アブソリュート・エゴ・レビュー

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座頭市

2017-10-28 10:42:43 | 映画
『座頭市』 北野武監督   ☆☆☆☆

 最近、『アウトレイジ最終章』の公開に合わせてたけしの映画が軒並みブルーレイで再発されているようなので、手持ちのDVDのうちお気に入りのものをいくつか買い替えつつある。これもその一つ。たけし映画としてはかなりエンタメ寄りで、一説によれば本人はあまりやる気がなくお仕事として受けた企画だというが、私は結構好きである。

 座頭市といえば勝新太郎だが、本作は勝新の「座頭市」シリーズとはまったく別物だ。おそらく北野監督にも、同じ土俵に乗る意志は最初からなかったものと思われる。それは金髪、赤い仕込みの座頭市というビジュアル面でも、タップダンスやストンプ芸によるミュージカル仕立てという趣向面でも明らかだが、決定的なのは座頭市のキャラクターである。つまり勝新の座頭市は盲目というひけめ、ヤクザ者というひけめをもった座頭市の心情が物語のベースにあった。だから勝新の座頭市はシリーズ中で何度も仕込みを捨てようとし、ヤクザ稼業から足を洗おうとする(もちろん、結局それはできない業を市は背負っているのだが)。そしてそんな市の心情と、彼によくしてくれる市井の人々に寄せる思いが物語の推進力となっていた。

 ところが、たけしの市は違う。この男には屈託というものがない。というより、この映画において市の素性や心情はまったく描写されない。ただ、マシーンのようにヤクザを斬りまくる仕込みの遣い手がいるだけである。盲目であることやヤクザであることの屈託もないし、純真な娘さんに恋をすることもない。ほぼ超人であり、仕込みをもったターミネーターだ。たとえば賭場で壺振りがイカサマをやったと分かった瞬間、問答無用で殺戮を開始し、結局賭場にいたヤクザを全員斬り殺してしまう。そしてそのことに関して疚しさや後悔を見せるでもなく、平然としている。この市が仕込みを捨てようとかヤクザをやめようとかで悩む姿は、想像もできない。

 おそらくそこが勝新の座頭市を愛するファンには受け入れがたいところなのだろうが、これはもう別物と考えるべきである。この映画に勝新の座頭市を求めてもダメなかわりに、勝新の座頭市にはないものがある。それは何かというと、もうこれしかない。アクションであり、すさまじい切れ味の殺陣である。

 いや、殺陣なら勝新の座頭市にもあったし、むしろあっちの方が見事だという声が聞こえてくる。それはその通りで、おそらく殺陣の美しさ、芸としての洗練度は勝新の方が上だろう。しかし、殺陣を伝統芸ではなく単純にハリウッド映画的なアクションととらえた時に、本作のスピード感と迫力は桁違いだ。それは勝新の座頭市と比べてだけでなく、他のあらゆる時代劇と異なる質感を持っている。そしてその根っこにあるのは、たけしのバイオレンス映画特有の「痛い」感覚である。本作の殺陣は、そして斬られる描写は、「痛い」のである。

 時代劇ファンの目から見て本作の殺陣がどれほどのものか私には分からないが、もしかすると粗雑かも知れない。たけしの殺陣は殴りつけるようなアクションばかりで、華麗さはない。斬り合いの時間も短く、あっという間にケリがつく。たとえば冒頭のシーン。子供を使って市の仕込みを奪ったヤクザが、市に向かって「これがなければどうしようもないだろう」と言った瞬間、足を踏まれ、あっと言った時にはもう斬られている。何が起きたのかよく分からないうちに殺陣が終わってしまう。ものすごいスピード感である。そしてそれがすさまじい迫力を生んでいる。それから、たとえば浅野忠信が銀蔵一家を皆殺しにするシーン。ここでの殺陣は従来のチャンバラとは明らかに異質で、体ごと相手にぶつかったり足で蹴飛ばしたり、突然脇差を抜いて刺したり、槍を叩き折って斬ったりする。ガダルカナル・タカが「すげえ」とつぶやくまでもなく、これまたとんでもない迫力だ。

 きいた話では、たけしはこの映画の殺陣シーンでは異例なほど細かい演技指導をしたという。他の時代劇にはない感覚の殺陣になっているのはそのためだ。何より特徴的なのは、刀の重量感である。浅野演じる浪人が銀蔵一家を斬り殺すシーンでも、浪人の動きは決して速くない。ひらひらと舞うように刀を振ったりしない。むしろ受ける、止める、振る、という一つ一つの動きがとてもしっかりしている。そのことが、カメラのスピード感や編集とあいまって刀の重量感を醸し出している。更に言うならば、この映画では刀とは要するに刃物である、という意識が徹底していて、ヤクザが刀を抜いたはずみに隣にいたヤクザの腕を斬ってしまうとか、天井にささっていた刀が落ちてきて下にいた男に突き刺さるとか、従来の時代劇では見たことがない描写が頻出する。

 まあそんなわけで、この映画の見どころはそうした斬新な感覚に裏打ちされた迫力満点の殺陣にあり、それだけで十分、と私は単純に考えている。これに一番近い映画は『ターミネーター』である。勝新版『座頭市』ではない。

 だからストーリーはどうってことはない。時代劇や勝新版座頭市のフォーマットやルーチンを流用しているだけである。そもそもこの映画は完全なスペクタクル、ショーに徹していて全然リアリズムを重視していないことは、タップダンスとストンプ芸によるミュージカル仕立てを見れば明らかだろう。それもまた人情時代劇であった勝新版との違いである。そして、先に述べた理由により、本作はスペクタクルとしてよく出来ていると思う。

 役者陣はヤクザの親分の岸部一徳、凄腕の浪人の浅野忠信などもいい味を出しているが、最大の功労者はなんといってもガダルカナル・タカである。コメディ・リリーフというだけでなく、物語世界の複雑な人間関係をまとめ上げ、かつ超人の座頭市と観客の橋渡しをするという重要な役割を果たしている。彼がいるからこそ、北野版『座頭市』は愛すべき映画となった。



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