郷>の<小し岡>探しをはじめたのですが、結論からいいますと、それらを用いて特定することはほとんど不可能・・・。

こういう場合、自分の足で旧街道を歩いて<少し岡>を探すに限ります。近世幕藩体制下の街道を旅する旅人の目線から見ると、古文書に出てくる地名・・・、現在地図や文献上で確認することができない地名も視野に入ってきます。しかし、その<少し岡>・・・、数は膨大・・・。視界に入る<小高い所>を見ては<あれが問題の少し岡・・・?>と試行錯誤を繰り返すことになります。

山口県文書館の研究員の方、<□□□□□□>と伏字にして<地名>と注をふる必要がどこにあったというのでしょう・・・? 現代人の一般的感覚で<地名>ととらえたとき、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>は、永遠に見つけることができな謎の地名になってしまいます。山口県文書館の研究員の方、<高佐郷の歌>に出てくる、被差別部落の地名とおもわれることばを伏字にし、そして言葉の種類を異なるものにして、<高佐郷の歌>に歌われている近世幕藩体制下の<穢多村>から、あとに続く研究者の目から隠している・・・、と思われます。

<高佐郷の歌>に限りません。山口県の部落史研究の中でとりあげられる被差別部落の地名については、すべからく、不特定多数の<差別者>から、山口の被差別部落の人々の<人権を守る>ために、このような仕掛けが施されています。

それで、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>を特定するために筆者が採用したのが、<民俗学>の研究成果・・・。

民俗学の父・柳田國男と、柳田國男民俗学の流れを組みつつ、自然・環境を視野にいれながらあらたな民俗学を構築した野本寛一の研究成果・・・。

山口県文書館の北川健先生・・・、従来の山口県文書館の研究者の<少し岡><□□□□□□>と伏字で表記することをやめ<少岡>として実名表記することを決断しています。その論文の末尾にこんな解説が・・・。「地名の表記は、今後の学術研究の継承と進展のため符号表記から歴史的地名表記に変えた・・・」。

<符号表記から歴史的地名表記に・・・>、それは、<符号表記から現在の住所と地名表記に・・・>変えたのではないことは確認しておく必要があるでしょう。

<少岡ハ垣ノ内>・・・

<少岡><垣ノ内>であるとしますと、<少岡>から<垣ノ内>にたどりつくことはかなり困難・・・。よって、<垣ノ内>を確定することで<少岡>を確定・・・、そのあと、最初に戻って、<少岡ハ垣ノ内>という言葉が具体的にどこをさしているのか確定する必要があります。

 

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5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 5.<高佐郷の歌>に出てくる地名・・・

2010年01月27日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

もう一度、<高佐郷の歌>を掲載します。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗制道し
高佐郷中貫取

この歌は、山口県文書館の研究員であった北川健氏によって、《「防長風土注進案」と部落の歴史》(1983)に紹介されたものです。この中で、地名と思われるものは、<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>の6件です。

<高佐郷の歌>を含む『高佐廻り地名記』が公表されたのは、1962です。村長から、<むつみの俚謠>調査の依頼を受けた民俗研究家・波多放彩氏が、<丸3ヶ月、約240軒を訪い、180人の方々からおしえられた唄を・・・集めて1本に纏めた>『ふるさとの唄』に、『高佐廻地名記』として収録されたものです。

少し岡ハ垣之内(今は○○)
山部は穢す皮張場
○○の役は高佐郷
何そ非常の有時は
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人絶盗(窃盗の字音?)せいとふし
高佐郷中貫取す

波多放彩氏が調査をしているとき、<はからずも後井の蔵田喫介翁の筐底から発見された>そうです。<半紙22枚に達筆で認(ママ)められている。奥書によると嘉永7年(1854)、73翁吉岡順平祐永の作で、その4年後の安政5午(ママ)の季春、藤田安治郎がこれを写すとなっているが、写本にあたり、地名に数ヶ所の誤字を生じ、難解であるが風土注進案や、地下上申などを参酌し、あるいは現地に行って調査した結果、どうにかまとまったものになった・・・>そうです。

それから、23年後の1985年に出版された『むつみ村史』には、<第10編民俗と生活 7.むつみの歌>として、『ふるさとの唄』が転載されたとき、この<高佐郷の歌>は全文削除されてしまいました。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民の心意気を歌ったこの<高佐郷の歌>が、郷土史家によって発掘されたにもかかわらず、なぜ、『むつみ村史』から削除されなければならなかったのか・・・、その背後には、<高佐郷の歌>に出てくる、近世幕藩体制下の<穢多>の在所を示す地名の取り扱い方が大きく影響していると思われます。

部落史の学者・研究者・教育者の<高佐郷の歌>の解釈によって、ふるさとの誇り高き歌が、部落史の学者・研究者・教育者の差別的な賎民史観によって色濃く染め抜かれ、最終的には、<高佐郷の歌>全体が削除されるにいたったのでしょう。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、問題は、<高佐郷の歌>そのものではなく、その<高佐郷の歌>の中に、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての職務遂行の心意気を認識することができなかった、部落史の学者・研究者・教育者が、差別思想である賤民史観的解釈を強引に適用した点にあります。

<近世の被差別部落は、典型的には「垣ノ内」と「皮」と「長吏」役の三者によって象徴される。この三者をつなぐ論理が「穢」の観念、「けがれ」のイデオロギーである・・・>という解釈によって、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての職務遂行の心意気が歌われている<高佐郷の歌>は、<穢れの歌>に変質させられ、おとしめられてしまったのです。

『むつみ村史』<高佐廻り地名記>から<高佐郷の歌>が削除された原因は、<高佐郷の歌>そのものに起因するのではなく、その歌を、<穢れの歌>としてしか解釈することができなかった、部落史の学者・研究者・教育者の研究姿勢にあります。

それを確認するために、<高佐郷の歌>に出てくる、<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>の6つの地名と想定される言葉について、部落史の学者・研究者・教育者の解釈のあとをたどってみましょう。

まず、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>が、<地名>であるのかどうか、解釈の変遷をたどってみましょう。

<少岡>

<高佐廻り地名記>が発掘された直後に公開された<高佐郷の歌>(1962)では<少し岡>となっています。その読みは<すくなしおか>・・・。誤読される可能性はほとんどありません。1966年山口県文書館の研究者によって、<少岡>と訂正されますが、横に<地形>であるとの注が付されています。しかし、1980年に入りますと、<□□□□□□>と伏字にされ<少岡>という漢字表記が隠蔽されるようにかな表記にあらためられます。同じ年に、<□□□□□□>の横に<地名>であるとの注が付加されます。1983年、<地名>であることが確定され、<□□□□□□><地名>であるとの注なしで<少岡>と表現され、1985年には村史から<高佐郷の歌>全体が削除され<少岡>が隠蔽されることになります。

<垣内>

1962年は<垣之内>にはじまり、<垣ノ内>(1966年・1980年・1983年)を経由して、1983年<垣内>に確定されます。この言葉も、1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。1962年の<垣之内>には、<今は○○>との注がついていますので、<垣内>は最初から地名として受け止められていたようです。

<山部>

1962年は<山部>、1966年は<山部><地形>であるとの注が施されています。1980年には<□□□>と伏字にされ、同じ年、<□□□><地名>であるとの注が付加されます。1983年には、<□□□><地名>であるとの前提から<山部>に変更になります。この言葉も、1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。

<皮張場>

この言葉の使い方に変更は確認することができませんが、やはり1985年村史から<高佐郷の歌>全体が削除されることで隠蔽されることになります。

<高佐郷

1962年は<高佐郷>として表記されていますが、山口県文書館の研究員によって、1966年伏字扱いにされ<□□郷>となります。1980年には、伏字が2字から3字に変更され<□□□郷>となり、同じ1980年には<□□□郷>に<地名>であるとの注が付されています。山口県文書館の研究員によって、<地名>として<高佐郷>として確定されますが、やはり、1985年村史からは削除され隠蔽されることになります。

<高佐郷中>

この言葉は、前述の<高佐郷>と同じ。

つまり、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>という表記のうち、<少岡>・<山部>・<高佐郷>・<高佐郷中>は、山口県文書館の研究者によって、試行錯誤を経て<地名>として確定され、むつみ村内の被差別部落の在所につながる具体的な<地名>を含む<高佐郷の歌>が、村史の記述から削除され、<高佐郷の歌>そのものが<隠蔽>されることになります。

筆者、無学歴・無資格、部落史研究の門外漢であるにもかかわらず、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>について、『部落学序説』風の解釈をほどこしてみたいと思います。

 

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5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 4.<高佐郷の歌>を研究するときの姿勢・・・

2010年01月23日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

<郷土>に関する歴史資料をひもといて、近世幕藩体制下の<穢多村>を尋ねるのは、なかなかしんどいものです。

一般的には、<触れるな、さわるな・・・>と言われた世界に足を踏み入れることになりますから・・・。

山口県文書館の研究者の方が書かれた<同和問題と地方史研究者の責任>という文章に、このようなことが書かれています。学術研究用の資料集として復刻された『防長風土注進案』の<被差別部落>に関する記事に対する学者・研究者・教育者に、その取り扱いをめぐる<自覚と自戒、留意と配慮>をうながしたものです。

<20数年前には郷土史家の保有する地元の史料が発端となって、その地の役場や学校の文書記録までもが焼却処分になった・・・>。

その被差別部落がどこの被差別部落なのか、部落史研究の門外漢である筆者は何も知りません。ただ、その被差別部落に関する差別文書だけでなく、関連史資料まで<焼却処分>されたとなりますと、筆者、<産湯と一緒に赤子を捨てた・・・>という恐るべきことがらを想定してしまいます。

その被差別部落が生きてきた、ほんとうの歴史も同時に失われてしまったのではないか・・・、と。

今回、<高佐郷の歌>を調べていて、その史資料の少なさに驚かされます。関連史資料の少なさの背景に、<関連史資料が意図的に隠されてしまったのではないか・・・?>という疑念を抱かざるを得ないからです。

<同和問題と地方史研究者の責任>に取り上げられた、被差別部落の関連史資料を焼却処分に付した被差別部落と、<高佐郷>内の2つの被差別部落(未指定地区・・・?)とが重なることがないことを願いながら、この文章を続けていくことになります。焼却処分までして隠蔽した歴史を、無学歴・無資格、部落史研究の門外漢である筆者が明らかにすることは、精神的に耐えられないことがらでしょうから・・・。

筆者、<高佐郷>の2つの被差別部落を、絶対座標ではなく相対座標を用いて、<高佐北穢多村>・<高佐南穢多村>と呼ぶことにします。<高佐郷>の2つの<被差別部落>の住人の方々は、筆者が、何を知り得て、何を知り得ていないか、確認することができるでしょうし、被差別部落の人々を差別してやまない現代の<差別者>にほんとうの地名を曝す愚をおかすこともなくなるでしょうから・・・。

《明治大正郷土史研究法》の著者・古島敏雄氏は、「歴史という人間の営みによってつくりあげられる過去の姿の解明には、ほとんど常に村・地域の利害関係の緊張を呼び起こす要素を含んでいる・・・」といいます。そして、「問題が比較的近い過去に属するならば・・・個人の私事をあばくという反省を呼ぶようなものが、郷土人にはある・・・」といいます。

前述の<同和問題と地方史研究者の責任>という文章でとりあげられている<郷土史家>は、郷土の歴史・・・、被差別部落の歴史を含む郷土の歴史を<あばく>営みをされたのでしょうか・・・? 筆者、その具体的内容について何も知りませんが、郷土の歴史を<あばく>営みは、決して少なくありません。

たとえば、<同和教育研修>などもそうでしょう。

講師によって、郷土の歴史を学習したあと、部落史の学者・研究者・教育者などの識者の案内で、被差別部落の中を散策してまわる・・・、という場合も、多くの場合は、被差別部落の歴史の真実を知ることにつながるより、その被差別部落が如何に差別されてきたか、部落史の学者・研究者・教育者が前提としている賤民史観の枠組みの中での確認にとどまってしまう。それも、結果的には、<あばく>ことにつながり、部落差別完全解消に帰することはほとんどありえない・・・。融和事業・同和対策事業の利権に与ってきた被差別部落の古老を動員して、賤民史観を被差別者自らに確認させる・・・、というオプションを組み込まれたような<同和教育研修>は、部落差別完全解消からほど遠い、むしろ、部落差別の拡大再生産のいとなみであると言えるでしょう。

筆者が、この文章を書く目的は明白です。

部落史の学者・研究者・教育者の手のあかで汚れてしまった<高佐郷の歌>をそこから救い出し洗い清めることにあります。ことばを変えれば、<高佐郷の歌>の賤民史観的解釈をはぎとり、その中にある<高佐郷の歌>に秘められている本来の歌の響きを取り戻すことにあります。

高佐郷の2つの被差別部落には、筆者が、『部落学序説』でとりあげている、<山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老>と同じく、彼らの先祖伝来の歴史を担い、先祖伝来の土地に根ざして生き抜いている古老がいる・・・、と思われます。いつか、尋ねていって、その話しをお伺いすることになります。

無学歴・無資格、学問とはほとんど縁のない筆者の<机上の研究>、そこから紡ぎだした<机上の論理>は、最終的には、その地に生きる被差別部落の古老との出会い、そのほんとうの歴史を共有することに終わる・・・。

奥阿武郡の大庄屋の『蔵田家文書』・・・、無学歴・無資格、学問と無縁な筆者がたどりつくことができない山口県文書館の書庫の中にありますが、高佐郷の2つの被差別部落に関する多くの史資料、ないし記事を含んでいるのではないかと思われます。それらの文書は、<焼却処分>されていないようですから、いつか、<高佐郷の歌>に隠されているほんとうの意味を、歴史の真実を明らかにしてくれる日が訪れるでしょう。

<同和問題と地方史研究者の責任>に、「今なお<文書館にある関係史料は全部焼いてしまえ>と呼号している一方の当事者もいる・・・」とありますが、「同和問題にかかわる史実と史料は<両刃の剣>・・・、差別を継承、助長、再生産していく凶器ともなれば、差別の撤廃、同和教育、部落解放を推進していく有力な武器ともなりうる・・・」。

被差別からの解放は、被差別の歴史を否定することによってではなく、差別思想である賤民史観的装いを剥ぎ取って、ほんとうの歴史を明らかにすることによってもたらされる・・・、筆者、そう信じてやまない・・・。

    

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5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 3.<高佐郷の歌>に関する資料・・・

2010年01月01日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 3.<高佐郷の歌>に関する資料・・・

短い文章であるにもかかわらず、執筆の中断を余儀なくされますと、その文章の続きを書くのがかなり困難になってきます。執筆をはじめたときに持っていたエネルギーのようなものがかなり削がれてしまうからです。

そういう意味では、岡山の伊里中学校の人権教育担当の藤田孝志氏の、筆者に対して向けられた誹謗中傷・罵詈雑言に対する対応には、多くの時間を割くことになりましたので、筆者の『部落学序説』執筆を遅延させた功績はかなり大きなものがあるでしょう。

部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々の要望もあって、できるかぎり、ていねいな対応をしてきたつもりですが、振り返ってみますと、最初から最後まで誹謗中傷・罵詈雑言の連続で、ほとんど無意味な対応に終わりました。筆者だけでなく、部落史研究会の方々が、藤田孝志氏に対して抱いていた<期待>は、瀬戸の荒磯に砕け散る波のように砕け散ってしまいました。

筆者、藤田孝志氏のために必要以上に時間を割いてきましたので、これ以上、藤田孝志氏の筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言に対応することはありません。藤田孝志氏は、自らを、筆者がいう<部落史の学者・研究者・教育者>に同一視して、<部落史の学者・研究者・教育者>の代表として筆者と筆者の『部落学序説』を批判してきましたので、今日の部落史研究に従事しておられる<学者・研究者・教育者>の、筆者の『部落学序説』に対する批判は、彼の一連のことばに集約されているのでしょう。

筆者は、被差別部落の先祖は<賎民>ではないと主張しているのに対して、藤田孝志氏に代表される、今日の部落史研究の学者・研究者・教育者の多くは、被差別部落の先祖は本質的に<賎民>であり、現在の被差別部落の人びとは<賎民>の末裔であると主張し続けます。彼らにとって、<賎民史観>は、無条件に学者・研究者・教育者が依拠すべき<不磨の大典>なのでしょう。

しかし、筆者、たとえ一言居士の名を汚すことになろうと、今後も、被差別部落の先祖は<賎民>ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察であった非常民の一翼を担った存在である・・・、と主張し続けることになるでしょう。部落史研究・同和教育研究の世界において、<評価される価値のない、論文に値しない>ものであると烙印をおされようとも・・・。

<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌・・・に関する文章化が遅れている間に、<高佐郷の歌>に関する史資料を数点入手しましたので、この文章を書くときに引用する史資料のリストを掲載しておきます。筆者、無学歴・無資格、歴史研究・部落史研究の門外漢ですので、しろうとの筆者が入手できる史資料程度は、くろうとの学者・研究者・教育者の方々はすでに所有しておられるか、そうでない場合でもいつでも入手できる類の史資料であると思っていますので、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々の要望に従って、その史資料のリストを公開します。

①高佐村国大由来境目書(『地下上申』)
②吉部村石高由来境目書(『地下上申』)
③長門国奥阿武郡高佐邑風土物産記(『風土注進案』)
④長門国奥阿武郡吉部邑風土物産記(『風土注進案』)
⑤高俣村村誌(『山口県風土記』)
⑥吉部村村誌(『山口県風土記』)
⑦『むつみ村史』
⑧波多放彩編『ふるさとの唄・むつみ村』
⑨北川健著『防長風土注進案と部落の歴史』
⑩北川健著『山口県の部落解放の文芸と歴史』
⑪北川健著『山口県の文芸の中の部落の歴史』(『いのち11』)
⑫北川健著『防長風土注進案と同和問題』
⑬桜の森の桜谷においでの瀬織津姫さま(『梨の木平の桜』)
⑭布引敏雄著『長州藩被差別部落成立の一形態 <垣之内>地名を手がかりとして』
⑮古島敏雄著『明治大正郷土史研究法』
⑯日本歴史地名大系36『山口県の地名』
⑰西村睦男編『藩領の歴史地理―萩藩―』

岡山の伊里中学校の人権教育担当の藤田孝志氏をはじめ、プロの部落史の学者・研究者・教育者の方々からすれば、筆者が<高佐郷の歌>について言及するときの史資料の少なさに、またまた誹謗中傷・罵詈雑言をあびせて執筆の中断に追い込みたくなるかもしれませんが、所詮、無学歴・無資格の、歴史研究の門外漢の書く文章ですから、書き終わるまで<傍観>していただければわいわいです。

『部落学序説』とその関連ブログ郡の読者の方々は<賢明>な方々が多く、無学歴・無資格の筆者の<論文>より、岡山の伊里中学校の人権教育担当の藤田孝志氏をはじめ、プロの部落史の学者・研究者・教育者の方々の<論文>の方に信を置くでしょうから・・・。

 

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5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 2.高佐郷の歌の伏字について 

2009年12月05日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 2.<高佐郷の歌>の伏せ字について・・・

山口県文書館の研究員・北川健先生によって、<高佐郷の歌>が紹介されたのは、1980年(昭和55)の雜誌『草論』(第3号)<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文でした。

残念ながら、筆者の手元には、その<山口県の部落解放の文芸と歴史>という論文はありませんので、その論文の中で、<高佐郷の歌>がどのような形で紹介されているのか、確認することができません。

しかし、同じく1980年の2月22日の<山口県の文芸の中の部落の歴史>という北川健先生の論文の中には、<高佐郷の歌>が紹介されています。筆者、そのふたつの論文で紹介されている<高佐郷の歌>は、時期的に見てほとんど同じ内容であるという推測のもとに、<山口県の文芸の中の部落の歴史>に紹介されている<高佐郷の歌>を引用させていただくことにします。

□□□□□□ハ垣ノ内
□□□は穢す皮張場
長吏の役ハ□□□郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
               (『□□□廻地名記』)

部落史に関する史資料を引用するときに、しばしば見ることになるこの<□>という記号・・・、<伏字>を示す記号です。この<伏字>を一般的に公開することで、この<高佐郷の歌>という文章が、被差別部落に対する差別助長につながることをおそれて、部落史の学者・研究者・教育者があえて<伏字>にして非公開とする・・・、という部落史の学者・研究者・教育者の配慮のあらわれです。

こういう<伏字>の入った、部落史に関する史料集・論文集は決してめずらしいものではありません。

たとえば、旧幕藩体制下の長州藩には、<穢多寺>と称される寺は4ケ寺存在しています。この寺について、山口県の部落史の学者・研究者・教育者が言及するときは、A・B・C・・・や、<>という記号を使って<伏字>で表現されるのが一般的でした。

たとえば、上記<高佐郷の歌>に出てくる<□□□郷>に存在していた<穢多寺・□□寺>(筆者は、相対表記で、<長門国北穢多寺>とよぶ・・・)は、次のように紹介されます。

真宗□□寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の□□宗門寺にて御座候事

これでは少しく難解になりすぎますので、次のように表現されることもありますが、そのときは、<穢多>ということばが、一般的に使用されると差別語になるが、部落史研究の学者・研究者・教育者が使用するときは<差別語>としてではなく<歴史用語>として使用していると注を施す必要が出てきます。

真宗穢多寺 □□寺 □□□村ニあり
右當寺ハ・・・御國中三拾ケ處の穢多宗門寺にて御座候事

上記、<高佐郷の歌><□>という記号をつかった<伏字>も同じ意味合いをもっています。

山口県文書館の研究員の北川健先生は、<高佐郷の歌>を論じるとき、<□>という記号で<伏字>にしたところは特に注意が必要である・・・、と注意を喚起しているといえます。できれば、<伏字>のまま、そっとしておくべきことがらであると・・・。

しかし、北川健先生、《『防長風土注進案』と部落の歴史》という論文においては、

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

と、<□>という記号を使った<伏字>を解除して、<高佐郷の歌>に関心を持つ人々にその全文を公開しています。<伏字>を解除して公開に踏み切った背景には、山口県文書館の研究員・北川健先生の、部落史の学者・研究者・教育者としてのこころの葛藤と、文書館の研究員間で葛藤が存在していたのではないかと推察されます。北川健先生の論文には、後続の学者・研究者・教育者が、史実に遭遇できるように、いたずらに<伏字>にしないで、原文のまま記載しようとする傾向がみられます。

最初の<高佐郷の歌>の<伏字>は、たとえ<伏字>をつけても、この<高佐郷の歌>を公開しようとした、山口県文書館の研究員・北川健先生の、歴史研究者としての戦いの足跡なのでしょう。

<伏字>になったところを、もういちど確認してみましょう。

□□□□□□ハ垣ノ内・・・スクナキオカ→少岡
□□□は穢す皮張場・・・オカベ→岡部
長吏の役ハ□□□郷・・・タカサ→高佐
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
□□□郷中貫取
・・・タカサ→高佐
               (『□□□廻地名記』)・・・高佐郷

当時、山口県文書館、あるいは、その研究員の北川健先生は、この<□>の部分をなぜ<伏字>にしなければならないと考えたのでしょうか・・・? <少岡>・<岡部>・<高佐>ということばが<伏字>にされなければならない、どんな理由があったというのでしょうか・・・?。

  

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5.高佐郷の歌にみる地名に対する禁忌 1.高佐郷の歌 

2009年12月04日 | 地名とタブー 高佐郷の歌

5.<高佐郷の歌>にみる地名に対する禁忌
 1.<高佐郷の歌>

インターネット上で、<高佐郷の歌>を検索してみますと、まずヒットするのが、ブログ『ジゲ戦記』・・・。

そのプロフィールに<高佐郷の歌>全文が掲載されていますので、ブログ『ジゲ戦記』にアクセスすれば、すぐ目に入ります。

今回、<高佐郷の歌>に出てくる<地名>をてがかりに、被差別部落の地名に関する<禁忌>について少しく考察をしてみることにしました。

筆者の手元にある<高佐郷の歌>は、全部で4種類。最初の3つは、<高佐郷の歌>を発掘された、山口県文書館の元研究員、現在、山口大学の講師をされている北川健先生の論文の中に出てくるもの。最後のひとつは、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々のブログ『ジゲ戦記』で紹介されている<高佐郷の歌>・・・。

この最後の<最後の高佐郷>の歌は、北川健先生の3番目の1983年版の<高佐郷の歌>に、部落史研究会の方々の独自の解釈が読み込まれているという点で、第4番目の<高佐郷の歌>としてとりあげることにしました。前3つが<差別者>の立場からの<高佐郷の歌>の解釈であるとしましたら、最後の<高佐郷の歌>は<被差別>の立場からの<高佐郷の歌>の解釈であると言えます。

とりあえず、現時点で、その気になれば誰でも読むことができるブログ『ジゲ戦記』<高佐郷の歌>をとりあげてみることにしましょう。

少岡ハ垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役ハ高佐郷
何そ非常の有時ハ
ひしぎ早縄腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗制道し
高佐郷中貫取

1983年版の<高佐郷の歌><せいとふ>とかな表記されているいる箇所は、ブログ『ジゲ戦記』版では<制道>と漢字表記に改められているところをのぞけば、両者はほぼ同じです。

しかし、部落史研究会の方々が、その<高佐郷の歌>に読みを付すことで、北川健先生の1983年版の<高佐郷の歌>と、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々のブログ『ジゲ戦記』版の<高佐郷の歌>とでは大きな違いが出てきます。

部落史研究会の方々は、上記の<高佐郷の歌>を次のように読んでいます。

1 ショウオカハカキノウチ
2 ヤマベハケガスカワハリバ
3 チョウリノヤクハタカサゴウ
4 ナンゾヒジョウノトキアラバ
5 ヒシギハヤナワコシドウグ
6 ロクシャクニブノボウカマイ
7 タビビトゴウトウセイトウシ
8 タカサゴウナカカンドリ

無学歴・無資格の筆者、高校生時代、古文は苦手科目であまり熱心に勉強してきませんでしたので、この<高佐郷の歌>を読むときにも、その読み方にほとんど自信はありません。乏しい、筆者の文学的知識に依拠して考察をすすめれば、日本の詩歌には、<五七調><七五調>がありますが、この<高佐郷の歌>は、<七五調>にあたります。

しかし、この<七五調>は、部落史研究会の方々の読みでは、<高佐郷の歌>の2行目から7行目までにあてはまりはしても、1行目と8行目は該当しません。

1 ショウオカハ・カキノウチ
8 タカサゴウ・ナカカンドリ

部落史研究会の方々の読みでは、一行目は<五五調>、8行目は<五五調>の<字あまり>になっています。8行詩のうち、1行目と8行目が強調された形になっています。無学歴・無資格、古典文学とはほとんど無縁の筆者、こういう<強調>がどの程度一般性があるのか、判断することができる資料をもちあわせてはいません。

筆者の乏しい知識では、本来<七五調>であるべきはずの句を<五五調>で読むのは、<読みの間違いではないか・・・>と想定せざるを得なくなります。部落史研究会の方々が<ショウオカ>、あるいは<ナカカンドリ>と読まれていることばの品詞はなになのか・・・。彼らは、それを地名であると認識しておられるようです。<高佐郷>における<穢多>の在所を示す地名・・・。

しかし、筆者が、徳山市立図書館の郷土史料室で史資料にあたった限りでは、<高佐郷>には、古代・中世・近世・近代を通じて、<少岡>・<中貫取>という地名はありません。『地下上申』・『風土注進案』・『山口県風土記』、そして<高佐郷>に関する郷土資料を探っても、<高佐郷>の地名の中には出てきません。

そういう意味では、1行目の<少岡ハ>と8行目の<中貫取り>は、<七五調>の基本に立ち戻って、<ショウオカハ>は<□□□□□□□>として、<コウサゴウナカカンドリ>は<□□□□□□□ □□□□□>として読みを正規化する必要があります。

無学歴・無資格、文学とはほとんど縁のない筆者が、文学の専門家から笑われるのを覚悟してあえて、新たな読みを付すとすれば、<ショウオカハ><スクナキオカハ>と読み、<コウサゴウナカカンドリ><コウサゴウチュウ ツナギトリ>と読むことになります。

その理由は、のちほどとりあげるとして、<高佐郷の歌>の読みは、次のようになります。

1 スクナキオカハ カキノウチ
2 ヤマベハケガス カワハリバ
3 チョウリノヤクハ タカサゴウ
4 ナンゾヒジョウノ トキアラバ
5 ヒシギハヤナワ コシドウグ
6 ロクシャクニブノ ボウカマイ
7 タビビトゴウトウ セイトウシ
8 
タカサゴウチュウ ツナギトリ

この<高佐郷の歌>・・・、山口県の部落史研究、あるいは同和教育においては、軽々しく取り扱うことができない、被差別部落の地名が入った歌として認識されてきました。その経緯は、筆者の手元にある、山口県文書館の元研究員で、現在山口大学の講師をされている北川健先生の3つの<高佐郷の歌>の、<公開>のための3つのパターンを検証すればすぐ分かります。

北川健先生は、山口県の部落史研究において、際立って良心的な研究者ですが、その北川健先生をも巻き込まずにはいなかった、被差別部落の地名に対する、必要以上の、極端な<禁忌>(タブー)、筆者、無学歴・無資格、山口県の部落史研究の門外漢であるにもかかわらず、批判検証をこころみたいと思います。

  

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4.被差別部落と禁忌(タブー) 5.「別火別婚」という禁忌について

2006年11月18日 | 地名とタブー 被差別部落と禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 5.「別火別婚」という禁忌について

前項で、『被差別部落の地名とタブー』に終止符を打って、本論の『部落学序説』の執筆に復帰する予定にしていたのですが、再度言及することにしました。現在、インターネット上を賑わせている、部落解放同盟員による不正事件や、それに付随して起きているとみなされる部落地名総鑑事件、それに対して何の言及もすることなく終わることにためらいが生じてきたためです。

前回同様、今回も、資料・論文から引用することなく、『部落学序説』の筆者自身のことばで語ることにしましょう。

筆者は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」について語るとき、近世幕藩体制下の司法・警察に従事していた「非常民」の一翼をになう存在として「穢多・非人」を認識してきました。

地方史に埋もれてしまった文献の中には、「穢多・非人」が自らを非常の民として語っていたことを示す文書が少なくありません。「諏訪、御用之節は、御忠勤尽し奉つる身分」としておのれを理解していたのは、渋染一揆の当事者である岡山藩の穢多だけでなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としていきてきた、全国の諸藩支配下の穢多たちです。

強盗・殺人・放火など、世の中を不安と混乱に陥れる非常時に際しては、「穢多・非人」は、近世幕藩体制下の非常民である奉行・与力・同心・目明し・村方役人同様、犯人確保のため日夜探索に励み、犯人逮捕にさいしては、日頃から訓練された、犯人を殺さずして生きたままつかまえる逮捕術(十手術・棒術)を磨き、その専門的な知識と技術を駆使して捕亡のわざに従事しました。

犯人逮捕は、昔も今も、司法・警察官の個人プレーによってなされるものではなく、梯子・刺又等の捕亡用具を用いての組織プレーによって行われていたのです。「非常民」を支配していた精神的支柱は、彼らが、近世幕藩体制下の「法」である法度に対する遵法精神でした。「穢多・非人」も、奉行・与力・同心・目明し・村方役人などの他の「非常民」同様、「法」に基づいてさまざまな治安維持に関わってきました。

『部落学序説』の筆者である私が、その執筆活動を通じてますます確信していることは、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は、「差別された、あわれで、みじめで、気の毒な・・・」「賤民」としての「穢多・非人」ではなく、与えられた、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務に忠実な「役人」を担ったひとびとです。

しかし、現在、問題になっている、部落解放運動の運動家にまつわるさまざまな不正事件・・・。そこにある、現代の被差別部落民の姿は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の姿と比べてみますと、まったく似て非なるものであることがすぐにわかります。

新聞・ラジオ・テレビ等のマスコミでとりあげられる部落解放運動に従事してきた被差別部落のひとびとの不正にまみれた姿は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の目からみますと、まったく異質な存在として映るのではないでしょうか・・・。近世においては、「法」の遵法者としての「穢多・非人」の姿と、昨今の様々な不正事件をおかし、社会のひんしゅくをかっている部落解放運動の従事者の「法」の違反者として姿は、まったく矛盾したものであると思われます。

近世幕藩体制下において、「法」を遵守していたはずの「旧穢多」は、現代社会のおいては、「法」の逸脱者として生きているように思われます。

なぜ、そのような状況へ、追い込まれ、被差別部落のひとびとも自らその世界へ飛び込んでいくことになったのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者としての私は、その背景には、被差別部落の側の歴史の忘却、自分たちの祖先が、近世幕藩体制下の司法・警察官として、「法」の下でその職務を遂行してきた・・・という歴史を忘却してしまっているという現実が存在しているように思われます。

なぜ、「旧穢多」の末裔は、「旧穢多」の歴史を忘れてしまったのでしょうか・・・。

明治以降の「旧穢多」の末裔たちは、様々な、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に課せられた政治的・社会的・文化的な「禁忌」(タブー)から自由になりえなかったためではないかと思います。それどころか、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての歴史と誇りすら奪い取られていったのではないかと思います。明治以降、「旧穢多」に課せられた新たな「禁忌」(タブー)は、「旧穢多」が「旧穢多」であることを認識せしめるようなことがらを排除し、最終的には、「旧穢多」に、その歴史の実像とはまったくことなる、日本の歴史・文化・政治から「賤民」として認識する、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」によって、「差別された、みじめで、あわれで、気の毒な存在・・・」としての歴史の虚像を押しつけることになったと思われます。

多種多様な「差別」の中で最も深刻な「部落差別」の本質は、被差別部落のひとびとから本当の歴史を剥奪し、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がつくりあげた歴史の虚像を強制することにあったのではないかと思います。

剥奪された、近世幕藩体制下の「旧穢多」のほんとうの歴史を取り戻し、あるべき姿に回復し、自己の「存在理由」の根拠をつかむことができなかった被差別部落の多くの人々は、ただ、「いわれなき差別を受けてきた・・・」という抽象的な発想を根拠に、「いわれなき同和対策事業・同和教育事業を要求し続けてきた・・・」のではないかと思います。

歴史の実像を忘却し、歴史の虚像に生きる被差別部落のひとびとは、大地に根を持たない浮き草のように、現代の差別社会の中を生きているのではないか・・・と思わされます。被差別部落のほんとうの歴史・物語をうばわれたとき、あとに残るのは、「目に見える形」(同和対策事業・同和教育事業の恩恵にあずかること)を追求することだけであった・・・と思わされます。

近代部落差別・現代部落差別の成立において、おおきな役割を演じた明治政府、近代中央集権国家・明治天皇制国家と、戦前・戦後を通じてその体質を継承している現代国家の果たした役割は無視できないものがあります。

国は、『同和対策審議会答申』によって、「被差別部落」のひとびとを「旧穢多」の末裔としてではなく、国と行政によって、「同和地区」として指定されて地域にのみ同和対策事業を実施します。その地域の歴史的事実がどうであれ、国・行政によって「同和地区」として指定されて地域を、同和対策事業・同和教育事業の対象地域としたのです。

「被差別部落」の外延には、「旧穢多」だけでなく、「特殊部落民」(「旧穢多」+その他のひとびと)に拡大され、「同和地区」指定されたあとには、「同和地区住民」(「旧穢多」+同和地区指定される前のその他のひとびと+同和地区指定された後のその他のひとびと)はさらに概念の外延を拡大させられていきます。

同和対策事業関連法は、「旧穢多」を対処にしたものではなく、「同和地区」と「同和地区住民」を対象にしたものであったために、同和対策事業・同和教育事業を舞台にした「似非同和行為」を抱え込むことになりました。「同和対策審議会答申」は、そのための理論的装置を提供し、同和対策事業関連法は、その法的基盤を提供していったのです。

部落解放運動内部の、国の同和対策事業に対する不安・懸念・危惧は無視され、多くの行政と被差別部落は「同和地区」指定を受け、同和対策事業・同和教育事業に参加していきました。「似非同和行為を含むことになろうと、同和対策事業・同和教育事業は、部落差別という、今日的人権侵害を取り除くためには急務である・・・」との認識で、それらの事業は推進されてきたのです。

今日、問題にされている部落解放同盟関連の様々な「不正事件」が、どのような被差別部落の層を反映しているのか・・・、部落解放同盟の不正事件に関する報道を目にしたり耳にしたりする都度、『部落学序説』の筆者としては、その疑問が頭の中をよぎっていきます。

部落解放同盟関連の様々な不正事件を、かつて、部落解放同盟の闘争手段である「糾弾」を逆手にとっての「逆糾弾」の様相を呈する今日の批判者たちは、みそもくそも一緒にする形で、部落解放同盟の批判に徹しています。

『部落地名総鑑』事件をめぐっては、果てしのない泥沼状態に陥りつつあります。

「部落地名総鑑」・・・、『部落学序説』の筆者は一度もその現物を見たことはありませんが、「部落地名総鑑」というときの「部落」とは何を意味しているのでしょうか・・・。「旧穢多」の在所のことでしょうか・・・。戦前の「特殊部落」と呼ばれた地域のことでしょうか・・・。それとも「同和地区」指定された地域のことでしょうか・・・。

「部落地名総鑑」の出版目的、また、その図書の購入目的から察して、現代社会の中を生きている被差別部落の若い層、青年層を対象にした結婚・就職時の「人定」のために用いられていることを考慮しますと、「同和地区」指定されて地区の一覧表のことなのでしょうか・・・。

日本の近代化にともなって、近世幕藩体制下の自然村を核とした「むら」は、統廃合を繰り返され、その名称はくりかえし変更されてきました。「部落地名総鑑」の目的から考えても、その「地名」というのは、現在有効な「地名」のことなのでしょう・・・。

最近の地方行政の再編成によって、「旧穢多村」、「旧特殊部落」、「旧同和地区」(同和対策事業が終了したので「同和地区」ではなく「旧同和地区」になっている)等の「被差別部落」の地名は大きく変更を余儀なくされています。それに都市区画整理事業などが加わりますと、その「被差別部落」の「地名」はますますあいまいなものになってきます。

「部落地名総鑑」が、一部の地域の「地名総鑑」ではなく、全国を縦断する「地名総監」である場合、今後、あたらしく、こころもとないひとびとによって作成されるかもわからない、新しい住所で記載された「部落地名総監」は、部落差別の再生産に資することになります。

『部落学序説』の筆者としては、それは絶対に許してはならないことであると思っています。

数日前、インターネット上で次のような記事を目にしました。

2006,11,08, : 衝撃スクープ!部落解放同盟系人権団体が「部落地名総監」を発行していた!
以下の画像をご覧ください。大阪市内の「旧同和地区の住所」、及び世帯数、人口が掲載されています。紛れもなく「部落地名総監」と呼ばれるものです。但し部落差別の拡大を防ぐべく、当サイト管理人が一部黒塗り、モザイク化等の加工を施しました。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、この記事は、すごく悪意に満ちた文章であると思われます。

その記事は、「紛れもなく「部落地名総監」と呼ばれるもの・・・」と断定していますが、この程度の、被差別部落の在所一覧は、徳山市立図書館郷土史料室に行けば、だれでも見ることができます。山口県に多数存在している「隣保館」にいって、その「年鑑」に相当する文書(自由閲覧)をみせてもらえばいつでも目にすることができます。

上記の写真入りで説明される住所の一覧表は、被差別部落の単なる名簿であって、「部落地名総鑑」と呼べるものではありません。

「部落解放同盟系人権団体が「部落地名総監」を発行していた!」という表現は、部落解放同盟に対する過度な批判・中傷以外のなにものでもありません。「組織」があるところ、「組織」の住所録が存在しても決して不思議ではありません。被差別部落の青年から結婚・就職の機会をうばうことにつながる「部落地名総鑑」とはまったく別なものです。

それは、部落解放同盟の組織の在所や、組織の人員構成は、部落解放運動にかかわったひとびとの「責任」の所在を明確にしたもので、「部落地名総鑑」が、日本全国に散在する被差別部落の青年の就職・結婚に際して、本人のあずかりしらないところで不利益を被せたり、差別の対象としたりする根拠として機能する差別文書とは質的に異なるものです。

単なる住所録も「部落地名総鑑」の区別をしないで、部落解放同盟内部の構造的(国と行政が大きく関与している)に発生している「不正事件」にかこつけて、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式のいやがらせ的言辞に徹するのは、部落問題・部落差別問題がなにもわかっていない「たわごと」ではないでしょうか・・・。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」の在所である「地名」に関する「禁忌」(タブー)は、今日でいう、被差別部落の「地名」に対する「禁忌」(タブー)とは別のものです。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」は、当時の社会の治安を維持する機能を果たすために、「村境」、あるいは「郡境」・「国境」に置かれました。

「穢多」の在所がどこにあるのか・・・・、その村・郡・国の住人はよく知っていました。しかし、その村・郡・国を通過する旅人にとっては、その在所は不明であったと思われます。他村・他郡・他国を旅するひとびとは、その境において、ときとして、「検問」の対象にされ、その身元の確認がなされ、持ち込み・持ち出しが禁止されている「御禁制品」を保持していないかどうか取り調べを受けることになりました。

近世幕藩体制下の「穢多」の在所は、地元のひとは知っているが、よそものにとっては、その在所が不明なままでした。禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」の在所は、その職務遂行上の緩やかな「禁忌」(タブー)であったのです。

人名についても同じです。長州藩では、長門国の「宮番」、周防国の「茶筅」は、「村廻り役人」のことで、その村に住み、その村の治安維持のために、その職務についていたひとびとですから、その名前は、村民にすべて知られていました。彼らの「名前」(名字を含む)に「禁忌」(タブー)などあろうはずがありません。

しかし、村境を越えて、「郡廻り役人」として、郡(長州藩では才判という)全体の視察・探索・捕亡に従事するとなると、それに従事していた「穢多」(現代の警察官・機動隊)の名前は「忌避」(タブー)の対象になってきます。彼らは、○○村の○○兵衛・・・として行動するのではなく、○○代官所支配の「穢多」としてその職務を遂行することになります。

治安維持のための探索に失敗すると、「穢多」は、捕亡の職務をとりあげられ、穢多村において、草履つくりや竹細工の「家業」に従事することになったでしょう。

「穢多・非人」は、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、「権力」の末端装置、武士・百姓・町人に顔をさらしながらその職務を遂行するのですが、その職務の内容によっては、その地名・人名は、職務上の「禁忌」(タブー)項目として、「被支配者」から隠さなければならない・・・とされる場合も多々あったように思われます。

部落差別にともなう、様々な「禁忌」(タブー)の根っこは、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務に起因するものです。

「別火別婚」はその代表的なものです。

「別火」というのは、禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」に対する極度の差別のあらわれ・・・として存在していたのではなく、非常民としての職務遂行上、是非とも守らなければならない「禁忌」として存在していたのです。

日本だけではありません。紀元前の古の司法・警察である非常民を含む「役人」は、その職務を公正に行うことを要求され、「汚職」は、「役人」としてもっともはずべきものであると認識されていました。

中近東の古い文献には、「まつりごとをするものと共に食事をしてはならない・・・」という不文律が掲載されています。「まつりごとをするもの」が、差別されているから・・・というのではありません。「まつりごとをするものと」と食事をすることが、往々にして、「汚職」や「公金横領」の不正事件に発展するからです。

「別火」というは、禁制幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」の職務遂行上の基本的精神として守ることが要求された、司法・警察官としての倫理的規定でした。

「別婚」というのも、宗教警察・政治警察・治安警察としての「穢多・非人」の結婚を通じて、その組織と職務内容が一般に流出し、司法・警察システムそのものが機能しなくなる可能性を排除するために設定されたものでしょう。

「別火」・「別婚」は、今日の警察官にも「禁忌」(タブー)として存在します。「別火・別婚」は、それ相応の合理的理由があって、非常民である「穢多・非人」によっても、それをささえる常民である「百姓・町人」によっても、「禁忌」(タブー)として機能してきたのです。

明治政府・近代中央集権国家は、国際外交上の問題で日本の司法・警察を近代化することを求めれ、代官・与力・同心・目明し・村方役人とともに、「穢多・非人」も、禁制幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の職務から原則として解雇されます。

しかし、明治政府は、キリスト教の国内での勢力拡大をおそれて、「宗教警察」でもあった「穢多・非人」を「半解半縛」状態において、日本の社会をキリスト教から防ぐための「防波堤」にしようとします。その取締りの対象であったキリスト教は、「半禁半許」の状態に置かれます。

明治4年の太政官布告によって、禁制幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」はその職務からみかけ上は解放されたはずなのに、実質はその旧職務が継承されたため、禁制幕藩体制下の司法・警察として身におびていた「別火別婚」という「禁忌」(タブー)は温存されることになり、旧「穢多・非人」の内外から、「別火別婚」という「禁忌」(タブー)が強制されはじめます。

浄土真宗の熱心な門徒であった「旧穢多・非人」は、キリスト教排撃のため、キリスト教に接近し、情報を収集し、治安維持に抵触するとおもわれることを摘発・密告し、明治期の国家の方針の忠実な僕として、かげの職務を遂行してきたのです。

「旧穢多・非人」の歴史の中に深く刻み込まれた反キリスト教的体質は、今日に至るも、そうとう根強いものがあります。被差別部落のひとびとが、キリスト教の信仰を持つに至るのは極めて例外的なことです。

キリスト教の信仰をもった被差別部落のひとびとは、その「被差別部落」から自分を切り離し、キリスト教会の中の知識階級・中産階級として生きていったようにおもわれます。

しかし、彼らもまた、被差別部落の歴史のほんとうの姿を見失い、歴史の真実からかぎりなく逃亡している・・・、といってよいでしょう。被差別部落のほんとうの歴史の真実に立脚しないかぎり、キリスト教会においても、「別火別婚」は、差別的な「禁忌」(タブー)としていびつなかたちで存在し続けることになるでしょう。

水平社宣言において、「祖先を辱めてはならない」ということばがありますが、今日噴出している部落解放同盟関係者による汚職・不正事件は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として、300年間に渡ってその職務を法にてらして遂行してきた「穢多非人」の「祖先」を辱めるものです。近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての歴史とほこりを捨象し、同和対策事業・同和教育事業にまつわる「利権」のみを追求し、部落解放運動そのものを汚辱につきおとしてやまない彼らは、いったいだれなのでしょう・・・?

「旧穢多」の末裔なのでしょうか・・・? それとも、「旧穢多」ではないけれども、日清日露の戦争によって悲惨のどん底に追いやられ、「旧穢多」の在所にころがりこんだ市民を含む「特殊部落民」の末裔なのでしょうか・・・? それとも、同和対策事業関連法によって「同和地区」・「同和地区住民」と「法定」されただけのひとびとなのでしょうか・・・?

部落解放運動が、「旧穢多」の末裔だけでなく、「その他」のひとびとも含んでなされたことはよく知られた事実です。

被差別部落出身ではない、ただの差別者のひとりにすぎない筆者が、この『部落学序説』とその関連ブログの文章をかきはじめたのは、同和対策事業・同和教育事業にまつわる汚職・不正によって、その濁流によってすべてのものが押し流されていくように見える状況の中にあって、部落解放運動の始源ともいえる源流の存在、人里離れた山間に端を発する清水の流れを知ってしまったからです。

筆者は、部落解放運動の「濁流」をみつめながら『部落学序説』を書き下ろしているのではなく、部落解放運動の「源流」・・・、「清水」をみつめながら執筆しているのです。部落差別は、完全に解消しなけばならない・・・、そのためには、被差別部落の青年は、その「濁流」に身をゆだねて、挫折し絶望するのではなく、その「濁流」から抜け出て、部落解放運動の「源流」に立脚すべきです。近代日本がしかけた、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」をとりのぞき、おのれの先祖の歴史を史料にもとづいて冷徹に「観察」(かんざつと読む:現象をみつめることで本質に達するという意味の仏教用語)すべきです。

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4.被差別部落と禁忌(タブー) 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌

2006年11月17日 | 地名とタブー 被差別部落と禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 4.「差別者」と「被差別者」の疎通を妨げる禁忌

今回は、文献を一切引用しないで、筆者自身のことばで綴っていくことにしましよう。

『部落学序説』において、筆者は、「差別」と「被差別」の関係を4つのパターンに分類して考察してきました。

「差別(真)」・「被差別(偽)」と「被差別(真)」・「差別(偽)」の4パターンです。被差別部落出身でもないし、被差別部落出身者としてことばを発したり行動したりしていない筆者は「差別(真)」の立場で、この『部落学序説』とその関連ブログ群の文章を執筆してきました。

より具体的には、近世幕藩体制下の被支配の側に身を置いていた「百姓」の末裔、「常民」の末裔として、その対極にある支配の側に身を置いていた「穢多」の末裔、「非常民」の末裔に対する理解と認識を文章にしてきました。

昨年の5月14日に『部落学序説』の書き下ろしを開始して数ヶ月後、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方から、抗議の文書をいただきました。手書きの文章です。

その抗議内容というのは、いままで、何回となく触れてきましたので、さらにことばを重ねる必要はないのですが、それは、筆者が、『部落学序説』を執筆するときの、被差別部落の地名・人名を取り扱うときの姿勢に関する批判でした。被差別部落の地名・人名を極度に「タブー視」することによって、『部落学序説』の文章は差別文章に陥っている・・・といわれるのです。

彼の批判は、筆者にとっては、予想外の批判でした。

従来の部落解放同盟の運動は、被差別部落の地名・人名を「タブー視」して、「差別者」に「被差別者」の地名・人名について一切言及させないもの・・・として理解してきましたので、『部落学序説』執筆に際しては、今日に至るまで、一切の地名・人名の実名記載はしていません。

ただ、例外として、出版された本の執筆者として使用されている「人名」については、そのまま引用しています。川元祥一・辻本正教・灘本昌久・東岡山治等です。彼らが、実名記載していると思われる「人名」まで「タブー視」することは、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方がいわれる「極度のタブー視」にあたるでしょう。

しかし、『部落学序説』の筆者である私は、被差別部落の「地名」・「人名」そのものを「タブー視」することはありません。

被差別部落の「地名」・「人名」は、一部の例外(「差別名字と差別戒名」で言及)をのぞいて、「地名」・「人名」そのものを忌避しなければならない特性はないと考えています。

もし、被差別部落の「地名」・「人名」そのものが忌避されなければならない内容をもっているのだとしたら、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、被差別部落の「地名」・「人名」を避け、研究上の忌避扱いを徹底するようになってしまうでしょう。被差別部落の「地名」・「人名」だけでなく、部落研究・部落問題研究・部落史研究そのものから撤退を余儀なくされてしまうことでしょう。

部落研究・部落問題研究・部落史研究そのものから撤退は、もっと卑近な理由で、2002年の同和対策事業・同和教育事業の国家による終了宣言も影響して、学者・研究者・教育者の部落研究・部落問題研究・部落史研究からの撤退は現実のものとなっているのではないかと思います。

インターネット上で公開されている、部落差別問題に関する学士論文・修士論文・博士論文の概要を読めば、その傾向が著しく進展していること、全体として、部落研究・部落問題研究・部落史研究から後退している現実を確認せざるを得ません。指導教授がまともに指導しているとも思われないような学士論文や修士論文も少なくありません。

『部落学序説』の筆者の目からみると、部落研究・部落問題研究・部落史研究が大幅に後退していっている要因として、これまでの部落解放運動における「地名」・「人名」の極端な「タブー視」があげられるのではないかと思います。

部落解放運動が、被差別部落の「地名」・「人名」を禁忌扱いする一方、どの「地名」・「人名」を公表するかしないか・・・を部落解放運動の諸団体が恣意的に判断し、被差別部落の「地名」・「人名」の公開・非公開の「検閲」、フィルターの役割をになってきたことが、今日の部落研究・部落問題研究・部落史研究の進展の障碍となり、ひいては、部落差別完全解消の闘いを失速させているのではないかと思われます。

全国津々浦々に存在する被差別部落の完全解消につながる貴重な資料群は、こんにちの「時間」と「空間」に限定された、部落解放運動の担い手によって「私物化」され、「私的検閲」にさらされることによって、その史料的価値を剥奪・改竄・隠蔽にさらされ、部落研究・部落問題研究・部落史研究の資料足りえなくされているのです。

この問題を考えるとき、筆者は、よく漁業権の問題を思い出します。

漁業で生計を立てているひとびとにとっては、海は生活をささえる大切な場です。その海は、島国日本の貴重な資源として、先祖代々から受け継いできたものです。そして、それは子々孫々に渡って受け継がせていなかければならないものです。海は、漁師だけのものではなく、その周辺に生きているすべてのひとびとのいのちを養い育ててきたものです。

しかし、戦後、全国総合開発計画の名のもとに、産業の工業化・近代化が促進され、海は、工場から排出される有害物質で汚染され、魚に奇形を生じ、それを食べたひとびとに公害病を発生させました。海が公害で死に瀕したとき、多くの漁民は、漁師としていきることに絶望し、その絶望を見透かすかのように、国家と企業は、その漁師と組織・運動団体である漁業組合を相手に、彼らがまるで、彼らが漁をしてきた海のすべての権利を持っているかのように見立てて、彼らと交渉し、漁業保障とした施策を実施してきました。

そのとき筆者思ったのです。「海は漁師だけのものではない。みんなのものだ。漁師は、国家や企業と密約しないで、それらを破棄して、先祖伝来の海をとりもどすべきだ。そして、先祖から受け継いできた海を次の世代にも残すべきだ。」、と。

筆者は、おなじことを、部落研究・部落問題研究・部落史研究の場面においても考えるのです。

こんにちの部落解放運動の諸団体は、被差別部落の歴史にまつわる史料・資料に対して、「私的検閲」を行使し、その史料・資料を「私物化」し、「焼いてくおうが煮てくおうが俺たちの勝手・・・」みたいなふるまいをしているけれども、それは大きな間違いではないか・・・。取り除かなければならないのは、部落差別そのものであって、その史料・資料ではないはず・・・と考えたのです。

被差別部落の側は、学者・研究者・教育者からの申し出に対して、「私的検閲」を執行して、被差別部落の「地名」・「人名」の公開・非公開を決めているけれども、「私的検閲」をするならするで、その検閲の基準を明らかにして、公開・非公開の正当な理由を提示すべきである・・・と考えたのです。

部落差別完全解消につながる可能性のある史料・資料を、現代という歴史の一時期を生きているにすぎない現代の被差別部落のひとびと・部落解放運動の担い手が、その史料・資料の価値を恣意的に判断するのは間違いである・・・と考えたのです。

部落解放同盟山口県連の中で、山口県とその市町村、学者・研究者・教育者からの申し出に対して、山口県の被差別部落を代表して「私的検閲」をになってきた新南陽支部の方は、『部落学序説』の筆者のそのような発想に激怒し、被差別部落の地名・人名を過度にタブー視することは、かえって部落差別を助長することになると批判を展開されてきたのです。

「わたしは思う。どんなに強固な運動があろうとなかろうと、松本冶一郎だろうと誰だろうと、本人の意志によって姿を示すのである。それによって「類族」は影響を受けよう。それがどうした。先祖、子孫にどう責任を持つかは誰とて個人の意志であり、それ以上でも以下でもない。それは運動の中身の良し悪しをめぐる話ではない」。

部落解放同盟山口県連新南陽支部の、『部落学序説』の筆者に向けて語りかけられた怒りに満ちたことばです。

『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方との関係は、「差別(真)」と「被差別(偽)」の関係です。

『部落学序説』の筆者である私は、最初に記したとおり「差別(真)」です。しかし、部落解放同盟山口県連新南陽支部の方は「被差別(真)」ではなく「被差別(偽)」です。つまり、彼は、「本人の意志によって姿を示すのである。それによって「類族」は影響を受けよう。それがどうした。」といいますが、彼は、被差別部落出身者ではないにもかかわらず、部落解放運動に参加しているということで、自らを「被差別部落民」と擬制して、「被差別部落民」として、「差別(真)」の『部落学序説』の筆者に、公開で論争を挑んでいるのです。

彼は、彼の土俵であるブログ『ジゲ戦記』の中でこのようにいいます。

「一方は己れの無力、おろかさに沈み、 他方は己れのプライド、自尊感情につき動かされ悲劇の主人公を演じる。しかれど、世界も幾多のコミュニケーション不全から、悲惨な歴史をくりかえす。多弁であろうとなかろうと、コミュニケーション不全は歴然としている。目の前にいて話そうとしないのだから……。話すほどの他者でもないのなら、無視して先に行けばよろしかろう。ごたくを本人にぶつけず、全世界に開ちんすればそれですむのか」。

「歴然」としている「コミュニケーション不全」は、決して、「差別(真)」と「被差別(真)」の間の「コミュニケーション不全」ではありません。「差別者」であることを自覚しつ、「差別者」として、『部落学序説』を執筆し続けている筆者と、「差別者」でありながら、「差別者」であることを棄て、「被差別者」として生き発言を続けている彼との間の「コミュニケーション不全」です。彼との対話は、筆者が山口に赴任してからの20数年、ほとんど全期間に渡って繰り返されてきました。『部落学序説』の筆者である私は、彼が、「部落解放同盟」という葵の印籠を片手に語りかけてくるがゆえに、「差別(真)」・「被差別(真)」を仮想して応答しているのです。

彼は、「差別者」であることを棄て、「被差別者」に同化していっているようです。

「被差別者」になりきるのは彼の自由ですが、「精神的似非同和行為者」にだけはなってほしくない・・・と願っています。「精神的似非同和行為」に埋没すればするほど、「差別者」であることを認め、その上で、部落差別完全解消の提言をしている『部落学序説』の筆者である私との間の「コミュニケーション不全」はより決定的なものになってきます。「差別者」はどんなにがんばっても「被差別者」にはなれません。「被差別者」になりきれる・・・という幻想を棄てて、「差別者」に回帰し、その上で「被差別者」と共に生きる道を再度たどられては・・・。きっと、山口県の部落解放運動の歴史に確実にその足跡を残すことができるでしょう。

ブログ『被差別部落の地名とタブー』・・・、そろそろ筆をおいて、『部落学序説』の執筆に戻り、第5章水平社宣言批判にむけて、第4章の最後のテーマ、「旧穢多はどのようにして、賤民意識をみずから受容していったのか」について言及していきたいと思います。1ヶ月と1週間の「道草」を終えて、あらためて、『部落学序説』という「ごたく」を並べることにしましょう。

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4.被差別部落と禁忌(タブー) 3.人名に関する禁忌

2006年11月16日 | 地名とタブー 被差別部落と禁忌

4.被差別部落と禁忌(タブー)
 3.人名に関する禁忌

「差別名字」・「差別戒名」という例外的な事例を別にすれば、被差別部落の人々にとって「人名」は、いかなる意味でも「禁忌」(タブー)の対象ではなかったと思われます。

もしあるとすれば、それは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての職務の内容が大きく影響しているように思われます。

「穢多・非人」は、奉行・与力、同心・目明しと共に、近世幕藩体制下の司法・警察として、その「権威」・「権力」の象徴的存在でしたから、その職務遂行にあたって、その個人名が前面にでることはほとんどなかったと思われます。司法・警察である「非常民」は、その職務遂行上、治安警察上、重要な拠点に配置・配属され、その拠点で「権威」・「権力」の仮面をかぶって、その職務を遂行していたと思われます。

それは、現代の警察官についても同じです。

警察署という閉鎖的な枠の中に、どのようなひとが働いているのか・・・、ほとんどの市民は関心がありません。市民の側の了解は、警察署の警察官は、そのひとがどこに住み、どういう名前をなのっているのか、詮索することはしてはいけない・・・とみずからに「禁忌」(タブー)を課せているのではないかと思います。

それと同じで、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の在所としての「地名」、彼らを特定するための「人名」は、「触れてはならない」「禁忌」(タブー)状態にあったと思われます。

「穢多・非人」とへんにかかわると、予期しないさまざまな問題へと発展しかねません。司法・警察である「穢多・非人」を利用して自己の利益を追求しようとするひとが出てきます。「穢多・非人」は、そのことで、予期しない不祥事へとひっぱりこまれる場合も出てきます。「穢多・非人」は、司法・警察の職務の遂行上、いつも襟をただして、「武士」だけでなく、「百姓・町人」に対しても、一定の節度ある距離を保っていたと思われます。

それが明治4年の太政官布告によって、「穢多非人等」が旧来の職務から解雇されることによって、その地名と人名に、差別的な意味合いが付加されるようになっていきます。

被差別部落の「地名」・「人名」が「禁忌」(タブー)の対象にされるのは、「特殊部落民」という現代的部落差別が成立した以降のことです。それまで、「禁忌」(タブー)の対象ではなかった、旧「穢多・非人」の在所とその住人の名前には、卑賤感がともなうようになり、自他共に「禁忌」(タブー)の思いを持つようになっていったと思われます。

くりかえしになりますが、「差別名字」・「差別戒名」という例外的な事例を別にすれば、被差別部落の人々にとって「人名」は、いかなる意味でも「禁忌」(タブー)の対象ではなかったと思われます。

長州藩の枝藩である徳山藩の旧北穢多村の系譜をひく地域を『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』(1971年版)でみると、その被差別部落の住人の名字が一目瞭然にわかります。

部落解放同盟の運動によって、あたらしい住宅がつくられる以前の被差別部落の状況がわかります。

この『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』は、筆者が、徳山藩の旧北穢多村の系譜をひく地域を調査していることを知った地元出身のひとが「参考にしてください・・・」といって、古い方の住宅地図をくださったものです。

部落解放同盟の方の話によりますと、『ゼンリンの住宅地図』を、時系列でたどっていけば、被差別部落の在所はすぐにわかるということです。最初、被差別部落の地名は掲載されていましたが、同和問題がきびしくなりはじめると、『ゼンリンの住宅地図』から被差別部落の地名が削除され空白にされていったといいます。しかし、現在ではふたたびその地名は表記されているようですが、筆者がたまたま入手した『ゼンリンの住宅地図・新南陽市』は、被差別部落の地名がまだ表記されていた時代のものです。

その名字には、「差別名字」のようなものはみあたりません。「名字」だけで、被差別部落の住人と識別できるような「名字」は皆無です。

近世幕藩体制下の徳山藩の「穢多頭」の「名字」も含まれていません。

ふつう、被差別部落の方々の「名字」そのものには、「禁忌」(タブー)の対象になるようなものは何一つ含まれていません。被差別部落の「地名」と結びついて、「地名」と「名字」がセットにされて、「○○の○○」と呼ばれるとき、「名字」が「禁忌」(タブー)の対象になっていきます。「名字」は「地名」と結びつくときはじめて、被差別部落のひとびとの人権侵害に直接つながっていくがゆえに、「名字」は「禁忌」(タブー)の対象になっていくのです。

「地名」から切り離された「名字」は、「禁忌」の対象ではなくなります。

日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師は、「地名」から切り離された「名字」、「東岡」という実名をなのって運動を展開されてきたのですが、そういう意味では、日本基督教団の部落解放運動・・・というのは、「地名」から切り離された「名字」に基づく運動である・・・と言えます。

部落民はなのるけれども、その出身地に身をおいては運動はしない・・・、という限定的な部落解放運動にとどまることになります。

『部落学序説』執筆の動機となった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老との出会いは、東岡山治牧師をはじめとする日本基督教団の部落解放運動の担い手とは、まったくことなる関心を筆者に引き起こしました。

部落差別のきびしいこの山口県の寒村にあって、先祖伝来の土地に根ざして生き続けている古老の姿は、筆者に多くのことを語りかけてきました。「地名」と「名字」、それは、決して切り離すことができないものであり、「地名」は「人名」を裏打ちし、「人名」は「地名」を裏打ちし、「地名」と「人名」ひとつとなって、被差別部落の古老の生きた物語を形成しているのです。

筆者が『部落学序説』を書き続ける背景には、「地名」と「名字」をその身に引き受けて生きる、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する敬意の思いがあります。

その古老を前にすると、筆者の目には、日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師の取り組みも、部落解放同盟新南陽支部の取り組みも色あせて見えてしまいます。部落解放同盟新南陽支部の方々は、筆者の地名・人名に関する考察を、「理解不能」とし、「ていげい主義、都合主義、方便、どうとらえたらよいものか。」と歎いておられるようですが、「ていげい主義」・「都合主義」・「方便」・・・、それは、『部落学序説』の筆者にとってはまったく無縁のことがらです。

「都合主義」なら、2002年の同和対策終了後、学者・研究者・教育者・運動家・政治家がこぞって部落解放運動の前線から逃亡を図っていくなか、狂い咲きのさくらのように、秋の荒涼たる世界に花をさかせるようなことはしなかったでしょう。

それに、仏教用語としての「方便」ということばをおとしめ「うそをつくことを正当化する」ような意味合いで用いるのは感心しません。サンスクリット語の「方便」は、「目的に到達するための道筋」(中村元著『仏教語源散策』)を意味することばです。仏教語としての「方便」は、「仏やボサツが、衆生をすくうためにたくみな手段をもちいること」を意味します。しかし、筆者は仏教徒ではありませんので「方便」を具現することはありません。

「仏やボサツ」ではないけれど、日本の社会から部落差別をなくし、だれひとりとして差別を受けて苦しむことがない社会にしたいという願いは、仏教徒に負けることはありません。

さらにいえば、「ていげい主義」とも無関係です。「ていげい主義」は、沖縄発のことばですが、そのことばの背景には、沖縄のひとびとの歴史と文化があるような気がします。卑近な意味で、「都合主義」・「方便」と同列に使用するのは、沖縄のひとびと、民衆に失礼であると思います。(参考にていげい主義の使い方:吉田町長は「ていげい」(ウチナー語で「いい加減・おおざっぱ」という意味)という言葉がピッタリな人で、基地の実態を私たちに見せようと、ホントはハイッチャイケナイ基地にも観光バスごと入れてしまいます。「天皇も総理大臣も入れないけれど、私は入れるんだよ」と笑う町長。いいですよね? 私はすっかりファンになってしまいました。)

『部落学序説』をかきはじめて、被差別部落の「地名」・「人名」に関する取り扱いが、ここまで、筆者と部落解放同盟新南陽支部の方々との「亀裂」に発展するとは夢にも思っていませんでした。

この「亀裂」は、筆者をキリスト教の「牧師」でなく仏教の「僧侶」として認識したときからはじまっているのではないかと思われます。対話は最初から成立していなかったのかもしれません。

『部落学序説』の筆者が、机上での対話が成立しにく学者・研究者・教育者のひとりとして、渡辺俊雄がいます。筆者が理解しにくい論文として、「地名は大胆に、人名は慎重に」という文章があります。被差別部落出身者ではない渡辺俊雄の「地名は大胆に、人名は慎重に」というキャッチフレーズと、日本基督教団の部落解放運動の創設者である東岡山治牧師の「人名は大胆に、地名は慎重に」という姿勢とどちらが理にかなっているのか・・・。

『部落学序説』の筆者としては、「大胆」に語ることはないけれど、「旧穢多」(旧茶筅)の末裔として、その歴史を担い、先祖伝来の地で生き抜いておられる、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の生きかたの方にどうしてもこころひかれます。「地名もありのまま、人名もありのまま・・・」、自然体で歴史をにない、先祖をになっていきる生きかたに敬意の思いをもってしまいます。壊れた蛍光灯のようについたり消えたりするような部落解放運動より、部落解放運動の担い手から、運動のない、遅れた地域とみなされるその世界で、黙々と歴史をにない続ける、麦のような美しさを秘めた古老の姿に魅力と敬意を抱いてしまします。

この『部落学序説』はそのようなひとびとへの賛歌です。

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