江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2015年7月5日)

2015-07-05 12:56:04 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第五)      2015.7.5

三流に生きる」 創世記16:1~16

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第一日曜日を迎えました。先週は梅雨らしく雨の多い一週間でした。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝します。

 昨日の土曜日は、朝6時代の新幹線で、新神戸に行き、私の母教会であります平野ナザレン教会で、連合相年会と連合女性会との合同の委員会があり、ナザレン教団の事柄について話し合うことができました。現在連合会の会長は、西山兄ですが、最初の賛美はギターで導いて下さり、何かティーンズキャンプのような青年会のような感じでした。西山兄とは、中高生キャンプや青年会で良き交わりをさせていただいた関係で、私の一つ下の年齢です。これからの連合壮年会と連合女性会のためにお祈り下さい。

私は先週、山中湖でナザレン希望誌のカリキュラム委員会に出席し、カリキュラムの作成をしました。涼しいといいますか、寒いほどで汗もかかず、別世界にいるようでした。

富士山は少ししか見えませんでした。しかし、富士山は確かにそこにある。霧や雲で見えないことがありますが、確かに富士山はあるのです。神様は私たちと共におられます。けれども、いろいろな困難や苦しみを通して、神様がおられないかのように感じられることがあるかも知れませんが、確かに神様は共におられるのです。

 今日は創世記16章1節から16節を通して、「三流に生きる」と題してお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様の思いと人の思い

 聖書に出てくる人物は、いろいろですが特にメッセージで語られる人物は、やはり主流といますか、一流といいますか、有名な人物だと思います。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ等、皆さんもよく知っておられる人物が中心となってメッセージで語られるのだと思います。7月は、聖書の中心人物ではなくて、脇役といいますか、一流ではない人々、目立たない人々に焦点を当てて見させていただきたいと思います。聖書に示された神様は、もちろん、中心人物を通して信仰を示されるのですが、主流、一流でない人物、主人公ではなく、脇役にいる人々に目を留めて、その人々を通して信仰を現されるのです。

 今日、登場しますハガルという人物です。彼女はエジプト人でした。ハガルは、アブラム(後のアブラハム)の妻、サライ(後のサラ)に仕える女奴隷であった人です。おそらく生まれた時から奴隷の身分であったのでしょう。何もなければ、生涯女主人サライの奴隷として問題なく生きていったのだと思うのです。

 けれども、アブラムとサライの間に子どもが与えられなかったという状況で、ハガルの名前が上がったのです。

 2節を共に読みましょう。「サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供が与えられるかも知れません。」

 サライは、「主はわたしに子供を授けてくださいません。」と言いました。かつてアブラム自身も、「ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が後を継ぐことになっています。」と神様に語ったことがありました。その時神様は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」とアブラムに語られたのでした。アブラムは、自分の妻サライとの間に子どもが生まれないので、エリエゼルという人物に跡を継がせようとしましたが、神様はアブラムから生まれる子が跡を継ぐと言われたのでした。しかし、アブラムとサライとの間には子どもが与えられなかったので、サライは自分の女奴隷ハガルとアブラムによって生まれた子どもを自分の子どもにしようとしたのでした。そして、アブラムもサライの意見を受け入れたのです。

 しかし、それは神様のおこころ、みこころではありませんでした。アブラムとサライは、自分たちの都合の良いように、神様の言葉を捉えたのでした。私たちも神様の言葉を、聖書の言葉を自分の都合の良いように使用していることはないでしょうか。その時は、うまくいったと思っても、人間の思いで始めたことには、必ず問題が生じるのです。

 

 二、環境によって人は変わる

 サライは、女奴隷ハガルをアブラムのそばめとして与え、サライの思惑通りに、ハガルは妊娠したのです。ハガルによって、サライは子どもを持つことができるようになるのです。

 しかし、事はそう簡単にはいきませんでした。4節には「ところが」とあります。

「ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」とあります。リビングバイブルには、「ところが、そのことがわかると、とたんに傲慢になり、女主人のサライに横柄な態度をとるようになったのです。」とあります。

 ハガルは、女奴隷ですからサライの言うことには、忠実に従うのみです。ですから、今回もアブラムのそばめになりました。そして、妊娠しました。けれども、妊娠してコロッと態度が変わったのです。自分の女主人は、アブラムとの間に子どもができない。しかし、私は主人アブラムとの関係で妊娠した。いつの間にか、自分がさも女主人でもあるかのように、自分の方が女主人サライよりも、正妻の座に近い者でもあるかのように考えて、今までのように、忠実にサライの言葉に、命令に忠実に従うことができなくなったのです。心にそのような思いがあるので、態度に、見えるところに出てきたのです。

 それは、ハガルの女主人であるサライにとっては耐えられない屈辱と苦しみだったのです。

サライは、アブラムに文句を言います。「あなたのハガルに対する教育が悪い。何とかして!神様に裁いてもらいましょう」しかし、アブラムは、自分の責任から逃げて、「女奴隷のハガルはあなたも所有物だから、好きなようにしたらいい。」と言いました。ですから、サライは妊婦ハガルにつらく当たったのです。いじめたのです。リビングバイブルには、「それならと、サライはハガルを気のすむまでいじめ抜きました。」とあります。

 人間とは、自己中心の生き物です。子どもができないので、ハガルに子供を産ませて自分の子供にしようとしたのに、ハガルが、自分が妊娠しているとわかると自分の立場をわきまえもせずに、傲慢になり、サライからいじめられた。サライも、ハガルも、そして、誰よりも、アブラムは、自分の事しか考えていないのです。

 創世記12章で、神様の言葉に従って行動し、「あなたを祝福する」と神様に言われ、15章では、アブラムが神様の言葉を信じたので、アブラムは神様に義と認められた、と聖書は記しています。しかし、この16章に記されたアブラムは、自己中のアブラム、私たちとなんら変わらない人間であることがわかります。

 そのような中で、ハガルは、身の危険を感じたのでしょう。あまりの苦痛、つらさの中で逃げ出してしまうのです。逃亡者となってしまうのです。

 私たちも、つらい経験、悲しい経験、痛い経験、苦しみのゆえに、そこから逃げ出したいと思うことがあるでしょう。逃げ出したことがあるのかも知れません。神様はハガルをずっと見ておられたように、苦しみを経験する私たちを見ておられるのです。

 

 三、私を顧みて下さる神様

 主の御使いは、逃亡中のハガルに語りました。8節を共に読みましょう。「言った。サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。女主人サライのもとから逃げているところです。」 ハガルは、どこから来たのか。女主人のもとから来た、ということは話しましたが、どこへ行こうとしていると問われて語りませんでした。自分の故郷のエジプトに帰ろうとしていたのかも知れません。しかし、行き先を語れませんでした。先が見えなかった。希望がなかったということでしょうか。辛くって、悲しくって、痛くって、女主人のもとから飛び出してきたけれども、どうしたらいいかわからない。先にもすすめず、後戻りはできない。そのような状況の中、神様はハガルをじっと見つめておられたのです。そして、自分がアブラムとの間に妊娠したとしても、おまえは奴隷であるのだ、とハガルの立場を確認しました。そして、彼女の苦しみや悲しみ、痛みや辛さを十分わかっておられる神様は語られるのです。9節を共に読みましょう。

 「主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」」神様は、ハガルが耐えられない場所、逃げ出してきた場所、最も顔を多合わせたくない人のいる場所、二度と帰りたくない場所に帰るようにと言われました。苦しいから逃げ出してきた。居たくないから逃げ出した。最も困難な場所に帰るように言われたのです。神様が、帰れと言われた場所は、ハガルにとって、どんなにつらい場所なのかを神様は知っておられました。十分わかっておられました。帰ったからと言って、状況が好転しているとは思えません。逃げ出したということで、もっとつらい仕打ちが待っているかも知れない。もっと、辛く当たられるかも知れない。その場所に帰るようにと言われました。そして、帰る、戻るだけではなくて、従順に仕えるようにと命じられたのです。

 そして、ハガルに、ハガルの子孫を数えきれないほど多く増やすこと、男の子を生むので、その子にイシュマエル(神は聞いて下さる)と名付けるように、と語られたのです。

ハガルは、奴隷でした。そして、女主人サライに忠実に従うのが、ハガルの使命でした。その使命をもう一度思い起こさせ、ハガルとおなかの子が生きる道は、サライのもとに帰ることであることを示されたのです。

 そして、何よりも、ハガルは一人で帰るのではない。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言われた神様が共にいる。イシュマエルという名前を示すように、神様はハガルの祈りを聞いて下さる。ハガルを顧みていて下さることを知ったのです。今はじめて、この神様がいつも共にいて下さることを実感したのです。信じることができたのです。

 13節を共に読みましょう。「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。」

 ハガルは、サライにいじめられて逃げてきました。しかし、そのいじめられている時も神様は共におられたこと、そして、これから女主人サライの元に帰るけれども、そこにも共におられ、私を顧みていて下さることを信じて、神様のみ名を崇めたのでした。

 私たちも、いろいろな苦しみや悲しみ、痛みを経験されることがあるでしょう。逃げ出したいと思うほどの辛い経験もしたでしょう。しかし、そこにも、神様は共におられて、あなたを見て、あなたを顧みていて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 神様は私たちを救うために、イエス様を私たち人間の住む世界に送られました。そして、私たちの自己中心、傲慢、そのような生き方、罪の生活を赦して下さるために、十字架にかかって死んで下さり、私たちが受けるべき罰を神様から受けられたのです。イエス様の経験された十字架の苦しみと死によって、私たちの罪が赦され、魂が救われ、イエス様が死んでよみがえられたことにより、私たちに永遠の命が与えられたのです。

 私たちは、過去どのような経験をしたとしてもやり直しができます。どんな罪を犯し、自己中心的に生きてきたとしても大丈夫です。あなたがどれほど罪深い生き方をしても、神様はあなたを高価で尊い存在として見て下さいます。あなたは神様と人に用いられる存在となります。そして、あなたの人生は初めより終わりは祝福されます。

 だから、環境がどのような問題があったとしても、暗くても、辛くても、痛くても、その場所から逃げるのではなく、神様が共にいて、あなたを顧みていて下さって、大丈夫だから、帰れと言われるのです。

 逃亡者ハガルは辛い経験から、痛みを経験して、エルロイと神様を見つめることができたのです。今あなたが、置かれている場所が、どのような場所でも、辛い場所、悲しい場所、痛い場所、耐えきれないような場所であっても、あなたを愛し、あなたのために命を投げ出されたイエス様が共にいて下さるのです。何があっても大丈夫です。どんな経験をしても大丈夫。神様は、あなたのいるその場所を恵みの場所、祝福の場所として下さるのです。

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