江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年4月23日)

2017-04-23 15:54:08 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)      2017.4.23

      「ハートが燃える経験」 ルカ24:13~35

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。4月の第四日曜日、復活後第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

先週は、イースター、復活日礼拝でした。3名の姉妹方が、青葉台教会に入会され、青葉台教会の一員となられました。これから共に励まし合い、支え合い、祈り合って、信仰を全うしたいと思うのです。

昨日は、恒例のナザレンピックが行われました。例年よりも人数的には少なかったですが、初めての参加の方々もあり、新しい競技も加わり、とても楽しい運動会を行うことができました。長瀬兄や三浦姉を中心に、準備して下さった方々に心から感謝致します。参加して下さった方々、張り切って頑張って下さいました。ナザレンピックの祝福のために、祈って下さった方々にも感謝いたします。毎年、4月29日に行っておりましたが、今年は22日に行いました。今年参加できなかった方々は、来年は、ぜひご参加下さったらと願っております。3チームに分かれての応援でしたが、やはり自分のチームが頑張っていると、応援も熱くなり、心が燃える経験をしました。

本日は、ルカによる福音書24章13節から35節を通して、「ハートが燃える経験」と題してお話いたします。

 

Ⅱ本論部

一、絶望の中にあるあなたと共におられるイエス様

今日の箇所も復活の記事のひとつです。24章11節には、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とあります。イエス様は、復活されたのに、弟子たちはその事実を信じなかったのです。

二人の弟子が、エマオ、エルサレムから約11キロ離れた場所に向かって歩きながら、婦人たちの話し、つまり墓にイエス様の遺体がないという出来事について話し合い、「そんなことはあるはずがない。では遺体はどこへ行ったのか。」と論じ合っていた時、イエス様が二人に近づいて一緒に歩き始めたのです。 二人の弟子のうち、一人はクレオパという人物でした。クレオパとはギリシャ名で、ヘブライ名はクロパとなり、クロパの妻はイエス様の十字架に立ち会っていたようです。もう一人の名前は記されておりませんが、瀬尾要蔵先生は、ルカではなかったかと言っておられます。

16節を共に読みましょう。「しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとはわからなかった。」 現代訳聖書には、「ところが、主イエスの復活が信じられない彼らの目には、それが主イエスであることはわからなかった。」とあります。 リビングバイブルには、「しかし二人には、イエスだとはわかりません。神がそうなさったのです。」とあります。よく知っている先生であるイエス様が、彼らと共に歩いておられるのに、彼らはイエスだとは気づかなかったのです。

「目が遮(さえぎ)られる」というのは、見えるべきものが見えないということです。イエス様の姿は見ていながらも、イエス様だとはわからないのです。この二人の心境は、落胆と失望、疑問の中にありました。私たちも、信仰生活の中で、イエス様の姿が遮(さえぎ)られることがあるかも知れません。困難や悲しみ、絶望という出来事の中でイエス様が共におられるのに、イエス様が見えない、イエス様を認めない、という状況があるのではないでしょうか。

イエス様の、この弟子たちは、イエス様に希望を置いていました。イエス様だけが望みでした。イエス様に自分の将来を託していたのです。19節にある「行いにも言葉にも力のある預言者でした。」という言葉に表されているように思うのです。多くの奇蹟を行い、その奇跡に胸踊り、イエス様の権威あるお言葉に、この人にこそ人生をかけていこうと考えたのです。彼らの思いは、21節の、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」とあるように、イエス様を政治的な指導者、自分の願いをかなえてくれる指導者として思い描いていたということです。だから、イエス様が捕えられ、裁判を受け、苦しめられ、十字架刑になって死んでしまったという現実、事実は、今までに自分たちがイエス様に仕え、従い、努力してきたこと全てが、水の泡となり、自分たちの人生の目標が失われ、全ての事が否定され、絶望以外の何も残らないという心境でのエマオへの旅であったのです。

しかし、それがどのように自分の思い描いていたことが崩れ去ろうとも、願いがかなわず絶望していようとも、全ての事が否定され、人生の目標を失って、悲しみと苦しみ、絶望の中にあろうとも、イエス様はクレオパたちのそばに寄り添い、共におられたように、私たちと共にいて下さるのです。たとえ、目が遮られ、イエス様を認めることができなくても、イエス様は共におられるのです。私たちが気が付かなくても、イエス様は共に歩んでおられるのです。その事を覚えたいと思うのです。

 

二、聖書に帰れ

イエス様を、イスラエルを解放して下さる政治的な指導者として見ていた弟子たちは、イエス様が十字架にかかって死んでしまわれたことで、大きな悲しみと絶望を経験しました。3年と少しの間、どのような驚くべき奇跡を起こし、権威ある言葉を語って来られたとしても、死んでしまったら一貫の終わりなのです。死という事実の前には、奇跡も権威ある言葉も何の力にもならないのです。

彼らは、イエス様が十字架につけられた場所からエマオへと逃避しようとしていました。エルサレム、それはイエス様の十字架の死の場所、彼らは悲しみの場所から逃げ出したのです。ですから、そのような彼らには、落胆と失望と絶望しかなかったのです。

そして、弟子たちが婦人たちの言葉を聞いても信じないかたくなな心、イエス様が生きておられる、と聞いても、また、イエス様の遺体が見つからなかったことを聞いてもバカげた話だと信じなかったのです。

そのような弟子たちの姿に、イエス様は25節にあるように、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われたのです。

弟子たちは、物分かりの悪さ、心の鈍さ、信じられないという不信仰がありました。これらの姿勢は、彼らがイエス様のそば近くにいて、イエス様から学び、教えを受け、驚くべき奇跡のみ業を見、権威ある言葉を聞いていても、弟子たちは、イエス様を理解することはなかったのです。放蕩息子の兄は、いつも父のそばにいながらも、父の心、父の兄に対する思いを理解できなかったのと同じだと思うのです。

私たちも、礼拝を守り、メッセージを聞き、聖書を読み、祈りの生活を送っていますが、イエス様を理解できないで、物分かりの悪さや心の鈍さ、信じられない不信仰が、時にはあるのではないでしょうか。

イエス様は、メシアである御自分を理解しない弟子たち、目が遮られてイエス様を認めることのできない彼らに、御自分の体を見せて、傷を見せて、私が十字架につけられたイエスでよみがえったとは言われませんでした。自分の体を見せるのが一番手っ取り早いことだったと思うのです。けれども、イエス様は、そのように見えると言う形では示しませんでした。

27節を共に読みましょう。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」 イエス様の十字架の死というものが、復活というものが、神様の偉大なご計画であること、聖書全体にわたって、その事が預言されている事、十字架の死と復活そのものが、神の愛の表れであり、救いの完成であることを、聖書全体を通して説明されたのです。イエス様の十字架の死は失敗ではなく、神様の救いのご計画、十字架の死を通さなければ復活がないことを示されたのです。

イエス様は、御自分の復活した体ではなく、聖書という視点で、神様のご計画という視点で、十字架の死と復活を見るようにと、聖書全体を通して教えられたのです。

私たちも、神様の奇蹟の業を経験したいと思います。神様の圧倒的な業を見たいと思います。けれども、神様から与えられたラブレター、聖書を通して、聖書全体を通して、神の業を見て行きたいと思うのです。

 

三、見えないからこそ心が燃えた

イエス様は、なお先に進もうとされたので、二人は日も傾いたので、一緒に泊まるようにと願い、イエス様を無理に引き止めたのです。イエス様は、家に入り、食事の席に着き、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡されたのです。5つのパンと2匹の魚で成人男性5千人を養われた時、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、渡されたことがありましたが、その時、二人の弟子もいたのでしょう。その光景を見ていて、二人の目が開け、イエス様だとわかったのです。

新改訳聖書を見ると、「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」と表現しています。リビングバイブルには、「その瞬間、二人の目が開かれ、その人がイエスだとわかりました。と同時に、イエスの姿はかき消すように見えなくなりました。」とあります。

共に歩いてきた人物がイエス様だとわかった瞬間、イエス様の姿は見えなくなったのです。イエス様もいじわるだなあと思います。けれども、イエス様は無駄なことはなさいません。イエス様だと気付いた時、イエス様の姿が見えている必要がなくなったということです。イエス様が見えなくならなかったら、32節の事柄は起きてきません。見えるイエス様に集中し、見えるイエス様に頼るからです。しかし、イエス様だと気付いた時、見えなくなったからこそ、32節の事柄が出てきたのだと思うのです。32節を共に読みましょう。 「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

エルサレムからエマオへの道のり、11キロ、2時間から3時間、話した時、いや、聖書全体を説明して下さった時、心燃えていた。あの時、心燃えたよね、と彼らは確かにイエス様の姿は見えなくたったけれども、イエス様の存在がより身近に感じられたのです、そして、イエス様の復活を信じることができたのです。婦人たちの語ったことを信じることができたので、イエス様の復活を他の弟子たちに伝えたいと、そこから、また11キロ、歩いて2~3時間を戻って、弟子たちの所に行ったのです。肉体的には確かに疲れていたけれども、心は燃えていた。霊的には熱きものがわきあがってきた。信仰的には、喜びで満たされていたのです。二人の弟子は、エルサレムからエマオへの道のりは、失望と落胆と疑惑の思いで一杯でしたが、エマオからエルサレムへの道のりは、喜びと確信と祝福の思いで満たされたのです。エルサレムという場所、イエス様の十字架の死の場所が、復活のイエス様に出会って、悲しみの場所、失望の場所、絶望の場所ではなくなったのです。

私たちが、今、現実に経験する悲しみ、失望、絶望の場所が、喜びと感謝と祝福の場所と変えられることを聖書は私たちに約束しているのです。

Ⅲ結論部

使徒言行録8章には、エチオピアの高官の救いの話しがあります。フィリポの導きで、イザヤ書53章を通して、イエス様のことを解き明かしてもらい、フィリポから洗礼を受けました。すると、主の霊がフィリポを連れ去ったと聖書は記しています。そして、その後聖書はこう語るのです。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」(使徒言行録8:39) 宦官は心燃やされて、喜びに満たされたのです。

聖書はイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを語ります。身代わりとは、イエス様が死ななかったら、私が死んでいたということです。イエス様の十字架の死を通して私たちの罪が赦され、イエス様が復活されたので、私たちに永遠の命が与えられたのです。私たちは聖書、神の言葉を通して、神の愛に触れて、心燃やされる経験を持つことができるのです。私たちは、この週も聖書を通して、神の愛に触れ、心燃やされてイエス様に信頼して、イエス様と共に歩んでまいりましょう

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