部落学序説

<常・民>の視点・視角・視座から見た<非常・民>である<穢多・非人>の歴史的真実の探求

INDEX(目次)

2010年10月17日 | 目次

「部落学序説」とその関連ブログ群(2005年5月14日開始)の2016年10月25日までの累計アクセス件数(ココログ3346936+ブログ人897513+gooブログ1339521=計5583976)

このブログは、Cocolog・ブログ人・Gooブログと、プロバイダーの都合により移転を繰り返してきましたが、基本は、Cocologのままなので、『部落学序説』の目録が無効になっています。現在のGooブログ『部落学序説』を、序文、章・節・項たてで通読されたい方は、筆者の『湖南村尻百姓記』の<ブログ『部落学序説』の通読の仕方>でその手順を図解していますので、ご利用ください。『部落学序説』のPDF化による、『部落学序説』全文の一括ダウンロードは、『部落学序説』のリライト、自費出版後できるようにします。まだ時間がかかります。



『部落学序説』総目次

             「語りきれぬものは、語り続けなければならない」
                     野矢茂樹著「他者の声・実在の声」より

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OCNブログ人からGooブログへの移行により、リンクが寸断されてしまいましたので、目次から記事へのリンクはすべて解除しました。後日章単位の目次をつくり、各の記事へのリンクを回復する予定です。

OCNブログ人からGooブログへの移行により、カテゴリーも意味をなさなくなってしまいました。後日再編成する予定です。

それまで、Gooブログの<記事一覧>の<投稿日が 古い順>をクリックして表示されるリストが、ほぼ『部落学序説』の目次順になっていますので、『部落学序説』の全体を通読されたい方は、Gooの<記事一覧>の<投稿日が 古い順>にそってお読みください。

『部落学序説』を筆者のホームページに移行するまで、暫定的に、Gooブログに掲載することにしました。

 

【部落学序説】(本文)

まえがき

 ・はじめに
 ・表記規則
    論文の構成
    文献の引用
    地名の取扱い方
    人名の取扱い方
    記号
 ・対象読者
 ・文責と著作権について

 ・ある聞き取り調査
 ・被差別部落のある古老の話
 ・浄土真宗の寺を尋ねて
 ・非差別の彼岸への旅立ち
 ・『部落学序説』の視点・視角・視座

 ・部落学序説の課題
 ・部落学とは何か
 ・部落学の研究主体
 ・差別・被差別の類型化
 ・大島恋歌

 ・古老の語る伝承は真実
 ・北川門下生として
 ・百姓と穢多


第1章 部落学固有の研究対象

 1節 部落学固有の研究対象
 2節 穢多村の原風景
 3節 穢多の実像

 4節 穢多の在所
   1.「地域概念としての部落」の崩壊-野口説への批判
   2.「周防国図」・「長門国図」に見る穢多の在所
   3.「高佐郷の歌」に見る穢多の在所

 5節 非常の民としての穢多
   1.「非常の民」としての穢多
   2.御用の節は御忠勤尽くし奉る身分・・・
   3.命題「穢多は非常民である」

 6節 賎民概念を破棄する理由

 7節 士農工商穢多非人図式を破棄する理由
   1.賤民史観と士農工商穢多非人
   2.明治に始まる「穢多非人」の賎民化
   3.「士農工商穢多非人」不要論


第2章 部落学固有の研究方法

 1節 部落学固有の研究方法
   1.部落学の定義
   2.部落学と歴史学
   3.部落学と宗教学

 2節 村のシステム
   1.村と百姓と穢多
   2.村境と芝境、気枯れと穢れ

 3節 新けがれ論
   1.「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克
   2.「穢れ」の語源論・意味論の限界
   3.新「けがれ」論

 4節 長州藩青田伝説にみる賎民史観と穢れ
   1.百姓の目から見た長州藩青田伝説
   2.布引敏雄(歴史学者)と長州藩青田伝説
   3.丸岡忠雄とふるさと
   4.村崎義正(運動家)と長州藩青田伝説
   5.西田秀秋(教育者)と長州藩青田伝説


第3章 穢多の定義

 1節 穢多の定義
   1項 本当の挨拶
   2項 近世幕藩体制下の身分とは何か
   3項 穢多という身分
   4項 伝承に見る穢多の身分
   5項 垣の内に関する考察
     1.垣の内に関する布引説への批判
     2.新井白石と垣の内
     3.山口県部落史研究の良心
     4.喜田川守貞の見た垣の内
     5.穢多の在所は穢多が何であるかを規定できない

 2節 穢多の役務
   1項 白山神社と穢多
   2項 死刑執行人の今と昔

   3項 幕末を生き抜いた穢多の群像
     1.『河田佳蔵獄中日記』に記録された穢多群像
     2.徳山藩浜崎獄舎の穢多(屠者)
     3.徳山藩穢多による死刑執行
     4.穢多に関する6つの命題
     5.維新団と上関茶筅隊

   4項 穢多の役務と家職
     1.筆者・吉田向学と部落差別
     2.武士と穢多の同質性
     3.穢多の役務と家職

 3節 穢多の外延
   1項 ある差別事件・・・

   2項 穢多とは誰か
     1.「穢多」・「茶筅」・「宮番」・「猿引」・「非人」
     2.「穏亡」・・・殺人事件を捜査する近世の私服刑事
     3.「庄屋」の目から見た「穢多」
     4.「かわた」と「穢多」は同一概念
     5.「はちや」に関する考察

 4節 穢多と宗教
   1.「部落学」構築途上における障碍
   2.宗教者と部落問題
   3.浄土真宗と穢多

 5節 穢多と習俗

 6節 穢多とキリシタン
   1.歴史的な差別は恐れからくる(阿部謹也)
   2.部落史研究とキリシタン弾圧
   3.穢多とキリシタン
   4.近世宗教警察としての「穢多」
   5.幕府とキリシタン弾圧
   6.『西洋紀聞』・長助とはるの物語

 7節 穢多と遊女
   1.周防国・室積の遊女の碑
   2.近世幕藩体制下の遊女
   3.賎民史観から見た遊女
   4.上杉聡の遊女観
   5.穢多(非常民)と遊女(常民)

 8節 穢多と法的逸脱
   1.木綿強制は差別にあらず
   2.近世法と穢多
   3.穢多と法的逸脱
   4.法の番人としての穢多

 9節 誤解された渋染一揆
   1.「素人考え」による批判
   2.渋染一揆の指導者の実像
   3.渋染一揆の時代的背景
   4.渋染一揆(穢多が穢多であるための闘い)
   5.真の人生、真の学問を求めて、部落学序説第1~3章結び


第4章  太政官布告批判

 1節 部落とは何か
   1項 「村」と「部落」
   2項 「村」と「部落」と古老

   3項 「村」、近世から近代へ
     1.村境の変貌
     2.近世の「村」から近代の「部落」へ

   4項 翻訳語「部落」-法制用語
     1.「部落」概念の普及は明治20年以降
     2.部落史研究上の禁忌
     3.「部落」概念の賎民史観的用法
     4.独語「ゲマインデ」の訳語としての「部落」概念
     5.明治天皇制下の基本的共同体としての「部落」

 2節 穢多談議
   1.「穢多非人」再考
   2.明治2年公議所と「国辱」談議
   3.現代人が失った明治の「国辱」感覚
   4.加藤弘蔵「非人穢多御廃止ノ議」
   5.雑想
   6.明治2年公議所の体質

 3節 拷問制度とキリシタン弾圧
   1項 明治新政府に対する外圧
   2項 拷問
   3項 草莽と穢多

   4項 見落とされた史料
     1.『京都府下人民告諭大意』の中の番人
     2.被差別部落と天皇制
     3.『京都府下人民告諭大意(第2編)』-王政復古から欧化政策へ

   5項 明治新政府による穢多排除の背景
   6項 殺生与奪の権

   7項 キリシタン弾圧問題
     1.明治初期の司法制度とキリシタン弾圧
     2.キリシタン弾圧、真宗の関与、外交問題へ発展

   8項 キリシタン弾圧問題をめぐる外交の一断面

 4節 明治4年太政官布告第61号
   1項 太政官布告の研究方法

   2項 太政官布告の釈義
     1.太政官布告(第488号と第489号)
     2.「穢多非人等」
     3.「等」の意味
     4.「穢多非人等ノ称被廃候条」
     5.「身分職業共平民同様」
     6.「身分・・・平民同様」
     7.「職業・・・平民同様」
     8.「一般民籍ニ編入・・・」
     9.「地租其外除蠲ノ仕来・・・」

 5節 戸籍と国家神道
   1項 宗教としての神道

   2項 「壬申戸籍」に関する一考察
     1.壬申戸籍の目的
     2.壬申戸籍の記載事項
     3.壬申戸籍による「穢多非人」の識別
     4.壬申戸籍と神社

   3項 『部落学序説』今後の展望

 6節 太政官布告と地方行政
   1項 「太政官布告と地方行政」を論じるための資料について
   2項 黒川の部落問題の認識
   3項 黒川の「触書」理解

   4項 黒川の「触書」解釈に対する筆者の批判
     1.黒川の「触書」の解釈方法
     2.部落解放運動への奉仕の学としての黒川学
     3.別火・別婚論と宗門改め
     4.近世幕藩体制下の別火・別婚の真意
     5.歴史学者の質を決める「前理解」

   5項(地方行政の「穢多非人ノ称廃止」解釈
     1.地方行政の「穢多非人ノ称廃止」解釈(1)
     2.地方行政の「穢多非人ノ称廃止」解釈(2)

 7節 「旧百姓」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
   1項 民衆の視角
   2項 「旧百姓」の視角
   3項 「旧百姓」概念と「平民」概念
   4項 「旧百姓」の一揆要求
   5項 部落史研究者のみた「解放令反対一揆」

   6項 深津県・北条県における穢多襲撃・殺害事件
     1.序
     2.「新古平民騒動」の発端
     3.「新古平民騒動」の真意
     4.続・「新古平民騒動」の真意
     5.「美作血税一揆」の真意
     6.続・「美作血税一揆」の真意
     7.「美作血税一揆」の新解釈
     8.「美作血税一揆」研究の課題

   7項 網野善彦説の限界
     1.網野善彦説の限界
     2.続・網野善彦説の限界

 8節 「こども」の目から見た「穢多非人ノ称廃止」
   1項 こどもの目・・・
   2項 小学校炎上・・・
   3項 明治5年学制頒布当時の『被仰出書』
   4項 明治5年学制の隠された意図 1
           明治5年学制の隠された意図 2
           明治5年学制の隠された意図 3
   5項 教育・言語・差別 1
       教育・言語・差別   2
   6項 穢多と言語と誇りと・・・
   7項 十手と少年

9節 警察と遊女と部落と
   1項 はじめに
   2項 日本の通史に見られる「警察」と「遊女」
   3項 日本の近代警察 

   4項 近代警察における「番人」概念の変遷
    1.明治維新と部落差別
    2.軍政警察から民政警察へ
    3.警察の近代化と旧穢多
    4.警察の近代化の闇・・・
    5.江藤新平と大久保利通の政治的対立
    6.人権の父・江藤新平、政敵・大久保利通に敗れる
    7.部落史上から無視される江藤新平とその政策
    8.旧穢多を近代警察に組み込む江藤新平の政策
    9.まぼろしに終わった警察制度
    A.もし、江藤新平の警察制度が実施されていたとしたら・・・
    B.旧穢多を近代警察から排除する大久保利通の政策
    C.川路利良の指摘する「卑弱の傭夫」は旧穢多にあらず
    D.「エタ」(旧警察)と「ネス」(新警察)

   5項 「旧穢多」の受容と排除
    1. 宮本常一のことば
    2. 川元「部落学」と吉田「部落学」の比較一覧
    3. 筆者がであった本当の教育者
    4. 図解
    5. 布告以後の東・西日本の「旧穢多」排除の諸相
    6. 続・布告以後の東・西日本の「旧穢多」排除の諸相
    7. 明治4年廃藩置県以前の山口県警察
    8. 明治4年廃藩置県以後の山口県警察
    9. 明治4年「解放令」再検証
    A. 山口県における近代警察と「旧穢多」との関係にこだわる理由
    B. 明治期山口県警察と「旧穢多」
    C. 続・明治期山口県警察と「旧穢多」

   6項 賤民史観と「解放令」
    1. 歴史観に関する一考察
    2. 賤民史観
    3. 民俗学の中の賤民史観
    4. 既存の部落史研究批判に課せられる「要件」
    5. 「賤民史観」の変遷
    6. 「解放令」をめぐる南梅吉の論理
    7. 「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」
    8. 続・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」
    9. 続々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」
    A. 続々々・「唯物史観」と「皇国史観」の共通属性としての「賤民史観」
 
   7項 部落差別はなぜなくならないのか
   8項 部落差別はどうすればなくなるのか
   9項 部落差別完全解消への提言(図解)

  10項 「賤民史観」と遊女
    1.「遊女」に対する筆者の前理解
    2.差別社会の中の「前理解」
      続・差別社会の中の「前理解」
    3.「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言
      続・「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言
      続々・「遊女解放令」-日本歴史上最初の人権宣言
    4.「遊女」と「部落民」の間にある深くて暗い溝・・・
      続・「遊女」と「部落民」の間にある深くて暗い溝・・・
    5.「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級
      続・「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級
      続々・「遊女解放令」を瓦解させた明治の知識階級
    6.「人身の自由」考察に関する今日的意味(憲法改正問題の隘路)
    7.見よ、しえたげられる者の涙を

 A節 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤
   1項 田中正造と明治維新
    1.田中正造と明治維新
    2.林竹二氏の田中正造解釈
    3.小林裕氏の田中正造解釈
    4.「田中正造穢多を愛す」(断片23)
    5.田中正造の穢多理解

   2項 「庄屋」の目から見た「武士」と「穢多」
   3項 「被差別部落」の人々の怒りの琴線に触れる・・・
   4項 排除される「庄屋」の視点・・・
   5項 「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤 
       続・「非常民」から「常民」へ、その精神的葛藤

 B節 「旧穢多」の精神史的考察
   1項 「旧穢多」の精神史的考察は可能か
   2項 「旧穢多の精神史」と「差別の精神史」の違い
   3項 ある「旧穢多」の群像(部落地名総鑑・人名総鑑の問題の中で・・・)
   4項 復権同盟結合規則に関する一考察
   5項 「一般民衆の「視線」を気にしはじめた」旧穢多
   6項 差別の「色眼鏡」をはずして「復権同盟結合規則」を見る・・・
   7項 「旧穢多ナル我曹モ亦、我皇国ノ人民ナリ。」
   8項 「旧穢多」の「汚穢ノ業」とは何か

   9項 部落学序説余話
    1.筆者の研究方法再認識
    2.聞き取り調査の基本姿勢
    3.被差別者からの声「一般の人たちの差別意識・・・自分たちもしりたい」


第5章 水平社宣言批判

はじめに
   『部落学序説』第5章の執筆計画見直し・・・

第1節  部落概念

  第1項  <歴史記述の客観性>について
    1.ゆらぐ歴史記述の客観性・・・
    2.部落史における歴史記述の客観性 
    3.歴史記述の客観性の追究 
    4.歴史記述の視点・視角・視座

 第2項  差別と被差別
    1.部落差別は語り得るのか

 

【部落学序説】(別稿)

※「部落解放同盟」の方から、被差別部落の人名・地名の実名記載をしないのは、被差別部落の地名・人名をタブー視することで返って部落差別を助長するとの指摘を受け、執筆を中断した『部落学序説』旧第4章の文章群です。筆者は、検証の結果、33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業終了後も、部落差別が現存している状況に鑑み、今後も、被差別部落の地名・人名は実名記載しないのが妥当と判断しましたので、一端削除した文書群を再掲することにしました。『部落学序説』が被差別部落の地名・人名の実名記載に踏み切るためには、まず「部落解放同盟」の方が地区・人名の一覧表を公開されることが必須です。筆者は、その一覧表に則して、合致する地名・人名がある場合には地名・人名の実名記載を敢行します。

  1.近世から近代へ 
       近世から近代へ

 2.弾直記と明治維新
   1.近代歴史学の呪縛
   2.弾直記と明治維新-無念の死
   3.忘れられた弾直記
   4.現代の部落解放運動家に継承されざる弾直樹

 3.穢多と明治維新
   1.「穢多」=「部落の人々」=「同和地区の人々」の誤謬
   2.部落学と歴史観
   3.明治維新-大久保独裁体制の確立
   4.近世・穢多と近代・警察の類比(アナロギア)

 4.穢多と維新前夜
   1.岩倉と長州藩の非道
   2.育制度と新百姓制度-近世身分体制の風穴
   3.歴史の事実を操作した明治政府
   4.穢多の「普遍性」と「地域性」
   5.近世幕藩体制下の「穢多」

 5.明治維新の死角
   1.明治政府によるキリスト教弾圧
   2.英米の支援の下で実現した明治維新-知られざる国家転覆罪

 6.中江兆民論
   1.父-元穢多を妻とした中江兆民
   2.子-元穢多を母とした中江丑吉

  7.被差別部落と姓
      「部落解放同盟の方」の批判に答えて(旧文書名:「被差別部落と姓」)

 8.「特殊部落」・「差別」概念の定義法について
   1 差別語「特殊部落」
   2 「特殊部落」・「差別」概念のあいまいさ
   3 命題:「特殊部落」・「特殊部落民」は差別語である
   4 「特殊部落」・「差別」の定義の方法・・・
   5 「特殊部落」・「差別」の実質的定義について
   6 定義・命題・推理
   7 『部落学序説』と論理学
   8 歴史的概念としての「特殊部落」と「差別」
   9 「差別」概念は歴史的概念である

 9.史料としての「水平社宣言」
   1項 水平社宣言(原文)
   2項 なぜ、史料としての「水平社宣言」なのか
   3項 水平社の宣言としての「水平社宣言」
   4項 「水平社宣言」の本文批評の背景
   5項 「水平社宣言」の本文批評
   6項 「水平社宣言」の草稿の解析
   7項 「水平社宣言」2資料説
   8項 朝治武・歴史的記憶としての「水平社宣言」説
   9項 「我々」資料と「吾々」資料
   A項 西光万吉と平野小剣の霊を呼び起こすひとたち・・・
   B項 理解されざる西光万吉と平野小剣の部落解放思想
   (注)2カ月間の休息を経て執筆再開・・・

 A.「水平社宣言」の背景
   1項  朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その1)
       朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その2)
        朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その3)
           朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その4)
           朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その5)
       朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その6)
          朝治武著『水平社の原像』にみる部落史個別研究の限界(その7)
   2項 水平社運動史の批判的研究法(その1)
      水平社運動史の批判的研究法(その2)

 

【部落学序説】(付論)

※『部落学序説』(付論)は、読者の方々の要望で、『部落学序説』の執筆を中断して書いた文書群です。多くの場合は、『部落学序説』(本文)の先取りです。


1.付論「某中学校教師差別事件に関する一考察」
   1.ある中学校教師による差別事件・・・
   2.教育界における、ある中学校教師の評価・・・
   3.ある部落民告知・・・
   4.某中学校教師差別事件の概要・・・
   5.典型的な差別語「四本指」について・・・
   6.闇から闇に隠される教育現場の差別事件・・・
   7.差別事件を起こした教育現場のジレンマ・・・
   8.事実認識の違いを越えて存在する問題・・・
   9.部落解放運動は、五本目の指を求める運動か?・・・
  10.その後も続発した中学校教師による差別事件・・・
  11.ある中学校教師の同和教育の限界
     人生と差別
     部落史学習と近世政治起源説 1
     部落史学習と近世政治起源説 2
     部落史学習と近世政治起源説 3
     部落史学習と近世政治起源説 4
     部落史学習と近世政治起源説 5
     差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 1
     差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 2
     差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 3
     差別解消の主体者を育てる部落史学習の欺瞞性について 4
     偏狭な「差別意識」と「まなざし」理解  
       はじめに
       <まなざし>の字義的解釈
       藤田孝志氏の<まなざし>理解
       心理学者・教育学者の「まなざし」理解
       心理学者・教育学者の「まなざし」理解
        「まなざし」と「鏡映自己像」
       差別をめぐる心理構造
       周囲のまなざしと自己概念との矛盾葛藤
       歴史学者の「まなざし」理解

        
 2.「部落」と「暴力団」に関する一考察
   第1回 長州藩の史料から・・・
   第2回 「穢多」と「博奕」の関係事例
   第3回 「穢多」に広がる「博奕」の誘惑・・・
   第4回 幕府の法システムにおける「穢多」と「博奕」について
   第5回 誤解された目明し金十郎・・・
   第6回 守山藩の博奕取り締まり・・・ 
   第7回 目明し金十郎の賭博容疑に対する弁明
   第8回 総括の方向性について・・・

 3.島崎藤村と『破戒』
   第1回 島崎藤村と『破戒』
   第2回 丑松と志保
   第3回 大江磯吉と西原清東
   第4回 部落学から見た島崎藤村
  

 4.8月15日の意味を考える
   8月15日の意味を考える

 5.寝た子を起こすな
   寝た子を起こすな

 6.学問論
   1.独学
   2.被差別部落の身元調査について
   3.被差別部落の調査方法

 7.山口県で部落民宣言をした人々
   山口県で部落民宣言をした人々

 8.被差別部落の食卓
 
   水平定食
   さいぼしの話し(誤って削除)

 9.「汚れ」について
   1.「汚れ」という言葉の意味
   2.「穢多」と「汚れ」
   3.身分と糞尿

 10.市民的権利について
    ・市民的権利について
    ・「庶民」と「部落民」

 11.田所蛙治に関する一考察
   2の1
   2の2

 12.解放社会学会
   好井裕明著『「あたりまえ」を疑う社会学』を読んで・・・

 13.連休のコーヒータイム
   「部落民とは誰か」-穢多を尋ねて長州藩一人旅(吉田向学著)
   21世紀の部落民像を求めて(福岡秀章著)
   部落民の苦悩(青木広著)
   『GO』と『破戒』(福岡五月著)


 14.部落学序説・読書感想文
   筆者自身による『部落学序説』の読書感想文

 15.雑想
   インターネットで「部落問題」を読む
   人間の歌がはじまる


【渋染一揆研究メモ】

 ・付論「百姓の目から見た渋染・藍染」
  ・繊維産業の町に生まれて・・・
  ・日本の色・・・
  ・渋染・藍染について考察するときの前提・・・
  ・心の高鳴りのない最近の<渋染一揆>研究・・・
  ・衣類に関する民俗学的調査項目・・・
  ・「穢多・非人」の属性の大域性と局所性・・・
  ・「百姓」と「衣類」・・・
  ・百姓の衣類研究の新しい動向・・・
  ・渋染一揆の「穢多歎書」に出てくる「穢多」の質屋通い・・・
  ・渋染一揆は、穢多(役人)と庄屋(御役人)の葛藤・・・
  ・百姓と質入れ・・・
  ・村の経済的破綻と百姓の質入れ・・・
  ・「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服・・・
  ・「渋染一揆」の末裔が耳にした伝承・・・
  ・白装束の穢多・・・
  ・渋染・茶色・衣類の種類に関する考察・・・
  ・現代に通用する「渋染」は何を意味するのか・・・
  ・近世の衣類に関する学者・喜田川守貞・・・
  ・木綿の「藍染」と「渋染」の用途の違い・・・
  ・合羽に使われた渋染め・・・
     ・「渋染」・「柿染」・「茶染」の違い・・・
  ・草木花と日本の色・・・
  ・渋染の木綿羽織を身にまとった人びと・・・
  ・すばらしき「渋染」の研究者・・・
  ・浮世絵に見る「穢多」が身にまとった衣類の色・・・
  ・近世の獄衣「御仕着」について・・・
  ・与力と同心が身にまとった衣類・・・
  ・忘れ去られた同心<悲話>・・・?
  ・「渋染一揆」の闘争理念の不明解さ・・・
  ・「渋染一揆」の別段御触書・・・
  ・「渋染一揆」の別段御触書の内容を色別・・・
  ・「別段御触書」の偏向した解釈・・・
  ・偽造された「穢多請状」としての「別段御触書」・・・
  ・「岡山藩」の「倹約御触書」から「別段御触書」を分離することは間違い・・・
  ・「倹約御触書」に対する先入観から自由になる・・・
  ・「倹約御触書」の構成・・・
  ・「倹約御触書」の非常民に対する統制・・・
  ・「倹約御触書」は単なる倫理ではない・・
  ・第1条「男女衣類可為木綿」条項の真意・・・
  ・「岡山藩」専売品としての木綿衣類の強制・・・
  ・岡山藩の木綿・藍の地域史的研究の意味・・・
  ・岡山藩の渋染一揆に関する<考証性>の問題・・・
  ・「木綿」は百姓の至宝・・・
  ・「渋染一揆」の時代の「木綿」の生産・流通事情・・・
  ・藩主・池田光政の「彼らも我百姓なり」のことばの背景・・・
  ・「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・
  ・「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山と「穢多」身分・・・(続き)
  ・熊沢蕃山における「百姓」身分と「武士」身分・・・
  ・士は「上下通用」の身分・・・
  ・「倹約令」の「倹約」とは何か・・・
  ・「岡山藩」における「倹約」の実践例・・・ 
  ・「賤民」つくらぬが岡山藩主・池田光政の統治理念・・・
  ・部落差別になじまない、岡山藩主・池田光政の政治理念と実践・・・
  ・中国筋の小藩に見る衣類統制・・・
  ・徳山藩の「上着」に関する統制・・・
  ・徳山藩の「帯襟」に関する統制・・・
  ・徳山藩の「下着」に関する統制・・・
  ・徳山藩の「夏衣類」に関する統制・・・
  ・徳山藩の「衣類」の色に関する統制・・・
  ・長州藩とその支藩の「穢多の類」に対する衣類統制・・・
  ・「穢多」と衣類統制・・・
  ・紀州藩の穢多と衣類・・・
  ・紀州藩の目付・竹本茂兵衛が出した穢多に対する衣類統制・・・
  ・紀州藩穢多が身にまとった紋羽織・・・
    ・紀州藩・同心と穢多の衣類論争・・・

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部落差別は語り得るのか

2009年04月11日 | 第5章 水平社宣言批判




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第2項】差別と被差別
【その1】部落差別は語り得るのか

前項で、部落史研究にともなう<根源的制約>について言及しました。その<根源的制約>・・・、歴史研究一般においてそうであるように部落史研究においても、<歴史記述の客観性>を追究するために、それを阻害することになる<歴史記述の主観性>は常に批判検証され、歴史研究の<視点・視角・視座>は常に相対化されつづけなければならないのです。

今回、あらためて、<部落差別は語りうるのか>、<語り得るとしたらどのように語ることができるのか>・・・、考察してみたいと思います。

筆者、最近、インターネット上の古書店で流通している、部落問題・部落差別問題・部落史研究などに関する古書を検索することが多いのですが、現在、インターネットの古書店で入手することができる関連文献だけでも相当量にのぼります。

北海道から沖縄まで、あるいは、古代から現代まで、その関連文献を検索し、資金的ゆとりがあれば、それらの関連文献を入手することも不可能ではないでしょう。

しかし、それらをすべて入手したところで、<限られた人生>・・・、1人の学者・研究者・教育者が、部落問題・部落差別問題・部落史研究のすべての関連文献を読破し、個々の問題に精細に言及することなど、ほとんど不可能なことでしょう。

まして、無学歴・無資格、学問の世界、歴史研究の世界とはほとんど縁のない筆者の場合、被差別部落に関する諸問題すべてに精通して論述することなどありえないことがらです。

しかし、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆をはじめて以来、筆者の論述に、<時間的・空間的制約がある・・・>との批評はあとを絶ちません。そんな批評は、筆者が、インターネット上で『部落学序説』を公開する前の長い準備段階から、筆者にあびせられていた批評で、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢が、被差別部落に関する諸問題について言及するとき、必然的にともなってくる、<ありきたり>の<世間>からの批評に過ぎないとは思うのですが・・・。

確かに、『部落学序説』執筆の大きな動機は、近世幕藩体制下の長州藩・・・、周防の国と長門の国の、<被差別部落>の歴史と伝承に負っていることは否定すべくもありません。部落史研究者の書いた論文を自分の足で歩いて確認し、そこでであった<被差別部落>の人々の伝承に耳を傾けてきたことが、それまで、部落問題に関心のなかった筆者に関心を引き起こさたのは事実ですから・・・。

しかし、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、<時間的・空間的制約がある・・・>と評する方々にとって、<時間的・空間的制約がない・・・>、あるいは、<時間的・空間的制約を越えた・・・>、普遍的な、誰でもが納得できる、部落問題・部落差別問題・部落史研究は、これまで、どのうように、誰によって、構築されてきたというのでしょうか・・・。

インターネット上で読むことができる『被差別部落伝承文化論序説』の著者・乾武俊氏は、このように記しています。

「「全国六千部落」という。「自分はその半分の三千部落を歩いた」「二千部落に接した」という研究者に出会うことがある」。

乾武俊氏・・・、「そのたびに私は、絶望的になってしまう。私などいくらか知っている部落は50部落にも満たない・・・」とため息をもらします。

民俗学の立場から、著名な論文『被差別部落伝承文化論序説』を書いた乾武俊氏ですら、多分に、その研究成果に対して、<時間的・空間的制約がある・・・>と批判の対象にされる可能性があるのでしょう。

研究対象における、<3000部落><50部落>の差・・・、それは、圧倒的な、否定すべくもない差であると思われます。乾武俊氏曰く、「私はいまだに知らないことばかりだ。こんな私が、いま「被差別部落の伝承文化」について、諸説をのべる資格があるのだろうかと戸惑う」。

しかし、乾武俊氏・・・、「自分はその半分の三千部落を歩いた」「二千部落に接した」という豪語する研究者の研究に対して、乾武俊氏流の<疑義>を提示しています。

少し長い引用になりますが、乾武俊氏のことばです。

「たとえば3000部落を30年でまわるとすれば、1年100部落である。1部落3日間か。本も読まず、ものも書かず、ましてや人の前で話しなどせずに、古老の語りだけを聞き取りしながら、私の30年もそのように過ごせばよかった。そうすれば、「全国被差別部落の民俗伝承」の輪郭だけでも書き残せたのにと今になってつくづく思う。時は帰らない。各地の古老の語りは、なおさらに帰らないのである・・・」。

30年といいますと、大学・大学院を出て博士課程を取得してから許される学者・研究者・教育者として許された歳月です。その間、「本も読まず、ものも書かず、ましてや人の前で話しなどせずに、古老の語りだけを聞き取りしながら」過ごすことなど、誰にとっても不可能なことです。

仮に、「三千部落を歩いた」「二千部落に接した」・・・という学者・研究者・教育者のことばが真実であったとしても、<1部落3日間>の聞き取り調査によって、その被差別部落の歴史と民俗をどの程度まで聞き取りすることができるのでしょうか・・・。被差別部落の古老の信頼感を勝ち得て、その古老から真実を聞き出すことができる術を知っていても、<1部落3日間>で、その部落の歴史と民俗をすべて調べ尽くすということなど、最初から不可能なことがらではないでしょうか・・・。

柳田国男のいう、民間伝承の<採集方法の3形態>、<生活外形・生活解説・生活意識>、<目の採集・耳と目の採集・心の採集>、<旅人の採集・奇遇者の採集・同郷人の採集>のすべての側面を網羅することは、最初から可能性はないのです。

<凡人>でしかない部落史の学者・研究者・教育者は、<凡人>である筆者に対して、<天才>的な学者・研究者・教育者には可能である・・・というようなことを主張されますが・・・。

たとえ、<1部落3日間>・・・、飲まず食わずで30年間、被差別部落の古老の話を聞き取りして、その被差別部落の歴史と民俗をしらべあげても、30年後にそれを集大成する作業・・・、そんなに簡単にはすることができません。研究のため、30年間徒食するだけの財産が前提とされますが、そのような財産を保有している<富める人>が、部落史の学者・研究者・教育者の間に浸透する差別思想・賎民史観がいう、<生まれながらにして賤しき民>のことばに耳を傾けることができるのかどうか・・・。

『被差別部落の伝承と生活』の著者・柴田道子ですら、被差別部落の古老の聞き取りにおいて、柳田国男が戒めていた聞き取りの<禁忌>をおかしているのですから・・・。日本全国に散在する被差別部落の歴史は、<藩政>という観点からは多くの差異がみられますが、<幕政>という近世幕藩体制という観点からみれば、<差異>よりも<類似点>が多くみられます。

休むことなく、1部落3日間、被差別部落の古老から<類似>した歴史・伝承・民俗を聞かされては、「全国被差別部落の民俗伝承」聞き取り30年計画・・・、そのスタート時点の学者・研究者・教育者としてのこころの精気をどこまで維持することができるやら・・・。

乾武俊氏・・・、その論文の行間においては、その研究において、<時間的・空間的制約をとりはずす>ことの不可能であることを主張されているのです。

乾武俊氏曰く、「私の体力は、もはやそのような仕事には耐え得ない・・・」。

乾武俊氏の、学者・研究者・教育者としての<時間的・空間的制約>を認識・受容しての<妥協点>は、「すでに聞き取りを終えた具体的ないくつかの民俗事例から、それを手がかりにみんなが見落としていた、あるいは私たちの調査結果を読みちがえていると思われる、大事なことを問いなおすことだけはしておこうと思う・・・」ということになります。

無学歴・無資格、学問の世界とは何の縁もない筆者・・・、部落史研究においても、その研究に際して、どれだけ多くの史資料に接したかによって、その研究の質が決まるものではないと思います。通称6000部落の半分3000部落の史資料に接しているから、3分の1の2000部落の史資料に接しているから、その部落史研究は、評価され、一般説・通説として受けとめられなければならない高品質の研究論文になる・・・、とは思われないのです。

限られた史資料を通して、<歴史記述の客観性>を追究し、歴史の真実に迫る・・・。

それが、歴史学・民俗学などの学者・研究者・教育者に与えられた唯一の可能性であると思われます。無学歴・無資格、学問とはほとんど縁のない筆者にとっても・・・。

  

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歴史記述の視点・視角・視座

2009年03月23日 | 第5章 水平社宣言批判




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その4】歴史記述の視点・視角・視座

無学歴・無資格の筆者が、歴史研究の基本的な知識・技術として依拠しているのが、今井登志喜著『歴史學研究法』と、古島敏雄著『地方史研究法』であることは、繰り返し表明してきましたし、度々両論文から引用してきました。

この2冊は、歴史研究の基本的・伝統的な方法が紹介されています。

筆者の蔵書は、文庫本・新書版が圧倒的に多いのですが、この2冊の本も新書版で、東京大学出版会の「東大新書」に含まれています。

歴史研究の基本的・伝統的なこの2冊の本ですら、<歴史記述の客観性>について、楽観的な信頼を綴ることはありません。むしろ、その論文の至るところで、<歴史記述の客観性>を阻害することになる要因に対して常に警告を発しています。

史料に表現されていることは、<記憶によって再構成>されたものにほかならず、その史料には、その史料を記録した人の<視点・視角・視座>が否応なくまとわりついているのが普通です。

通常歴史研究は、史料の中から、歴史記述の主観的要素を取り除き、<生のままの歴史事実>を抽出しようとします。しかし、歴史研究の学者・研究者・教育者が、実証主義的研究法を駆使して、<生のままの歴史事実>を確定した・・・、といっても、そのことで、<歴史記述の客観性>が自動的に保証されるわけではありません。

「歴史は過去に対する現代の関心である」(『歴史學研究法』)ので、現在の歴史研究に際しては、その学者・研究者・教育者の現在の<視点・視角・視座>という、あるいは外部からの歴史研究に対する要請(運動団体・政治団体・教育団体・・・)という、<歴史記述の客観性>をそこなうことにつながる<歴史記述の主観>的要因がついてまわるからです。

そういう意味では、歴史研究は、常に、<歴史記述の主観性>を批判検証し、歴史研究の<視点・視角・視座>は常に相対化されつづけなければならないのです。「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」(野家啓一著《歴史を書くという行為》)たらねばならないのです。

無学歴・無資格の筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆するに際して、筆者の<視点・視角・視座>をできるかぎり明らかにしてきました。『部落学序説』とその関連ブログ群に、執筆者たる筆者の<個人的な情報>が多々含まれるのは、筆者の<視点・視角・視座>について読者の方々に情報を提供すると同時に、筆者の<視点・視角・視座>をより明確に確立するためです。

それでは、<視点・視角・視座>とは何か・・・。

『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から何度も質問されたことがらですが、『部落学序説』第5章・水平社宣言批判の執筆をあらためて再開するにあたって、筆者のいう<視点・視角・視座>とは何なのか・・・、少しく説明しておきたいと思います。

筆者、正真正銘の無学歴・無資格ですので、大学・大学院等の高等教育機関において、歴史研究における<視点・視角・視座>について学んだことはありません。そのため、ここで<視点・視角・視座>について説明することは、またまた、歴史研究の学者・研究者・教育者の方々から・・・、とりわけ、彼らを代表するかのように、筆者の言説を批判してこられる、岡山の中学校教師・藤田孝志氏から、筆者が<誹謗中傷・罵詈雑言>としてしか受けとめることができない酷評を受けることになるかもしれません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、どれだけ、部落史研究の学者・研究者・教育者の方々(部落解放研究所編『部落解放史』全3巻の著者21名)の<代弁>に成功しているかどうかはわかりませんが、筆者・・・、典型的な無学歴・無資格・・・、本来、学問の世界、歴史研究の世界、部落史研究の世界とは無縁の存在ですので、筆者の<視点・視角・視座>を明らかにすることで、部落史研究の学者・研究者・教育者から<失笑>されることについて、臆する理由は何もありません(無学歴・無資格の筆者の居直り・・・)。

といっても、<無から有を呼び出す>ことは、筆者にはできませんので、<視点・視角・視座>とは何か・・・、そのことについて言及するために、この項の文章を書くときに最初に紹介申し上げた野家啓一著《歴史を書くという行為》を参考にして、考察をすすめていきます。

野家啓一氏は、「歴史記述は個人や共同体や国家のアイデンティティ・・・と切り離しがたく結びついている。」といいます。「アイデンティティの主張はナショナリズムの問題圏と接しており・・・否応なく政治性を帯びている。」そうです。

しかし、その「歴史記述の客観性」を損なう「主観的要素」のひとつ、「政治性」は、その歴史記述が、歴史研究の世界から歴史教育の舞台に移されるとき、「歴史記述」「正史」として認定され、歴史研究の批判対象からはずされていきます。歴史を学ぶものは、歴史研究の学者・研究者・教育者の「歴史記述」を、<公認された客観的歴史>として、受容・維持・発展させることが求められるようになります。

部落史研究についていえば、被差別部落のひとびとの歴史を、<賎民の歴史>とみなす<賎民史観>こそ、部落史研究の研究成果であり目的である・・・、ということになります。

部落史研究を<賎民史観>として描くときの歴史資料・・・、時空を越えて種々雑多な史料が存在しますが、部落史の学者・研究者・教育者は、<賤民史観>的部落史像を描くために有効な史料を取捨選択することになりますが、そのとき、野家啓一氏のことばの通り、「歴史家たちは、みずからの利害関心や動機づけにしたがって「語るに値するもの」、すなわちその時代にとって「意味」と「価値」を持つ出来事を選び出すのである。」

野家啓一氏、「それを決定するのが歴史家の「視点」・・・」であるといいます。

「そこには、すでに一種の価値判断が働いている」のであって、部落史の学者・研究者・教育者が、その研究主題の論究に必要な史資料を取捨選択する段階で、<歴史記述の客観性>を損なう<歴史記述の主観性>がしのびよってきているといえます。

そういう意味では、<部落史を語るときの視点>とは、種々雑多な関連史資料からどのような史資料を選択するか、そのときの判断基準であるといえます。部落史の一主題を研究するときに、幕府という中央政府の史資料に依拠するのか、諸藩の地方政府の史資料に依拠するのか・・・。あるいは、支配者である<武士>階級の資料に依拠するのか、被支配者の<百姓>階級の地方文書に依拠するのか・・・。あるいは、軍事・警察・司法などの、<殺生与奪の権>を行使することができる<非常民>の側の資料に依拠するのか、<非常民>によって逮捕・監禁・捜査・裁判・処刑の対象とされる<常民>の側の資料に依拠するのか・・・。部落史の主題を研究するに際して、どの史資料を採用するのか・・・、その判断の根拠となるのが<視点>です。

野家啓一氏は、その論文《歴史を書くという行為》の中で、<視角>という表現を用いることはありませんが、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者にとっては、<視点>によって、歴史記述のために選択された史資料を分析、批判検証していくときの方向性が、<視角>であると認識しています。

たとえば、女性史に関する論文を書くときを想定しますと、男性が書き記した史資料だけに基づいて女性史を書く場合と、女性が自ら書き記した史資料を集積して女性史を書く場合とでは、その歴史記述に大きな違いが出てきます。<女性史家の視点>は、種々雑多な史資料の中から、どのような史資料を取捨選択して女性史を記述しようとしているかによって明らかにされます。

取捨選択された女性史に関する史資料を、<男性の立場>から<男性の視線>で女性史を描くのか・・・、<男性の立場>から<女性の視線>で女性史を描くのか・・・、<女性の立場>から<男性の視線>で女性史を描くのか・・・、<女性の立場>から<女性の視線>で女性史を記述していくのか・・・、取捨選択された史資料の解析に向かうための方向性は、ひとつではありません。歴史の記述に際して、学者・研究者・教育者によって確定された方向性のことを、筆者、<視角>と呼んでいます。

どの<視角>をとるか・・・、そこにも、<歴史記述の客観性>を損なう可能性のある<歴史記述の主観性>が忍び寄ってきます。歴史研究における、学者・研究者・教育者の<視点>・<視角>は、その学者・研究者・教育者の「一種の価値判断」の結果であって、決して、没価値的な概念ではありません。

普通、歴史研究の学者・研究者・教育者によって、「生のままの歴史事実」を明らかにするために<視点>・<視角>が自覚されるのですが、その<視点>・<視角>は、歴史研究の学者・研究者・教育者が置かれた歴史と状況によって大きく左右される可能性が否定できませんので、ほんとうの「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」であることを自覚し続け、歴史学の研究者としてのおのれのありようを常に批判検証することを怠らないのです。

それでは、<視座>とは何か・・・。

歴史研究にかかわる学者・研究者・教育者が、その<視点>・<視角>によって、史資料を選択、批判検証、分析と総合を遂行した結果生じる研究成果を<歴史記述>として叙述する場合、その学者・研究者・教育者によって選択された<枠組み>・<史観>のことです。

<権力史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか、それとも<民衆史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか・・・。<皇国史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか、それとも<唯物史観>のもとで<歴史の記述>を遂行していくのか・・・。

<視座>も、<視点>・<視角>と同じく、没価値的概念ではなく、むしろ、まったく逆に、本質的に価値概念であるといえます。

野家啓一氏によると、「歴史家の視座」は、「歴史を記述する主体の立ち位置(ポジショナリティ)」の問題であり、「時代精神や利害関心によって彩られ、ある種のイデオロギー性を帯びている」ことは否定できない・・・。歴史研究の学者・研究者・教育者も、その「視座」を選択するときに「歴史家の学問的実存」を賭けている・・・というのです。その「特定の視座によって開かれる時空」は、<歴史記述の客観性>を無条件に保証するものではなく、「関心の遠近法に沿った歪みを伴わざるをえない」といいます。

「生のままの歴史事実」は、歴史研究に携わる学者・研究者・教育者の<視点・視角・視座>によって、その歴史記述に際して、その客観性が常に危うくされ、損なわれている可能性に直面しているのです。

そして、その「歴史家の視座」は、時として、その<主観性の限界>・・・<客観性>が否定されることにつながり、「視座の転換」を求められる場合も少なくないのです。戦前の皇国史観、戦後の唯物史観・・・、その<歴史記述の客観性>が問われ、現在に至っていることは否定すべくもありません。

野家啓一氏は、歴史家の「視座の転換」は、皇国史観・唯物史観においてだけでなく、「西洋対東洋」「男性対女性」・・・という「二項対立を無効化」し、「これまでの歴史記述において忘却され隠蔽されてきた・・・声を発掘し、顕在化させることになった」といいます。「視座の転換は歴史の書き換えを要求せずにはおかない・・・」というのです。

野家啓一氏が、そう語る際に引用される上野千鶴子氏のことばは<強烈>です。

「ジェンダー史は、正史に対して「女性」という「見逃されてきた領域」(missing perspective)を付け加えることで正史の「真理性」を高めることに貢献するのではなく、自らの偏りを認めることで、返す刀で正史を僣称するものに対して「おまえはただの男性史にすぎない」と宣告したことになる」。

野家啓一氏は、その上野千鶴子氏の「指摘は、正鵠を射たものと言うべきであろう。その意味で、人種、民族、階級、人権といった概念もまた、ジェンダーの視点から再構成されねばならないのである。」といいます。

部落史研究における、学者・研究者・教育者が無条件の前提、部落史研究の枠組みとして採用している<賎民史観>は、<貴民>・<賤民>の「陳腐な二項対立」を前提とした、<貴民>の側からの差別的な<史観>に他なりません。

『部落学序説』とその関連ブログ群は、歴史研究の範疇に入るものではありませんが、上野千鶴子氏のことばをこのように借用することができるのではないでしょうか。「部落学序説は、部落史の正史<賎民史観>に対して、それぞれの時代の司法・警察に関与する「非常民」という「見逃されてきた領域」を認めることで、部落史の正史である<賤民史観>の「真理性」を高めることに貢献するのではなく、これまでその<賎民史観>によって教育され洗脳されてきた自らの偏りを認めることで、返す刀で、部落史の正史である<賎民史観>を僣称するものに対して「賤民史観よ、おまえはただの差別史にすぎない」と宣告したことになる」・・・。

《「言語論的転回」以後の歴史学》の著者・小田中直樹氏は、このことについては「日本の歴史学界は・・・ほぼ黙殺してきたといえる」といいます・・・。<歴史記述の客観性>の追究と<歴史記述の書き直し>を求めるのが、歴史学ではなく「隣接する諸学問領域に属する研究者」であったことは、歴史の皮肉・・・。「他領域の研究者が歴史学者の頑迷さを批判し、後者は前者の無理解に首をすくめるという光景が、各地で展開されることになった・・・」そうです。

「歴史学は・・・自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」・・・

無学歴・無資格、学問・歴史の門外漢である筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、最初から<序説>(プロレゴメナ)として、「自己の学問的基盤を批判的に省察する再帰的自己反省の学」を内に抱え込んでいるため、『部落学序説』執筆の<視点・視角・視座>は、日本の歴史学に内在する差別思想である<賎民史観>の学者・研究者・教育者に対する批判検証の学であると同時に、筆者の自身自身に対する批判検証の学でもあります。

 

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歴史記述の客観性の追究

2009年03月22日 | 第5章 水平社宣言批判




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その3】歴史記述の客観性の追究

歴史学における「一般の常識」として、「歴史家の仕事は、過去の事件や状態を事実に即して客観的に記述することである・・・」ということがあげられます。

前々回に引用したことのある、加来彰俊著《歴史記述の客観性》という論文の一節です。

歴史研究の学者・研究者・教育者によって執筆される論文の<歴史記述の客観性>が保証されるためには、<客観性>の対となる<主観性>ができる限り排除されなければなりません。

しかし、歴史研究の成果である論文は、「事実という客観的要素と解釈という主観的要素とが複雑に絡み合ったもの」として存在しているので、歴史研究から、<主観的要素>を完全に排除することはできません。

もし、歴史研究の学者・研究者・教育者として、<主観的要素>を排除して、<客観的要素>のみで、その論文を組み立てている・・・と信じている人があるとすれば、その歴史研究の浅薄さ、通俗さを示すのみで、歴史研究の名に値しない論文であると推測せざるを得ないでしょう。

筆者が知りうる限りの歴史学者・研究者・教育者の多くは、<歴史記述の客観性>を保持するため、常に、<主観的要素><歴史記述の客観性>をそこなう可能性に留意し、それを自覚しながら、日々、<主観的要素>と闘い、<歴史記述の客観性>を追究してやまないひとびとです。

しかし、長い歴史研究の間には、最初<主観的要素>であったものが、いつのまにか、<主観的要素>の域を脱して、歴史研究の暗黙の前提になってしまうことがあります。一端、<暗黙の前提>が、歴史研究の学者・研究者・教育者によって受容されはじめますと、その<暗黙の前提>は、歴史研究の批判検証の対象ではなくなり、多くの学者・研究者・教育者によって、無批判に<自明の理>として通用するようになります。

加来彰俊氏が、「歴史家の主観的制約をなす視点の中から、可能なかぎり個人的要素を排除して行って、誰でもが普遍的に受け入れられるような、何か共通の一つの視点、いわば「歴史意識」一般のようなもの・・・」とよぶもの・・・、つまり、<史観>と呼ばれるものです。

筆者が、<日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観>として批判する<賎民史観>もそのひとつです。

筆者、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢ですので、歴史研究の論文をひもとくときは、その学者・研究者・教育者の、論文執筆における<客観的要素><主観的要素>を認識しようとします。どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・。その両者をどのように連絡をとろうとしているのか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者が、なぜ、そこまで意識しなければならないのか・・・。

筆者、部落差別問題に関与する前までは、部落差別問題にはほとんど関心がなく、自分のライフワークとして天皇制の問題にかかわっていこうとしていたからです。天皇制に関する論文を批判・検証するためには、そのような自問自答をすることを避けて通ることができなかったからです。

というのは、論文《日本の歴史思想》の著者・上横手雅敬氏(当時、京都大学教養部助教授)がいわれるとおり、日本の「近代歴史学」は、「天皇制の恐怖からの解放なしに・・・成立しえなかった」からです。<実証主義研究>は常に迫害され、日本の歴史研究の学者・研究者・教育者は、「長い受難の歴史」を生きざるを得なかったからです。

戦後、「長い受難の歴史」に終止符が打たれたといわれますが、しかし、戦後、学問の自由が保証されるようになってからも、<天皇制の恐怖>は、歴史研究の学者・研究者・教育者の自由な精神を拘束し、自主規制させるような力を発揮していた・・・、と考えられます。

現在の社会においても、「明治以降に作り出されたものに過ぎない国民感情論が持ち出され、国民の信条にさえ干渉が生ずる」可能性が多々存在しているからです。

そういう意味では、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢である筆者にとってすら、歴史に関する研究論文に目を通すとき、どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・、絶えず、自らに問いかけ、批判検証のいとなみをせざるを得ないのです。

期せずして、かかわるようになった、明治天皇制構築の流れと表裏一体の関係にある、部落問題・部落差別問題・部落史研究においても、その関連史資料・論文などを読むとき、どの部分が、歴史の事実で、どの部分が歴史の解釈なのか・・・。その解釈の、どの部分が、その学者・研究者・教育者固有の見解で、どの部分が<史観>に依拠した部分なのか・・・、自らに問いかけざるを得ないのです。

『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者・・・、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢ではありますが、このような姿勢は、筆者の<歴史に対する間違った態度・姿勢>などではなく、歴史研究に責任をもって、主体的にかかわっておられる歴史学の学者・研究者・教育者によって、その論文・書籍を通じて<間接的>に教示されたものにほかなりません。

ですから、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して採用している歴史研究法は、歴史研究の常道をたどるもので、決して、そこから逸脱して、<恣意的な解釈に自己満足>しているわけではありません。

筆者が、現代部落史研究の成果として採用しているのは、『部落解放史・熱と光を』の上・中・下の3巻です。全1000ページを越え、上田正昭・和田萃・井上満郎・横井清・寺木伸明・中尾健次・生瀬克己・布引敏雄・桐村彰郎・秋定嘉和・黒川みどり・白石正明・八箇亮仁・灘本昌久・城間哲雄・藤野豊・村越末男・渡辺俊雄・三輪嘉男・梅原達也・友永健三の21名の学者・研究者・教育者によって執筆されたものです。

1989年出版ですから、いまからちょうど20年前・・・の部落史研究に依存していることになります。

それらの部落史の学者・研究者・教育者の種々雑多な論文を、ひとつにまとめているもの・・・、部落史研究の、研究成果を収める枠組みを、筆者、<日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観>とよんでいるのです。

それらの21人の学者・研究者・教育者は、高学歴・高資格、歴史の専門家、しかも、部落解放運動を視野にいれての部落史研究をされている方々・・・。その彼らが、『部落学序説』とその関連ブログ群で、筆者が<差別思想>であると指摘する<賎民史観>を、何ら批判検証することなく、<暗黙の前提>として採用しているというようなことが、一体、ありうるのか・・・、『部落学序説』の読者の方からときどき、問いかけされますが、筆者、大いにあり得ることであると思われます。

日本人が、「天皇制の恐怖」を前に、歴史の事実・真実を追究する、歴史研究の学者・研究者・教育者としての良心を捨て、「皇国史観」の国民の精神に対する注入機関に甘んじていた、歴史学の学者・研究者・教育者自身の歴史は、遠い昔の過去のできごとではないからです。

そして、その「天皇制の恐怖」は、亡霊のごとく、現在においても、歴史研究の学者・研究者・教育者の精神の奥深くに宿っているからです。

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部落史における歴史記述の客観性

2009年03月21日 | 第5章 水平社宣言批判




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その2】部落史における歴史記述の客観性

「客観性を尊重しない学問などはない・・・」

宮崎市定著《中国の歴史思想》の中に出てくることばです。

歴史学は、歴史に関する<学問>(科学)のことですが、<学>という名称をつけている以上、歴史学は、その研究対象たる史資料に対する研究だけでなく、その歴史学がよって立つところの前提に対する批判・検証をそのいとなみのうちに内包しています。

<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・。歴史学は、その問いに対する答えを、他の学問に他律的に求めるのではなく、自立的に、みずから、<歴史とは何か>、<歴史研究とは何か>・・・、をあきらかにしようとします。

そのような問いは、筆者のような、無学歴・無資格、歴史の門外漢にとっては、避けて通られがちな問題になります。

「一般の人にとっては歴史事実は始めからそこにあった自明のもの・・・」として受けとめられるのが常です。その歴史的事実は、歴史学の学者・研究者・教育者の学問的研究によって、ただしく研究され、「一般の人」が全面的信頼をもって受け入れることができるものとして提示されていると考えられています。

しかし、「一般の人」が、歴史研究の学者・研究者・教育者の論説に問題意識をもって、批判検証をはじめるとしたら、歴史研究の学者・研究者・教育者にとっては、プロフェッショナルな歴史学の専門家に対する<極めて不遜な挑戦>としてうけとめられることになるのでしょうか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である「一般の人」は、歴史の専門家である学者・研究者・教育者の書く論文に耳をかたむけ、ありがたく受容するだけでいい・・・、それを、<しろうと感覚>で疑義を持ち、批判するなどもってのほか・・・、そんな雰囲気がいたるところに漂っているようです。

宮崎市定氏は、その論文《中国の歴史思想》の冒頭で、このように記しておられます。

「あらゆる学問の中で、歴史学はとりわけ客観的具体性を尊重する学問である。もちろん、客観性を尊重しない学問などはないであろうが、私の言いたいのは、歴史学は、生のままの歴史事実を尊重する点にある・・・」。

現存する、あるいは、今は隠蔽されているがやがてその存在が明らかにされる史資料を含めて、その史資料の背景にある「生のままの歴史事実」・・・。歴史学が、学として存在し続けるためには、この「生のままの歴史事実」に肉薄し、歴史の事実・真実にたどりつこうとする学問的情熱が要求されます。

「生のままの歴史事実」に対する関心を喪失したり、その追究を断念したりする、学者・研究者・教育者は、もはや、歴史学の研究者の名に値しないといっても過言ではないでしょう。

「生のままの歴史事実」に置き換えて、ある特定のイデオロギー、たとえば、皇国史観とか唯物史観とかによってつくりだされたアドホックな用語に置き換えるとしたら、それは、歴史学の研究者が、研究者であることを放棄して、「一般の人」の水準に歴史学を引き下げることになるでしょう。

宮崎市定氏は、「歴史学では、歴史事実を生のままで、即ちそれだけを全体から切り離したり、独立させたりしないで、全体につながったままで使い道を考えるのである。だから歴史学では、凡ての場合にあてはまるようにと、抽象的なことばで総括することはあまり役に立たない。」といいます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、部落史研究の学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」(たとえば、<穢多>・<非人>・・・)を「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける、歴史学本来の研究上の姿勢を放棄して、「凡ての場合にあてはまる」、便利な、「抽象的な言葉」、<賎民>として「総括」することは、「あまり役に立たない」どころか、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての<穢多>・<非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>として認識することは、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者によってなされる、学問上の差別再生産の悪しきいとなみとして映ります。

宮崎市定氏のいう、「客観的具体性を尊重」するためには、部落史の学者・研究者・教育者は、<賎民>という、差別的な概念の枠組みを最初から設定しないで、「生のままの歴史事実」は、「生のままの歴史事実」として受けとめ続ける必要があります。

どうしたら、「生のままの歴史事実」「生のままの歴史事実」として認識し続けることができるのか・・・。

宮崎市定氏は、「その生のままの歴史事実をうかむためには、別のなまのままの歴史事実を手助けとしてもってこなければならない。」といいます。つまり、Aという「生のままの歴史事実」は、Bという「生のままの歴史事実」によって、相対化されなければならない・・・、というのです。

宮崎市定氏によれば、「生のままの歴史事実」の相対化の飽くなき連続こそ、歴史研究の本質であるといえます。「生のままの歴史事実」を徹底的に相対化し続けること・・・、それこそが、歴史研究にたずさわる学者・研究者・教育者の本来的なありようです。宮崎市定氏曰く、「歴史学は、いつまでたっても生の歴史事実から離れられない学問なのである」

部落史研究において、その学者・研究者・教育者が、「生のままの歴史事実」である、近世幕藩体制下の司法警察である非常民としての<穢多・非人>を、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>、<賎民>とラベリングして、<穢多・非人>に、すべての<賎民>の負の遺産を押し付け、それでも、<賎民>は、差別とたたかい<脱賎>を勝ち取っていった・・・、と自家撞着的に解釈することは、本来の歴史研究からの明白な<逸脱行為>であると思われます。

部落史研究を<賎民史観>的研究に貶めたもの・・・、それは、部落史の学者・研究者・教育者が暗黙の前提として、かえりみることがなかった、学者・研究者・教育者自身の内なる<差別性>そのものに起因します。

  

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ゆらぐ歴史記述の客観性・・・

2009年03月21日 | 第5章 水平社宣言批判




【第5章】水平社宣言批判
【第1節】部落概念
【第1項】<歴史記述の客観性>について
【その1】ゆらぐ歴史記述の客観性・・・



『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して、筆者、繰り返し、<無学歴・無資格>を表明してきました。

<無学歴・無資格>は、大学等の公的高等教育機関において勉学する機会をあたえられることがなかった・・・、そのため、高等教育を通じてなされる、保守的イデオロギーあるいは革新的イデオロギーをその精神に<注入>されることはなかった・・・ということを意味しています。

そのため、歴史学ないし歴史研究の枠組みにも拘束されないで、目にすることができる史資料を、比較的自由な精神のつばさで散策することができる・・・、という、<無学歴・無資格>のプラスの面をも持ちあわせている・・・、ということの表明でもあります。

そのため、筆者、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方々から、繰り返しいただいた、<無学歴・無資格を標榜することは自粛した方がいいのではないか・・・>という善意にみちたアドバイスに対して、また<無学歴・無資格を標榜することは、自らを卑下することであり、差別問題を語るものにはふさわしくない・・・>として、筆者に向けられてきた悪意に満ちた<誹謗中傷・罵詈雑言>に対して、筆者、<無学歴・無資格>の立場を堅持すると宣言してきました。

『部落学序説』第5章・「水平社宣言批判」の執筆を再開するにあたって、<無学歴・無資格>、歴史研究の門外漢、部落史研究のしろうとでしかない筆者の立場から、<歴史記述の客観性>について、もういちど、考察しておきたいと考えて、この文章から、筆をおこすことにしました。

<歴史記述の客観性>については、すでに、『田舎牧師の日記(Ⅱ)』の「歴史研究法と歴史相対主義」という文章をしたためています。そのときは、部落史研究という<個別史>ではなく、すべての歴史研究に共通する<一般史>を前提に言及しました。

今回は、部落史研究という<個別史>の世界に限って、<歴史記述の客観性>について言及してまいりたいと思います。

<歴史記述の客観性>について考察するために、筆者が比較研究の対象として參照する論文は、加来彰俊著《歴史記述の客観性》(1963年)と、野毛啓一著《歴史を書くという行為-その論理と倫理》(2009年)の二つの論文です。

前者は、筆者が高校生のときに読んだ人文書院版『講座哲学大系』の『第4巻歴史理論と歴史哲学』に収録された論文、後者は岩波講座『哲学』の『11歴史/物語の哲学』に収録されている論文です。そのふたつの論文が執筆された時の間に、46年という歳月が横たわっています。

その46年という歳月の間に、日本の歴史学あるいは歴史研究が、どのように<発展・発達>していったのか・・・、<無学歴・無資格>の筆者、寡聞にしてなにも知りません。

ただ、偶然、筆者が目にすることになった、二つの論文、西日本と東日本、昭和と平成という時空を越えて、いずれも、<歴史記述の客観性>について、<疑義>を提示しています。

歴史学ないし歴史研究のプロフェッショナルに属する人々は、歴史学ないし歴史研究の基本的な理解として、<歴史記述の客観性>について、批判的に考察し、自らの歴史研究の営みとその研究成果について、<歴史記述の客観性>を保持していると、強弁することを控えてきた・・・と言えるでしょう。

このことは、部落史という<個別史>の研究においても言えることです。

ほんとうの、歴史学の学者・研究者・教育者は、その歴史研究において<歴史記述の客観性>を暗黙の前提として、そのいとなみを続けることはできない・・・、と思われます。しかし、部落史研究に限っていえば、その歴史研究に対しては、<外から目的を課する>という、部落史研究という<歴史研究>に対する<外圧>・・・、部落解放の運動団体や政治団体、その<御用学者>になりさがった研究者集団によって、<歴史記述の客観性>として<賤民史観の強制>が行われきた・・・、ということは、否定すべくもありません。

加来彰俊氏のことばに、このようなことばがあります。「歴史に外から目的を課することは、歴史の尊厳を傷つけるばかりか、歴史のそもそもの存在理由である、事実と空想の区別さえも曖昧にする結果をもたらす・・・」。

今日の古代・中世・近世・近代・現代の部落史研究を通じて、一般的に部落史の学者・研究者・教育者によって、部落史研究の前提として採用されている<賤民史観>は、歴史の<事実>を否定し、被差別部落の民衆に対して、<生まれながらにして、本質的な賤しい民・・・>とラベリングする営みに他なりません。

戦後の同和対策事業・同和教育事業施行の対象となった、その当時の被差別部落の人々が置かれた社会的・経済的低位の状態を、歴史的・理論的に根拠づけるものとして、拡大再生産されていったものが、この、それ自体が典型的な差別思想である<賎民史観>です。

「教訓という目的に役立つためなら、空想の方が事実よりまさる場合だってある・・・」。

部落史研究の目的は、被差別部落の歴史を客観的・実証主義的に検証して、部落差別完全解消のために、学者・研究者・教育者として、史料の発掘と、あらたな歴史像を構築していく責務があったにもかかわらず、場当たり的に人権教育・同和教育を糊塗してきた人々は、奥深いところにある<歴史の事実>・<歴史の真実>ではなく、人権教育・同和教育の「教訓」のみを安易に抽出する愚をおかしてきたと思われます。

歴史学・歴史研究における「一般の常識」は、「歴史家の仕事は、過去の事件や状態を事実に即して客観的に記述することである・・・」と信じていますが、<歴史記述の客観性>を学問的に担保するためには、「過去の事象について正確な知識」が必要です。

「歴史家が「あったことをあった通りに」語るためには、言うまでもなく、「あったこと」について正確な知識を所有していることが前提になる・・・」といいます。しかし、加来彰俊氏は、多くの場合は、「過去の事象について正確な知識を持つことができる」可能性を持つことは「不可能・・・」であるといいます。

その理由は、歴史学ないし歴史研究の主体となる学者・研究者・教育者は、その研究に際して、何らかの「前知識」・「主観」から自由になることができないからです。

それは、部落史研究の世界においてもいえることで、部落史の学者・研究者・教育者は、「自分が直接に経験することができない過去の事象について、つねに史料を媒介にしながら間接的に推理するより他はない・・・」のであって、「意識的たると否とを問わず、事実の解釈には、歴史家の主観が入らざるを得ない・・・」のです。

その<主観>が、部落史の学者・研究者・教育者の<視点>を形成し、それが集団の中で累積されることで<史観>が構築されていきますが、戦後の部落史研究において、部落解放をめぐる運動団体・政治団体・教育団体などの<外圧>によって、<特定の時代の特定の立場から見られた事実の一つの解釈>にすぎない<史観>が、部落史の歴史の事実・真実であるかのように、国民のすべてに、その理解と受容が強制されてきたものが、筆者がいう、<差別思想である賎民史観>に他なりません。

筆者は、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢であるにもかかわらず、部落史研究の学者・研究者・教育者の世界で、なんら批判検証されることなく、暗黙の前提として受容されるに至っている、部落史研究の枠組み・・・、史観・・・を、<差別思想である賎民史観>として、<部落学>の批判の対象にしているのです。

歴史研究における、<歴史記述の客観性>を重んじるがゆえに、偽りの、真ならざる<歴史記述の客観性>を批判検証・・・、部落史の学者・研究者・教育者の精神世界奥深くに内在する<差別思想である賤民史観>をとりのぞこうとしているのです。

  

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『部落学序説』第5章の執筆計画見直し・・・

2008年11月21日 | 雑想

『部落学序説』第5章の執筆計画見直し・・・

『部落学序説』執筆の計画を立ててから多くの時間を経て、2005年5月14日に、その執筆に着手しました。

執筆計画の段階で、いくつもの章・節・項立てを行ったのですが、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々と、それに使用する史資料について検証作業をするとき、『部落学序説』の論文構成一覧表をお渡ししました。

その後、山口県立高校数校で仕事をしていたとき、高校の教師の方々と部落問題・部落差別問題について情報交換をしたことがありますが、そのとき、筆者が彼らに手渡した『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して・論文構成の概要)がありますが、それは、『部落学序説』の論文構成一覧表を分かりやすく解説したものです。

筆者、<論文構成の概要>に従って、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆してきたのですが、『部落学序説』・・・、歴史研究の書でないにもかかわらず、時系列で説明する傾向があります。そのため、読者の方の中には、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」について論じているときにも、近世の「穢多・非人」が、明治以降どのようにして、被差別部落民として差別されるようになたのか、説明を要求してこられる方々が多数おられました。

それで、筆者、明治天皇制国家・近代中央集権国家における「穢多・非人」のその後について、<本文>の中で、あるいは、<別稿>として、また、あるいは、<付論>として、『部落学序説』の第4章・第5章・第6章で論じる予定の主題について先取りして言及してきました。

最初の執筆計画では、『部落学序説』第5章、「水平社運動の批判的検証」として、
第1節 部落概念
第2節 明治政府が描いた地域共同体
第3節 特殊部落
第4節 水平社運動前史と限界
第5節 水平社運動の功罪
第6節 糾弾の意味
第7節 賎民政策から棄民政策へ

全7節・31項・・・、31の文章から構成する予定でした。

しかし、読者の方々から、「水平社宣言をどう認識しているのか・・・」と問われることがおおく、実際の『部落学序説』第5章は、「水平社宣言批判」として、
第1節 史料としての「水平社宣言」
第2節 「水平社宣言」の背景

の文章を、しかも、序説(プロレゴメナ)に相応しくない文章量で、20文章を執筆しています。<序説>というより<本論>に近い・・・かたちで執筆を続けていますが、最初の執筆計画では、「水平社宣言」に対するテキスト批判は含まれていませんでした。

筆者、不特定多数の読者の方々と一緒になって『部落学序説』を構築していくつもりは一切ありませんが、山口の地に棲息するようになって出会った、部落解放同盟新南陽支部の方々とその被差別部落の人々との交流からくる<影響>は避けて通ることはできません。

いままでも、時々、相互に火花を散らすような論争をしたことがありますが、それは、岡山の中学校教師・藤田孝志氏が筆者に向けた「誹謗中傷・罵詈雑言」とはまったくことなる、<部落差別を解消したい・・・>という差別・被差別それぞれの立場を確認した上での真摯なやりとりでした。腹蔵なく真摯に語り合ってきたことが、現在の<共同研究>につながっています。

同じ史資料を用いても、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々は、「被差別者」の側からそれらの史資料を解析、批判検証することになります。従来の部落解放運動の枠組みにおいて、「差別者」に過ぎない筆者は、その史資料を最初から最後まで、「差別者」の立場から解析、批判検証することになります。

つまり、『部落学序説』とその関連ブログ群は、「差別」・「被差別」の先鋭化された立場の突き合わせから生れてきたものです。

「差別」・「被差別」の違いをあいまいにして、問題を忘却のかなたに追いやってしまおうとする「融和主義」的発想とは無縁の発想に基づいています。また、「差別」を絶対化したり、「被差別」を絶対化したりする人々の発想とも無縁です。

筆者にとって、「被差別部落の人々」とは、部落解放同盟新南陽支部の方々とその地区の住民、そして、その新南陽支部の部落解放運動と<連帯>している東京・奈良・広島・山口・福岡の被差別部落の人々です。

部落差別に関する言説が<差別性>を帯びることがないために必要ないとなみは、それが、どのような言説であったとしても、被差別部落の人々の具体的な顔が見える視点・視角・視座に立って、論じることです。

『部落学序説』の執筆を開始してはや3年6ヶ月・・・、『部落学序説』とその関連ブログ群を読んでくださった方々からメールを多数いただきますが、その方々が、<被差別部落の人々の具体的な顔が見える>・・・視点・視角・視座に立って、筆者に問いかけておられる・・・、と確信できるときにのみ、ご返事させていただいています。

「誹謗中傷・罵詈雑言」で綴られる問いかけに対しては、無学歴・無資格の筆者・・・、語るべきことばをもちあわせていません。

『部落学序説』第5章の執筆再開に際して、筆者、その章・節・項立てと、その内容について、執筆計画を再編成しようとしています。その最も大きな理由は、この3年6ヶ月の間、『部落学序説』執筆開始時と比較して、その執筆に使用する史資料が3倍にも膨れ上がったためです。そして、増えた史資料は、すべて、筆者の『部落学序説』(非常民の学としての部落学構築を目指して)の視点・視角・視座を補強するものばかりで、「非常民論」・「新けがれ論」などの、筆者の基本的な理解を完全否定する文章・論文には、いまだに遭遇していません。

3倍にふくらんだ史資料にすべて目を通して、『部落学序説』第5章「水平社宣言批判」・第6章「同対審答申批判」を執筆していく予定です。

最初の段階で、史資料不足で、執筆計画になかった主題についても言及していくつもりです。

できるかぎり、ひとつの主題をひとつの文章にまとめるつもりです。

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人間の歌が始まる・・・

2008年10月09日 | 雑想

雑想・人間の歌が始まる・・・

直接、本文と関係がない文章は『田舎牧師の日記』に記すことにしていたのですが、コラムのつもりで書きました。今日も一日庭仕事です。夜はしっかり疲れてしまって、筆者の批判的精神は活動中止状態になります。


書棚から一掴み、文庫本を取り出して、年代順に並べてみました。

執筆年代順ではなく、発行年代順に・・・。

1972年 高村光太郎『千恵子抄』(新潮文庫)
1974年 リルケ著『リルケ詩集』(新潮文庫)
1976年 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)
1978年 ヤスパース『哲学入門』(新潮文庫)
1979年 有吉佐和子著『複合汚染』(新潮文庫)
1981年 ラーゲルレーヴ著『キリスト伝説集』(岩波文庫)
1984年 藤門弘他著『カントリーライフのすすめ』(講談社文庫)
1986年 紀田順一郎著『読書の整理学』(朝日文庫)
1997年 辺見庸著『もの食う人々』(角川文庫)


筆者の左手で掴んだ9冊の文庫本・・・、出版期間は、1972年から1997年までの25年間・・・。

痛みのくる右手を庇うようにして、左手で、無作為に掴んだ文庫本9冊・・・、その中に、25年という四半世紀の精神文化の世界が横たわっているようです。

その一節にこのような言葉がありました。

「国家は・・・、
あらゆることばを駆使して、嘘をつく。・・・

大地はいまもなお、
大いなる魂たちのために開かれている。
孤独なるひとりぼっちの者、
ふたりぼっちの者のために、
いまもなお静かな海の香りが吹きめぐる
多くの座がある。

大いなる魂たちのために、
いまもなお自由な生活がひらかれている。
まことに、物を持つことのすくない者は、
それだけ心を奪われることもすくない。
ささやかな貧しさは
讃えられるべきかな!

国家が終わるところ、
そこにはじめて人間が始まる。
余計な人間でない人間が始まる。
必要な人間の歌が始まる。
一回限りの、かけがえのない歌が始まる。


その<詩>を読みながら、2005年5月14日から書き始めた筆者の『部落学序説』・・・、文字通り、「人間の歌」だと思わされました。筆者は、生まれながらにして音痴、どんなにこころをこめて歌っても、他のひとを魅了することはありません。しかし、それは、筆者のこころの奥底から溢れてくる「人間の歌」・・・。人生における、「一回限りの、かえがえのない歌」・・・。

その詩集の表題の片隅に、小さな活字でこう記されていました。

「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」・・・

さあ、『部落学序説』第5章執筆再開のためのエネルギーを蓄えることにしましょう。

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歴史学者の「まなざし」理解・・・

2008年10月06日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(6.歴史学者の「まなざし」理解

『部落学序説』第5章水平社宣言批判の執筆を再開しましたら、この問題、多々言及することになりますので、今回は、省略します。

歴史学者の「まなざし」理解については、ひろとまさき著『差別の視線・近代日本の意識構造』(吉川弘文堂)に依拠して論述することになりますが、その巻末に、《差別の視線と歴史学》という「インタヴュー」が掲載されています。

岩波近代思想史全集の『差別の諸相』という史料集を編纂されたのが1990年、このインタヴューがなされたのが1997年、7年が経過しています。

ひろたまさき氏、成田龍一氏に、「1990年に『差別の諸相』という史料集・・編集の意図を聞かせていただけますか」と問われて、このように答えています。「弱りましたね。自分の仕事は自分で評価できなし、7年も前の仕事について語るのは面映ゆい気がします」。

筆者、『部落学序説』の付論(あとで執筆予定であったテーマを先取りして論述したもの・・・)で、2001年佐賀市同和教育夏期講座の講師・藤田孝志氏の講演録を批判検証してきましたが、7年も前の講演録、しかも、2002年は、すべての国の同和対策事業・同和教育事業が終了宣言を出され、学校同和教育も学校人権教育へ移行していった年の前年ですから、藤田孝志氏にとってはさぞ、迷惑だったことでしょう。

その講演から7年、研究熱心・教育熱心な、岡山の中学校教師・藤田孝志氏にとっては、無為の日々を過ごして来られたのではなく、常に、同和教育・人権教育の先端をはしるべく研鑽に研鑽を重ねられ、2001年の講演は、すでに、時代遅れの過去のもとになっているのかもしれません。

ひろたまさき氏は、7年前の「自分の仕事は自分では評価できない」と発言しておられますが、岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、常に、「自分の仕事は自分で評価」しておられるようです。

そのインタヴューの最後で、ひろたまさき氏、「最後にお伺いしたいのですが、新しく、いま、二〇世紀末に『差別の諸相』を編集されるとすれば、どのような論点と現象を提示されるでしょうか」と問われて、「むつかしいですね。7年前とそんなに現実は変わっていませんからね・・・、数カ所は変えるとしても全体としては同じものになりそうですね。」と答えておられます。

それは、ひろたまさき氏が、その研究計画の長期展望に立って話をされているからでしょう。「日本人論そのものがどういう差別の構造を生みだすかを明示しうる史料・・・、被差別者が差別者の視線を内面化していく過程や、それにあがらう過程を示せるものを集めたいですね」。

そして、こう言われます。「つまり、被差別者の解放が差別者と同化することによって果たせるのか。私はそれは絶望的であって、差別者も被差別者も変わっていかねばならない第3の道をさぐるしかないのではないかと思っているのですが、そういうことをさぐれる史料がほしいですね」。

そして、そのインタヴューをこのよなことばで締めくくられます。「研究者としての私自身のあり方も問い直されることになるでしょうね」。

筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群・・・、ひろたまさき氏の<歴史学>的研究を、<部落学>的研究として、研究対象を<史料>に限定せず、<伝承>まで含めて、先取りした<試論>です。

時代の流れを見つめながら、時代に翻弄されることなく、歴史学者として、ねらいさだめた研究目標に向かって、着実に邁進されるひろたまさき氏の姿勢・・・、無学歴・無資格、すべての学問において門外漢でしかない筆者でも、信頼感と尊敬心を持つことができる学者・研究者・教育者のあり様です。

同じ7年でも、その受けとめ方は様々です。

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周囲のまなざしと自己概念との矛盾葛藤・・・

2008年10月06日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(5.心理学者・教育学者の「まなざし」理解 4

<4>周囲のまなざしと自己概念との矛盾葛藤・・・

周囲のまなざしと自己概念との矛盾葛藤・・・

この表現は、心理学者・梶田叡一氏の論文、《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》から借用したものです。

その論文の第3章の見出し「周囲の”まなざし”と自己概念との矛盾葛藤」は、その論文の中核部分になります。

梶田叡一氏、その冒頭でこのように綴ります。

「周囲からの”まなざし”によって、いつでも必ず、自らに対する”まなざし”が決められてしまう、というわけではない。当然のことながら、時には、周囲の人からの”まなざし”と自己概念との間に乖離や矛盾を感じざるを得ない場合がある・・・」。

「周囲からのまなざし」・・・、それは実に多種多樣なものがあります。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏から受けた誹謗中傷・罵詈雑言も、その「周囲からのまなざし」のひとつでしょうが、筆者、インターネットのブログで『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆をはじめて、いろいろな方々から「まなざし」を受けるようになりました。多くの場合、肯定的ないし中立的立場からの「まなざし」ですが、時として、岡山の中学校教師・藤田孝志氏からの「まなざし」のように、筆者そのものではなく、そのひとが<筆者>と想定するところのものに対する「まなざし」である場合が少なくありません。

最近、2ちゃんねるで、筆者の『部落学序説』の各章・項・節を3行論文化している方がおられますが、筆者、その方の<意図>が読めませんので、傍観しているだけですが、そのいとなみを、2ちゃんねるの読者の方は、筆者の「自作自演」と断定して、そのいとなみを<狂気のなせるわざ>と解釈されているようですが、筆者のあずかりしらないところです。

つまり、梶田叡一氏がいう「周囲からのまなざし」と筆者の「自己概念」(自己理解・・・)との間に「乖離」が発生しています。

梶田叡一氏、「周囲の人からの”まなざし”と自己概念との間に乖離や矛盾を感じざるを得ない場合」として、次のような場合を列挙します。

1.”自己宣言”としての強いアイデンティティを持ち、周囲からの”位置づけ”としての社会的アイデンティティに対抗しようとする場合、
2.身におぼえのない情報が広まったり、自分自身では重きをおかない何かが生じたりして周囲の”まなざし”が自己概念にそぐわない形で一変する場合、
3.周囲の”まなざし”は変わらないのに、自らについての何かを自分自身で位置づけし直す、といった形で自己概念の変化が生じた場合など・・・。

心理学者の梶田叡一氏、「このようなとき、人は一般に、次の四つのタイプのいずれかによって、周囲からの”まなざし”と自己概念との乖離や矛盾に解決を与えようとする・・・」といいます。

梶田叡一氏は、心理学者としての研究成果として、<一般的>には、「周囲からのまなざしと自己概念の乖離や矛盾」に対する解決は、例外なく、次の4パターンのいずれかに属するといいます。

心理学者・梶田叡一氏の論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》は、非常に短い論文なので、筆者の文章の中で、この論文のことばを引用するに、その論文の数十パーセントに及んでしまいます。

しかし、それは、単なる梶田叡一氏の論文の引用ではなく、筆者独自の視点・視角・視座からの批判検証なので、著作権に違背する可能性はほとんどありません。

しかし、その4パターン・・・、そのまま引用させていただくことにしましょう。

①自己概念に合うような形で周囲の”まなざし”を変化させるべく、周囲への働きかけをする。たとえば、「わかってください、私はそんな人間じゃあないのです。私は本当に、○○なのです」といった類の反応。

②主我の全体的なあり方を変化させ(自己変革を行い)、周囲の”まなざし”に調和するものにする。たとえば、「周りの人があのように考えているのも一理あるかもしれない。その線にそって努力してみよう。そうれすれば、周囲の人が考えている面が自分にも見えてくるかもしれない」といった類の反応。

③自己概念を周囲の”まなざし”に同調するような形で、自らの意識の中で自閉的変化させる。たとえば、「よくよく考えてみれば、本当の私というのは、周囲の人の考えている通り、○○なのであろう」といった類の反応。

④自己概念と周囲の”まなざし”との間の心理的関係を断ち切ることによって、両者の乖離や矛盾を意識しないですむようにする。たとえば、「周りの人の見方はそれとして仕方がない。しかし自分は自分である。誤解や食い違いはよくあることだから気にしないでおこう」といった類の反応。

梶田叡一氏は、<一般的>には、「周囲からのまなざしと自己概念の乖離や矛盾」に対する解決は、例外なく、次の4パターンのいずれかに属すると言っているだけで、<一般的>でない場合、つまり<特別的>・<特殊的>な場合は、この4パターン以外のパターンが存在する可能性を否定していません。筆者、この<一般的>な4パターン以外を、<特別的>・<特殊的>な例外的パターンとして認識することにしましょう。

筆者、この心理学者・梶田叡一氏の、「周囲からのまなざしと自己概念の乖離や矛盾」に対する解決の4パターンを、部落差別問題に適用することにしましょう。

<被差別者>が<差別者>から差別的な<まなざし>でみられるとき、<被差別者>はその<まなざし>をどのように受けとめるのか・・・?

梶田叡一氏のことばを、一部置き換えて、その問題解決の4パターンを部落差別に転換してみましょう。

①被差別者の自己概念に合うような形で差別者の”まなざし”を変化させるべく、差別者への働きかけをする。たとえば、「わかってください、被差別者はそんな人間じゃあないのです。被差別者は本当に、○○なのです」といった類の反応。

②被差別者の主我の全体的なあり方を変化させ(自己変革を行い)、差別者の”まなざし”に調和するものにする。たとえば、「差別者があのように考えているのも一理あるかもしれない。その線にそって努力してみよう。そうれすれば、差別者が考えている面が被差別者にも見えてくるかもしれない」といった類の反応。

③被差別者の自己概念を差別者の”まなざし”に同調するような形で、被差別者自らの意識の中で自閉的変化させる。たとえば、「よくよく考えてみれば、本当の被差別者というのは、差別者が考えている通り、○○なのであろう」といった類の反応。

④被差別者の自己概念と差別者の”まなざし”との間の心理的関係を断ち切ることによって、両者の乖離や矛盾を意識しないですむようにする。たとえば、「差別者としての見方はそれとして仕方がない。しかし被差別者は被差別者の見方・考え方がある。誤解や食い違いはよくあることだから気にしないでおこう」といった類の反応。

<被差別者>が、<差別者>から、差別的な<まなざし>を向けられたときに、<被差別者>がとりうる可能性があるのは、<一般的>には、この4パターンに尽きるということになりますが、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、④は、<差別者のまなざしから読み取った被差別者自身の像(鏡映自己像)の取り入れの全面的拒否、逆に、③は、<差別者のまなざしから読み取った被差別者自身の像(鏡映自己像)の全面的受容、①と②は、全面的拒否と全面的受容の中間領域で、①は、被差別者に差別的<まなざし>の修正を要求、②は、差別者の<まなざし>を受け入れ自己概念の修正を受容・・・、することであると理解されます。

被差別部落の人々が、差別者から差別的なまなざしを注がれたとき、被差別部落の人々がとりうる可能性のある<反応>は、全面的拒否と全面的受容を両極として、その間にさまざまなグラデーション段階があるということです。

心理学者・梶田叡一氏の論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》からを、《部落研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》と読み替えますと、梶田叡一氏の論文の結論はこのようになります。

「要は、部落問題を客観的な面から、すなわち被差別部落の人々の社会的地位や収入等々の面から吟味していくだけでは不十分であって、人々の共有する差別的な”まなざし”の面から、そしてそれによって形成される被差別部落の人々の自己への”まなざし”の面からも吟味していく必要があるのではないか・・・こういった意味での部落差別における心理構造を理解していくことによって部落問題研究・部落差別研究は新しい地平を切り開いていけるのではないだろうか」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、2001年佐賀市同和教育夏期講座で、「差別の眼差し・・・と闘っていく立場に立つことはできる」と豪語します。そして、藤田孝志氏、そのような立場を「被差別の立場」として認識、「<差別と闘う位置に立つ>」と宣言しておられますが、「差別の眼差し」に対する、全面的拒否と全面的受容、そしてその両極の間にあるさまざまな折衷的立場・・・、藤田孝志氏は、被差別部落のひとびとの差別者に対する対応の多様性をどのように認識しておられるのやら・・・。

<差別者>でありながら、<被差別者>の立場に立つことができると豪語する、岡山の中学校教師・藤田孝志氏、真の「部落解放」・「人間解放」の担い手になるのやら、それとも、いつか論理的に破綻して、「部落解放」・「人間解放」の似非担い手に堕するのやら・・・。それとも、「部落解放」・「人間解放」の高邁な精神を捨てて、またぞろ、被差別部落の人々を卑しめ貶める「賤民史観」の担い手に身を埋めることになるのやら・・・。

筆者、これで、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演録に対する批判を終了しますが、2001年から5年後の2006年、さらに5年後の2011年・・・、藤田孝志氏がどのように、中学校教師として、歴史の教師として、「部落解放」・「人間解放」のために、「被差別の立場」に立ち尽くしているのか・・・、追跡し、検証し、もういちど文章化したいと思います。

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差別をめぐる心理構造・・・

2008年10月05日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(5.心理学者・教育学者の「まなざし」理解 3

<3>差別をめぐる心理構造・・・

前回、《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》の著者、心理学者・梶田叡一氏のことばを借りながら、「まなざし」の一般的な心理構造についてとりあげました。

「まなざし」は、それ自体、差別的なものではありません。

たとえば、一般的には、母親が幼児に向ける「まなざし」は、やさしさとあたたかさに満ちています。母親のふところに抱かれた乳飲み子が、母親の目を見つめながらお乳を吸う光景は、なにかほっとするようなところがあります。

母親は、その乳飲み子に、やさしさとあたたかさをもったまなざしを向け、その乳飲み子は、母親に対して、信頼と期待に満ちたまなざしを向けます。

母親とこどもの間には、梶田叡一氏がいう「互いにかわしあう”まなざし”」があります。

しかし、昨今、マスコミのよって報道される事件を見ていますと、母親がその子どもを見る、やさしさとあたたかさに満ちた「まなざし」を失って、その子どもを捨てたり、その命を奪う・・・、そういう事例が多々存在していることに気付かされます。

例外的な、法的逸脱行為はともかく、一般的には、母と乳飲み子や幼児の間には、まだまだ、複雑な心理構造はなさそうです。

しかし、こどもが成長するに従って、母親に育てられるこどもの側に、「鏡映自己像」が形成されるようになります。

こどもにとって母親は、自分を庇護してくれる特別な存在、少々失敗しても、それすらあたたかく抱擁して、受け入れてくれる存在です。そして、その母親、<母親>として「権威」すら持っているのです。

こどもは、母親が自分にむける「まなざし」を、「徐々に内面化していき、それによって自己概念と内的規範とを形成していく」ことになります。それは、こどもが、<母親のまなざしから読み取った自分自身の像>「鏡映自己像」を受容することであり、<母親のまなざしに反映された期待の体系>を摂取することを意味します。

そのこどもは、幼児期の、母親との「互いにかわしあう”まなざし”」によって、母親から自立して歩みはじめるときにも、それまで培われ育まれてきた、母と子の合作である「鏡映自己像」に忠実であろうとし、母の期待にかなう道を歩もうとします。

それは、「まなざし」の社会生理学的側面であるといえましょう。

しかし、「まなざし」には、社会生理学的側面だけでなく、社会病理学的側面も存在しているのです。

人間関係が崩れ、「まなざし」が病んだとき、本来人間の結びつきを強めるための「まなざし」にどのような社会病理学的側面が発症するのか・・・、この世の中に存在する部落差別・性差別・障害者差別・人種差別・民族差別などの差別も社会病理現象ですが、そこでくりひろげられる差別・被差別の間でかわされる「まなざし」は、本来の「まなざし」から逸脱した、病んだ「まなざし」であるといえましょう。

「まなざし」の本質を理解するためには、社会生理学的側面だけでなく、社会病理学的側面も視野にいれることで、「まなざし」の本質をさらに深く・広く理解することができるようになると思われます。

心理学者・梶田叡一氏が、論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》の中で取り上げる、「まなざし」の社会病理学的側面は、<学歴差別>です。

梶田叡一氏、この<学歴差別>は、人生において、<さまざまな悲喜劇を生じさせる>といいます。<学歴を持っているか、持っていないか>によって、「周囲の人からの、”まなざし”は大きく変わってくる」といいます。

しかし、<学歴差別>は、学歴の有無だけが問題にされるのではありません。「最終的に卒業した学校が、東京大学なのか、有名私立大学なのか、それとも地方の無名の大学なのか・・・、といった情報に接するだけで、周囲の人からの”まなざし”は大きく変わってくる」といいます。

<学歴差別>をめぐる「まなざし」は重層的に存在していることになります。

その<学歴差別>から自由になるために、「こどもたちは有名高校、有名大学を目指す」ことになるといいます。「周囲の人の”まなざし”に対応する形での自己のイメージ」・「鏡映自己像」を形成することになるというのです。梶田叡一氏、「有名大学を卒業していることは、自他の”まなざし”の中で、人間としての基本的価値が高いことを、社会的な毛なみの良いことを、つまり現代社会においてその人が”貴種”であることを意味する・・・」といいます。

筆者、梶田叡一氏のことばを前にして考えるのですが、「貴種」になりそこねた人は、なんと呼ばれるのでしょうか・・・。梶田叡一氏、ひとこともそのことについては触れてはいませんが、「貴種」の対極は「賤種」でしょう。

<学歴差別>社会において、「貴種」になりそこねたひとは「賤種」になる・・・?

心理学者・梶田叡一氏、その「社会的”貴種”コースを断念せざるを得ない子どもたち」、つまり「賤種」に身を置くことになった子どもたちの例として、「ツッパリや暴走、非行に走り、裏文化の中で自らの価値と意味を追究していこうとする・・・」といいます。

筆者、心理学者・梶田叡一氏の論文を読みながら、梶田叡一氏が、<学歴差別>社会の底辺、梶田叡一氏が示唆する「賤種」として生きざるを得なくなったひとびと、こどもたちに対して向ける、心理学者としての<まなざし>にドキリとさせられます。

国立・兵庫教育大学の学長プロフィールの中にこのような紹介がありました。

梶田叡一 兵庫教育大学長
文学博士
中央教育審議会委員(副会長・初等中等教育分科会長・教育制度分科会長・教員養成部会長・教育課程部会長など) ・全国学力・学習状況調査分析活用専門家会議座長を歴任。

いわば、小中高の教育にたずさわる教職を育成する教育大学の長である梶田叡一氏の、教育者としての「まなざし」・・・、筆者大いに違和感を感じます。なぜなら、「貴種」という概念自体、日本の歴史上、特別な概念であって、戦前の国民国家思想において、天皇と皇族を限りなく「貴種」として、一般を限りなく<賤種・劣種>としておとしめる教説である優性思想の基本的概念だからです。

「学歴差別」を論じるときに、なぜ、そのような概念をあえて使用されるのか・・・?

少し脱線しましたが、この<貴種>に関する問題は保留して、 心理学者・梶田叡一氏の語ることばに耳を傾けていきましょう。

梶田叡一氏、「有名大学を卒業していることは・・・その人が貴種であることを意味する」といいますが、「鏡映自己像」「貴種」であることは、「周囲の”まなざし”によってプライド等が日常的に支えられ、強化される・・・」といいます。

<学歴>があるということは、その人の周囲が、「その人に大きな価値を認め、重視し、暖かく受容し、支持するといった態度でその人に接する、ということを意味する・・・」といいます。しかし、<学歴>をもっていない人に対しては、そのひとの周囲が、「どこの馬の骨なのか、という”まなざし”で見る・・・、その人に価値を認めないだけでなく、軽視したり無視したりし、さらに冷たく拒絶し、支持しない、という態度をとりがちになることを意味する・・・」といいます。

「周囲の人からの”まなざし”が、自らの存在やあり方に対して受容的的で支持的なものである場合、人は自らにポジティブな”まなざし”を投げかけるようになるのに対し、他の人からの”まなざし”が非受容的拒否的なものであれば、自らの”まなざし”もネガティブなものにならざるをえない、という一般的傾向がある。したがって、プライドや自信、自己受容といった自己評価的意識や感情の基礎は、このような他者の”まなざし”によって、基本的に強化されたり、あるいは脆弱化したりするのである」。

心理学者の梶田叡一氏、この<学歴差別>の社会にあっては、<高学歴>を持つものだけが、「プライドや自信、自己受容を高い水準に維持できている時にのみ精神的な健康が確保される・・・」といいます。

そうでない場合、つまり<低学歴>・<無学歴>の場合、「精神的な健康」は維持されず、あえて、「精神的な健康」を維持しようとすると、「大変な緊張と努力を必要とする」といいます。

現兵庫教育学長である梶田叡一氏、今も同じようなことを考えておられるのでしょうか・・・?

そうでないことを祈りつつ、心理学者・梶田叡一氏が語る、「周囲からの”まなざし”と自己概念との乖離や矛盾・・・」に直面した場合、心理学的にはどのような解決方法があるのか、「まなざし」の社会病理的側面を、梶田叡一の論文を参考にして追跡してみることにしましょう。

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「まなざし」と「鏡映自己像」・・・

2008年10月04日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(5.心理学者・教育学者の「まなざし」理解 2

<2>「まなざし」「鏡映自己像」・・・

筆者、無学歴・無資格、大学等の高等教育の門外漢なので、心理学に関する知識はほとんど皆無です。

筆者の書棚から心理学関係の書籍を探しても、あるのは、わずか1冊のみ・・・。相良守次著『心理学概論』(岩波書店・1968)・・・。

筆者が心理学的な知識を得るために、ひもとく本は、昔も今もこの『心理学概論』のみ・・・。

その第16章は、「問題に当面して」・・・。

その小見出しを拾い上げてみますと、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」等が論じられています。

この小見出し・・・、アトランダムに列挙されているのではなく、問題解決の心理学的道筋を順を追って説明・解明したものです。

筆者、まったくの無学歴・無資格、大学等の高等教育には無縁な存在故、筆者の<独学>の質は、筆者自身で保障しなければなりません。高等教育を受ける機会にめぐまれた人は、大学の教授・助教授・講師の方々から、問題解決について、豊富な知識と技術、そして実践的訓練を受けることになるでしょうが、<独学>の場合、それすら、自分で身につけなければなりません。

それで、無学歴・無資格の筆者、自分の問題解決能力を向上させるため、相良守次著『心理学概論』の第16章・「問題に当面して」を問題解決の心理学として、筆者の人生の様々な場面で応用してきました。

問題解決のための、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」の各段階における自己批判と自己検証を積み重ねてきました。

筆者の<独学>を、心理学的に客観的なものにするために、筆者が採用したのが、相良守次著『心理学概論』だったのです。

最近、問題解決の方法を知らず、「問題事態」からいきなり「非生産的思考」と行動に堕してしまうような事件が相次いでいます。無学歴・無資格の筆者と違って、学歴・資格をもち、高等教育を受けることにめぐまれてきた人にして・・・です。

筆者、相良守次著『心理学概論』を通して、心理学的に自己をコントロールする方法を習熟したが故に、それ以降、心理学的な書籍・・・、特に、みーちゃん、はーちゃんのための通俗的心理学に関する本を読むことはありません(そういえば、歴史に関しても、みーちゃん、はーちゃんのために書かれた歴史の本をひもとくことはありません・・・。)。

それなら、なぜ、今回、相良守次著『心理学概論』に依拠しないで、梶田叡一著《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》に依拠して、論をすすめるのか・・・。

それは、梶田叡一氏の論文が、学歴差別における「まなざし」の心理構造を客観的に、無学歴・無資格の筆者にも理解でき納得できる形で説明しておられるからです。

梶田叡一氏、「まなざし」について多樣な側面を紹介しておられますが、「まなざし」が問題にされるのは、<自己に対する他者のまなざし>です。梶田叡一氏、「他の人が自己に対しどのよな”まなざし”を向けているか、について、人は無関心であることができない。」といいます。

しかし、その「程度」は、「大きな個人差がある」といいます。

「一方の極に、どういう”まなざし”で見られようとも平然としている傍若無人な人がいるのに対し、他方の極に、周囲からの”まなざし”に敏感で、いつでもピリピリしているといった対人恐怖症的な人がいるのは確かな事実である」。

筆者、「傍若無人な人」に属するのか、それとも「対人恐怖症的な人」に属するのか・・・、あえて言わずとも知れたこと・・・。「部落差別問題に熱心にかかわるものは、被差別部落出身者に違いない・・・」という暗黙の了解が一般化している世の中で、そのような偏見が一向に気にならないように、『部落学序説』とその関連ブログ群を執筆し続ける筆者、明らかに、「傍若無人な人」に属します。まかり間違っても、「対人恐怖症的な人」に列することにはなりません。

梶田叡一氏、「しかし、いずれにせよ、他の人の”まなざし”の中で、自分自身がどのように位置づけられ、意味づけられ、値ぶみされているか、をキャッチしないなら、人は社会的な場でいかなる活動をすることもできない。人は、社会的な場においては、他の人からの”まなざし”によって常に自らを吟味し、コントロールしているといってもよいのである」。

しかし、梶田叡一氏、<他者のまなざし>の持っている影響力は、決して一様ではないといいます。

同じ<他者のまなざし>であったとしても、その他者が、「自らにとって特に重要な人、権威を持つ人」である場合、その「まなざし」は、その人の内に「徐々に内面化」され、やがて、その人の「自己概念と内的規範とを形成していく」ことになるというのです。

梶田叡一氏、さらにこのように語ります。「これは、他の人の”まなざし”から読み取った自分自身の像(鏡映自己像)の取り入れであり、また”まなざし”に反映された一般的な期待の体系の取り入れである」。

梶田叡一氏、<鏡映自己像の受容>・<他者のまなざしに反映された一般的な期待の体系の摂取>、「これによって人は、一人っきりでいる場合には、自らに対して一定の概念を持ち、その場での自らのあり方を吟味し、コントロールしていくことになるのである。」といいます。

以上が、心理学者・梶田叡一氏が説く、「まなざし」の一般的な「心理構造」のようですが、この「まなざし」理解・・・、すべての社会事象に適用することができそうです。特に、いろいろな差別問題についても・・・。梶田叡一氏が、このあと、それを適用して解明する学歴差別だけでなく、部落差別・民族差別・性差別・障害者差別など、いろいろな差別に対しても適用することできます。

梶田叡一氏の語る<鏡映自己像の受容>に関する教説・・・。差別問題における差別・被差別の関係性における双方向の「まなざし」を解明するためのツールになります。

この<鏡映自己像の受容>に関する教説との出会いは、筆者にとって、相沢守次氏が記している、問題解決の心理学の一連の過程、「問題事態・問題事態の分析・情報の蒐集・手段と目標・道具手段の発見・道具の制作・仮説と試み・仮説の功罪・仮説の偏り・解決のための戦略・概念の形成・関係把握・生産的思考」の諸段階における「道具の発見」に該当します。

無学歴・無資格、高等教育とは無縁な筆者の<独学>は、常に、グローバルな学問的枠組みの中に、個々の論説を位置づけていくことによって遂行されます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者に対する誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返しておられたのは、筆者の論説が、部落差別に関する「公衆便所の落書き」ではなく、書き下ろしであるにもかかわらず、最初から最後まで、首尾一貫して、体系的に論述されていることに対する拒否<反応>だったのでしょう。

そういう意味では、藤田孝志氏とそのグループの筆者に対する「まなざし」・・・、梶田叡一氏の語る<鏡映自己像の受容>に到ることのない「まなざし」・・・、に他なりません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏は、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群に対して、<反応>しているだけであって、筆者に影響を与え、『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆内容に影響を与えるような「まなざし」ではありえないのです。かなり無駄な時間は費やさせられましたが・・・。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏と違って、デジタル社会の新しい人間ではなく、アナログ社会の古き人間に属しているに過ぎませんから・・・。

次回、心理学者・梶田叡一氏の論文を手がかりに、<学歴差別における貴賤>について検証することにしましょう。

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心理学者・教育学者の「まなざし」理解・・・

2008年10月03日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(5.心理学者・教育学者の「まなざし」理解 1

<1>心理学者・教育学者の「まなざし」理解・・・

筆者、何度も繰り返しますが、無学歴・無資格です。

大学という名の高等教育機関で、大学教授という肩書を持った方から一度も講義を受けた経験がありません。

2001年佐賀市同和教育夏期講座の講演録である、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の『時分の花を咲かそう-差別解消の主体者を育てる部落史学習を求めて』を批判・検証するときにも、教育学・歴史学・心理学のプロである藤田孝志氏の言説を充分理解・消化するための学問的な前提がありません。

藤田孝志氏の口癖に、「・・・はそんな単純なものではありません」ということばがありますが、「人間の心理はそんな単純なものではありません・・・」という、藤田孝志氏のことばを前にしますと、心理学の門外漢である筆者、そこで立ち往生してしまいます。

藤田孝志氏、<人間の心理は複雑である・・・>と言っておられるのですが、<人間の心理は複雑である・・・>ということばは、藤田孝志氏の研究や教育の出発点であるのか終着点であるのか・・・、筆者、いずれとも判断することはできません。

<人間の心理は複雑である・・・>ので、そこから、人間の心理の探究がはじまるのか、それとも、同じ<人間の心理は複雑である・・・>という理由で、人間の心理についてのすべての言及は相対化され、複雑さは複雑さのまま捨ておかれるのか・・・。

筆者、おのれの限界を認識しつつ、心理学者・梶田叡一の論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》(『教育社会学研究』第38集・1983年)に依拠しながら、<人間の心理は複雑である・・・>と信じてやまない藤田孝志氏の<まなざし>理解について少しく言及していきたいと思います。

梶田叡一氏、2008年9月現在、兵庫教育大学の学長をされているようです。

この論文は、その梶田叡一氏の学歴差別に関する論文です。筆者、学歴差別について、昔から関心を持っています。そして、学歴を持つことなく、学歴について考察を続けてきましたが、あるときから、筆者、無学歴・無資格を標榜するようになりました。

しかし、筆者の無学歴・無資格の主張、ほとんどの人には理解されることはなさそうです。現在の日本の社会、学歴差別に対して批判的な意見は多々あるものの、学歴そのものについては肯定的に受けとめられている場合がほとんどです。

低学歴を脱して高学歴に移行することは、多くの人々にとって、人生の課題です。苦学して、学歴を取得することで、低学歴から高学歴に脱皮したとして、喜びの感涙にむせぶ人は決して少なくありません。

学歴だけを求めるなら、旧制大学をはじめとする国立の4年制大学にこだわらず、全国に散在する私立大学で学べば充分ですし、それに、通信教育で大卒の資格をとることも、放送大学で学歴をつむことも可能です。芥川龍之介の詳説『蜘蛛の糸』ではありませんが、学歴を取得して、低学歴から脱出する、その瞬間、低学歴に生きる人々を足蹴にして、ひとり高みに達する快感を味わうことができるのでしょう。

「全入時代」と言われる今日にあっては、その気になれば、誰でも大学を卒業し、高学歴を身につけることができる・・・、そんな時代に、なぜ、学歴を積む努力をしないで、「無学歴・無資格」を標榜してもの申すのか・・・、ほとんどの人は理解することが難しいようです。

筆者が、「無学歴・無資格」を標榜していることで、何を錯覚されたのか、筆者を学歴のコンプレックスの持ち主として、はげしく非難してこられる方がおられます。

特に、戦後の部落解放運動に関与してこられた方々の中に、そういう人々を見かけます。

学歴を身につけることは、戦後の部落解放運動の闘争目標のひとつでした。被差別部落の学歴保持者数と一般地区の学歴保持者数を比較して、その是正を求める運動を展開してきました。戦後の部落解放運動においては、学歴についての歴史的研究・批判的研究は、すっかり影をひそめてしまいました。学歴の<社会生理>・<社会病理>について一考だにすることなく、学歴社会を前提・容認して、その学歴社会での位置の向上を追究していきました。

戦後の部落解放運動にとって、「無学歴・無資格」は、克服されるべきマイナスの価値でしかなかったのです。

筆者、学歴差別は、近代中央集権国家・明治天皇制国家によって、民衆支配のために作られた装置・システムであると思っていますが、戦後の部落解放運動においては、そのような発想が組み込まれることはありませんでした。そのため、戦後の部落解放運動、それなりの成果を残してきたとは思いますが、学歴差別を撃つ視点を内包することはほとんどありえなかったように思われます。

心理学者・梶田叡一氏、その論文《学歴研究のひとつの課題-<まなざしと自己概念>の視点から》において、学歴差別社会における<貴・賤>について論じられています。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、「・・・の貴賤がないのは現代の価値観」といいますが、心理学者・梶田叡一氏、現代の学歴差別社会を理解するに、この貴賤概念をもってします。貴と賤・・・、それは、藤田孝志氏が指摘するような、近世幕藩体制下に固有の価値観に封じ込められるものではなく、現代社会においても支配的な有力な価値観となっていると指摘されています。

心理学者・梶田叡一氏、このように記しています。「明治以降、現代に到るまでの日本の社会において、個人にとっての学歴が、また組織や社会にとっての学歴構成が、どのような意味と機能を担ってきたかについて、これまでさまざまの優れた研究がなされてきた。・・・しかし、学歴の客観的かつ社会的な意義をその根底において支えている心理構造に関しては・・・まだまだ研究が手薄のように見受けられる」。

心理学者・梶田叡一氏、その学歴をめぐる「心理構造」を、「まなざし」の観点から、「若干の検討を試みることにしたい」といいます。

その内容は、以下の通り。

1.”まなざし”と学歴
2.”まなざし”と自己評価的意義
3.周囲の”まなざし”と自己概念との矛盾葛藤
4.学歴追究を心理的な面から考えたい

『部落学序説』の筆者が、「わがこと」として語ることができる「被差別」は、部落差別・民族差別・性差別・障害者差別などではなく、学歴差別においてです。それは、『部落学序説』とその関連ブログ群において何度も言及してきた通りです。

差別問題を論じるときの、筆者の視点・視角・視座に対する、部落解放運動家や、部落史研究の学者・研究者・教育者の<違和感>は、筆者が、差別問題を理解するときの根底に、明治以降の、民衆支配のシステムとしての学歴差別を据えているところに由来すると思われます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、「人間の心理はそんな単純なものではありません・・・」と力説する、差別の心理的メカニズム(心理構造)・・・、同和教育・部落史学習において理解・把握することに困難さを覚える問題も、部落差別ではなく、学歴差別になりますと、心理学者としての梶田叡一氏の論理が冴えわたります。

心理学者・梶田叡一氏の語る「まなざし」、それは、一方向のまなざしではなく、最初から双方向のまなざしです。梶田叡一氏、「まなざし」の属性として、「人々が互いにかわしあう」ことをとりあげます。学歴差別における、差別と被差別の関係、その両者の間で交わされる「まなざし」の心理学的分析、少しく、詳細に検証していくことにしましょう。

筆者、梶田叡一氏がその論文の中で語られる「鏡映自己像」・・・、近代部落差別構築の過程を理解するに、重要なキーワードになると思っています。部落史研究の世界では、この「鏡映自己像」を踏まえて、「国民国家の論理から生みだされる社会的諸規範の意志とか感情とか、感受性を肉体化した「視線」」を明らかにした、ひろたまさき氏の先行研究(ひろたまさき著『差別の視線・近代日本の意識構造』吉川弘文堂)が存在しますが、『部落学序説』の解釈原理である「非常民論」・「新けがれ論」の文脈の中で、ひろたまさき氏の研究成果を後追いすることも、ひろたまさき説の正しいことを追認することも意味のないことではなないと考えています。

(執筆中・・・)

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藤田孝志氏の<まなざし>理解・・・

2008年10月02日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(4.偏狭な「差別意識」と「まなざし」理解 2

<2>藤田孝志氏の<まなざし>理解・・・

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、部落「差別というのは関係性の中で生まれてくる・・・」といいます。その「関係性」とは、「部落外」「部落」「関係性」のことです。ことばを変えますと、<差別者>と<被差別者>の「関係性」のことです。

藤田孝志氏が指摘する「関係性」を考慮するとき、藤田孝志氏によって、二極化された「部落外」「部落」、<差別者>と<被差別者>の間には、一般的に2通りの「まなざし」が存在すると考えられます。

ひとつは、<差別者>が<被差別者>に向ける「まなざし」、もうひとつは、<被差別者>が<差別者>に向ける「まなざし」・・・。

部落差別における<まなざし>を研究するとき、できる限り客観的・体系的に研究しようとしますと、部落差別における「まなざし」は、この2通りの「まなざし」を的確に検証しなければなりません。

<差別者>が<被差別者>をどのような視点・視角・視座で見ているか・・・、それとともに、<被差別者>が<差別者>をどのような視点・視角・視座で見ているか・・・、少なくとも、<差別者>と<被差別者>との「関係性」を論じるときには、一方向の「まなざし」だけでなく、双方向の「まなざし」に着目しなければなりません。

藤田孝志氏は、このように語っています。

「今までのわれわれの同和教育・部落問題学習というのは、どちらの方向を見て授業をしてきたのでしょうか。われわれは部落を見つめ授業をしてきたのです。しかし、ここで問うべきは、部落がどうであるかではないのです。部落を見ている私たちがどうなのかを問われなければならないのです」。

藤田孝志氏は、「同和教育・部落問題学習」に際して、従来は、<差別者>が<被差別者>に向ける「まなざし」に力点を置いて進めてきたけれど、今は、<差別者>は、<被差別者>が<差別者>に向ける「まなざし」を、自分の「まなざし」として共有化しなければならないと力説していると考えられます。

藤田孝志氏、<差別者>が<被差別者>に向ける「まなざし」を「差別の眼差し」と呼んでいます。あるいは、歴史上の事例から「蔑みの眼差し」と呼んでいます。

藤田孝志氏、学校同和教育における「部落史学習」の目的を、「差別解消の主体者を育てる」ことにおいていますが、「差別解消の主体者」になるためには、<差別者>が<被差別者>に向ける「まなざし」ではなく、<被差別者>が<差別者>に向ける「まなざし」・「差別の視線に対して真正面から受けとめて、そしてそしてその差別と闘って」いかなければならないといいます。

藤田孝志氏にとって、「差別解消の主体者」になることは、<差別者>が、<差別者>が<被差別者>に向けてきた「差別の眼差し」・「蔑みの眼差し」を放棄して、<被差別者>が<差別者>に向けた「まなざし」、「差別と闘って・・・差別をなくしていく」ときの「まなざし」、<差別者>・<被差別者>両方を生かすことができるような「まなざし」を自分のものにしていくことを訴えておられるようです。

藤田孝志氏固有の表現を使用すれば、「被差別の立場」(<差別者>であるにもかかわらず<被差別者>の立場に身を置き、<被差別者>と共闘して「部落解放」・「人間解放」に資する)から必然的に出てくる「まなざし」ということでしょうか・・・?

藤田孝志氏・・・、『部落学序説』の筆者が、部落解放運動家がいう、「被差別者でなければ差別者である」という2分法を受け入れ、その論説の最初から最後まで「差別者」の立場から論究していくのと違って、藤田孝志氏、「差別はしていない」、つまり、藤田孝志氏は、「被差別者でなければ差別者である」という2分法にはなじまない、<差別者>であるけれど「差別はしていない」ので<差別者>と同じではない、むしろ、<被差別者>の側に身を置いて、「部落解放」・「人間解放」に従事していると宣言されているのです。

筆者、山口の地に棲息するようになって、四半世紀が過ぎますが、その間に遭遇した、山口県の学校同和教育・社会同和教育に従事している小中高の教師の方々、大学の教授・助教授の方々の中に、岡山の中学校教師・藤田孝志氏ほど、「部落解放」・「人間解放」について、熱と力を込めて力説する教師の存在を知りません。

筆者が出会った山口の教師のほとんどは、よくもわるくも<教師>として、この問題に関わっている方々ばかりでした。被差別部落出身の教師ですら、あくまで<教師>として、<教師>の職務をまっとうする方ばかりで、岡山の中学校教師・藤田孝志氏ほど、「部落解放」・「人間解放」「わがこと」として受けとめ、「部落解放」・「人間解放」の伝道師として全国に布教活動をされる方は、ほとんどいませんでした。

ほとんど・・・、というのは、筆者が知らないだけかもしれませんので、留保の意を込めて・・・。

筆者が出会った山口の、同和教育・部落史学習に関与する教師のほとんどの方、自分に与えられた職務、教室での授業を離れて、講師として全国行脚されることを選択されることはありませんでした。

しかし、筆者、筆者が出会った山口の、同和教育・部落史学習に関与する教師のこのありようを批判的に見ることはありませんでした。筆者同様、たとえ、同和教育・部落史学習の専門家である小中高の学校教師、大学の教授・助教授の方々であったとしても、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のように、自分は「差別していない」、差別意識から自由にされているとして、「被差別の立場」に立っていると自負することなど、毛頭考えることができなかったのではないかと思われます。

山口の、同和教育・部落史学習の多くは、岡山の中学校教師・藤田孝志氏が指摘される、「客観的」な立場に立って授業実践していたと思われます。もちろん、山口の同和教育・部落史学習における実践活動において、過去においても現在においても、多々問題が発生していますが、それは、「客観的」な立場そのものが間違っていたからではなく、「客観的」な立場に立つことに徹することができなかったが故の問題発生であると思っています。

しかし、岡山の中学校教師・藤田孝志氏、中学校の同和教育の授業実践における、「客観的」な立場をこのように語っています。<被差別>の立場に立つ生徒も<差別>の立場に立つ生徒も「両方を平等」に見ることは、同和教育を担う教師の「悪しき弊害」であると。

岡山の中学校教師の藤田孝志氏、その同和教育・部落史学習の実践においては、<被差別>の立場に立つ生徒の側に意図的に身を置き、藤田孝志氏、それを「被差別の立場」と呼びますが、<主観的>な「被差別の立場」から授業を実践されてこられたようです。

「学校教師は、その授業実践において、いかなる生徒に対しても平等に、客観的な価値判断のもとに指導しなければならない・・・」と考える筆者にとっては、藤田孝志氏の授業実践、それが、たとえ、藤田孝志氏の高邁な「部落解放」・「人間解放」にかかわるものであったとしても、<被差別>の立場にある生徒に対する<偏愛>でしかないと思われます。

筆者の目からしますと、被差別部落の生徒の側に立つと宣言する中学校教師は、本来の教師のありようから大きく逸脱した存在であると思われます。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏に、そのような逸脱を強いるもの・・・、それは、藤田孝志氏の中にある、「部落になりたいのに、なれない。でも、なんとかして部落になりたい・・・」という思いにまで発展する、中学校教師・藤田孝志氏の「部落解放」・「人間解放」に対する熱い思いが、あえて、同和教育・部落史学習における被差別部落の生徒を<偏愛>する教育へと駆り立てたのでしょうか・・・?

藤田孝志氏、講演録の最後で、藤田孝志氏が、その父親に投げかけていた「まなざし」について触れておられます。小学生の頃、藤田孝志氏がその父親に投げかける「まなざし」は、このようなものでした。

「生ゴミの袋を手に持ち、破れた袋から流れ出た汚い液体を体に浴び、黙々とゴミを片付けている父・・・その父を汚いものでも見るように遠ざけ・・・」、その場から逃亡をはかるような「まなざし」でした。その、藤田孝志氏の父親に対する、そのような「まなざし」・・・、「教師になった後も・・・父の仕事を軽蔑し、人にゴミ取りの子と思われるのが嫌で、ひた隠しに生きてきました。父を見下し蔑んでいた・・・」、藤田孝志氏がいう「蔑みの眼差し」でした。

この話し・・・、藤田孝志氏は、作り話しではなく、「私自身のこと」(本当の話し)であるといいます。

藤田孝志氏の中にあった、「差別意識やこだわり」・・・、小中高の学校教育においても、大学でに高等教育においても、払拭したり乗り越えたりすることができなかった「差別意識やこだわり」から、藤田孝志氏を解放してくれたもの、藤田孝志氏から、人を「蔑む眼差し」を取り除いてくれたものは、「部落解放」・「人間解放」であった、「同和教育との出会い」であった・・・、といわれます。

藤田孝志氏、その講演の末尾で、<同和教育にかかわってきたこと、そして今かかわっていること、そしてこれからもかかわっていくことを私は誇りに思います。>と語ります。

筆者、岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、熱心な同和教育・部落史学習の実践者であることを否定するものではありません。藤田孝志氏、その人生における「差別意識やこだわり」をとりのぞいてくれた「部落解放」・「人間解放」のいとなみへの報恩から、被差別部落出身の生徒を偏愛し、一般的な教師道から逸脱しても、その愛を実践しようとされてきたし、されているし、これからもされるであろうことを否定するものでも、批判・中傷するものでもありません。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏の同和教育・部落史学習、それは希有な実践事例だったのでしょう。

しかし、『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者である私は、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のように、自らの中に、「被差別の立場」という、自己欺瞞的な精神的・論理的回路を作りだすことができません。往年の部落解放運動が、「被差別者でなければ差別者である」と宣言し、闘争を挑んでいったときの「差別者」に属する筆者は、昔も今も、そしてこれからも「差別者」として自らを認識し続け、「差別者」の側から、「被差別部落」の人々を差別し続けてきた原因とその歴史を解明しようとしています。

筆者、心理学者と歴史学者の論文を参考にして、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の、同和教育・部落史学習の中で絶対化されはじめていた「被差別の立場」からくる「まなざし」を相対化するこころみを実践してみたいと思います。

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まなざしの字義的解釈・・・

2008年09月30日 | 付論

部落学序説付論 某中学校教師差別事件に関する一考察
11.ある中学校教師の同和教育の限界・・・(4.偏狭な「差別意識」と「まなざし」理解 1

<1><まなざし>の字義的解釈・・・

「まなざし」とは何か・・・?

2001年佐賀市同和教育夏期講座における、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の講演録によりますと、藤田孝志氏にとって、「眼差し」「視線」と同格です。「差別の眼差し」「差別の視線」は相互に入れ換え可能なことばとして使用されています。

『広辞苑』によりますと、「視線」「目で見る方向」をさすことばです。「まなざし」は、「【目差・眼指】目の表情・目つき。まなこざし。」のことです。

『広辞苑』の説明では、わかったようでわからないので、「まなざし」ということばが、何を意味しているのか、少しく検証してみることにしましょう。

前田勇編『江戸語の辞典』をひもときますと、「まなざし」という見出し語はありません。その代わりに、次の見出し語があります。

まなこ【眼】目。
まなこざし【眼差】物を見る目つき。まなざし。

江戸時代においては、「眼差し」は、「まなざし」ではなく「まなこざし」と読まれていたようです。

現代において一般的に用いられている「まなざし」ということばは、「まなこざし」ということばから、その一部「こ」が欠落したことばなのでしょうか・・・?

「まなざし」ということば、本来は、「まなこ」ということばと「さす」ということばが結合されて作られたことばのようです。

森田良行著『基礎日本語』(角川小辞典)によりますと、「さす」ということば、漢字で「差・射・指・刺・挿・注」という字があてられるそうですが、和語の「さす」ということばが多義的に使用されていたことを物語っています。

森田良行氏、漢字の「差・射・指・刺・挿・注」の意に拘束されないで、和語の「さす」ということばのもっている意味をこのように説明しています。

「ある事物を他の領域へ入っていくように向ける。向けて進ませる。その”事物”と、向かっていく”領域”とによって「さす」の内容が細かく分かれる」。

森田良行氏、「さす」の意味を大きく4つに分類しています。

しかし、「まなこざし」ということばの意味を考える上で、もっとも適切な意味は、3番目の意味です。

「・・・ハ・・・デ・・・ヲさす」(他動詞、意識的)

「さされる対象を「を」格で示し、さす手段・道具を「で」格で示す。「AハCデBヲさす」形式。さす主体はあくまでAで、Cは、特に言う必要がなければ文面に表さない。・・・ある目的達成のため、・・・もの(C)で相手(B)の中に強く食い込ませる行為であるから、さす行為に目的があるのではなく、さした結果に目的が置かれる。さすことによってBの状態に変化が生じるのである」。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏が、その講演で使用している「眼差し」ということばは、この用法で使用されています。

藤田孝志氏によりますと、「眼差し」とは、「部落外」(A)に属するひとびとが、その「眼」(C)で、「部落」(B)に属するひとびとを、「蔑む」ために、「さす」行為を意味します。藤田孝志氏の表現では、「蔑みの眼差し」ということになります。

藤田孝志氏によりますと、その「蔑みの眼差し」の背景に、「500年間」、昔も今も存在し続け、「500年間、何ひとつとして変わっていない・・・差別意識」が存在しているのです。その「差別意識」「500年経ってもまだ変」わることなく、日本の社会・民衆の精神や文化の「底流」に流れ、それぞれの時代にそれぞれの時代の「差別の表出形態」をとって噴出してきた・・・、というのです。

岡山の中学校教師・藤田孝志氏、「500年間」と言い切ったわりには、その講演の中で、なぜ、500年前に、日本の社会・民衆の中に「差別意識」が芽生えたのか・・・、説明は一切されていません。藤田孝志氏をはじめ、日本の小・中・高の学校教師の方々にとっては、この「500年間・・・」という表現は、あえて説明する必要がないほど、自明の理なのでしょうか・・・?

無学歴・無資格、教育学・歴史学、同和教育・部落史学習の門外漢である筆者にとっては、藤田孝志氏のこの表現、とても違和感を抱いてしまいます。

500年前は、日本の社会や民衆の中には、とりあげていうほど、「差別意識」は存在していなかったのでしょうか・・・? ある日、ある時、500年前に、突如として発生した「差別意識」、それは、日本人の精神文化を蝕み、今日に到るまで、「蔑みの眼差し」を生み続けている・・・。

藤田孝志氏によりますと、「部落外」の一般のひとびとは、「部落」の被差別部落の人々に対して、「蔑みの眼差し」を向け続け、被差別部落の人々のこころの中に、深く・強く被差別意識を「食い込ませる行為」をしていることになります。差別者は、眼でもって、被差別者のひとみの奥にあるそのこころを傷つけている・・・。

藤田孝志氏が指摘する、「部落外」「部落」に対して「眼」でもって「さす」行為・・・、無学歴・無資格、民衆のひとり、近世幕藩体制下の百姓の末裔でしかない筆者の目からみますと、その「まなざし」は、あまりにも、「部落外」・「加差別者」に重心を移し過ぎた<偏狭>な解釈ではないかと思われます。

なぜなら、岡山の中学校教師・藤田孝志氏の「眼差し」理解には、藤田孝志氏が力説する、差別と被差別の間の関係性が、中途半端にしか反映されていないからです。

次回、岡山の中学校教師・藤田孝志氏のその個人史における「差別意識」「まなざし」について検証してみることにしましょう。

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