アブソリュート・エゴ・レビュー

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沈黙 -サイレンス-

2018-01-22 23:46:52 | 映画
『沈黙 -サイレンス-』 マーティン・スコセッシ監督   ☆☆★

 Amazon Primeで鑑賞。原作は既読。あの重苦しく息苦しい原作をスコセッシ監督がどう料理したか気になったので、かなりの鬱映画だろうなと覚悟しつつ観た。主演はアンドリュー・ガーフィールドと最近あちこちで見かけるアダム・ドライヴァー。日本人俳優も多数出演している。

 上映時間も3時間弱と長く、重厚なドラマなので体力を必要とするのは間違いないが、思ったほどの鬱映画ではなかった。形而上学的な重さという意味では、やはり原作の方がキツイ。特に警戒した拷問シーンも、まあ大したことはなかった。冒頭、磔にされた隠れキリシタンが熱湯をかけられ皮膚がみるみる赤くなる場面は、ちょっと「うぐぐ」となったけれども、それぐらいだ。それに当時のポルトガルや日本の風景が鮮やかな映像で再現されているので、視覚的には大変見ごたえがある。特に江戸時代の日本の風景はさすがハリウッドで、日本の時代劇とはまったく違う重厚かつきめ細かな映像を堪能できる。出演した日本の俳優さん達も嬉しかったんじゃないだろうか。

  日本の俳優陣は窪塚洋介、イッセー尾形、浅野忠信、加瀬亮などだが、怪演というべきは権力者・井上を演じたイッセー尾形である。ニコニコした柔和な表情の裏に不気味さを滲ませる、お得意の作り込んだ芝居で愉しませてくれる。窪塚洋介はこの物語中のユダにあたるキチジローを演じているが、その端正な容姿からか若さからか、原作を読んだ時ほどの卑しさは感じさせなかった。個人的に感心したのは浅野忠信で、通訳の侍なのだがいつもニヤニヤしていて、虜囚であるロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)にフレンドリーなようでもあり嘲笑的なようでもあり、いつもの自然体演技で不思議な存在感を放っていた。

 さて、ストーリーはおおむね原作に忠実で、日本にやってきた若い神父二人が隠れキリシタンの村に匿われ、やがて捕らえられ、村人達を拷問から救うために棄教せよと迫られる。神父は懊悩し、村人たちのこれほどの苦しみを前にしても沈黙を続ける神に対して疑問を抱く、というものだ。最後には、村人たちを苦しみから救うために踏み絵を踏む。踏み絵からイエスの「踏んでよい」という声が聞こえるのも原作と同じだが、映像でダイレクトに訴えかけてくる映画で観るとさすがに迫力がある。踏み絵の際ロドリゴが転倒し、絵をかき抱くような動作をするなど、非常にドラマティックな演出がなされている。

 その後ロドリゴはフェレイラ神父とともに幕府に協力し、日本人の妻をもらい、仏教徒として日本に骨を埋める。ここまでは原作通りだが、最後の最後で大きくズレる。死んだロドリゴが十字架を握っている描写がそれで、これによってロドリゴの棄教は表面上だけで、実はクリスチャンとして信仰は捨てていなかった、という示唆がなされたことになる。おまけに、信仰者にとって真に恐ろしいテーマである神の沈黙については、実は神は沈黙していなかった、その声は沈黙の中で聞こえていたのである、というような安直かつ不可解な説明がなされる。

 これは実に曖昧でムード的な、おためごかし的な説明である。全然納得がいかない。あれほど苦しみながら死んでいった村人たちの祈りに、あるいは信仰に、なぜ神は答えを返すことさえしないのか、というのが「神の沈黙」の恐ろしい意味のはずで、「沈黙の中に実は声が聞こえていたのである」なんて主観的なことでいいのなら、最初から神の沈黙など問題にならないはずだ。ただ「信じる者は救われる」というだけの話である。一番切実な問いから逃げたな、という感じがする。

 これはやはり欧米人が作ったからか、あるいは欧米ではこうしないと受け入れられないとの配慮からか。いずれにしろ、この映画は詰めを誤った。核心となるべきテーマの扱いにおいて真摯さを欠き、ムード的な予定調和に堕してしまった。加えて、もし神の沈黙が神の不在を意味するなら、あの村人たちの凄まじい苦しみやその果ての死には一体どういう意味があるのか、という更に恐ろしい問いからも、完全に目を背けている。

 これだけ重厚でシリアスな葛藤を描きながら、最後は生ぬるいヒューマンドラマ風にお茶を濁してしまった感が否めない。テーマがおざなりになってしまったがゆえに、この映画は一体何を言いたいのだろうかと、観終わって首をかしげる観客も多いのではないだろうか。せっかくの大作なのに、もったいないことだ。仏作って魂入れず、とはこのことである。



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