幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「臨済宗の常識」藤原東演著 ”そこが地獄じゃ!”

2017-08-21 00:40:00 | 本の紹介
・インドの仏教の三学
 戒(悪を止め、善を修める。戒めを守ること)
 定(身体と心を調えること)
 慧(人生の智慧)

井伊文子(旧琉球王家尚昌氏の長女)さんが結核に冒され、闘病を余儀なくされました。そういう中で一つの諦観を得ます。朝、コスモスの花が咲き出したのを楽しみながら、このような歌を詠みました。
 躓けば躓くままにコスモスの花美しみ臥せて今日を嘆かず

・座禅の意味
 京都東福寺を開かれた聖一国師とい禅僧に九条道家が、「修行しても悟るかどうかわからないなら、無駄ではないのか」と質問します。すると
 「悟りの心、仏心は誰でもあるし、本来迷いがない。だから未だ覚らなくても一時座禅をすれば、一時の仏なり。一日座禅をすれば、一日の仏なり。一生座禅をすれば、一生の仏なり。このように信じることこそ素晴らしい素質の人である」
と教えました。これこそ禅の「信心」です。

・関山慧玄(妙心寺開山)が里を去る時、欲深い夫婦がいて、最後の教えを求めました。関山は、にっこり笑って、二人を向い合せ、頭と頭をゴツンとやります。「痛い」と思わず二人は叫びます。関山は、「そこを忘れるなよ」と諭したといいます。頭を打って「痛い」という声は、何も考えずに思わず出たもの。この何も分別しない声こそ、本心仏性の叫びです。何も分別しないで、見たり聞いたり話していたら、こだわりがないから、本当に自由な生活ができるのです。

・そこが地獄じゃ!
 織田信茂という彦根藩の武士が白隠を訪ねてきます。「地獄とか極楽とかはいったどこにあるのか」と。禅師は「それでも武士か、地獄はどこだ、極楽はどこだと探しているような者は迷っている証拠じゃ。そのほうは腰抜け武士だな」。武士は頭にきて、「腰抜けとは何事だ。仏の教えを求めに寄ったのに、無礼千万だ。誤れ、謝れ、謝らなければ切る」と刀の柄に手をかけて、禅師を睨みつけます。禅師はひょいと身を翻すと、本堂へ。「待て、ひきょうもの!」刀を振りかざし追いかけて、まさにひと打ちしようとしたとき、間髪を入れず、「そこが地獄じゃ」。耳がつぶれんばかりの禅師の一喝。武士は動けず、刀を納め、頭をたれて、「一時の怒りが身を滅ぼす。これこそ地獄だとよくわかりました」と心から謝罪。禅師はにっこり笑って、「それ、そこが極楽だよ」と諭したといいます。
 初めは死後の恐怖から出家した白隠禅師も、禅道に邁進するにつれて、欲念こそ地獄の元凶と確信していったのです。禅師は欲念を「命根(みょうこん)」と呼び、「無始以来相続してきた無明の一年」と弾劾しています。

・座禅を「静中の工夫」とするならば、朝起きて働き、食事をし、寝る、その時その場修行道場で、「動中の工夫(せぬ時の座禅)」と呼んで重要性を強調しました。

・「手を合わせる」坂村真民
めぐりあいのふしぎにてをあわせよう
そうだ 手を合わせたら自分が変わる 
相手が変わる 家族が変わる
憎む者さえ変わってくる
わたしは毎日 五臓六腑さま 
今日もよろしくお頼みしますと手を合わせる
病気もしないのも そのためだろう
世界中の人がみんな手を合わせたら 
争いもなくなってゆくだろう

死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんなとき大乗寺を訪ね
わたしはひとり
仏陀の前に座ってくる
力わき明日を思う心が
出てくるまで座ってくる

・臨済宗東福寺派の管長を勤められた安田天山老師は、人生で自己を見失いそうになったとき、仏壇のおかげで救われたおひとりです。老師は縁あって、中学生のとき京都東福寺の山内の善慧院にお世話になりました。この寺は当時貧乏で、口さがない人は「銭ねー院」と言ったくらいです。ある日、老師が学校から帰ったら、玄関で寺の奥さんが立っていました。いきなり、「あんたがお金を盗んだんでしょう!」と怒られます。虚無僧が送ってきた為替が亡くなっていて、老師の部屋を掃除していたら同じ金額の金が見つかったというのです。老師は「そのお金は京都に出るとき、何か困ったら使うようにと郷里の父がくれた金です」といくら説明しても奥さんは全く信じてくれません。
 部屋に帰った老師は悔し涙が溢れ出て止まりません。涙が枯れ果てたとき、「どうせ疑うなら、寺の鐘を盗んで困らせてやれ」という怒りの思いがむらむらと起きて、抑えきれなくなりました。
 そのときのことです。老師はふっと祖母が幼少の頃、仏壇の前で「仏さまはいつもちゃんと見てくださっているでな」と念仏のように口にしていたことを思い出します。「そうだ、本堂に行こう」と思い、本堂に入って、本尊さまの前に座してお顔を見上げ手を合わせました。どのくらい座っていたのでしょうか。ふっと「盗みをしたら、祖母や両親を悲しませる。いつか奥さんもわかってくれる時がくる」と思いとどまったのです。
 明くる日、重い足取りで学校から帰ると、玄関に奥さんが待っていました。また叱責されると思ったら、奥さんは土間に降りるやいなや土下座して、「ごめんな、あの金はあった。わたしの思い違いだった」と涙ながら許しを乞うのでした。それから奥さんの態度はがらりと変わり、とうとう大学まで出してくれたそうです。
 老師は「あの時、祖母の教えがなかったら、わたしの人生は全く異なったものになっていただろう。誰の人生にも岐路があって、その時何をよりどころにするかで人生が地獄にもなるし極楽にもなるのだ。それを考えると本当にありがたかった」述懐されていました。

・「在すが如く」 そこに仏様がいるように。天が見ていることを意識して行う。

感想
地獄と天国の違い。

お皿にたくさんのごちそう。
でも、箸は長くて自分の口には運べません。
何とか自分で食べようとと各自が苦闘しますが食べられません。
これが地獄

一方、その長い箸で周りの人の口にごちそうを食べさせます。
皆が誰かの口にごちそうを運びます。
これが天国

気持ちをどう持つか。
その持ち方で人生が変わるのでしょう。
また、幸せも掴むのかもしれません。
自分で幸せを掴もうとしても掴めない。
周りを幸せにしていると自分も幸せになるのでしょう。

臨済宗の教えは、その考え方を持つためのヒントを与えているように思います。

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