江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2016年9月18日)

2016-09-18 12:23:41 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第17主日)   2016.9.18

老人は進化(真価)する」 Ⅱコリント4:16~18

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。上芦別教会の愛する兄弟姉妹、おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝いたします。

 9月の第三月曜日、明日ですが、敬老の日です。敬老の敬の字を、恵みの字を当てて、恵老の日、恵みよって老いるの方がいいように思います。明日は敬老の日ですので、多くの教会では、今日の礼拝を高齢者のための礼拝、敬老(恵老)礼拝として守っているようです。青葉台教会では、毎年高齢者祝福式として、礼拝と午後からの愛餐会を行っていましたが、今年は、高齢者祝福の祈りをするということで、礼拝後に高齢者の方々のための祈りをささげること、そして、昨年までは星野富弘氏のカレンダーをプレゼントしておりましたが、今年は、グ~ンと小さくなってみ言葉カレンダーをプレゼントすることになっています。そして、今日の昼食は高齢者祝福の対象者の方々は、無料となっております。

 老人とは、あるいは高齢者とは何歳からなのでしょうか。国連では、高齢者は60歳からとなっています。WHO(世界保健機関)では65歳以上、人口動態調査上、統計学上では、65歳以上となっています。前期高齢者は、65歳から74歳、後期高齢者は、75歳以上です。青葉台教会の今日の高齢者祝福の対象年齢は75歳となっています。

 シルバー川柳というのがありますので紹介します。

 

 ポックリと逝きたいくせに医者通い 「やめとくれ」ただの寝坊で脈とられ

 こんにちは思い出せずにさようなら あれよあれ、それよそれよと答え出ず

 クラス会それぞれ持病の専門医   飼い犬が徘徊防止について来る

 やっと立ち受話器を取れば電話切れ ハグされてこわい私の骨密度

 五郎丸まねて念仏かと訊(き)かれ 老いるとは増える薬と減る記憶

 マイナンバー ナンマイダーと聴き間違え

 年賀状出さずにいたら死亡説    思い出が身辺整理の邪魔をする

 壁ドンでズボンの履き換えやっとでき ハイタッチ腕が上がらず老タッチ

 つまずいて足元見れば何もなし   どこで見る東京五輪天か地か

 鏡見て懐かしくなる母の顔     恐妻を天使に変えた認知症

 素っぴんに隣の犬が後ずさり    補聴器をはめた途端に嫁、無口

 

 聖書は高齢を神の祝福としています。70歳、80歳、90歳と生かされているのは、神の恵みです。生かされているがゆえの、困難や戦いがあるかも知れません。しかし、イエス様がそのように、一人ひとりを生かしておられることに大切な意味を思います。今日は、「老人は進化(真価)する」という題で、二コリント4:16~18を通してお話しします。

 Ⅱ本論部

 一、私たちは土の器

 イエス様の十字架と復活を信じた人は年を取りません、とは聖書には書いてありません。この世に生まれた者は、年を取り必ず死を迎えなければなりません。肉体を持ったままで永遠に生きることはできません。ですから、私たちの持つ肉体は、完全なものではありません。限りがあるのです。肉体を持つ私たちは、日頃から健康には気をつけます。しかし、いくら体にいい食事を食べても、運動をして鍛えても、土の器なのです。私たちの肉体は、弱くなり、病気になり、苦痛を経験しなければなりません。生身の人間なのです。

コリントの信徒への手紙第二の4章7節から、土の器についてパウロは記しています。私たちは土の器に過ぎない。土の器自体は、もろくて、無価値なものである。しかし、土の器であるけれども、イエス・キリスト様という宝を器の中に納めているというのです。私たちは確かに弱い。傷つきやすい。死を経験しなければならない。しかし、イエス・キリスト様という宝、十字架と復活を通して与えられる魂の救いと罪の赦し、永遠の命、復活の命という偉大な力をおさめているというのです。だから、四方八方から苦しめられても、圧迫されても、押しつぶされない。打ちのめされることはないのです。途方に暮れることはない。絶望することはない。たとい迫害されても決して見捨てられない。そのように言っています。

 パウロは4章10節で、「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの死がこの体に現れるために。」と語ります。この節をリビングバイブルでは次のように訳しています。「この体は、かつてのイエス様がそうであったように、いつも死に直面しています。ですから、私たちを安全に守ってくださる方は、うちに生きておられるイエス様だけであることが、だれも目にも明らかになるのです。」

 昨日、木村敦子姉から「今日か明日か、と医者に言われました。」とお電話があり、すぐに家内と共に病院にかけつけました。酸素吸入のマスクをつけ、苦しそうにしておられました。専門家である医者でもどうすることもできない。私たちもどうすることもできない。命は神様のみ手の中にあることを思わされました。しかし、私たちは、イエス様の死の体をまとっている。イエス様が苦しまれたように、私たちも苦しむことがある。弱い存在。土の器に過ぎない。しかし、その弱い土の器に、宝であるイエス・キリスト様がある。木村嘉男兄の肉体は弱り、声も発することができない。しかし、イエス様が共におられる。イエス様が内に住んでおられる。イエス様の十字架と復活を信じて、木村嘉男兄は、罪赦されて、魂に救いが与えられて、永遠の命、復活の命に預かっているのです。私たちには、そこにこそ希望があるのです。

 私たちの肉体は、年を重ねれば当然弱くなります。自分で自分のことができなくなります。しかし、私たちは復活であり、命であると言われたイエス・キリスト様を持っているのです。だから、大丈夫なのです。

 

 二、私の内にキリストが生きている

 16節を共に読みましょう。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」 

誰もが、若いころは、元気で一日や二日、寝なくてもなんとかやっていけるということがありました。無理がきく時代です。けれども、年齢を重ねると、ちゃんと寝ていないと、仕事にならないのです。また、若いと、ナザレンピックに参加して、走ったり、綱引きで力を入れたり、クタクタになっても、一晩寝ると次の日は元気に仕事ができる。けれども、年を重ねると次の日は筋肉が痛み、腰が痛くなる、歩くのにつらい。しかも、次の日になるともっとひどくなるということがあるのです。私たちの外なる人、肉体は確かに衰えるのです。年齢と共に正比例して、肉体は衰えるのです。これは全ての人に共通です。

 だから、何とか鍛錬して、運動して、サプリメントを飲んで老化を抑えようとしても限界があります。それが土の器なのですから。

 それが肉体を持つ人間であるけれども、落胆しないというのです。落胆しなくていいというのです。その理由として、内なる人は日々あらたにされていく、というのです。リビングバイブルには、「うちにある力は日ごとに強くなってゆきます。」とあります。私たちの内にあるもの、それは、イエス様の十字架と復活を通して与えられる救いの恵み、復活の命であり、イエス様そのものであり、聖霊の内住とも言えます。ガラテヤの信徒への手紙2章20節には、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」とあります。リビングバイブルには、「私はキリスト様と共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリスト様が、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の子を信じた結果、今、私の体のうちには、ほんとうのいのちが与えられています。」とあります。

 私たちの内側には、信仰があります。ヨハネの手紙第一5章4節、5節には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。

 私たちの肉体は衰えるとも、私たちの内側は、イエス様を信じる信仰がある。その信仰によって、日々新たにされて行くのです。神の言葉に日々触れて、新しくされるのです。

 

 三、見えないところに真実がある.

 私たちは、この世において、現実において苦しみます。肉体を持つ限り、痛みがあります。病気になり、痛みと闘っている方々は多くおられます。しかし、神様が与えて下さる永遠の祝福に比べると取るに足りないとパウロは言います。イエス様も十字架で苦しみを受けられましたが、復活されて神様の栄光を現されたのです。私たちの今の苦しみは、イエス様も共に負い、苦しんで下さいました。ですから、イエス様の肉体の苦しみを私たちも負っているといえるかも知れません。「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。」とパウロが言ったように。

 18節を共に読みましょう。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

 リビングバイブルには、「ですから私たちは、いま見えるもの、すなわち、身の回りの苦しみには目をとめません。むしろ、今は見えない天にある喜びを望み見ているのです。苦しみは、やがて消え去ります。しかし、その喜びは、永遠に続くのです。」とあります。

 見えるもの、私たちが持っている物全て、また、私たち自身も過ぎ去ります。形あるものは、古くなり、壊れ、朽ちていきます。私たちの肉体もそうです。赤ちゃんの時や幼少の時の肌を取り戻そうとして、ヒアルロンサン入りのドリンクを飲んでも、クリームを塗っても、無駄な抵抗なのです。勿論、見えるものも大切ですが、見えるものは限界があり、過ぎ去るのです。だからこそ、見えないもの、イエス様にある信仰をよりどころとしたいのです。

 聖書に記されたイエス・キリスト様は見ることはできません。けれども、生きておられます。私たち信じる者の心におられるのです。共におられるのです。世の終わりまで共にいると約束されたお方は、今私たちと共にいて下さるのです。その場所が困難な場所でも、人生の終わりを迎えようとしている、その場所にもイエス様は共におられるのです。そして、死ななければならない私たち、死という苦しみを経験しなければならない私たちに永遠の命、天国の望みを与えて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 「老人は進化(真価)する」というのが今日の説教題です。進化するという言葉は生物学的な言葉です。進化論というように人間がサルになるという仮説、その場合進化という言葉を使用します。私が考える進化は、よくなる、バージョンアップの意味です。そして、真価というのをカッコで説明しました。私たちの肉体は衰えても、どれほど年齢を重ねても、バージョンアップし、成長し、本当の値打ち、真の価値、能力が与えられる。年を取れば取るほど、肉体が弱れば弱るほど、内なる人、イエス様を神の子を信じる信仰は、新しくされる。バージョンアップされ、真の価値を発揮するのです。

 今、木村嘉男兄は人生の最後の時を迎えているかも知れません。だんだんと弱くなって、誰も何もすることができない。けれども、木村嘉男兄を創造し、嘉男兄のために十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげ、よみがえられ、今も生きておられるイエス様が兄弟と共におられるのです。肉体は弱くなっても、内なる人は新たになり、強くなり、ますますイエス様と近くなるのです。恐れることはない、私だ、そのように語られるイエス様が共におられるので大丈夫なのです。私たちは、そのことを信仰の目を持って見ることができるのです。何と幸いなことでしょうか。

 今、私たちの肉体がどのように痛もうとも、苦しもうとも大丈夫。イエス様は同じ痛みを経験されました。だから、慰めて下さいます。人との関係が遮断され孤独の中にいようとも大丈夫。イエス様も弟子たちに捨てられ、人々に裏切られ孤独を経験されたのです。

 私たちの見える所が、全てマイナスでも大丈夫。私たちは見えない信仰を持ち、今も生きておられるイエス様を見ることができるのです。そして、神の言葉と聖霊の豊かな導きの中で、日々成長し、真に価値ある者に変えられていくのです。この週も私たちはイエス様と共に進化(真価)していきましょう。

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