江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜「礼拝(2017年6月18日)

2017-06-18 12:34:33 | Weblog

合同礼拝(三位一体第一主日)    2017.6.18

こんなうまいもん食べたことがない」 ルカ15:11~24

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月第三日曜日を迎えました。今日は、第一礼拝は、中高科の皆さんと合同礼拝、第二礼拝は幼小科のお友だちとの合同の礼拝です。今日は父の日です。世のお父さんたちは、日頃から家族のために、一生懸命に働いています。家族のために、どんな苦しみも辱めを真っ向から受け止めて頑張っているのです。どうか、今日だけは、今日こそは、いたわりの言葉、慰めと励ましの言葉と目に見えるプレゼントをよろしくお願いいたします。勿論、言葉だけでも元気になりますが、目に見えるものがあると百倍の元気がでるように思うのです。

6月14日で、私は60歳になりました。還暦というやつです。赤いちゃんちゃんこなど着ませんが、人生の後半に突入しました。多くの方々からお祝いの言葉をいただき、また、見えるものもいただき、幸せ者であることを強く感じております。まだ、間に合いますので、まだの方はどうぞ!

 さて、今日は6月の第三日曜日、今日はルカによる福音書15章11節から24節を通して、「こんなうまいもん食べたことがない」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、幸せの場所は案外近くにある

 今日の箇所には、父と子との関係が出ています。お父さんと息子の関係です。この父には、二人の息子がいました。そして、兄よりも弟は、ちょっとワルという感じだったでしょうか。後から出てくる兄は、父の言いつけをちゃんと守るマジメな人間として描かれていますが、父に対しては遠慮があり、父の傍にいながらも、心は遠くにいたというように思います。弟は、真面目に働くのが苦手な人間、楽をして暮らしたいという遊び人的な人間だったのでしょう。楽してお金を自分のものにすることを考えた挙句の果てに、父に財産の分け前をもらうことが、お金を手にする方法であることを思い着き、実行したのです。だめもとで父に頼んでみたら、何と父は財産を分けてくれたのです。兄にも財産を分けたのでした。無茶な子どもの要求に答えるダメ親父なのでしょうか。

 子どもに対して、厳しく育てる親とそうでない親がいるのかも知れません。それは、自分が育った環境に対して、そのことが影響していることでしょう。

私の父は、ほとんど家にはおりませんでした。海外航路の船員でしたから、ほとんどいない。母が一人で育ててくれたようなものです。母はやさしく、私は5人兄妹の末っ子でしたから、ヤコブがヨセフを愛したように、母は末っ子の私に対してとてもやさしい人間でした。私は末っ子ですから、兄や姉の行動パターン見ていたので、母に叱られるということはほとんどありませんでした。母親には手のかからない子どもだったと思います。どちらかと言うと真面目で、悪いことはしない子どもでした。この物語に出てくるお兄ちゃんタイプだったのかも知れません。

財産を兄と弟に分けてあげた父は、弟がどうするのかは予想できたのではないでしょうか。弟息子の性格をよく知っていた父は、弟が出て行ったことを知ります。弟息子は、父の元から離れていったのです。父の元にいることが息苦しくて、できるだけ父のいる所から遠い所に行ったのです。よく言えば、親からの自立、悪く言えば、家出であったのです。この父親は、弟息子のそのままを受け入れ、そのままの姿を愛していたのです。このような愛に満ちた父のもとにいることがどんなに幸せな事かを彼は知らずにいたのです。

 二、本当の幸せはどこにあるのか

 家を出て行った息子は、多くのお金を持ち、父の元にいた時にはできない自由と自分の思いのままに何でも買い、何でも自分の思い通りにしたのです。それは、楽しい時間でした。そして、多くのお金を持つ弟息子の周りには、お金を求めて、お金でしかつながらないような人間関係がありました。そして、そのような人間は、弟息子の機嫌を取り、彼をヨイショし、彼の言うことは何でも言うことを聞くのです。こんな楽しい経験は、父の元では一生無理だと感じていたでしょう。

 けれども、毎日のように贅沢に、湯水のようにお金を使っているとあっという間に底をついてしまうのです。いったい自分がいくら持っているのかさえ、わからずにいたのでしょう。計画性もなく、ただ楽しく、おかしく、贅沢に、美人と一緒においしいもの食べ、休みたい時に休み、自由奔放な生活、それは本当に幸せな人生なのでしょうか。彼の人生はお金が亡くなったとたんに変わりました。人々が彼の元から去り、誰も残らない。悪いことに、飢饉があり、食べる物さえない。異邦人の土地で、ユダヤ人には汚れたとされる豚の世話をしなければならないほどに、彼は落ちる所まで落ちたのです。楽をしてお金を持ち、楽しくおかしく生きるというのが、夢物語であることを実感したでしょう。自分の死を直感した時、自分の人生を振り返り、父との関係、父との暮らし、父の愛とやさしさを思い出すのです。そんな優しい父でも、こんなに落ちぶれた自分を息子としては認めてくれないだろう。息子ではなく、生きていくためには恥ずかしい事ではあるけれども雇人として、働いて、賃金をもらって生きていこうと彼は決心したのです。

 聖書には、「彼は我に返って言った。」とあります。何日も食べていなかったのでしょう。豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思ったぐらいで、食べる物はなかったのです。くれる人もいなかったのです。栄養失調でふらふらの状態、彼は我に返りお父さんのことを思い出したのです。自分のいるべき場所は、お父さんの所だと分かったのです。そして、息子の資格はもうないので、雇人として、雇ってもらうために、父の元に帰ることを決心したのです。

 彼は、家を出る時には、いろいろな期待を持って、大金を持って自信にあふれて出て行ったでしょう。けれども、今は、全ての物を失いました。お金も、健康も、息子としての資格も、すべて失い、不安と絶望と恐れに満たされて父の家に向かったのです。しかしそれは、歩くにしても、フラフラで数メートル、数十メートル歩くのにも時間がかかり、体力もないのですから、休み休みの、気が遠くなるような旅だったのです。ただ、心の中では、18節の言葉を繰り返し、繰り返し言っていたのではないでしょうか。

 三、遠回りして見つけた幸せの場所

 何日も何日もかけて、彼は父の元に帰って来たのでしょう。父は怒っているだろう。会ってもくれないかも知れない。無視されるかもしれない。叩かれて追い出されるかもしれない。いろいろな思いが考察したでしょう。けれども、帰ってみると意外な結末があったのです。テレビドラマの最終回の宣伝の言葉のように、劇的な結末、予想もしなかった結末、父の愛があふれる出来事が待っていたのです。

20節の後半には、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。弟息子にしては、想定外の父親の行動でした。けれども、練習してきた言葉を彼は言います。21節を共に読みましょう。「息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」」本当なら続いて、「雇人の一人にしてください。」という言葉があったのです。結論は、「雇人の一人にしてください。」という言葉なのです。しかし、父はその言葉を言わせなかったのです。その言葉を言おうとした息子の言葉をさえぎったのです。息子が自分に向かって、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言い切ったのですが、父は息子に言ったのです。22節と23節を共に読みましょう。「しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」 

裸同然の息子の姿に心痛めた父でした。一番良い服や靴を用意し、父と子との関係回復のために、指輪をはめさせたのです。そして、宴会を開くのです。牛ステーキ、霜降りのすき焼き、しゃぶしゃぶ、ローストビーフなど、おいしいものが出てきたでしょう。何日も食べ物を食べていない息子は、久しぶりのご馳走に、「こんなうまいもん食べたことがない」と叫んだのではないでしょうか。叫んだはずです。6月14日は、わたしの60回目の誕生日でしたが、牛ステーキを食べました。次の日は、霜降りの最高級の牛すき焼きを食べました。まさに、「こんなうまいもん食べたことがない」というような経験をしたばかりです。空腹であることが、ご馳走だということが言われることがあります。どのような食べ物も、空腹であるなら、おいしいご馳走になるからです。弟息子は、空腹であった上に、最高の霜降り牛を食べたのですから、それは、それはご、馳走であり、人生今までの最高の食事であったでしょう。「こんなうまいもん食べたことがない」という思いでいっぱいだったのではないでしょうか。

 Ⅲ結論部

 鹿児島ナザレン教会の久保木聡先生のお父さんの口癖は、「こんなうまいも食べたことがない」という言葉だそうです。何を食べても、「こんなうまいも食べたことがない」と言われたそうです。そのような話しを聞いていたので、ちょっと関西風にして、「こんなうまいもん食べたことがない」という説教題にしました。この弟息子が、宴会のご馳走を食べたら、「こんなうまいもん食べたことがない」と言っただろうと感じたのです。

 私たちは、聖書に記された神、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかり、血を流し、命をささげるほどに私たちを愛されたイエス様の愛に触れました。この愛に触れた時、私たちは、今まで食べたことのないようなご馳走を味わった以上の喜び、「こんなうまいもん食べたことがない」と感じる以上に、あの放蕩息子は、父の元から離れて、自分の好きなように生きて、ズタズタになった者をそのまままで、そのままの姿で受け入れ、愛し、包んで下さる父の愛に触れて、父の元にいることが自分の本当に幸せであることを知った。同じように、私たちの帰るべき所は、神様の元なのです。尊い血を流し、命まで与えて、私たちの罪を赦し、魂を救い、死んでよみがえることによって、私たちに永遠の命を与えて下さった神様、イエス様の所が、私たちが本当に安心し、平安で、おるべき場所なのです。イエス様は、私たちの帰りを手を広げて待っておられるのです。いや、待っておられるのではなくて、天の位を捨て、神の姿を捨てて、人間の姿でおいでになり、私たちを救うために、私たちの持つ罪の身代わりに十字架にかかって命をささげて下さったのです。そのような愛で今も愛し続けていて下さるのです。

 私たちが今、どのような罪を犯し、罪の只中にあろうとも、神様に背を向け、自分勝手な生き方をしていても、あなたの帰りを待っておられるのです。そして、今までに経験したことのない素晴らしい体験を、恵みを、祝福を用意しておられるのです。息子の資格のない者を息子として愛し受け入れた父親のように、神様は、クリスチャンとして足を踏み外して、クリスチャンとして資格がないと思っている者に、回復を与えて下さるのです。そのまままのあなたがそのままでクリスチャンとして、神の子として、生きることができるのです。そのような愛で愛されていることを感謝して、信じてこの週も歩みましょう。

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