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貧困である権利の訴え

2007-10-14 09:16:40 | Weblog
どうして反貧困運動は、貧困を罪悪視できるのだろう。
富が不平等な配分をされているならば、誰かが文字通り貧乏くじをひくということに考えが及ばないのだろうか?

わたしは貧困でありたい。貧困への自由を主張する。
ただし、社会的排除は望んでいない。
社会的に排除されない貧困を求める。
そのためには、年収300万円程度のベイシックインカムによる所得保証がほしい。
できればある程度は自給自足しつつ、外部のコミュニティとも交流・交換できる生活を求めている。

低学歴・低学力で30代の女性のわたしは、これまでの労働でもう体力も気力も使い果たしてしまった。
それでも貧困という困難をかかえてでも、生きてゆきたい。

この貧困にでもいいから生きたい! という願いを「思想犯罪」のように考えるのが、反貧困運動をやっているグループだ。
自由や平等や共生のための貧困をつぶそうとしている。

反貧困運動の連中にどれほどお説教をくらったって、わたしは六本木ヒルズやミッドタウンに住みたいとは思えない。
アジアのスウェット・ショップで子どもや大人を使い捨てにして作った商品を買いあさって「豊かな社会」「成熟社会」などと言う中流インテリの言葉遊びにも加わりたくない。

世界中の人間がアメリカの硫酸階級の暮らしをしては、環境は立ち行かないとよく言われる。
ハイソ・セレブの暮らしを地球中の人たちがやってしまえば、文化的多様性はどうなるか。

実証されてもいないトリクル・ダウン効果を呪文のように唱えて、世界経済が地球上のすべでの人間に中産階級の暮らしを保証できるとする妄想を、これ以上まき散らすべきではない。

私は求め訴える。貧乏なまま社会の中に生きさせてください、と。

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14 コメント

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Unknown (通行人)
2007-10-16 01:15:28
年収300万程度あったら、普通貧困層とは呼ばないと思いますが。「年収300万円程度のベイシックインカムによる所得保証」って、まさに貧困の撲滅以外の何物でもないと思うのは私だけですか?

あと、トリクルダウン効果は新自由主義の論拠の一つとして唱えられているもので、一部の新自由主義の学者以外にはまず信じられていません。ましてやインテリ左翼においてはほぼトンデモ扱いというのが妥当でしょう。新自由主義批判ならともかく、インテリ左翼批判でこの言葉を用いるのはいかがなものかと思います。ま、余計なお世話ですけど。
目に優しい・・が (読者)
2007-10-16 21:09:56

本文の記事のが、読みやすくなったのは助かります。字が大きくなったから。

でも、コメントと混ざってしまっている感じでわかりずらくなりました。

慣れればいいんでしょうが。
うーん (jiji)
2007-10-18 10:30:29
年収300万円が「貧困」ってものすごいことだと思います。
世界的に見れば年収300万円は所得上位10%に入る「大金持ち」です。
http://www.globalrichlist.com/

このクラスが「貧困」であれば、そこに入らない90%以上の人々はどうなってしまうのでしょう。「そもそも社会が違うから」みたいな例外扱いにされてしまうのでしょうか。たまたま日本社会に生まれてないってだけで同じ人間なのに。

この記事を読んで、日本って実は「貧困撲滅」がかなり高いレベルで達成されている社会なのかなあと思いました。
Unknown (ワタリ)
2007-10-19 23:52:27
>通行人さん
年収300万円でも500万円でも、ヒルズ族からすれば十分に貧困です。
貧困とは、周囲がそれをどう見るかによって左右される概念です。意味をひとつにとることはできません。

なお、各方面から批判が絶えず、実証されてもいないアダム・スミス流トリクル・ダウン効果については、たとえばリベラル派精神科医の高岡健とその追従者など消費社会礼賛派が唱えています。
たまたま自分は不登校・フリースクール・ホームスクール・コミュニティに出入りがありますが、彼の金持ち中心の思想注入と、このコミュニティの奴隷根性ともいうべき彼の言葉への無批判と従順さにはあきれてものがいえなくなります。

>読者さん
テンプレに関する苦情はgoo事務局のほうへどうぞ。

>jijiさん
貧困を統計だけではとらえられません。周囲の目や個々の社会の「貧困」を表す語彙、その意味や定義によってたくさんの貧困があります。
それは必ずしも社会的排除と合致しないという指摘もあります。
経済的に豊かになることを唯一至上の価値とする社会のなかでは、ますます多くの人たちが貧困と名指され、監視や取り締まりの対象にされていくでしょう。
ジェレミー・シーブルックという論者は、イギリスのNPOが一日1ドル以下で生活している人についての統計を発表したことを皮肉って、これから格差が開けば、一日10ドル以下で生活している人の統計を悲惨だという感じで発表することになるだろうと言っています。
これにわたしも同意します。

なお、自分が年収300万円といったのは、日本の京阪神圏という物価が高く、敷金礼金のほかに更新料も必要とされるところに住んでいるからです。また、生活以外に市民活動もやりたいからです。
なるべく100円ショップを使いたくないからです。
そのほかの人たちにとっては、何円が所得保証のラインかは違ってくるでしょう。
わたしにとっては、生活だけではなく、本を読めないこと、社会臨床学会や民族自然誌研究会の会合に行けないことも貧困です。
十代のころに家の圧力によって封じられた海外のフリースクールに行ったり旅行をしたりすることができないことも貧困です。
義務教育に行かなければならないことも貧困です。大学に行かなければならないことも貧困です。

学校に行かないで教育を受けないで生きられる。それが自分にとっての脱貧困です。

なお、人に「勉強しろ」とか「知的好奇心を持て」といって知識つめこみ教育をしたがる労働組合ほど精神的・文化的・主体的に貧困なものはありません。
人に「インターネットの人間関係は本当の人間関係ではない」と説教する熊沢誠のような、イントラネット依存者は、再帰性的に貧困です。
う・・・うーん (jiji)
2007-10-20 08:43:41
ワタリ様
丁寧なご回答をいただきありがとうございます
ただ、う・・・うーん

「ヒルズ族から見た貧困」を有意として、
「統計から見た貧困」を無意味とする
視点分けがいまいちつかめません

イギリスのNPOが一日1ドル以下で生活する人の統計を発表→皮肉の対象
という視点も良くつかめません
世界の5分の1の人たちは一日1ドル以下で生活しているわけで、なぜそれを論じることがジェレミーさんにバカにされてしまうのか良く分かりません

ワタリさんの活動の中で、偽装請負問題など「労働に対する正当な対価が与えられるべき」という趣旨の活動については全面的に賛同します。

ただ今回の記事&コメントについては、例えば10万円のヴィトンバッグを持っている方が、パーティー会場で100万円のケリーバッグを持っている方と並んでしまって、あまりに精神的苦痛が大きいのでせめて30万円のバッグを保証せよと訴えているかのような光景に見えてしまいます。
何が貧困か、貧困は悪か (ワタリ)
2007-10-21 15:29:16
jijiさん、コメントをありがとう。

統計の数値だけでは貧しさも豊かさもはかれません。
例えば、戦争をすればGNPは上がり経済成長できるでしょう。だけど、それで豊かさだとか、脱貧困だと言えるでしょうか?

NHK制作の「ワーキングプア」という番組が、書物になっています。そこで、山村に住んで、貧しくても子だくさんの家族のことが出てきます。近くの山から山菜をとってきて天ぷらにするなどして、年収の割には充実した暮らしを送っています。家族もとても仲がいいとか。
うちの近所でも、今の季節地元のお年寄りが近くの里山に入ってきのこや木の実などをとっています。
多少なりとも自給自足もできる環境だったり、物価も安かったり、家族親族近所の相互扶助ネットワークもあるところであれば、まったく現金が不要とは言わないまでも、生存権は保証されやすいのではないでしょうか?

貧困を絶対悪とみなしたうえでの反貧困運動が危ないのは、国際的にも国際的にもこうした諸地域の事情を無視してしまうからです。
同じ一ドルといっても、国や地域によってもその価値は違うし、そのコミュニティのなかでの評価や排除されるされないも様々です。
なのに、画一的に一日何ドル以下で生活していれば貧困だ、かわいそうだ、悪だといって騒ぐ。それはずいぶん奇妙なことでもあるんじゃないかとシーブルックは言っているんだと思います。

貧困にもいろんな種類があり、いろんな程度がある。
物質的に豊かであっても精神的に貧困であれば生きるのは難しい。
まあ逆は逆で問題だし、ふたつとも満ちているに超したことはないんですけど。

そういう意味で、物質的には貧しくても精神的に豊かな状態もつぶしかねなかったり、逆に物質的には豊かであっても精神的には貧しいといった問題を、反貧困運動は分かっているのかどうか? という疑問は消えません。

たとえばお釈迦様は王族の暮らしを捨てて自ら乞食のような生活に入った。それを否定できるのかどうか。
民が飢えていることを知り、自ら食を断った天皇のような美徳を侮辱してよいものか。

もちろん、強いられた貧しさは解消しなければなりません。
ただし、望んだ貧しさは尊重されてしかるべきです。
また貧困は道徳的な罪(自己責任)扱いさせてはなりません。

どうも国内外の反貧困運動には、貧困を「あってはならない」ものとする視点がある。それは、結局は貧困者排除とか、貧しい者に何の価値も認めない地獄を生まないか。主観的な善意が客観的な悪を招くおそれはないのか。

世界各地のさまざまな貧しさに関する語彙や意味やイメージを画一的な乏しいものにして、文化的多様性を破壊していないか。結局それは、貧しい者がより生きづらい世界を作ってしまわないか。

そうした観点からわたしは、反貧困運動を批判することにしたのです。

へたすると、終わりのない成長とか新古典派経済のトリクルダウン・エフェクトを要請しまた信じる反貧困運動は、より多くの戦争や巨大開発プロジェクトを招聘し、結果として格差は縮まらずむしろ拡大する…といった袋小路に陥るのではないでしょうか?
そうすると、ますます一般庶民の生活は、客観的にも主観的にも貧しくなるはずです。
だからこその反対なのです。
ありがちな対外比較論 (元倉庫労働者)
2007-10-29 01:34:23
私は難しい概念を駆使する議論への深入りはできませんが、
jiji様の今回の発言には本質的なところで違和感を持っています。

海外では年収300万「円」は富裕な部類だという話ですが、
日本の都市生活では一人暮らしがやっと成立しうる
ギリギリのラインの額であることは常識に属すると思います。

為替のマジックが特定の目的に利用される場面はメディアの中だけでなく、
身近な労働や教育の現場にも頻繁に現れます。
「中国人は時給700円でも喜んで働くのに日本人は‥」的な、
それぞれの属する社会や置かれた立場を考慮しない議論が
誰を利するもので、誰を圧迫するものかを理解するべきと考えます。
元倉庫労働者様に同意です (ゆき)
2007-10-30 16:48:38
ワタリさん、はじめまして。いつも共感しながら読ませていただいてます。

私も議論できるまでには至らないですが、本当に
元倉庫労働者さまのおっしゃる通りだと思います。

窮状を訴えても、戦争の無い(イラク戦争に加担しているとは思いますが、それの話ではないのでこう書いておきます)日本に生まれただけでもラッキーだよ、というような戦地の方や日本で困っている方両方に
対して人権無視ととられる事を言われます。

そんな事を言ってたら、なんにも変わらないです。

24時間、企業の言いなりで働くロボット人間が大量にうまれる社会を望んでいる人が大量にいるようですね。
豊かなロボットか、貧しい人間か (ワタリ)
2007-11-01 17:51:09
元倉庫労働者さん、ゆきさん、いらっしゃいませ。

「貧困」をめぐる議論については、ここに記しているのは備忘録程度のもので、まだまだ自分の中で未整理です。
そのうちもう少しまとまったものを書いてみたいと思います。
だけど、それでは「反貧困運動」というグローバルな流れに抵抗するには遅すぎます。
未整理のラフスケッチ程度てもいいから、異論を記しておこうとしているのです。

まとめレスで失礼します。

>元倉庫労働者さん
おっしゃること、もっともです。国や地域による生活の違いを無視して、一律にマクロデータだけで「年収○円(ドル)以内なら貧困」と言い切ると、理解が実体から遠ざかっていくでしょう。

ジャーナリストの船尾修さんは、彼の取材したコンゴを貧しいととらえていいのかと問題提起しておられます。
「コンゴは国連によって、「もっとも開発が遅れている国」とされています。2003年度のコンゴの国民総所得は100ドル。IMF
と世界銀行により重債務貧困国に認定されている。
だけど現地を歩くと、人々は笑顔でのんびりしており、物乞いもほとんどいない。日本の方がストレスで顔を歪め、ホームレスを生み出し、犯罪者を輩出しているように見える。
コンゴでは、都市部以外の住民の多くは自給自足的な生活を営んでいる。家の裏で農作物を作り、残りは市場で売る。現金は近所をぐるぐるまわっている。顔見知りに囲まれて暮らしているので、あまりお金がなくても暮らして行ける社会を築いている。
さらに金持ちは自国通貨をドルに替えている。
こうしたお金は統計には表れにくい。
工業国と自給自足の国とを単純にマクロだけで比較しても意味がない。(船尾修「循環と共存の森から 狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵」新評論2006.10 275Pのコラムを要約)

世界的にも、日本の中でもいろんな経済のあり方がある。それを一律の基準で計って、不必要に他人をあわれんだり、生態学的文化的多様性を破壊し、独自の経済の中での人生をグローバルな画一性のなかに閉じ込めたりする傾向を、専門家主導による反貧困宇堂は含んでいます。
なおそれは、グローバルな知に対するローカルな知をも滅ぼす力をもっています。
専門家も現地も絶対ではありません。両方のよいところを学び合って交流発展してゆければいいのです。
もちろん多様性尊重と言っても、スウェットショップについては例外です。

>ゆきさん
こちらこそ、はじめまして。ご意見ありがとう。

あなたはすごく、いいことをおっしゃってくれたと思います。

>窮状を訴えても、戦争の無い(イラク戦争に加担しているとは思>いますが、それの話ではないのでこう書いておきます)日本に生>まれただけでもラッキーだよ、というような戦地の方や日本で
>困っている方両方に
>対して人権無視ととられる事を言われます。

>そんな事を言ってたら、なんにも変わらないです。

>24時間、企業の言いなりで働くロボット人間が大量にうまれる
>社会を望んでいる人が大量にいるようですね。

そうです。よく理解してくださいました。それこそわたしも反貧困運動批判を通じて言いたかったことです。
結局、うえしんさんのフリーター論の記事とも関わってくるんですが、いわゆる「社畜」以外の生き方をイメージできない精神的な貧困が反貧困運動にはあると思うのです。
自分がかりそめに年収300万と言ったのは、その数値を絶対化しているのではありません。相性の悪い家族から距離をおけて、衣食住がまかなえて、+読書とか研究会や市民運動の会費捻出・定例会出席などもできる暮らしがしたいという訴えなんです。
フリーターの賃金ではそれは不可能です。だから福祉をということです。
最近やっとマスコミにとりあげられるようになった外国人講師問題で有名になったNOVAの社長は賃料280万円、グッドウィルの折口は賃料200万円のところで暮らしています。そういう連中から税金を国家はとって、不遇な人々に再分配すべきだと思うのです。
そうしてこそ消費も増え、その結果、雇用も増えるというものです。地域的にお金がぐるぐるまわっていれば、国際的な不況によるダメージも部分的なものですませられます。

「海外には日本よりももっと大変な人たちもいて…」という話は、その人の立場や意図・文脈によっても意味が違ってきます。その言葉はなぐさめかもしれないし、政治的無気力化をねらっているのかもしれない。
だからといって誰も北朝鮮の体制がよいとは言わないでしょう。
アフリカのどこかで飢えている人もいるからとか、アメリカの黒人やプアホワイトの住むゲットーよりも、ネットカフェでカップラーメンをすする日雇いフリーターのほうが豊かだと誰が言えるでしょう。
まさにそういうことを真顔で「善意」で言い出しかねない。そういう論理的危うさを反貧困運動はかかえているのでは? という疑問はちゃんともっていたいものです。
でなければ、反貧困の名のもと、みんなロボットにされてしまうでしょう。



ありがとうございます (jiji)
2007-11-04 08:56:09
ワタリ様
元倉庫労働者様

丁寧なご回答とご指摘をいただきありがとうございます。

「世界にはもっと大変な人がいるから我慢しろ」ですか。うーん、そう言いたかったわけではないのですが、確かにそう読めてしまいますね。これは非常に不快なコメントですよね。申し訳ありませんでした。この記事での私のコメントは全面的に撤回させて下さい。重ねて申し訳ありません。

私が本記事でひっかかったのは、結局下記の点であったと思います。

①年収300万円を保証せよ

②貧困でありたいという主張

矛盾しているように見える。

①②はそれぞれ独立した主張として見れば、特に疑問は発生しません。

ただ、これが一つの記事の中で同時に記載されると
「ん?年収300万円って、貧困か?」
という疑問が発生してしまいます。
この疑問が、「誤解」を生む根源の一つになろうかと思います。