アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

田園交響楽

2017-05-17 23:01:57 | 
『田園交響楽』 ジッド   ☆☆☆☆

 ジッドの清澄なる世界に浸りたくなって、久しぶりに再読。確か前に読んだのは中学か高校の頃である。薄っぺらな新潮文庫の本を買ったのだが、とても薄くてあっという間に読み終えてしまった。ほとんど長めの短篇といってもいいぐらいのボリュームだが、物語は数年にわたって人間関係の変化を描いていくもので、やはり物語としての厚みがあり、次第に盛り上がっていくドラマの緩急を味わわせてくれる。ジッドは本書や『狭き門』をレシ(物語)と呼んでロマン(長篇小説)である『贋金作り』と区別したそうだが、確かに、レシという言葉の響きが似つかわしい小説だ。

 さて、題材となっているのは『狭き門』と同じくキリスト教である。物語は明快で、直截で、きわめて象徴的である。寓話的といってもいい。田舎に住む牧師が、貧しい家で獣のように育てられた盲目の少女ジェルトリュードを引き取り、人間らしい教育を施す。少女は言葉を覚え、礼儀作法を身に付け、知識を習得し、やがて美しい娘へと成長する。ジェルトリュードは牧師を慕い、牧師の息子ジャックが彼女に求愛してもそれを退ける。牧師様、私が愛しているのはジャックではなく、あなたなのですから。牧師はジェルトリュードに愛される幸福を味わうとともに、自分の中で大きくなっていく彼女への愛に苦悩する。やがてジェルトリュードは手術を受けて視力を取り戻すが、初めて牧師とジャックを見たジェルトリュードは、自分が愛していたのは息子のジャックだったことをさとるのだった…。

 終盤の崩壊劇は、とても性急にやってくる。というか、全体が短いせいもあって物語の展開は非常に急テンポである。ジェルトリュードの知的生まれ変わりはあっという間に達成されるし、眼の手術も突然話が降ってきて、いつの間にか終わっている。この、まるで坂道を転がり落ちるかのような性急な物語の進行と牧師の手記という形式により、この寓話の残酷さはひときわ際立つ結果になっている。もしこれがスティーヴン・キングだったら、ねっとりじっとりした筆致で微に入り細に入り描き込み、『ミザリー』ぐらいの長篇には仕上げていたかも知れない。

 本書のテーマは明白で、盲人が盲人を導いたらどうなるか、これである。ジェルトリュードは盲人だったが、それを導いていたつもりの牧師も実は盲人だった。自分の心の中で起きていることが見えていなかったために、悲劇を招いてしまう。それはもちろんジェルトリュードを女として愛してしまったこともあるが、語り手の牧師の中にはそもそものはじめから偽善性がある。はっきり言わないまでも最初から妻を疎んじていること、子供に不満があることは明らかだ。しかしそれを周囲にも自分に対しても糊塗して暮らしている。このように彼もまた盲人だったのだが、自分ではそれに気づいていなかった。

 この偽善性も物語の重要な要素である。語り手の牧師はもちろんだが、ジェルトリュードにも、牧師の息子ジャックにもどこか偽善性がある。偽善性という言葉が不正確なら、人の心において何が真実かの不確実性、と言い変えてもいい。人がなぜある行為をするのか、ある感情を抱くのか、おそらく自分でもはっきりと理解できていないのだ。人の心の奥底には謎がある。それは得体の知れない、冷たい謎である。そういう意味でこの敬虔な手記を装った小説はきわめてアイロニカルであり、ブラックでさえあると思う。何か冷笑的な精神を感じる。

 一方で、ジェルトリュードの立場からこの物語を眺めると、無知は幸福であり、真実を知ることで不幸が訪れるという逆説的なテーマが浮かび上がってくる。これをキリスト教的な文脈で言葉にすると、戒律を知らなければ罪はなく、戒律が現れた時に罪もまた現れる、ということになる。ちょっとボルヘス的というか、カフカ的なテーマだ。もし盲目のままだったら、ジェルトリュードはおそらく幸福な暮らしを続けることができただろう。知恵の実をかじって楽園から追放されたアダムとイブの物語を想起させる。
 
 とても短くあっという間に読み終えてしまう小説だけれども、そんなこんなでさまざまな寓意やメタファー、暗示に満ち、一筋縄ではいかない奥の深さがある。きわめて清澄なロマンティシズムに溢れるストレートな物語である一方で、ぞっとするほどシニカルな棘を隠し持っている。そういう意味では『狭き門』同様謎めいた小説であり、私はそこに、この作品の最大の魅力があるように思う。

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