江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年1月15日)

2017-01-16 11:36:20 | Weblog

2016115日 青葉台教会 公現後第2聖日礼拝

聖書 ネヘミヤ記8:912「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力です」

 

導入

おはようございます。お祈りをさせていただきます。

年始、私は、ある友人と関係が上手くいかず、ずっと心の中で引っかかった状態でした。歩み寄る勇気がないので、距離を取り続けることもできたのですが、信仰の先輩の「キリストは自分から近よって下さったよ」というセリフが心に残りました。そして、それ以来何度も祈り、力と勇気と励ましを求めました。だんだん許しの心も与えられ、自分の思いを捨てて、何があろうとも神様だけには全き信頼をおこうと思えるようになりました。再会した時、とても平安で何とか和解することができ、生活の中でも神様が働かれる時、どんなことでも信頼することができることを年始に教えられました。今朝の聖書箇所ネヘミヤは、困難や試練の中でも、全き信頼と祈りを持ちつづけ、民に喜びが与えられたところと重なりました。神がどれだけ、私たちを愛し、赦し、忘れられないお方であるのか、ネヘミヤ記8:912「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力です」と題して、聖書から見ていきたいと思います。

 

本論Ⅰ 歴史的背景 神様の働き

イスラエルのダビデ王朝は2代目のソロモンの死後、王国は2つに分裂しました。北イスラエル王国、南ユダ王国の2つに分かれ、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、南ユダ王国は、バビロン帝国によってバビロンに連れ去られました。バビロン捕囚というのが、それにあたります。

預言者エレミヤは捕囚の民は70年という期限で戻ってくるという預言をしましたが、預言通り、70年目にペルシアは、バビロン帝国を征服しました。そして、ペルシア王キュロスによって、その年にはエルサレムに帰還が決まり、帰国が許されたのです。外国から70年ぶりにエルサレムに帰還した捕囚の民は、学者エズラを中心に神殿再建を行い、それらはネヘミヤ記の前のエズラ記に描かれている出来事にあたります。エルサレムは滅ぼされたままの状態で、崩壊した状態の神殿再建は、困難が立ちふさがっていましたが、エズラ記でやっと神殿の再建が完成したのです。けれども、神殿は再建できましたが、街を囲む城壁は荒れたままでした。ちょうどその時代にペルシア王キュロスに仕えていたのが、献酌官ネヘミヤで、ネヘミヤ記に記しているわけです。

ネヘミヤとエズラはほぼ、同時代に神殿再建、城壁再建に関わっており、ネヘミヤは第Ⅱエズラとも言われています。

 

ネヘミヤは、祖国であるエルサレムに深い関心を抱いていました。親類の一人ハナニが数人の人とペルシアの首都スサに来たので、祖国エルサレムの状況を尋ねます。聞くところによると、「捕囚の生き残りでこの州に残った人々は、大きな不幸の中で、恥辱を受けている。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままでした」と告げるのです。やっと帰還が許されたのに心が傷む報告でした。

 

14節〜6節 これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を絶ち、天にいます神に祈りをささげた。わたしはこう祈った。天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ、主を愛し、主の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いで下さる神よ。耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今、わたしは昼も夜も祈り、イスラエルの人々の罪を告白します。わたしたちはあなたに罪を犯しました。わたしも、わたしの父の家も罪を犯しました。」

ネヘミヤは民の罪を罪の告白として、神に祈りでささげているのです。神による救いと贖いのわざと、回復を切に求める祈りがここにありました。ネヘミヤはとりなしの祈りの後から城壁再建の思いが募り、増すばかりでした。アルタクセルクセス王に献酌官として仕えていたネヘミヤは、王の前で暗い表情をすることはありませんでしたが、今回はいつもと違ったようです。人は落ち込み、悩みを抱えていると表情に表れるようです。ネヘミヤの場合もそうでした。王は、ネヘミヤの内面にある悩みと苦しみに気づき、「2:2あなたは病気でもなさそうなのになぜ暗い表情をしているのか。何か心に悩みがあるにちがいない。どうしたのか。」と王が声をかけられるという奇跡的なことが起こったのです。

「何を望んでいるのか」ときかれ、ネヘミヤはまず、神に祈ってから、王の強力な助けを得たのです。エルサレムの惨状を王に告げ、先祖の墓があるエルサレムの町が荒廃し、城門が火で焼かれたままなのです。僕が御心にかない王に差し支えなければ、町を再建したいので、どうかお遣わし下さい」と願い、神の働きで、王は喜んで派遣してくれたのです。ネヘミヤはなんでも一人で決めるのではなく、まず神に祈り、神に対して全き信頼をしている信仰を見ることができると思うのです。仕えている側として、勇気が必要だったと思いますが、全き信頼をもって行動したネヘミヤを通して私たちにも教えられることがあると思うのです。さらに、エルサレムへと喜んで送り出してくれたことにおいて、神の御業を見ることができます。

 

本論Ⅱ

ネヘミヤはエルサレムに着き、3日間過ごした夜、数名のものと一緒に出かけ、城壁の視察をしに出かけました。そしてすぐに再建計画を立てます。ただ、エルサレムで何をすべきかについて、神が心に示して下さったことは、誰も知りませんでした。そして、指導者たちを召集し、さっそく建築に取り掛かろうと、一致しました。失いかけていたエルサレムの地で、希望に燃え、主の民がこの良き仕事に就き始めると、そこには試練も待っていたのです。

それは、イスラエルの人々のためになることをしようとする人が遣わされて来たと聞いて、気分を害し、妨害するホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェム達でした。再建に取り掛かると、①彼らは、「王に反逆しようとしているのか」と主の民を嘲笑い、さげすみ、馬鹿にしてきたのです。主のために働く時、悪の霊も働くのです。辱められながらも、ネヘミヤは城壁再建のために働くように、民を配置しました。民の各集団は、城壁を修復するために、それぞれ1つの場所を受け持ち、取り掛かります。

ネヘミヤ達にとってこの再建中の苦しみは、試練ですが、主の民をさらに強めて、知恵が与えられ、城壁という広い面積の大工事を一挙に推進することになりました。

②崩れていた城壁の壁が完成し、再建が進むと、敵が非常に怒り、圧力をかけて、侮辱してきました。敵はこう言いました。3:35城壁ができたとしても、そんな石垣などキツネが登るだけで崩れてしまうだろう。」言葉は人を生かし、また殺す武器にもなりますね。しかし、主の民には働く意欲がまだあったのです。

③城壁の全長に渡って高さの半分まで築いた時、敵のサンバトラとトビラ、アンモン人、アシュドドの市民は、大いに怒り、次の妨害作戦に挑んできました。

それは、皆で共謀してエルサレムに攻めのぼり、混乱に陥れようと陰謀を企ててきたのです。ここでもネヘミヤはまず神に祈りました。そして、民は、敵の襲撃に備えて、武器を携えながら、城壁を修復しました。神に祈って、知恵をいただき、日夜民を警備組と工事組に分け、昼も夜も守りつつ工事を進めたのです。ネヘミヤは、折々に持ち上がる問題を解決して人々を助けました。

いよいよ城壁の再建が進み、崩れたところが1つも残らず、あとは城門に扉をつけるだけという時、敵たちも再建まであと一歩と耳にしたのでしょうか。再度妨害をしてきたのです。

敵サンバラトとゲシェムは、ネヘミヤに使いを送り、4回に渡り、ネヘミヤを呼び出して危害を加え、殺そうと図りました。また禁じられている神殿の聖所の中に誘導し、罪を犯させようとしたりしました。何度も困難にあい、屈辱、罪を犯させようとされ、命を狙われても、まず神に祈り、知恵を得て主の民を励ましたので、組織的も霊的にも強められ、意欲を失うことなく、完成したのです。

 

敵には「到底、再建は不可能だ」と思われていた矢先に、なんとわずか52日で城壁、扉の再建完了したのです。これは、本当に神のみ業で、驚くべきことなのです。たったの52日で完成したのですから、敵でさえも、この完成のために神が民をお助けになったことを悟ったのです。

私たちは、時に行動することを求められる時があります。また、今年は何か新しいことにチャレンジしようとしている方や、目標に向かって進もうとしている時、何かをするとき、是非、ネヘミヤのように祈り、主に全き信頼を持ってから望んでみてはいかがでしょうか。ときには、ネヘミヤのように勇気がいるかもしれません。また1週間、試練や苦しみに遭われた方がおられるかもしれません。全き信頼をもって祈りつつ、神様の助けをいただいて行動を起こしていきたいと思います。

 

本論Ⅲ

・聖書の言葉に渇いていた

エルサレム城壁工事が完成して、1ヶ月後に人々は神の言葉を聞くために、水の門の前にある広場に集まりました。それは、仮庵の祭りの初日でした。彼らは自発的に集まり、宗教指導者エズラに「主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持ってくるように求めた」のです。聖書から御言葉を聞きたいと願い出しました。これが人々の心の渇きでありました。

8:3広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」

エズラはモーセの掟の巻物を朗読する姿が誰からでも見ることができるような高いところに立ち聖書を開きました。夜明けから正午まで、ずっと読み続け、民は耳を傾け続けたのです。そして、御言葉と背後におられる神ご自身に心から礼拝をしたのです。エズラが巻物を読み上げると、7節に記されている13人のレビ人たちが人々の間に入って、その律法の意味を民に解説し、人々は神の御言葉を理解することができたわけです。

どれほど、嬉しかったでしょうか。70年も巻物から神の御言葉から聞くことができず、忘れかけていた状態でしょうか。スポンジで水を吸収するように、捕囚の民の心に御言葉が浸透して行ったのです。どれほど干していたのでしょうか。夜明けから正午まで浸り、感動し、霊的にも生き返ったのでしょう。律法を聞いて理解出来る年齢が集まっているのですから、あらゆる世代の民が集っていたと思います。

不思議なのは、民は、皆律法の言葉をきいて泣いていたのです。彼らの最初の反応は、悲しみでした。前後を読みますと、神に従わず、不信仰の原因で、捕囚という前代未聞の苦しみを通ってきたということを律法の預言によって悟ったと思います。また、聖書の水準よりも低い霊的で、神様を悲しませていたことに気づいたと思うのです。いかに神から離れていたのだろうか。罪のせいで捕囚の民となり、どれほど辛かったか。しかし、今は主の言葉を聞いて、主は哀れみをもってエルサレムの神殿と町を再建してくださった。もう一度、チャンスを与えてくださった。主の恵みと慈しみが解り、律法に飢え渇いたのです。彼らは自分たちの罪、また先祖の犯した罪も示され、悔い改めたのです。

そして、ネヘミヤとエズラとレビ人は、嘆いている彼らを励ましました。9節 今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」「10節 彼らは更に言った。行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。

ネヘミヤとエズラ、レビ人たちに言われたこの言葉は、捕囚の民にとってどれほど嬉しかったでしょうか。私たちの真の力の源は主を喜び、礼拝するところにあります。すでに、私たちはキリストによって贖われています。

Ⅱコリント7章8−9には「神の御心に沿った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらせます。」という御言葉があります。民は御言葉によって、悔い改めました。神様は私たちの悔い改めを喜び、ゆるしの恵みをお与えになられるお方です。

ネヘミヤは御言葉によって心刺され嘆いている人々に、「嘆くのではなく、喜びなさい」と語りました。イスラエルがどれから解放されたこと、荒野の苦しい生活から解放され、約束の地へ導かれたことを記念する贖いの日。捕囚中は贖われた事を、忘れていたのかもしれません。

私たちは、私たちの罪のためにキリストが死なれ、贖ってくださいました。罪赦される日を覚える日であるのです。だから、ネヘミヤはその喜びを身体で表すためにご馳走を食べよう、そして祝おうと進めました。

贖われたことを喜び、祝い、分かち合いました。神の御言葉が心に触れ、新しく神の道を歩み出したのです。私たちはすでに贖われていますので、自分に与えられた御言葉を受けとり、贖われたことを隠さず、喜び、感謝しながら、生活の中で証していきたいと思います。

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