日曜礼拝(公現後第五) 2024.2.4
「自慢話が多すぎる」 ルカ18:9~14
Ⅰ導入部
おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。1月は行ってしまいました。2月も逃げていくのでしょう。一年で最も寒い季節を迎えましたが、先週は春の陽気の日もあり、グンと温度が下がるという日もあり、寒暖差の激しい日々を迎えております。また、インフルエンザやコロナ感染も増加しているようです。この月も健康が守られ、支えられて、信仰生活を歩ませていただきたいと思います。
自慢話をする人の心理。自慢話ばかりする人の胸の内とはとホームページにありました。自慢話が多い人の心理1. 周囲に凄いと思われたい いつも誰かに褒められていたい人は、ことあるごとに自慢話をしがち。自慢話が多い人の心理2. 自慢をしている自覚がない 自分に自信がありすぎるタイプの人は、その自尊心の強さから、周囲の人が自慢話と捉える話し方をしてしまいがちです。自慢話が多い人の心理3. 現状に満足していない、ことあるごとにしてくる自慢話が全て過去のことばかりとありました。私たちは、自分の、あるいは、家族や関係者の自慢話をすることがあるでしょうか。
今日は、ルカによる福音書18章9節から14節を通して、「自慢話が多すぎる」という題でお話いたします。
Ⅱ本論部
一、神様を見ず、自分と人を見る祈り
9節には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。詳訳聖書には、「自分を正しい(すなわち、神のみ前での正しい身分が与えられている)と信じ、(確信し)、他のすべての人をさげすんでいる(無視している)人たちに」とあります。イエス様は、誰に話しているかをはっきりと示しておられます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」とありますが、誰にでもあるのかも知れませんね。そういう意味では、誰もがしっかりと聞く必要のあるお話です。10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」とあります。二人の人がエルサレム神殿の宮の境内に行き祈りをささげたのです。なぜ、神殿かというとユダヤ人は一日に三回(午前9時、12時、午後3時)の祈りをささげました。そして、特に神様がおられると信じられていた神殿での祈りには効果がると考えられていたようです。どこでも祈りはできます。けれども、教会での祈りは、やはり神様を近く感じ、特に緊急の祈りやどうしても祈りたい内容は、教会に足を運んで祈りたいと思うようになりますので、教会はいつも開いていますので、ぜひ、教会堂に来て祈りをささげていただきたいと思います。
11節、12節を見ると、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。ファリサイ派の人は、「立って、心の中でこのように祈った。」とあります。詳訳聖書には、「得意そうに立ち、自分自身の前で(独り言で)」とあります。「心の中でこのように祈った。」とは、「心の中」とは、「自分に向かって」という意味があり、自分自身に祈った。独り言を言ったのです。心の中での祈り、つまり、人に聞かせることのできない自分を誇る本心の祈りなのです。当時、ファリサイ派の人々は、祈りの定位置があったようです。神殿の正面の聖所に一番近い所でした。立って祈るのは、神様の民としての姿勢で自信に満ち溢れていたのでしょう。その立ち方は、ちゃんとした姿勢をとり続け、胸を張って堂々として祈りをささげていたのです。このような姿勢は、律法を忠実に守っているという自信に満ちていたのです。「神様」と呼びかけ、神様への祈りです。しかしその内容は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」というものです。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」とは、十戒が禁じている内容です。だから、モーセを通して与えられた十戒を守っています、ということでしょう。神様と祈りながら、その内容は自分の正当性、頑張りであり、人への批判です。「感謝します。」と言っており、感謝を表しています。祈りの要素の中で、感謝するということはとても大切な部分です。ファリサイ派の人は良くわかっています。しかし、その感謝は、神様への感謝ではなく、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とあるように、罪人、悪い者でないことを感謝するという、感謝という言葉を表現しながらも、それは感謝ではないのです。ファリサイ派の人は、神様と呼びかけながらも、心は、思いは神様に向いていない。神様を見ていない。人しか見ていないのです。ですから、祈りの姿勢をとりながらも、神様の前には立っていないのです。神様の前に立っていないと、神様を見ていないので、自分中心になり、人と自分を比較し、自分の基準で人を裁くようになるのです。私たちにはないでしょうか。
二、からくりがある見せかけの行いと真実な祈り
また、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分が行っていることを語っています。律法が求めている断食は、年に一度の贖罪の日の断食だけでした。しかし、このファリサイ派の人は、週に二度、一年に106回の断食をしていました。それは、律法が求めるよりもはるかに多い回数でした。週二回の断食とは、月曜日と木曜日でした。なぜ、月曜日と木曜日かというと、月曜日はモーセがシナイ山に上った日と言われており、木曜日は二度目の律法を授けられてシナイ山を下った日と言われていたようです。そのように十戒、律法に関係する意味深い日の月曜日と木曜日に断食するとは、それはいかにも敬虔な人だと思わせるように、「わたしは週に二度断食し」ということです。しかし、違う角度から見て見れば、月曜日と木曜日は市場の開かれる日であったのです。月曜日と木曜日は、地方からエルサレムには多くの人々が押し寄せてきていたのです。そのような大勢の人々の前で、顔を白く塗って、いかにも断食しておりますと取り乱した様子のパフォーマンスをして、人々に見せつけ、いかに自分が敬虔なものであるのかをアピールしていたのです。彼の断食は人に見せるためであったのです。だから、週二回あえて市場のある日の月曜日と木曜日に断食をしたのです。その日にする必要があったのです。そういうからくりがあったのです。
また、「全収入の十分の一を献げています。」と言っています。律法が求めていたのは、農作物の十分の一をささげることでした。このファリサイ派の人は、律法に定められた農作物の十分の一をささげるだけではなく、全収入の十分の一を自発的にささげていたのです。彼がいかに宗教に熱心だったかということがわかる行いでした。しかし、それも彼の信仰から出たことではなくて、人に見せるためのものであり、人から賞賛を得るためのものであり、何と敬虔な人かと思ってほしいという考えからのささげものでした。献金は信仰の現れと言われることがありますが、そういう意味では信仰的なのでしょうか。
確かに、ファリサイ派の人の行いは、律法以上のことを実践し、誰にも真似できないすごいことには間違いないのですが、本来そのことも自分の功績ではなくて、神様の恵みであるということです。そのことをファリサイ派の人は忘れていました。
一方徴税人はというと、13節です。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあります。徴税人の祈りの姿勢は、ファリサイ派の人の堂々とした祈りの姿勢に対して、
「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」とあります。徴税人は、正しい神様の前で、自分が裁かれる存在であることをよく知っていました。神様の前に、
「自分はもうダメだ。」と嘆いているのです。「目を天に上げようともせず」とは、神様に顔向けできないのです。罪を犯したアダムとエバの「主なる神の顔を避けて」(創世記3:8)ということと同じでしょう。「胸を打ちながら」とは、罪を認めて、悔い改めることを表しています。「罪人のわたし」と告白しています。神様の前では、神様の前に立てる資格はない。立てる存在ではないことがわかるのです。神様に近づけば近づくほどわかるのでしょう。彼は、「遠くに立って」聖所から遠く離れて、神様に目を向けることはできないで、「憐れんでください。」と祈りました。この「憐れんでください。」とは、口語訳聖書では、「おゆるし下さい。」とあります。詳訳聖書には、「神さま、私に(こんなに悪質な罪びとである私にも)、どうか恵みを与えて、(情けをかけ、憐れんでください。)」とあります。徴税人は、人と比べることをせず、ただ神様に向かって祈りをささげたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。
三、罪人の私を知る
10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。」とあります。「祈るために」と。そして、イエス様は二人の人の話をします。11節で、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。」と「祈った。」あり、13節では、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」と、祈ったではなく、「言った。」とイエス様は話されました。どちらかと言うと、ファリサイ派の人の方が、「祈った。」というよりも「言った。」の方がふさわしいし、徴税人は、「言った。」よりも「祈った。」の方がふさわしいような気がするのですが。イエス様は言い間違えたのでしょうか。ファリサイ派の人は、形式的には祈りをささげたということでしょう。徴税人は、「『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と「言った。」とイエス様は表現された。徴税人は、祈りの姿勢も取らずに、いかにも祈っていますというしぐさや祈りの形式はなかった。それは、徴税人の心の底から出たうめき、叫びであったのです。だからイエス様は、祈ったとは言われず、言ったと表現されたのです。自分の罪深さと汚れに悔いながら、うめいた。叫んだのです。それは、真実な祈りと表現できるのでしょう。祈りとは、形式的に整っている。立派な綺麗な言葉を並べ立てることではないでしょう。イエス様は、そのことに気づいてほしいのだと言っているように思うのです。
14節には、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」とあります。ファリサイ派の人は、神様を見ずに、自分を見、他の人を見て比べて優越感に浸りました。全く祈りの形をなしていません。しかし、それは、心の中での祈りですから、人には気づかれないのです。声を出しても出さなくても、イエス様は心を見られるお方です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と聖書は語ります。ファリサイ派の人がいかに律法を守り、ささげようともイエス様は知っているのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)と語られました。
義に一番近いと言われていたファリサイ派の人ではなく、罪人の代表者でもあるかのように言われていた徴税人が義とされて帰ったのです。罪が赦されて救われたのです。
神様に心が向かない祈りは、心の中でつぶやきとなってしまうように思うのです。私たちは、徴税人のように、神様に向かって祈りたいのです。神様の前に立つ時、私たちは自分の罪深さに気づかされるのです。裁かれて当然の、滅びて当然の人間であることを知るだけなのです。ですから、私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」「赦してください。救って下さい。」と祈りたいのです。私たちの罪に身代わりに、イエス様が十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪は赦され、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が、天国の望みが与えられるのです。それは、イエス様を見なければわからないのです。
Ⅲ結論部
今日の説教題は、「自慢話が多すぎる」という題です。ファリサイ派の人の祈りを見ていると、なんだか自慢話に聞こえ、自慢ばっかりと感じて、この題が頭に浮かびました。もう一つ頭に浮かんだのは、武田鉄矢さんのグループ海援隊が歌っていた「あんたが大将」という歌の歌詞でした。「黙っていればいいものを 酒の席とはいいながら はじまりましたね あんたの話 色々苦労もあったでしょうが 自慢話が長すぎる 泣かせた女の数ばかり 意張ってみても男の値うちあがるもんじゃないんです この世は全てチャンスなんだ うまく生きたが得なんだ 得意話がまだ続く 色々こつもあるでしょうが 手柄話が多すぎる 風に吹かれて生きてたくせに いつの間にやら悟りきり 世界はあんたの為にある僕なんか生まれがいいもので おんば日傘で大きくなって 一度苦労がしてみたいなと あんたのいやみのねちっこさ 白いまんまに手をあわせ とうちゃんかあちゃん頂きますと 涙こらえて食べたことない そんなあんたに何がわかる それを云わしてもらっちゃ なんばってん 人の心のかなしさなんか パーハップス・メ云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ 心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと 世渡り上手にゃえんないが 祈りつづける悲しさよ しばし手にしたあんたの出世 今夜だまってほめてあげる あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将」で最後は、「ごいっしょに あんたが大将 あんたが女王 あんたが株主 あんたが班長 あんたが将軍 あんたが社長 あんたが天才 あんたが番長 あんたが大将」という歌詞です。
私たちは、ファリサイ派の人のような祈りをすることがあるのかも知れない。また、私たちは徴税人のような、祈りにならないうめきや叫びの祈りをすることがあるかも知れません。今苦しみの中にある方々はそうでしょう。それがどちらであれ、良い悪いではなく、どちらの祈りもしている私を、あなたをイエス様は見つめておられるということです。ですから、私たちは、どうであれ自分が罪深い者であることに気づきたいのです。気づかせていただきたいのです。そのためには、自分を見るのではなく、他の人を見るのでもなく、ただイエス様に目を留めるのです。十字架にかかり、私たちを愛し続けておられるイエス様を見るのです。イエス様に祈りをささげたいのです。傲慢な私も謙遜な私も、イエス様はご存じです。このイエス様が、いつも見つめておられます。この週も、イエス様と共に歩ませていただき、イエス様の名による祈りを神様にささげて歩ませていただきたいのです。