江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年1月21日)

2018-01-14 17:09:04 | Weblog

日曜礼拝(公現後第二)       2018.1.14

     「ハプニングがハッピーになる」 ヨハネ2:1~11

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第二日曜日を迎えました。2018年も2週間目を迎えます。2018年のスタートはどのような始まりだったでしょうか。ハプニングが起こった始まりでしょうか。それとも、ハッピィーな始まりだったでしょうか。

 今日は、ヨハネによる福音書2章1節から11節を通して、「ハプニングがハッピィーになる」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、喜びが失われる時がある

 今日の箇所は、ガリラヤのカナの結婚式のお話しです。イエス様が育ったナザレから近い場所です。日本でも結婚式は盛大です。結婚式、披露宴にかける金額は大きいのだと思います。最近披露宴では、お酒が飲み放題というのが普通なのでしょうか。お酒もあり、ワインもあり、サワーもあり、ビールもあり、ソフトドリンクありと給仕する人々は大変です。日本では1日で終わりですが、ユダヤの地方では、長いと1週間も続くのだそうです。飲み物は、ワイン、ぶどう酒のみでしょう。ですから、集まった人々は、ここぞとばかりに、飲めや歌えやでガブガブのんだのでしょう。十分に用意したつもりが、ぶどう酒がなくなってしまった、というのが今日のお話しです。

 酒とは、喜びの象徴でしょう。ですから、酒がなくなると喜びもうせてしまうのです。ラビの言葉に、「ぶどう酒のない所には喜びはない」とあり、ぶどう酒と喜びが比例しているということです。ぶどう酒は、お金や健康や成績、趣味等、置き換えることができるのかも知れません。お金のなくなる所に、健康がなくなる所に、喜びがうせるのです。

 イエス様のお母さんのマリアさんは、この結婚式の世話人の一人であったようです。親戚の誰かの結婚式だったのでしょう。ぶどう酒がなくなったということをいち早く知り、この事態をイエス様の所に持っていきました。「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に伝えたのです。マリアの夫ヨセフは早く亡くなったと言われているので、母マリアは長男のイエス様に頼ってきたのでしょう。また、受胎告知からイエス様の誕生、イエス様の幼少の出来事を通して、イエス様がただの人ではない。神様の働きをする人物だとも感じていたでしょう。問題が起これば、イエス様の所に持っていくというのが、、マリアの行動パターンだったのではないでしょうか。

 マリアさんは、そのようにイエス様の所に問題を持って行き、現状を知らせましたが、イエス様の方はちょっと感じが違いました。

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)と言われたのでした。 リビングバイブルには、「今はだめですよ、お母さん。まだ、奇蹟を行う時じゃありませんからね。」とあります。他の訳もそうですが、イエス様は、マリアさんの願いを否定したように思える言葉です。詳訳聖書には、「(敬愛する)女の方よ、あなたと私はそれになんの関係があるのですか(いっしょにする事があるのですか、私に任せなさい)。私の時(行動すべき時)はまだ来ていません。」とあります。ここには、人間の側の思惑とイエス様とのお考えには違いがあるということがわかります。

 

 二、わからなくてもいいイエス様を信頼しよう

 「ぶどう酒がなくなりました」とイエス様に現状を伝えた母マリアさんでしたが、この言葉の背景には、母としての権威、母の頼みだからとか、親子の関係なのだからとか、親しい間柄なのだから、このハプニングを解決してほしいというような思いがあったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、12節に、「その栄光を現された」とあるように、いつも神様の栄光を現すことを目的とされたのでした。勿論、お母さんの願いに答えてあげたい。この問題を解決してあげたいと思っておられたでしょうが、イエス様は単にぶどう酒がなくなったから、それを補えばよい。代わりのぶどう酒が準備できれば良いということではなくて、神様の栄光を現すことを目的とされるのです。

 「わたしの時はまだ来ていません。」という私の時とは、イエス様の十字架と復活を意味しているのでしょう。まだ、イエス様が救い主であるということを示す時ではないのかも知れない。しかし、神様の栄光を現すのです。

 マリアさんは、イエス様の語った内容が理解できなかったのかも知れません。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と言われてカチンときて、腹を立てるというような状況かも知れません。けれども、マリアさんは、カチンとこなかった。結婚式でぶどう酒がなくなるということは大変な事です。だから、窮状を伝えている。しかし、イエス様の言葉には、何をしようとしているのか、しないのか、理解できない。マリアさんは、理解できなかったし、イエス様のお考えがわからなかったけれども、わからないままに、イエス様にお任せしたのです。必ず、一番よいようにしてくれると信頼したのです。

 ですから、5節にあるように、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と召し使いたちに伝えたのです。

 私たちは、神様に、イエス様に自分の窮状を訴え、祈ることがしばしばあります。けれども、何の答えもないと、現状が変わらないとカチンときて、イエス様に信頼できないで終わってしまうことはないでしょうか。2017年の歩みはそうではなかったでしょうか。

 理解できないから祈らない。従わないというのではなく、マリアさんのように、神様のなそうとしていることが理解できなくても、イエス様のお考えがわからなくても、理解できないままにイエス様を信頼したいと思うのです。なぜなら、イエス様は必ず最善にして下さるからです。ローマの信徒への手紙8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とあります。神様は、万事、良い事も悪い事も益として下さるように共に働いて下さることを私たちは知っている、と言うのです。マリアさんは、この起こったハプニング、問題、窮状に対してイエス様は益となるように共に働いて下さることを知っていたので、召し使いたちにイエス様に言いつけには従うようにと語りました。

 私たちも、イエス様が最善に導いて下さることを知っているので、イエス様に全てを委ねて、2018年も歩みたいと思うのです。

 

 三、最高のものが取り分けてある

 イエス様は、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。すると、「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」と聖書は語ります。

 コップ一杯の水ではありませんでした。洗面器にいっぱいでもありません。80ℓから120ℓ入る6つの水がめに入れたのです。簡単な事ではありませんでした。ぶどう酒が無くなっ時に、水をかめにいっぱい入れる必要があるのかと考えてしまう行動です。召し使いたちも、イエス様の言われた言葉が理解できませんでした。けれども、世話人のマリアさん、言い換えれば、結婚式の主人の言った言葉、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」という命令に忠実に従ったのです。

 私たちは、神様を信じて従って行く時に、神様のなさることが理解できないで、何やってるんだろうと考えてしまうことがあるのかも知れません。必要なものはぶどう酒なにの、関係のない水をくむようなこと、試験があるのに礼拝に出席するとか、聖書を読むとか祈るとか、試験に合格するための勉強ではなく、神様を信じる者としての信仰者としての行動、礼拝や祈り、聖書を読むというような事をしていて、大丈夫なんだろうかと、こんなことしていていいのかと考えてしまうことがあるかも知れません。「水がめに水をいっぱい入れなさい」とはそうゆうことです。私たちの思いや理解を超えたことだと思うのです。

 召し使いたちが、一生懸命に6つの水かめに入れた水を宴会の世話役の所に持って行くようにとイエス様が言われたので、召し使いたちは、イエス様の言葉に従って、自分たちの汲んだ水を世話役の所に持っていったのです。この行動も召し使いたちは理解できなかったのだろうと思います。けれども、とにかく、イエス様の言葉に従いました。

 どこで水がぶどう酒になったのかはわかりませんが、9節には、「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。」とあります。素晴らしい極上のぶどう酒でした。このような極上のぶどう酒がどこから来たのかは、世話役は知りませんでした。けれども、水をくんだ召し使いたちは知っていたのです。自分たちが汲んだ水が最高のぶどう酒になったのですから。10節を共に読みましょう。「言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」」 披露宴が長い時は、1週間も続くわけですから、普通は酔いが回るとぶどう酒2、水が3の割合のものを出したようです。おそらく、今回の結婚式の披露宴でも、ぶどう酒2、水3の割合で出したのでしょうけれども、それでも不足したわけです。初めに良いものを出すのが常識だったので、最高のぶどう酒の味見をした世話役は、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と、花婿をほめたわけです。リビングバイブルには、「これは極上のぶどう酒じゃないですか。あなたは並みの方じゃありませんね。たいていどこの家でも、初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわって味がわからなくなると安物でごまかすものですよ。ところがあなたは、一番上等なものを、最後まで取っておかれたんですからね。」極上の、最高のぶどう酒をふるまわれることになったのです。

 11節の最後には、「弟子たちはイエスを信じた。」とあります。結婚式に参列した人々がイエス様を信じたとは書いてありません。この奇跡、水がぶどう酒になるという神様の栄光を現わされたのに、信じたのは弟子たちだけだったのです。何か驚くような出来事を通して、多くの人がイエス様を信じたというのとは違うのです。このガリラヤのカナでの奇跡の業は弟子たちのためであったと言えるのです。

 イエス様は、あなたのために、あなたの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。あなたの罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与えるために、十字架にかかり、命を与え

よみがえり栄光を現されたのです。それは、あなたがイエス様を信じるためなのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、6つの水かめの縁まで水を入れるように言われました。6とは、不完全数、未終了、未完成をあらわす数字です。7は完全数です。6つの水かめとは、ユダヤ教の律法では、水で手を洗いきよめるのですが、律法では、水では人間を清くすることはできないのです。イエス様は律法の水をぶどう酒に変えて下さった。つまり、ぶどう酒に象徴されているイエス様の血が十字架で流されることにより、私たちの罪が赦され、清められることを示しているのです。

 人生には、ハプニングが起こります。思いがけない出来事があります。突発的な事が起こります。幸せの絶頂、結婚式の時にハプニングが起こりました。なくてはならない喜びの象徴、ぶどう酒がなくなってしまったのです。しかし、そこにイエス様がおられたということです。人生には、ハプニングがつきものです。しかし、ハプニングが起ころうとも、そこに、その問題の只中にイエス様がおられるならば、そのハプニングさえも、ハッピィーにして下さるのです。神様を信じていても、信じていないのと同じような試練や困難を経験します。そのような状況で、ちっとも、よくならない。解決しない中で、神様のみ心がわからない。神様のしようとする意図がわからないことがあります。けれども、わからないならわからないままで、理解できないままでもイエス様を人生の中心に来ていただき、聖書を通して示されるお言葉に従って行動する時に、水が極上のワインに変えられたように、私たちの信仰生活、人生の中で栄光を現して下さるのです。水を汲んだ者だけが知っているとあるように、イエス様のお言葉に従った者だけが、その出所を知ることができるのです。私たちは、2018年の、この1年、わからないままにも、イエス様が必ず最善にして下さると信じて、確信してイエ様に信頼してまいりましょう。

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