アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

嗤う伊右衛門(映画)

2017-04-17 22:30:54 | 映画
『嗤う伊右衛門』 蜷川幸雄監督   ☆☆★

 日本版DVDで鑑賞。大昔に見たことがあって、唐沢寿明と小雪の悲劇的なカップルのたたずまいがそこはかとなく印象に残っていたので、久しぶりに再見した。京極夏彦の原作は偏愛の一冊である。

 監督は演劇人である蜷川幸雄だが、私はこの人の舞台はNYでやった藤原竜也主演の『ムサシ』を観ただけで、正直さほどの印象は残っていない。映画が始まるとまずは唐沢寿明と池内博之の二人芝居だが、蜷川幸雄を知らない人でもただちに「これは演劇畑の人が作ったんじゃないか」と思うであろうほどに演劇くさい。これは意図的なものか、それとも意図せずにこうなるのか。この監督の他の映画を観たことがないのでなんとも言えないが、いくらなんでもこれはマズイだろう。映画と芝居の距離感を見誤っているとしか思えない。役者の演技がいかにもわざとらしく、大仰である。そしてそれはこの場面に限ったことではなく、映画全体がそうなのだ。目をむき、声を張り、めいっぱいタメてからおもむろに喋る。

 いちばん分かりやすく典型的なのが、六平直政と池内博之だ。ただこれは役者の責任ではないと思う。本人たちはおそらく、監督の指示に従って頑張っているのだ。演技そのものは悪くないし下手でもないが、作り過ぎ感がハンパない。これはどう考えても監督の責任だ。

 そんな中、又市役の香川照之はさすがのバランス感覚である。六平直政と同じく狂言回しのポジションで、ストーリーや他の登場人物の心理まで説明しなければならない面倒な役割だが、わざとらしさは最小限に抑えられている。他の役者の演技と乖離せず、しかも不自然にもならないギリギリのバランスである。やはりこの人の演技者としてのセンスは卓越しているのだなあ。一方、主演の唐沢はというと、これは寡黙で無表情な役なので得をしている。芝居に大仰さは感じない。が、とりあえずどう考えても顔を白く塗りすぎである。暗い部屋の場面はいいとしても、昼間の場面じゃほとんどコント並みの塗りっぷりだ。これもやっぱり作り過ぎ。

 それから、とにかくセリフが長いし、多すぎる。何か何までセリフで説明してしまう。特に最初の方は一場面に二人ずつ登場して、二人が会話する中で長々と説明的に喋り、物語の背景や人物を観客に教える、という場面が続く。これも場面転換を最小限に抑えなければならない演劇の手法だろう。映画は細かい断片的なショットをどんどん積み重ねられるので、こうまでセリフに頼る必要はないはずだ。たとえばたけしや西川美和の映画を観ると、セリフが一切ない短いショットで多くを語っていることが分かる。この映画にはそれがない。

 一方、蜷川監督のビジュアルのセンスというか、映像へのこだわりはあちこちのシーンで感じることができる。耽美的で妖艶、静謐、幽玄、というあたりがキーワードだ。ところどころグロテスクな部分もあって、特にクライマックスなど血まみれで首が飛んだりするが、これも監督の美意識の表現なのだろう。もともと原典は怪談なので、その点に違和感はない。その中で、お岩と伊右衛門の特異な純愛の形を描き出すことには、一応成功していると思う。唐沢演じる伊右衛門の清冽なまでの侍の矜持は、観る者に強い印象を残す。ただし、あのラストはどうも外しているような気がする。どこからともなく聞こえてくる二人の笑い声がわざとらしいし、その後現代の大都会の絵で終わるのもよく分からない。何がしたいのだろう。別に面白くもないし、余韻を打ち消しているだけのような気がした。

 「四谷怪談」を翻案して純愛の物語にするという原作のアイデアは秀逸だし、ストーリーも面白いし、巧い役者をたくさん使っているので惜しい。もっとセリフを減らして抑えた演出に徹していれば傑作になったのではないか。蜷川監督は演劇の世界ではビッグネームだが、これを観た限りでは、あまり映画作りのセンスは感じられなかった。

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