アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

イザベルに -ある曼荼羅-

2016-11-04 23:56:28 | 
『イザベルに -ある曼荼羅-』 アントニオ・タブッキ   ☆☆☆☆☆

 アントニオ・タブッキの没後に出版された『イザベルに』を再読。一度読み、しばらく時間をおいてもう一度読んだ。タブッキはいつもそうだけれども、一回目に読んだ時より二回目の方が味わい深く感じる。当然のことながら、これが最後のタブッキ作品と思えばまた感慨はひとしおだ。ただし日本人の読者として言うならば、まだ翻訳されていない作品があるはずだ。一刻も早く邦訳本の出版をお願いしたい。

 さて、『時は老いをいそぐ』『いつも手遅れ』を読んでタブッキの変貌を強く感じた読者にとって、本書『イザベルに』は『インド夜想曲』『レクイエム』の頃のタブッキが戻ってきたようななつかしさを感じさせる小説となっている。主人公が誰かを探して旅をし、さまざまな人々と出会う、というスタイルがまずなつかしい。第二に、タデウシュ、イザベルという登場人物の名前がなつかしい。おそらくは虚構と現実の境界がだんだんと溶け合っていったであろうタブッキの人生において、彼らは作者と強い絆で結ばれた近親者たちである。そして第三に、タブッキのためらいがちな、曖昧性の靄でソフトフォーカスになったようなあの文体が蘇っていることが、たまらなくなつかしい。

 実際のところ、このなつかしさは本書の評価を難しくしている最大のポイントだと思う。あまりにタブッキ王道のスタイルであるため、人によってはこれをマンネリズムととるだろう。人によっては既視感が強いと思うだろう。そして本書の評価を、『インド夜想曲』や『レクイエム』の二番煎じだとして下げることになるかも知れない。私は必ずしもそうは思わないが、そう判断されてもしかたないかなと思う部分もある。そこをどう考えるかで、本書の評価は分かれてくると思われる。

 ただ、最初は既視感のあるスタイルだと思っていても、読み進めるにつれてやはりかつての作品とは違う特徴があることに気づく。まず、この『イザベルに』はひときわシュールレアリスティックだ。コウモリがイザベルの使者になったり、タデウシュが簡単に時空を越えたりする。それから時間と空間の広がりも大きい。これまでのようにインド、リスボン、あるいはイタリアなどのように舞台が限定されず、リスボンからマニラまで、世界をまたにかけるといっていいぐらいの広がりを見せる。そしてこれらの非現実感は、探索者であるタデウシュと探索の対象であるイザベルの両方が亡霊であり、死者であるという設定に帰着する。

 従って、本書はこれまでの数々の幻覚的で夢幻的なタブッキ作品より、更に夢うつつ度が高いと言っていいだろう。もっと正確に言うと、タデウシュがリスボンでイザベルの知人を訪ねて回る前半と、洞窟でコウモリと会話してから以降の後半で肌触りが変化する。前半はトラディショナルなタブッキ・スタイルでタデウシュがイザベルの消息を探るが、彼が会う人々は『インド夜想曲』や『レクイエム』のように自分の物語ではなく、イザベルの物語を話して聞かせる。つまり過去の回想である。イザベルという女性と彼女の過去のエピソードと彼女に対する思いを、各人がそれぞれの視点で語る。すると読者の脳裏にはイザベルという女性の肖像と過去の物語が茫洋と、かつ多面的に浮かび上がる。私はこの序盤を読んだ時にこれが本書全体の趣向、つまり大勢の人々による(すでにこの世にいない)ある女性についての回想譚だと勘違いし、激しく興奮したものだ。なんとタブッキらしい美しい物語だろうか、と思ったのだが、残念ながら趣向は途中で変化し、後半はダデウシュとイザベルという二つの亡霊が時空を超えて交信する、更に夢うつつの薄明の世界へと移行する。

 最初に読んだ時は、この、どんどん話がシュール度を増していく展開が予想と異なっていたせいでいささか戸惑ったものだが、再読して得心がいった。もはやこの世ならぬ亡霊たちが主人公である融通無碍の世界を描いているのだから、これでいいのだ。そして結末に至り、タデウシュはついにイザベルに出会うことになるが、私は今回も『インド夜想曲』そして『レクイエム』の時のように、イザベルはついに物語の表面には登場しないのではないかと思っていた。が、予想は覆された。これまで数々のタブッキ作品の中で常に重要な、特別な思いの対象でありながら決して姿を現さなかったイザベルが、本書のラストでついに登場する。

 そういう意味でこの『イザベルに』の結末は、『インド夜想曲』のようにメタフィクションナルな手品を使った結末とは反対の、ど真ん中に投げ込まれたストレートの豪速球の如き正攻法の結末である。ほとんどタブッキらしくないと思えるぐらいの、はぐらかさない、必然的なドラマの結末が訪れる。堂々たるエンディングだ。これだけでも本書がなつかしいスタイルでありながら自己模倣ではない、ユニークな特徴を持った作品であることが分かる。

 例によって淡い散文詩のような、美しい文体がこの幻覚的な物語を奏でる。私たち読者は、コトバの魔術師タブッキの妙なる調べに聞きほれるばかりである。どんな最新テクノロジーを駆使した映像作品もスペクタクルも豪華なショーも、達人が書いた小説の高みには到達できないと思わされる瞬間である。そしてこのタブッキ最後の小説には、読後も頭に残って離れていかない印象的なフレーズがいくつか出てくる。それらはこれまで私がタブッキの小説から感得してきた思いや観念をすくいとるようなフレーズだったりするのだが、特に印象に残ったのは次の二つである。大切なのは探索すること。そして、残るものはわずか。

 この二つは本書のキーワードと言っていい重要なフレーズである。そしてまた、私が自分自身の人生を振り返った時にも、とても深い意味をもって心に響いてくるフレーズでもある。人生において本当に大切なのは、ゴールに至るよりむしろ探索し続けること。そしてすべてが終わった時に残るのは、ほんのわずかなものだけ。おそらく私たちはみんな、そのわずかなものを一生かけて探しているのである。そうは思いませんか。

『本』 ジャンルのランキング
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« Seven Days of Falling | トップ | 秋津温泉 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何ごとも残るはわずか (reclam)
2016-11-07 19:38:59
久しく読んでいなかったタブッキ。ego_danceさんのレビューに触発され、この作品を再読してみました。

そして実感したのは、タブッキの作品はやはり掴み所がないなあと言う事、しかし読了後に残った不思議な雰囲気は相変わらず素晴らしいと思う矛盾した感触でした。

それは最後の方の印象的な台詞「何ごとも残るはわずか」という言葉にも表れています。この言葉は独特の文体・読了後の雰囲気を重視するタブッキ作品全体を主張していると思います。

同時に小説というフィクションの本質(あるいは人生の本質かもしれない)も、この言葉は上手く表現していると感じます。作り物の小説に触れるに当たって、読者に残る自分なりの真実はどれだけだろうか、という意味で。私の読了してきた小説の数々を振り返り、残ったものを考えると強く思います。

小説を読んだり目標に向かって努力した後に残るわずかなもの、それを日々大切にしていきたい。この本を読んで強く思う次第です。
イザベルに (ego_dance)
2016-11-17 13:20:38
この小説、たしかにひときわ掴みどころがないですね。読後に思い返しても、なんだかぼやっとしています。まあそこが面白いということでしょう。「何ごとも残るはわずか」というフレーズはとても印象的で、色んな意味で沁みました。わずかなものすら残らない人生では、甲斐がありませんからね。

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL