江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2016年10月16日)

2016-10-16 17:42:20 | Weblog

20161016日(土) 

ヨハネ1128節〜37節「イエスは泣かれた」

 

序論

おはようございます。気温が一気に下がり、先週は肌寒く体調を崩しやすいと1週間でした。1010日は、小岩教会でCEC1日集会があり、関東地区の子どもたちが集まって集会、河川敷で遊び、みんなで楽しい時を持つことができました。その夜から風邪を引きまして、熱、体のだるさ、喉の痛みと咳がひどい1週間で、今日は声があまり出ないため申し訳ないのですが、お許しください。具合が悪い時こそ、健康時のありがたみに痛感し、イエス様が共におられることの平安を感じる週でありました。痛みの内にある方、弱さの中に置かれている方、苦しみや、悲しみや、悩みの中にいる方の上に、主が共にいてくださって、共に泣かれ、寄り添ってくださるかたであることを信じます。イエス様は、愛するものの良き理解者であり、誰も分かってくれないと思っても、イエス様だけは、良き理解者で共に共感してくださる方です。今日は、ヨハネによる福音書112837節「イエス様は泣かれた」と題して、語らせて頂きます。

 

本論Ⅰ 

ヨハネによる福音書111節を見ていただきますと、「ある病人がいた。」とあります。今日の登場人物は、マルタとマリアは他の箇所にも出てきますが、ラザロはマルタとマリアと3人兄弟で、エルサレムに近くのベタニア出身です。マリアというのは、他の箇所にも記されてありますように、十字架にかかられる前に、イエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛で主の足を拭った女性です。

「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛された。」とありますように、イエス様にとって大切な友人たちでした。そのうちの1人のラザロが病気だったので、マルタとマリアは人をやってイエスに伝えたというわけです。今までたくさんの病人を癒してことを知っていますので、イエス様なら急いで来て愛するラザロを癒してくださると信じて待っていたことでしょう。しかし、イエス様は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光を受けるためである」とおっしゃると、なおそこに2日間のおられたというのです。それから弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。
エルサレムやベタニアがあるのはユダヤ地方で、今いるところからデカポリス、エルサレムまでは歩いて3、4日かかる田舎で、当時は今のように電車も車ももちろんありません。しかも、前回、エルサレムに行ったときは、反対するユダヤ教指導者たちに石で殺されそうになったばかりです。
弟子たちはこの言葉を聞いて驚きますが、イエス様はかまわず「わたしたちの友人ラザロが眠っている。しかし、わたしは起こしに行く。」言われました。主イエスはラザロが今日死んだことを言ったのですが、弟子たちはただ眠りについて話されたと思っている弟子たちにイエス様はハッキリと「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」と言われ、一行は出発しました。新改訳聖書には、「あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるようになるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」喜んでいると表現しています。

 一行はベタニアに着くと、ラザロは4日前に亡くなり、もう墓に葬られていました。ベタニアはエルサレムから約3キロの近距離なので、多くの人々がマルタとマリアを慰めるため弔問に訪れています。当時は、1週間ほど女性は泣くことが許されていた習慣があったそうです。行動力のあるマルタはイエス様が来られたと聞いて村の入り口まで迎えに行ったけれど、マリアは家の中に座っていました。それほどショックで、悲しみに満ちていたと思います。人は必ず「死」を経験し、通らなければなりません。マリアたちにとって愛するラザロとの突然の別れはどれほど悲しかったでしょうか。

イエス様が来られたと聞いてマルタが、村の入口まで迎えに行き、イエスにこう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。悲しみのあまり、またイエス様がすぐに来てくださると信じていたからこそ、イエス様に本気で愚痴ってしまったと捉えることができると思います。けれども辛さの中にあるからこそ、その時にイエス様に出会って希望を捨てずに信仰を持ち続けることができたのではないかと思うのです。24節には「終わりの日の復活の時に、復活することは存じています。」と告白しています。その時、イエス様は有名な御言葉を言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」。主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と人間ですから、喪に伏しており、感情的になって言ってしまったけれども、イエスの権威ある御言葉にマルタは、どれだけ慰められたでしょうか。

 

本論Ⅱ イエスの涙

32節で、マリアはマルタが耳元で「イエス様が来られて呼んでいるよ」と聞いた時、立ち上がり、急いで出て行ったのでしょう。その姿を見てなぐさめに来ていたユダヤ人たちは彼女の後を追っていったわけです。外へ出るとイエスが見えたのでしょうか。イエスのおられるところまで行くと、イエスを見るなり足元にひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といいました。マルタもマリアも同じことを言っているのです。マリアたちはイエス様のことを愛していた。だからこそ、二日前に伝えたのに、6日後に来られたイエス様を見て、泣き崩れ、もう立ち続けることすらできない状態だったのでしょう。愛するラザロの死を通して、マリアとイエス様の信頼関係というのにヒビが入ってしまったと言っても過言ではないと思います。イエス様はマルタとマリアが愛するラザロを失って泣いているのをご覧になり、イエス様も泣かれました。神であり、人間であられるお方が、心を痛まれたのです。死というのは、人間に大きな悲しみを与えます。そんな時、神様の御心というのは、時としてすぐにはわかりません。でも、神様の力が働かれる時、後にそのことを通して神の栄光があらわされるのです。何かをとおして、気づかされることがあるのです。どん底にいる時でも、神様は見捨てず、そこから光を与え、それ通して、神の栄光を表されるお方です。神様は、目の前が真っ暗でも、落ち込んでいる時も共感してくださいます。たとえ感情的になって神に怒っても、一人になったとしても、話す相手や、求める相手がいなくても、イエス様はいてくださいます。イエス様はラザロをどこへ置いたのかと聞かれた時、石で塞がれた墓かの前で涙を流されました。今日の説教題でもあります。

親しい間柄の人が亡くなるほど、辛い悲しみはありません。愛する人との死。

私は12人兄弟の11番目ですが、兄弟がたくさんいますが、2歳上の姉が199811月、小学校のクラブで事故にあい、4日後に亡くなりました。朝まで一緒でしたが、昼に事故にあい、それが最後でした。家族で回復の祈りを必死でしました。でも神様の御心というのは、姉が天に召すことでした。最初の数年はロウソクの火が消えたようでした。肉親の死。それは、今でも思い出すだけで、寂しい分いくらでも涙が出ます。当時9歳だった私は、毎日のように教員が挨拶に来られ、賛美し、お祈りをしました。その度に涙が溢れ、賛美できませんでした。しかし、そのことをきっかけに、人は死んで終わりではなく、イエス様がよみがえられたので、再会できることを問い、年々感じるようになりました。姉の死を受け入れるのは、とても辛かったけれど、イエス様も悲しんでくださったと信じています。家族の死というのは、本当に辛いです。マルタもマリアもどれほど悲しかったことかと思います。でも、地上に残された者にとっては、イエスさまを信じる者には永遠の命が与えられている。私たちは死んで終わりではない。私たちは、永遠の命が与えられ、神の国の約束を信じてことができるのです。

 

マルタ・マリアは、終わりの日によみがえるということは知っていても、愛する者を失った悲しみは消えません。でも、イエス様は涙を流れ、泣いてくださったのです。私たちの信じる神は神であり、100%人間であられるからこそ、人の悲しみ、苦しみ、辛さ、弱さも分かってくださるお方です。

イエス様が6日後に来られたのは、「あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らが信じるため」なのです。6日も経っていますから遺体も腐食が始まり、いくら肉親でもさすがに墓を開けるのは困難な状況です。でもイエスさまは、父なる神に祈られ、死んでいたラザロをよみがえらせたのです。

 

私たちの信じるイエスキリストは、こののち十字架で亡くなられ、死なれます。

しかし、死を打ち破り、勝利され、よみがえられた。信じる者には永遠の命を与えられるので、死んでも生きるのです。イエス様は人をよみがえらせましたが、彼らは死を経験します。しかし、イエス様だけが、死んで復活されたのです。今も生きておられるイエスさまは愛するラザロたちのために涙を流し、心を痛められました。マルタ・マリアたちが悲しみ、押しつぶされた気持ちでいた時、もっと早く来てくださったら死ななかったのにと言いましたが、責めませんでした。それは、喜怒哀楽という感情を持っておられる方だからこそ、私たちの良き理解者であり、良き牧者です。「死」を勝利し、復活されたイエス様は、私たちのもっとも良き理解者でおられることを感謝して、今週もこの方を信じて歩んでいきましょう。お祈りいたします。

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