江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年5月7日)

2017-05-07 13:15:24 | Weblog

日曜礼拝(復活後第三)      2017.5.7

      「思い通りにいかないからこそ」 列王記下5:1~14

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝を捧げることができますことを感謝致します。ゴールデンウィークのお休みはいかがでしたか。良き時をお過ごしになられたことと思います。お互いに祈り合い、お互いが良き時を持つことができました。お祈りいただきましたオールメンバーズキャンプも祝福の内に終えることができました。非暴力コミュニケーションについての学びでした。この学びについては、また紹介する時があると思います。

今日は、列王記下5章1節から14節を通して、「思い通りにならないからこそ」という題でお話いたします。

 Ⅱ本論部

 一、置かれた場所が困難な場所でも大丈夫

 5章1節には、「この人は勇士であったが、重い皮膚病を患(わずら)っていた。」とあります。ナアマンはアラムの国の軍司令官、出世街道を昇りつめた人でありました。名誉も権力も財産もある。何不自由のない生活であったけれども、彼は重い皮膚病を患っていた。どんなに多くのものを持っていても、人がうらやむような人生でも、たった一つの苦しみ、病気が全てを台無しにしてしまうのです。私たちにも、これさえなければ、人生幸せなのにという苦しみや痛みや問題があるのではないでしょうか。

 ナアマンは、重い皮膚病という病いになって初めての敗北感を味わったのです。彼の歩みは、敗北からの出発となります。しかし、この苦しい敗北感が彼の救いの出発点となるのです。私たちがただ、マイナスにしか見えない、思えないことを通して恵みの、救いの始まりがあると言うことを聖書は語ります。今、現実に、このことさえなければと苦しんでいる、その事が恵みの、救いの始まりとなると神は私たちにも示しておられるのです。

 救いというのは、自分にはどうにもならない問題から救って下さる、助けて下さる神様を知ることです。ナアマンは、重い皮膚病という挫折、敗北を通して救いに導かれることになるのです。

 ナアマンは、この病気を治すためにはあらゆる努力や試みをしたでしょう。お金も時間もかけた。名医と言われる医者にも診てもらった。病気に効く言われる薬は全て飲んだ。けれども、どうにもならなかったのです。しかし、救いの道は、意外な所から開けたのです。イスラエルとの戦争で捕虜となってアラムに連れて来られ、ナアマンの妻に仕える少女、この少女の言葉を通して道が開かれることになるとは思わなかったのです。

 この少女は、小さな存在、弱い存在、自由を奪われた者です。けれども、真の神様を信じる者は、神を信じる信仰により力が与えられ、世の光となり、エリシャを通して生ける真の神様を示すことになるのです。

 この少女は、自由を奪われた敵地アラムにおいても、真の神様を証しする存在でした。私たちクリスチャンは、この世に対しては小さく、弱い存在です。けれども、私たちは、教会の存在価値、クリスチャンが持つイエス・キリスト様にある希望を、救いを示すことができるのです。

 

 二、私の思いではなく、神様の思いを優先する

 ナアマンは、少女を通して預言者エリシャのことと、エリシャを通して自分の病気が治るという希望の話しを聞いてアラムの王に話し、アラムの王はイスラエルの王に、ナアマンの重い皮膚病を治してほしいと手紙で伝えるのです。イスラエルの王は、神を信じない人で、アラムの王が無理難題を言っていいがかりをつけようとしていると考えます。

 エリシャは、イスラエルの王が衣を裂いたと聞いて、自分のところにナアマンをよこして下さいと言います。それで、ナアマンは、エリシャの家に来て、入り口に立ったのです。

家の入り口に立ったのですが、救いに入り口に立ったと言えるでしょう。

皆さんと共に10節を読みましょう。「エリシャは使いの者をこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」

 こうすれば癒されるという救いの方法がはっきりと示されました。エリシャの使いの言う通りにしたら、今まで苦しんできた重い皮膚病がなおるのです。解決するのです。しかし、11節には、ナアマンは怒ってそこを去ったとあります。救いの入り口から遠のいたのです。少女から聞いたサマリアの預言者、エリシャは顔も見せず、挨拶もせず、今まで苦しんできた自分の重い皮膚病の様子も見ず、聞かず、手を置いて祈りもせず、ヨルダン川で身を洗えだと!不治の病を治すには、あまりにも安易な扱いを受けたナアマンは、どうしても病気を治したいと願いながらも、その癒され方にこだわり、自分の思い通りではなかったことに腹を立てたのでした。

 私たちもこのような事を経験することがあるかも知れません。私は、先々週の金曜日に、左胸、みぞうちがキューと激しい痛みがあり、背中の方も痛みました。これは、数か月前から前かがみになった時、痙攣というか痛みがるのです。今回はその痛みが激しかったので、オールメンバーズキャンプで迷惑をかけてはいけないと思い、先週の月曜日に、横浜総合病院で診察を受けました。内心「これはひどい病気かもしれない。」癌が進行して内臓に転移しているので、こんな痛みがあるのではないか。心臓がおかしいのではないか。このまま入院ということになるかも知れないと思いながら診察したのです。医師に事情を話すと、とにかく調べてみましょうということで、心電図、尿検査、採血、レントゲンと調べました。その後、診察室に入ると、「どこも悪い所はないですね!」「どこも悪い所がないのに、どうして痛むのでしょうか。」「いや~、」「心臓も、内臓も、尿と血を調べても、特別悪くはないので、これでいいですか。」と言われて帰ってきました。そうとう苦しんできたので、何もないと言われて安心ですが、何もないのに、あんな激痛が走るのはなぜかなあと思いつつ、前かがみになる時、痛まないように気を付けています。

 ナアマンには、ナアマンなりの癒しの方程式、癒され方、自分の思い通りの考えがあったのでしょうが、それが、全く当てが外れ、がっかりして、怒り、救いの道からそれてしまったのです。 私たちも、神様の方法ではなく、自分の方法、考え、思い通りにいかないことへの神様への不信、不満はないでしょうか。

 

 三、私に語られた神様の言葉を受け止める

 ナアマンは、エリシャの使いを通して、救いの道、その方法が示されているのにもかかわらず、それ以外の事に対する自分の願いや要求が満たされないために、大切な事を見失おうとしていたのです。ナアマンには、軍の司令官という肩書、今までの功績や生活が、「神様助けて下さい。憐れんで下さい。」という謙虚さを失わせていたのではないでしょうか。いや、肩書や功績がなくても、私たちには、私たちなりのプライドが誰にでもあるのではないでしょうか。

 ナアマンの怒りの原因は、エリシャがナアマンの顔を見ることもせず、挨拶しなかったこと。エリシャが自分のために祈ってくれなかったこと。ヨルダン川で身を洗えば癒されるという救いの言葉への説明をしなかったことがあげられると思います。では何故、エリシャは、顔も見せず挨拶をしなかったのか。何故、ナアマンのために祈らなかったのか。何故、神の言葉への説明をしなかったということなのです。ナアマンでなくても、誰でも怒るのかも知れません。

 そこで、ナアマンの家来は、自分の上司であるナアマンが憤慨しながら、帰っていくその姿に、救いの方法が語られているのに、とさとします。「もし、大変な事や難しいことを言われたら、病気が治るためには、やったのではないですか。ただ、身を洗えといっただけですよ。簡単なことではないですか! あそこにあるヨルダン川で身を洗うだけで、病気がなおるのですよ。やりましょうよ、」と諭し、はげましたのです。頭を冷やして考えると、確かにその通りナアマンは、家来の言った言葉を受け入れ、ヨルダン川に行くのです。

 そして、エリシャが使いを通して語った言葉、七度身を浸して重い皮膚病であった彼の体は小さい子どものようになり清くなったのです。ナアマンは、使いの言葉に激怒し、帰ろうとしましたが、結局、神の言葉の通りに実行して癒されたのです。結局、エリシャは何もしませんでした。ナアマンに挨拶することも、彼の状況を調べることも、手を置いて祈ることも、神の言葉の説明や、その言葉を信じるようにと勧めることもしなかったのです。逆に言えば、エリシャが何もしなかったからこそ、ナアマンは「主は神である」ということがわかり信仰を持つことができたのです。この時からナアマンは、真の礼拝者となったのです。エリシャが奇跡を起こせば、エリシャを神としたのかも知れないのです。

 ナアマンは、自分の病気の深刻さのゆえに、あまりにも簡単な救いの道、方法を疑い、自分が思い描いた癒しの方法にこだわってしまいました。けれども、使いを通して示された神の言葉が、ばかばかしいと思われる言葉であったとしても、主なる神様の約束の言葉として受け取ることがナアマンには求められたのです。私たちは、自分の状況の深刻さ、悲しみ、痛みや悲しみのゆえに、神様の言葉、聖書の言葉がばかばかしく思われることがあるかも知れません。けれども、私たちは、自分の肉体的な困難な状況であれ、問題がいかに大きくても、その私に語られる神様の言葉を受け取ることが求められているのです。

 Ⅲ結論部

 私たちは、今日の聖書の箇所を通して、自分の思いに反する場所においても神様のご計画があることを知ることができました。捕虜になったイルラエルの少女は、思うようにならない状況であるからこそ、自分の信じる神様を第一にして、困難な環境の中でも神様に信頼し、エリシャの事を伝えたのでした。私たちは、「何故、このような場所に行かなければならないのか、いなけれればならないのか」と思える不本意な場所にも、自分の思うようにならない場所であるからこそ、神様の深いご計画があるのです。

 また、神様は困難なことは命じられないということです。エリシャが使いを通して言った事柄は、簡単なことでした。だれにでもできることでした。神様の示されることは単純な事です。神様が聖書を通して示される救いも簡単なことです。私たちの心の中にある罪のためにイエス様が身代わりに十字架にかかって死んで下さり、私たちの身代わりに裁かれて下さったので私たちの罪が赦されたのです。イエス様は死んでよみがえられることにより、私たちにも死んで終わりの人生ではなく、死んでも生きる人生、永遠の命、天国の望みを与えて下ったのです。イエス様が十字架にかかり死んでよみがえられたことを感謝するなら、(信じるなら)救われるのです。神の救いはシンプルです。

 また、神様の言われた通りに実行すれば、その通りになると言うことです。そんなバカなとか、あり得ないと思えることがあります。しかし、自分の思いや考えを後に置いて、「神様が私を愛して言われるなら」とみ言葉に従ってみる時、人知を遥かに超えた神様のみ業を経験するのです。ペトロはイエス様の言葉、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」(ルカ5:4)という言葉に対して「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5)とプロの漁師である彼は、そんなバカな、非常識な、あり得ないと思ったかも知れません。けれども、自分に語られるイエス様の言葉の通りに漁をしたら、驚くような大漁を経験したのです。

 ナアマンには、七度身を浸すと言われました。7度でなくても1度でいいと思うかもしれません。3度ぐらいでと感じるでしょう。しかし、7度は7度なのです。

 ルカによる福音書4章27節には、「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患(わずら)っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは誰も清くされなかった。」というイエス様の言葉があります。

 しかし、イエス様の十字架と復活を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、永遠の命の望みは、全ての人に与えられるのです。私たちの人生には、思うようにならないことが多くあります。けれども、ナアマンがそうであったように、その思うようにならない事、辛い事、苦しい事、悲しいことを通して、そこから救いの道、神様の恵みはすでにスタートしていること、そして、必ず救いと恵みが与えられることを信じようではありませんか。

 この週も、私たちを命を与えるほど愛していて下さるイエス様と共に歩んでまいりましょう。困難な場所が嫌な場所が、恵みの場所、祝福の場所であることを信じましょう。

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