江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年5月14日)

2017-05-14 13:57:01 | Weblog

日曜礼拝(復活後第四)      2017.5.14

      「母の涙の祈りに答える神」 サムエル記1:1~20

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第二日曜日を迎えました。今日も愛するみなさんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は母の日です。お母さんの日頃の労に感謝して、感謝の言葉やプレゼントを通して感謝を表すことができたら幸いです。青葉台教会の女性会の皆さん、母である皆さん、各家庭において、教会において、母として、女性として、見える所、見えない所で、多くの働きをありがとうございます。隠れた働きの多母親として(おばあちゃんとして)、いつも尊い、愛のこもったお働きをありがとうございます。母であり、女性であるみなさんの上に神様の豊かな恵みと祝福がありますように心からお祈り致します。

さて、今日はサムエル記上1章1節から20節を通して、「母の涙の祈りに答える神」という題でお話いたします。

 Ⅱ本論部

 一、信仰があっても苦しむのです

 偉大な預言者であり、イスラエルの歴史で大きな働きをしたサムエルは、母ハンナの祈りによって生まれ、祈りによって育てられたのです。人生の幸いのひとつは、祈り深い母を持つことなのです。

 エフライムの山地、ラマタイム・ツォフィムの住むエルカナには、二人の妻がありました。ハンナの名前が先にありますから、ハンナはエルカナの第一の妻で、ベニナは第二の妻であったのでしょう。彼女たちを説明するのに、2節には、「ペニナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。」と記してあります。当時、子どもを産まない女性は、神様に呪われた女性だと思われていました。夫エルカナは、妻ハンナになかなか子どもが与えられないので、ペニナを妻として迎えました。そして、ペニナはエルカナに子どもを産んだのです。そして、ペニナは、自分に子どもが与えられていることは、神様の祝福であること、そして、ハンナに子どもが与えられないのは、ハンナが神様に呪われていることをいつも言って、ハンナを苦しめたのです。

 一つの屋根の下で、妻が二人いるということは、それは大変な事でした。一人の夫と一人の妻だけであっても、いろいろと大変なので、エルカナとハンナ、ペニナの家庭は、お互いに気を遣い、子どもたちがいるペニナは鼻高々で、第一夫人を差し置いて、自分が第一夫人でもあるかのようにふるまっていたでしょう。けれども、夫のエルカナは、ペニナよりもハンナの方を愛していたので、ペニナの意地悪は過激になっていったでしょう。女性の嫉妬は怖いものがあります。特に、シロでの礼拝では、エルカナから分け前が与えられたので、ペニナは自分と子どもたちの分がもらえたのです。ペニナにとっては、この時が唯一女性として、母親として、ハンナより優位に立てる時であったのです。それがハンナにとっては、苦しみの時であったのです。このような複雑な家庭ではありましたが、エルカナは、礼拝祭儀には忠実な態度であり、年に1度のシロにおける仮庵の祭を守り、動物の犠牲をささげ、礼拝を守りました。

 礼拝を忠実に守り、キリスト者としての責任をちゃんと果たしていても、家庭の中に、いろいろな問題や課題があることを聖書は示しています。礼拝を忠実に守り、キリスト者としての務めをまじめに果たしていたら、家庭は円満で、問題がないということではないのです。クリスチャンホームであっても、それぞれに痛みや苦しみは存在するのです。

 クリスチャンホームなのに、ちゃんとしていないというような事を考える時があるでしょうか。信仰的にも、この世的にもちゃんとすることがクリスチャンホームではないのです。聖書には、アブラムやイサク、ヤコブの家庭が、クリスチャンホームがいかに問題であったのか。その問題や痛みを通して、神様が働き、神様の栄光があらわされることを聖書は私たちに語っているのです。

 

 二、解決は神様にあるのです

 5節の最後には、「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」とあります。ハンナの不妊の原因は、彼女自身の何かが原因なのではなく、神様だったのです。ハンナは不妊の原因を自分に、あるいは夫エルカナに向けていたでしょう。ですから、夫エルカナにも、いろいろと小言や文句を言ったのではないでしょうか。いら立ち愚痴を自分にも、夫にもまきちらしたのではないでしょうか。けれども、「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」とあるのですから、不妊であるという事柄を自分や夫に向けていても解決にはならないのです。現に、解決しなかったのです。

不妊であるという問題だけではなく、不妊であるが故の、ペニナからの攻撃やいじめがあり、大変苦しみました。それは、全て神様のせいなのです。神様がハンナの胎を開いていて下さったら、子どもが与えられ、ペニナが夫の妻になるということもなかったのです。全ては、自分の胎を開いて下さらない神様のせいなのです。この苦しみを通して、ハンナは、自分や夫、あるいはペニナに向いていた自分の心を神様に向けることになるのです。

確かに、私たちにも苦しみが与えられることがあります。原因が全くわからない。なぜ、このような苦しみや悲しみがあるのか。ヨブのように、苦しみの原因がわからないからこそ、苦しみが大きいということを私たちは経験することがあるのです。しかし、「主はハンナの胎を閉ざしておられた。」とハンナがそうであったように、神様が与える苦難は、その人を訓練し、整え、神の道へ、解決の道へと迎わせるのです。義の実を結ばせるというのが、聖書の約束なのです。私たちの経験する苦しみには理由があり、神様の深いご計画があるのです。

ハンナは、子どもが与えられませんでした。当時の考えによると、神様に呪われていたのでしょうか。そうではないのです。神様は、ハンナに対して素晴らしいご計画を持ち、素晴らしい結果を用意しておられたのです。

7節には、「毎年、このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。」とあります。口語訳聖書には、「こうして年は暮れ、年は明けたが、」とあります。年が明け、年が暮れ、いつまでも苦しみは続いているということです。この苦しみは、ここで終わるというような期限がわかっているならば、まだ耐えることもできたのでしょうが、今の苦しみが永遠に続くように思われ、他の人よりも自分の苦しみが何倍にも思われた苦しみだったのです。そのハンナは神様に心を向け、祈るのです。ハンナが経験した大きな痛みと苦しみが、彼女を祈りへと向かわせるのです。今、私たちが経験する痛みや苦しみは、私たちを神への祈りに向かわせるものになるのです。

 

 三、神様の御心がなりますように

 皆さんと共に、10節と11節を読みましょう。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子を一生主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

 ハンナは神様に祈りました。自分の苦しみや悲しみを訴えました。人にではなく神様に自分の思いをぶつけたのです。この祈りの言葉の中に、ハンナの祈りの変化を見ることができます。初めの神様への訴えは、まだ自己中心的な祈りであったと思います。彼女は、自分の苦しみを見て下さり、自分に心を留め、忘れないでほしいことを祈り、男の子を授けてほしいと祈ります。子どもが与えられないということで、ハンナは散々苦しみました。神様に呪われていると言われたでしょう。ペニナには、子どもがいないことでいろいろと悪口や批判を浴びせられた。だから、男の子が欲しい。男の子を与えて下さいと祈るのです。男の子が与えられたならば、ペニナを見返すことができる。初め、ハンナの祈りの原動力は、ペニナに対する嫉妬や恨み、そのようなものが祈りの原動力であったのではないかと思うのです。

 けれども、祈りの中で男の子が与えられたならば、その子を神様に一生ささげますと祈ります。子どもがいなかった状況の中で、男の子が与えられたならば、その男の子を立派に育て上げて、優秀な子に、宗教的にもりっぱな子に育てて、ペニナを見返したいと思いがあったでしょうが、そのような自己中心的な祈りから、その子を神様に一生捧げますと神様に明け渡す祈りをささげたのです。与えられた男の子をささげるということは、自分をささげるということだと思うのです。

 日本ナザレン教団では、5月は献身者奨励月間となっています。神学校を覚え、祈ると共に、神学校に献金する月でもあります。ぜひ、クリスチャンホームの中から献身する者が起こされますように、私たちは祈りたいと思います。案外、クリスチャンホームの親は、自分の子どもが献身したいと言うと反対することが多いようです。他の家庭の子どもが献身することは賛成ですが、自分の子になると反対するのです。牧師になって、将来大丈夫かと心配するのです。ぜひ、ハンナの祈りをしていただきたいと思うのです。男の子でも、女の子でも、今与えられている子どもを神様におささげしますと祈れたらいいと思います。

この青葉台教会から献身して、神様のために働く器が起こされることを私は毎日祈っています。ぜひ、皆さんもお祈りをお願いいたします。

 ハンナは男の子が与えられたら、神様に一生ささげると祈りましたが、たとえ男の子が与えられなくても、たといそうでなくてもと祈ったのだと思うのです。

 彼女の祈りは長く続きました。また、声も出さず心で祈っていたのでしょう。祭司エリに酒に酔っているのだと間違われますが、彼女は「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました。」「今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」と訴えました。自分の心からの思いを告げたのです。

 エリは、17節にあるように、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と語りました。大丈夫。神様はあなたを愛し、あなたに目を留め、あなたの願いに答えて下さるから、と神様のみ業がなされることを示したのです。

 18節には、「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」とあります。神様に祈りをささげ、神様が最善にして下さると信じることができたハンナは、悲しみの顔、苦しみの顔ではなく、神様に期待する、信頼する表情となっていたのです。何も変わっていないのです。状況は何も改善されていないし、良くもなっていない。けれども、彼女の表情は、まえのようではなかったのです。神様が共におられること、神様が必ず一番良いようにして下さることを信じることができ、確信できたからだと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 神様は、ハンナの祈りに答え、信頼に答えて、御心に留め、男の子を与えられたのです。

そして、ハンナは与えられた男の子に「サムエル」と名付けたのです。シェーム(名前)とエル(神)からなる合成語で、「その名の上に、神の名が唱えられる者」、サムエルと名付けたのです。

 私たちは、ハンナのように苦しみや悲しみを経験します。そして、その苦しみのゆえに、私たちは、愚痴やいら立ちがあります。あなたの今の愚痴やいら立ちは何でしょうか。あなたの愚痴やいら立ちは、どうしたら解決できるのでしょうか。自分や人に向かって愚痴っている限り、いらだっている限りにおいて、解決は与えられないのです。私たちは、神様に目も心も向ける必要があるのです。ハンナは、自分の苦しみを見て下さり、自分に心を留め、忘れないでほしいと祈りました。神様は、ハンナの苦しみを知っておられました。ハンナに心を留めておられました。ハンナを忘れるどころか、しっかりと覚えていて下さいました。同じように、神様は私たちの苦しみを知り、大変であればあるほど、より強く心に留め、忘れることなく覚えていて下さるのです。イエス・キリスト様を十字架に釘づけするほどに、十字架で身代わりに裁くほどに私たちを愛し、私たちを大切にされたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの罪は赦され、神様の前に義とされ、魂がが救われて、永遠の命を与えられ、神様と共に生きる者とされたのです。

 私たちは、苦しみや悲しみを経験します。「こうして年は暮れ、年は明けたが、」とあるように、ハンナの苦しみが永遠に続くように、私たちの苦しみもいつまで続くかと思われるかも知れません。しかし、ハンナは苦しみの中でありながら、神様を信頼する表情に変えられたのです。「安心して帰りなさい。」とエリはハンナに言いました。同じように、イエス様は私たちに安心しなさい。大丈夫だと語られるのです。そのように語られ、私たちと共におられるイエス様を信じて、この週も歩んでまいりましょう。

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