江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(9月4日)

2016-09-04 17:58:15 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第15主日)    2016.9.4

人生の逆風が吹いても大丈夫」 マタイ14:22~33

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。上芦別教会の愛する兄弟姉妹、おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝いたします。

 私は8月21日の夜から車で神戸来行きました。22日の朝早く着きましたが、珍しく頭痛で大変でした。59年間の生涯で頭痛があったというのは3回ほどしかありませんでしたので、頭が痛いというのは大変なことだと思わされました。頭痛で苦しんでおられる方も多くおられるかもしれません。頭痛だけでなく、この私に食欲がないという驚くべき状態で、好きな風呂にも行かず、寝ておりました。家内は、私に食欲がないということで心配したようです。風邪だったのか、疲れだったのかはわかりませんが、とにかくゆっくり休むことができました。次の日は食欲も出て、大好きな風呂に行きゆっくりとできました。水曜日は、私の母の所に行き、横浜に帰りました。夏の休暇は金曜日まででしたが、木曜日に葬儀が入り、早く帰ってまいりました。家内や子どもたちは、いろいろとでかけてよい時を持てたようです。お祈りに感謝いたします。

 25日の木曜日は、北部 斎場で、谷山恵子姉の葬儀が家族のみで行われました。姉妹が信仰を持って救われたこと、永遠の命を信じて天に召されたこと、その信仰をご家族にも持っていただきたいということをお話ししました。また、火葬している間に、谷山姉のご長男、長女、次女の方といろいろとお話しをすることができました。教会の皆様によろしくと言っておられました。谷山姉のご家族のために続けてお祈り下さい。 

 25日の午後は中川兄の荷物の整理がついて、姉妹方が掃除をして下さるということで部屋を見て、姉妹方に掃除をお願いしました。暑い中大変だったと思います。感謝です。

 先週は、北海道の上芦別ナザレン教会に行きました。朝8時の便で札幌千歳空港に行き、札幌からバスで上芦別まで行き、教会では兄弟姉妹が待っていて下さり、お話しをさせていただきました。1月に行った時は、雪で真っ白でしたが、今回は夏のすがすがしい時でした。日曜日の礼拝は、私を入れて8名でした。牧師不在、無牧の状態で6年目を迎えておられますが、兄弟姉妹は、イエス様を信頼して、毎週の日曜日と祈祷会を守っておられました。そのように無牧の中で、牧師不在の中で、礼拝と祈祷会を守り続けておられる方々と共に礼拝をささげることができましたことは本当に幸いでありました。唯一の男性である井上兄が、「最近、先生は上芦別教会の皆さん、おはようございます。と言われませんね。」と言われました。それは、青葉台教会の礼拝の説教を一か月遅れで上芦別教会の礼拝で聞かれるので、そう言われました。一番最初に、「上芦別教会の皆さん、おはようございます。」と言われた時は、「本当に感動しました。」と皆さんが言っておられました。自分たちが覚えられているということは、大きな励みであり、力であることを思わされました。み言葉を通して、精一杯語らせていただきました。皆さんも信仰的に励まされたと思います。

 礼拝後は、手作りのおもてなしをいただき、良きお交わりをすることができました。普段はあまり出席できない96歳の姉妹も、礼拝に出席され、「アーメン」と何度もみ言葉に応答しておられました。普段はあまり食べることができないという姉妹も、私たちと同じ物をペロッと食べておられました。北の大地、ここにもイエス様を信じ、イエス様と教会に仕えている方々がおられることを実感させていただきました。皆さんのお祈りに感謝いたします。

 さて、今日はマタイによる福音書14章22節から33節を通して、「人生に逆風が吹いても大丈夫」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、離れることも恵みとなる

 今日の記事の前は、イエス様が男性5千人(女性子どもを加えると1万から2万人)を5つのパンと2匹の魚で養われた記事です。平行箇所のヨハネによる福音書6章15節には、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。イエス様の奇跡を通して、多くの人々がイエス様を世に来られる預言者として認め、イエス様を王にしようとする動きがあったのです。それは、イエス様の弟子たちにも見られる傾向でした。

 ですから、14章22節には、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、」とあるのは、弟子たちを群衆の元にとどめることがよくないと判断されたからだ

と思うのです。また、この奇跡は、勿論イエス様がなさったものですけれども、その働きを手伝ったのは弟子たちでした。12人の弟子たちがいたでしょう。弟子一人が少なくても五百人、多ければ千五百人の人々に、パンと魚を配ったのです。5つしかなかったパンです。2匹しかなかった魚です。それを何百人、何千人に配ったのです。何人もの人々が弟子たちに感謝の言葉をかけたでしょう。弟子たちの前に頭を下げて喜んだでしょう。その光景が自分の前で、何回も何十回も何百回もなされるうちに、弟子たちはいつのまにか、この奇跡はあたかも自分がなしたかのように感じてしまう。有頂天になってしまう。傲慢な思いに支配されてしまうのではないでしょうか。人のために何かをし、感謝されるという時、それは本当に素晴らしいことですが、そこには高ぶりや傲慢が潜んでいることも間違いないことなのです。そのことを覚えたいと思うのです。

 イエス様は弟子たちをそのような場所に、とどめることはよくないと判断されたのではないでしょうか。素晴らしい働きをした場所、誰もがイエス様と弟子たちに感謝する場所、そこにとどまり続けることは、気持ちのいい。すがすがしい。生きがいのある場所でした。

しかし、そこは弟子たちにとって、群衆にとって、人間的な思いが優先されるので、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸へ行かせられたのです。

 神様のみ業を見ることは素晴らしいことです。教会に人が増えて、いろいろな行事が行われ、多くの人々が出入りしているとうれしいものです。それは、本当に素晴らしいことです。しかし、それがいつの間にか当たり前になったり、自分たちや教会の自慢になってしまっていたとしたら、それは問題です。大事な事は、数が増えることや大きくなることではありません。本当に、イエス様の十字架と復活を通して与えられる魂の救いと罪の赦し、永遠の命をいただいて、私たちの救いのために、ご自分の尊い血を流し、命を与えて下さったイエス様を信じて、イエス様と共に歩むことです。今置かれた家庭の中で、職場で、学校で、いつもイエス様が共におられることを信じ、神様がなして下さる恵みに感謝して生きることだと思うのです。私たちは、神様の恵みと祝福を当たり前だと思いこんでしまうことがあります。恵みに慣れてしまうことがあります。上芦別教会の信徒の方々が、教会の周りの店が次々と閉店し、人口が確実に減少してく中で、教会の会員が年を重ね、将来に不安と希望を持ちにくい中で、ただイエス様を信じて行く信仰を私たちも見習いたいと思うのです。

 私たちは、青葉台教会に与えられている多くの恵み、祝福を感謝して、現状に満足してしまうのではなく、神様を知らない多くの人々に福音を大胆に語っていきたいと思うのです。

 

 二、安心していいのです

 弟子たちは、舟に乗って陸から離れましたが、イエス様は山で祈っておられました。何を祈っておられたのか書いてありませんが、弟子たちが傲慢にならないように、イエス様ご自身も、ご自分の力を過信することなく、父なる神様に信頼できるように、父なる神様に心も目も向けておられたのだと思うのです。イエス様は、特に弟子たちのために懸命に祈っておられたはずです。

 弟子たちはというと、逆風のために波に悩まされていたのです。前には進まなかったのです。自分たちの思い通りにはいかなかったのです。そこには、苦労と徒労とあせりや痛みがあったのです。弟子の中には漁師も何人かいました。舟には毎日乗っていたはずですが、弟子たちは、自分たちの弱さを感じていたのです。この逆風の中で、自分たちは何もできない事を実感していたのです。漁師という経験さえも、逆風の前には何の力にもならないことを痛感していたのです。その弟子たちの様子もイエス様は見ておられたでしょう。イエス様は弟子たちのそのような状況も知っておられたのだと思うのです。

 弟子たちは、人々に仕えて感謝され有頂天になっていた所から、どん底に落とされたのです。肉体的にも心情的にも、精神的にも困難な場所、困難な状況に置かれたのです。

 私たちも、家庭の中で、学校や職場の中で、教会生活の中で、困難や苦しみを経験することがあります。逆風が吹き荒れることがあります。自分の力では、努力では、頑張りではどうすることもできないということを経験します。そのような私たちの状況、心も体も精神も疲れ果てた私たちを見ていて下さる方がおられます。そして、私たちを励まし、助けて下さるのです。

 イエス様は、夜が明けるころ、湖を歩いて弟子たちのところに行かれました。薄暗かったということもあったでしょうし、疲れ切っていたということもあるでしょう。不安と心配の中で、何とイエス様を見て幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげたのです。「キャー!」と。

 27節を共に読みましょう。「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」どの聖書を見ても、「すぐに」とあります。恐れおびえている弟子たちに、イエス様はすぐに声をかけられたのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」「安心しなさい。」という言葉を口語訳聖書や新改訳聖書は「しっかりしなさい。しっかりするのだ。」と訳しています。リビングバイブルには、「わたしだよ。こわがらなくてもいいんだよ。」とあります。私たちが、今どのような困難や苦しみ、悲しみ、痛みを経験していようとも、イエス様はあなたに言われるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。私たちは、どのような困難を経験しようとも、イエス様はあなたと共におられて、あなたに大丈夫だ、と語って下さるのです。

 

 三、イエス様はあなたを助ける

 ここでいつものように、自称キリストの第一弟子と思っているペトロが登場します。マタイによる福音書の独自の記事です。ペトロはイエス様が湖の上を歩いて来られたのを見て、そして、今湖の上に立っているのを見て言うのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 人にはいろいろな性格があります。ペトロのように、自分もイエス様が湖の上を歩いたように、自分も歩きたいと思う人と、別にそうは思わない人、見ているだけでいいという人、イエス様が湖の上を歩いているのを見て、ただ感激している人とそれぞれでしょう。勿論、ペトロはイエス様の力を信じて、湖の上を歩きたかったのでしょう。しかし、それ以上に少しでも早く、イエス様のそばに行きたかったのではないでしょうか。

 イエス様は、そんなのはだめだとは言わないで、「来なさい」と言われ、ペトロの思いを受け入れて下さいました。ペトロが舟から降りて水の上に立つと沈まなかったのです。そして、イエス様を見つめつつ、一歩一歩水の上を歩くことができました。しかし、風は吹いているし、波もすごいのです。ペトロは、自分が水の上を歩いているという非現実的な行動を疑ったのでしょうか。聖書には、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」とあります。

 今、日本列島は台風の風や雨で大変です。北海道は例年になく、大雨のために大変な被害が出ています。これから、まだまだ台風がやってくる可能性があります。テレビのニュースで風を見て怖くなります。現場の状況を伝えるレポーターは、風に吹き飛ばされそうになりながら状況を伝えています。陸よりも海上の方が風の影響は大きいようです。ですから、ペトロの状況は大変なものだったでしょう。多くの注解書や説教は、イエス様を見ずに、風や波を見たから沈んだと記しています。風や波を見て恐れたからだと言いますが、風や波を見て恐れない人がいますかね。私は数年前に海でおぼれかけて死ぬ寸前でした。

私は風や波が荒れていなくても、海は苦手です。私からすると、波が荒れ、風が吹く中で、水の上を歩いて行かせてくれと言ったペトロの信仰、イエス様に対する信頼はすごいものがあると感じるのです。

 ペトロは風を見て怖くなり、沈みかけました。ですから、「主よ、助けてください」と叫んだのです。皆さんと共に31節を共に読みましょう。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われた。」 ここでも「すぐに」とあります。「信仰の薄い者よ。」というのは、不信仰ということではありません。信仰が薄いのです。信仰がないわけではありません。信仰はあるのです。現代訳聖書には、「小さな信仰」と表現しています。

 私たちも、信仰生活の中で、現実の中で困難や苦しみや悲しみを経験します。そのような逆風の中で、つぶれそうになることがあります。イエス様を見ることができなくて、聖書を読めなくて、祈れなくて、礼拝に出席できないで、「自分には信仰があるのだろうか」と思わされることがあります。不信仰のゆえに、もうどうしようもなくて、「イエス様お手上げです。助けて下さい。」と叫ぶことがあります。不信仰な、弱い私たちの叫びをイエス様は聞き逃しません。聖書にあるように、すぐに助けて下さるのです。

 逆風が吹くかどうか。今の状況がどのようなのかが問題なのではありません。その逆風の中にイエス様は共におられ、私たちに手を差し伸べて下さるということを信じるかどうかなのです。聖書は、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、」とあるように、私たちを支えて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 弟子たちは、イエス様不在の舟で逆風のために自分の弱さを痛感しました。イエス様はそのことをご存知であり、彼らの元に来て、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語って下さいました。

 ペトロは、イエス様であることがわかり安心して、水の上を歩いてイエス様の元に行かせて下さいと願い許され、水の上を歩きます。歩けました。しかし、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけたのですが、イエス様に助けを求め、イエス様はすぐに助けて下さいました。イエス様がそばにいても恐れることがあるということです。イエス様を信じていたら恐れることなんかない。イエス様を見つめていたら風や波を恐れない、ということではありません。イエス様を信じていても、イエス様がそばにおられても、私たちは、現実の厳しい状況の中で、恐れるのです。怖がるのです。マタイは、不信仰だと沈むぞ、ということを言っているのではありません。沈んでしまうのが、教会の現実であり、私たちクリスチャン、神を信じる者の現実なのです。けれども、イエス様はそのような私たちを、教会を助けて下さるのです。守って下さるのです。私たちは沈むことがあっても、沈んでしまわないのです。沈没はしないのです。

 先週、栫井(かこい)さん、須田姉のお嬢さんのご主人からお母さまが肺炎で、お祈りしていただけたら、というお電話いただき、8月31日に栫井(かこい)さんの妹さん山口さんから、今日か明日かという状況ですとお電話いただき、病院に行きました。栫井(かこい)小夜子さんは、苦しそうにしておられましたが、目をしっかりと開けておられまして。聖書を読み祈りました。死の陰の谷を行くときも災いを恐れません。私の弱さの中にキリストの力が現れる。人生の最後の時、もうどうすることもできないという弱さの中であっても、信仰を持って、イエス様に信頼する者の姿がそこにはありました。

 上芦別教会の兄弟姉妹も、牧師不在で6年目を迎え、教会の周りの人が減り、自分たちも年を重ねて、見える所には希望を見出しにくい状況の中で、黙々とイエス様を信じて礼拝と祈祷会を守り、励まし合っておられる姿、前向きの姿は、イエス様が弟子たちに語られたように、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というイエス様の声を聞いた者の姿だと思うのです。

 ご自分の尊い血を十字架で流し、命をささげてまで私たちを愛し、大切にして下さったイエス様は、その命がけの愛で、変わらない愛で、私たちを愛して下さるのです。そして、私たちが逆風のために苦しみ、嘆き、悲しんでいても、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけて下さり、厳しい現実の中で、嵐の中で、逆風の中で、イエス様の言葉を信じて行動しても、沈んでしまいそうな私たちをすぐに助けて下さるお方、イエス・キリスト様がいつも共におられるのです。ですから、どんなに逆風が吹いても、大丈夫なのです。安心して、イエス様に全てを委ねて、この週も歩んでまいりましょう。

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