江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年2月4日)

2024-02-04 12:29:52 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)          2024.2.4

         「自慢話が多すぎる」 ルカ18:9~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。1月は行ってしまいました。2月も逃げていくのでしょう。一年で最も寒い季節を迎えましたが、先週は春の陽気の日もあり、グンと温度が下がるという日もあり、寒暖差の激しい日々を迎えております。また、インフルエンザやコロナ感染も増加しているようです。この月も健康が守られ、支えられて、信仰生活を歩ませていただきたいと思います。

 自慢話をする人の心理。自慢話ばかりする人の胸の内とはとホームページにありました。自慢話が多い人の心理1. 周囲に凄いと思われたい いつも誰かに褒められていたい人は、ことあるごとに自慢話をしがち。自慢話が多い人の心理2. 自慢をしている自覚がない 自分に自信がありすぎるタイプの人は、その自尊心の強さから、周囲の人が自慢話と捉える話し方をしてしまいがちです。自慢話が多い人の心理3. 現状に満足していない、ことあるごとにしてくる自慢話が全て過去のことばかりとありました。私たちは、自分の、あるいは、家族や関係者の自慢話をすることがあるでしょうか。

今日は、ルカによる福音書18章9節から14節を通して、「自慢話が多すぎる」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様を見ず、自分と人を見る祈り

 9節には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。詳訳聖書には、「自分を正しい(すなわち、神のみ前での正しい身分が与えられている)と信じ、(確信し)、他のすべての人をさげすんでいる(無視している)人たちに」とあります。イエス様は、誰に話しているかをはっきりと示しておられます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」とありますが、誰にでもあるのかも知れませんね。そういう意味では、誰もがしっかりと聞く必要のあるお話です。10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」とあります。二人の人がエルサレム神殿の宮の境内に行き祈りをささげたのです。なぜ、神殿かというとユダヤ人は一日に三回(午前9時、12時、午後3時)の祈りをささげました。そして、特に神様がおられると信じられていた神殿での祈りには効果がると考えられていたようです。どこでも祈りはできます。けれども、教会での祈りは、やはり神様を近く感じ、特に緊急の祈りやどうしても祈りたい内容は、教会に足を運んで祈りたいと思うようになりますので、教会はいつも開いていますので、ぜひ、教会堂に来て祈りをささげていただきたいと思います。

 11節、12節を見ると、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。ファリサイ派の人は、「立って、心の中でこのように祈った。」とあります。詳訳聖書には、「得意そうに立ち、自分自身の前で(独り言で)」とあります。「心の中でこのように祈った。」とは、「心の中」とは、「自分に向かって」という意味があり、自分自身に祈った。独り言を言ったのです。心の中での祈り、つまり、人に聞かせることのできない自分を誇る本心の祈りなのです。当時、ファリサイ派の人々は、祈りの定位置があったようです。神殿の正面の聖所に一番近い所でした。立って祈るのは、神様の民としての姿勢で自信に満ち溢れていたのでしょう。その立ち方は、ちゃんとした姿勢をとり続け、胸を張って堂々として祈りをささげていたのです。このような姿勢は、律法を忠実に守っているという自信に満ちていたのです。「神様」と呼びかけ、神様への祈りです。しかしその内容は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」というものです。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」とは、十戒が禁じている内容です。だから、モーセを通して与えられた十戒を守っています、ということでしょう。神様と祈りながら、その内容は自分の正当性、頑張りであり、人への批判です。「感謝します。」と言っており、感謝を表しています。祈りの要素の中で、感謝するということはとても大切な部分です。ファリサイ派の人は良くわかっています。しかし、その感謝は、神様への感謝ではなく、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とあるように、罪人、悪い者でないことを感謝するという、感謝という言葉を表現しながらも、それは感謝ではないのです。ファリサイ派の人は、神様と呼びかけながらも、心は、思いは神様に向いていない。神様を見ていない。人しか見ていないのです。ですから、祈りの姿勢をとりながらも、神様の前には立っていないのです。神様の前に立っていないと、神様を見ていないので、自分中心になり、人と自分を比較し、自分の基準で人を裁くようになるのです。私たちにはないでしょうか。

 

 二、からくりがある見せかけの行いと真実な祈り

 また、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分が行っていることを語っています。律法が求めている断食は、年に一度の贖罪の日の断食だけでした。しかし、このファリサイ派の人は、週に二度、一年に106回の断食をしていました。それは、律法が求めるよりもはるかに多い回数でした。週二回の断食とは、月曜日と木曜日でした。なぜ、月曜日と木曜日かというと、月曜日はモーセがシナイ山に上った日と言われており、木曜日は二度目の律法を授けられてシナイ山を下った日と言われていたようです。そのように十戒、律法に関係する意味深い日の月曜日と木曜日に断食するとは、それはいかにも敬虔な人だと思わせるように、「わたしは週に二度断食し」ということです。しかし、違う角度から見て見れば、月曜日と木曜日は市場の開かれる日であったのです。月曜日と木曜日は、地方からエルサレムには多くの人々が押し寄せてきていたのです。そのような大勢の人々の前で、顔を白く塗って、いかにも断食しておりますと取り乱した様子のパフォーマンスをして、人々に見せつけ、いかに自分が敬虔なものであるのかをアピールしていたのです。彼の断食は人に見せるためであったのです。だから、週二回あえて市場のある日の月曜日と木曜日に断食をしたのです。その日にする必要があったのです。そういうからくりがあったのです。

 また、「全収入の十分の一を献げています。」と言っています。律法が求めていたのは、農作物の十分の一をささげることでした。このファリサイ派の人は、律法に定められた農作物の十分の一をささげるだけではなく、全収入の十分の一を自発的にささげていたのです。彼がいかに宗教に熱心だったかということがわかる行いでした。しかし、それも彼の信仰から出たことではなくて、人に見せるためのものであり、人から賞賛を得るためのものであり、何と敬虔な人かと思ってほしいという考えからのささげものでした。献金は信仰の現れと言われることがありますが、そういう意味では信仰的なのでしょうか。

 確かに、ファリサイ派の人の行いは、律法以上のことを実践し、誰にも真似できないすごいことには間違いないのですが、本来そのことも自分の功績ではなくて、神様の恵みであるということです。そのことをファリサイ派の人は忘れていました。

 一方徴税人はというと、13節です。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあります。徴税人の祈りの姿勢は、ファリサイ派の人の堂々とした祈りの姿勢に対して、

「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」とあります。徴税人は、正しい神様の前で、自分が裁かれる存在であることをよく知っていました。神様の前に、

「自分はもうダメだ。」と嘆いているのです。「目を天に上げようともせず」とは、神様に顔向けできないのです。罪を犯したアダムとエバの「主なる神の顔を避けて」(創世記3:8)ということと同じでしょう。「胸を打ちながら」とは、罪を認めて、悔い改めることを表しています。「罪人のわたし」と告白しています。神様の前では、神様の前に立てる資格はない。立てる存在ではないことがわかるのです。神様に近づけば近づくほどわかるのでしょう。彼は、「遠くに立って」聖所から遠く離れて、神様に目を向けることはできないで、「憐れんでください。」と祈りました。この「憐れんでください。」とは、口語訳聖書では、「おゆるし下さい。」とあります。詳訳聖書には、「神さま、私に(こんなに悪質な罪びとである私にも)、どうか恵みを与えて、(情けをかけ、憐れんでください。)」とあります。徴税人は、人と比べることをせず、ただ神様に向かって祈りをささげたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。

 

 三、罪人の私を知る

 10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。」とあります。「祈るために」と。そして、イエス様は二人の人の話をします。11節で、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。」と「祈った。」あり、13節では、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」と、祈ったではなく、「言った。」とイエス様は話されました。どちらかと言うと、ファリサイ派の人の方が、「祈った。」というよりも「言った。」の方がふさわしいし、徴税人は、「言った。」よりも「祈った。」の方がふさわしいような気がするのですが。イエス様は言い間違えたのでしょうか。ファリサイ派の人は、形式的には祈りをささげたということでしょう。徴税人は、「『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と「言った。」とイエス様は表現された。徴税人は、祈りの姿勢も取らずに、いかにも祈っていますというしぐさや祈りの形式はなかった。それは、徴税人の心の底から出たうめき、叫びであったのです。だからイエス様は、祈ったとは言われず、言ったと表現されたのです。自分の罪深さと汚れに悔いながら、うめいた。叫んだのです。それは、真実な祈りと表現できるのでしょう。祈りとは、形式的に整っている。立派な綺麗な言葉を並べ立てることではないでしょう。イエス様は、そのことに気づいてほしいのだと言っているように思うのです。

14節には、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」とあります。ファリサイ派の人は、神様を見ずに、自分を見、他の人を見て比べて優越感に浸りました。全く祈りの形をなしていません。しかし、それは、心の中での祈りですから、人には気づかれないのです。声を出しても出さなくても、イエス様は心を見られるお方です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と聖書は語ります。ファリサイ派の人がいかに律法を守り、ささげようともイエス様は知っているのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)と語られました。

 義に一番近いと言われていたファリサイ派の人ではなく、罪人の代表者でもあるかのように言われていた徴税人が義とされて帰ったのです。罪が赦されて救われたのです。

 神様に心が向かない祈りは、心の中でつぶやきとなってしまうように思うのです。私たちは、徴税人のように、神様に向かって祈りたいのです。神様の前に立つ時、私たちは自分の罪深さに気づかされるのです。裁かれて当然の、滅びて当然の人間であることを知るだけなのです。ですから、私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」「赦してください。救って下さい。」と祈りたいのです。私たちの罪に身代わりに、イエス様が十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪は赦され、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が、天国の望みが与えられるのです。それは、イエス様を見なければわからないのです。

 

 Ⅲ結論部

 今日の説教題は、「自慢話が多すぎる」という題です。ファリサイ派の人の祈りを見ていると、なんだか自慢話に聞こえ、自慢ばっかりと感じて、この題が頭に浮かびました。もう一つ頭に浮かんだのは、武田鉄矢さんのグループ海援隊が歌っていた「あんたが大将」という歌の歌詞でした。「黙っていればいいものを 酒の席とはいいながら はじまりましたね あんたの話 色々苦労もあったでしょうが 自慢話が長すぎる 泣かせた女の数ばかり 意張ってみても男の値うちあがるもんじゃないんです この世は全てチャンスなんだ うまく生きたが得なんだ 得意話がまだ続く 色々こつもあるでしょうが 手柄話が多すぎる 風に吹かれて生きてたくせに いつの間にやら悟りきり 世界はあんたの為にある僕なんか生まれがいいもので おんば日傘で大きくなって 一度苦労がしてみたいなと あんたのいやみのねちっこさ 白いまんまに手をあわせ とうちゃんかあちゃん頂きますと 涙こらえて食べたことない そんなあんたに何がわかる それを云わしてもらっちゃ なんばってん 人の心のかなしさなんか パーハップス・メ云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ 心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと 世渡り上手にゃえんないが 祈りつづける悲しさよ しばし手にしたあんたの出世 今夜だまってほめてあげる あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将」で最後は、「ごいっしょに あんたが大将 あんたが女王 あんたが株主 あんたが班長 あんたが将軍 あんたが社長 あんたが天才 あんたが番長 あんたが大将」という歌詞です。

私たちは、ファリサイ派の人のような祈りをすることがあるのかも知れない。また、私たちは徴税人のような、祈りにならないうめきや叫びの祈りをすることがあるかも知れません。今苦しみの中にある方々はそうでしょう。それがどちらであれ、良い悪いではなく、どちらの祈りもしている私を、あなたをイエス様は見つめておられるということです。ですから、私たちは、どうであれ自分が罪深い者であることに気づきたいのです。気づかせていただきたいのです。そのためには、自分を見るのではなく、他の人を見るのでもなく、ただイエス様に目を留めるのです。十字架にかかり、私たちを愛し続けておられるイエス様を見るのです。イエス様に祈りをささげたいのです。傲慢な私も謙遜な私も、イエス様はご存じです。このイエス様が、いつも見つめておられます。この週も、イエス様と共に歩ませていただき、イエス様の名による祈りを神様にささげて歩ませていただきたいのです。

 

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日曜礼拝(23年1月28日)

2024-01-28 13:20:39 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)      2024.1.28

         「期待外れであっても」 列王記下5:1~15

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第四日曜日を迎えました。早いもので、今年もあと337日を残すこととなりました。私たちは、日々人を信じて歩んでいると言えます。インターネットで物の売り買いが行われます。買う側もその商品が必ず送られてくると信じ、相手側も商品到着してからの支払いなら、必ず支払ってくれると信じて売るのです。毎日天気予報士の「今日は雨が降ります。」という言葉を信じて傘を持って出かけるのでしょう。「今日は寒い日だ」と言われれば、厚着をしてでかけるのでしょう。「津波が来るので非難して下さい。」という言葉を信じて、すぐに高台に避難するのです。

人の言葉は信じるのに、神様は信じない。神様の言葉は信じないという人は多いのです。人間の言葉よりも、偉大で真実なお方、神様に目を留めること、神様の言葉を大切にしたいのです。けれども、神様の言葉を信じるということは、時には難しく感じることがあるのかも知れません。今日は、旧約聖書列王記下5章1節から15節を通して、「期待外れであっても」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、外見では見えない内側の悩み

 1節には、「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。」とあります。アラムは現在のシリアにあたります。イスラエルとアラムは、たびたび戦争をしていました。ナアマンは、アラムの王の軍司令官で主君に重んじられた勇士であり、気に入られていた存在でした。イスラエルの戦いにおいて、イスラエルの神様ご自身が、ナアマンを用いてアラムに勝利を与えたのです。異邦人のナアマンが神様に用いられたのです。ナアマンは、アラムの王から信頼も厚く、富める者であり、社会的な地位や名誉、富を手にしていた人でした。ナアマンの成功は、神様のおかげでした。けれども、聖書は、「重い皮膚病を患っていた。」と記しています。泣く子も黙るナアマンです。軍服を着ているナアマンの姿は勇ましいものですが、軍服を脱げば、治らない重い皮膚病という弱さがあったのです。世間的には、何不自由ない満たされていると思っている人であっても、実は深刻な悩みを抱えているということが案外あるのです。

私たちは、誰にでもひとつやふたつは悩みというものがあります。ナアマンにとっては、重い皮膚病を患っていることは、大きな悩みの種でした。この病気は、回復するどころか、悪化するという特徴があったようです。ですから、どんな大きな犠牲を払っても治りたいと願った。ナアマンは、権力も財力もありますから、あらゆる手を尽くして、重い皮膚病を治療したことでしょう。けれども、この病気を治すことはできませんでした。この病気を治すことはできないという悲しい現実に直面したのです。ですから、生きていても将来も希望もない日々でした。しかしこのことが、まことの神様を知るきっかけとなるのです。自分の力では、人間の何かでは解決できない問題に直面する時、私たち人間は、神様に心を向ける可能性が高くなるのだと思うのです。順調な時は、神様に目を向けなくても十分やっていけると思ってしまいます。けれども、私たちの力や考えでは、解決できない、どうしようもない時は、神様を知る機会となることがあるのです。私たちも、不幸や災い、苦しみや痛みを通さなければ、神様に出会わなかったという方々もおられるのだと思うのです。どうすることもできない状況で、神様は恵みを用意しておられるのです。

 2節、3節には、「アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」」とあります。戦争によりアラムに負けたイスラエルから捕虜として少女が連れてこられ、ナアマンの妻に仕えていたのです。敵国の軍司令官、もしかしたら、家族はみんな殺されたのかも知れません。憎んでも憎んでも憎み切れない存在のナアマンの妻に仕えていた。そのことも少女にとっては屈辱的なことであったのかも知れません。けれども、この少女は、イスラエルの神、まことの神様を信じていました。

自由を奪われ、祖国からも、家族からも引き離された何の力もない奴隷の少女でしたが、彼女から信仰を奪うことはできなかったのです。この少女は、環境がどうであれ、立場がどうであれ、神様を信じ、信仰を持ち続けていたのでしょう。ナアマンの病気のことも知り、癒しのために祈り、ナアマン夫妻のために祈っていたのでしょう。でなければ、「「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」とは言えないはずです。この言葉は、少女の信仰告白でもあります。、彼女は、イスラエルの預言者エリシャ、神の人の存在を知り、そのエリシャを用いてみ業をなさる神様を知っていた。信じていたのです。そして、この少女の信仰告白の言葉が、ナアマンにひとつの希望を与えることになるのです。この少女は、とっておきのグッドニュースを知っていたので、黙ってはおれなかったのです。そのことを告白する自由があったのです。私たちは、幸いにも、グッドニュース、良き知らせ、福音を持っているので伝えたいのです。

 福音の種は、小さな者によって蒔かれるのです。地位や権力、財力や名声を持つ者、つまりこの世で重要だと考えられている人々は、誰もナアマンの病気を治す方法を知りませんでした。イスラエルの捕虜、奴隷の少女はナアマンの病気を治す手がかりを知っていたのです。私たち人間の世界には、解決できないことがたくさんあります。どんなに偉い政治家でも、医者でも、権威ある者、財力のある者にも解決できないのです。しかし、聖書の神様、私たちの信じる神様、イエス様には解決があることを私たちは伝えたいのです。

 

 二、オレを誰だと思ってる?

 「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という奴隷の少女の言葉に、ナアマン夫妻は希望を見出し、アラムの王に、そのことを伝え、アラムの王は、イスラエルの王に手紙を送ると言います。5節の後半には、「こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。」とあります。リビングバイブルには、「そこでナアマンは、贈り物として、金六千シェケル(六十八・四キログラム)と銀十タラント(三百四十キログラム)、それに着物十着を持って、イスラエルへ出発しました。」とあります。少女の言葉に期待を持ち、自分の病気が治ることを夢見て、そのお礼に莫大な量の金や銀、晴れ着を準備したのです。安くみつくろっても3億円はするようです。ナアマンの意気込み、期待がうかがえます。

 アラムの王は、ナアマンの重い皮膚病を治して下さいとイスラエルの王に手紙に書きました。重い皮膚病は治らない病気です。それを治せとは、戦争を仕掛ける理由を作っているとイスラエルの王は恐れます。そして、嘆きのポーズ、衣を裂いたのです。そのことを、預言者エリシャは知ったのでしょう。8節です。「神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」アラムで囚われの身となっている少女の信仰とアラムの王の手紙に恐れているイスラエル王の違いがわかります。9節には、「ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。」とあります。今でいえば、黒塗りのベンツの車で、高級なスーツでエリシャの家の入口に立ったということでしょう。時間をかけての旅、大人数の随員、多くの贈り物を持参しての到着でした。ナアマンは、今まで苦労し、辛い思いをしてきた重い皮膚病が癒されることを待ち望んだことでしょう。アラムの軍司令官という地位のゆえに、それなりの対応を期待したはずです。「これはこれは、遠いところをよくおいでくださいました。ナアマン様ですね。イスラエル王からの聞いております。お疲れになったでしょう。ここでお休みください。お茶をお飲みください。」のような対応を期待したのだと思うのです。けれども、現実は全く違いました。10節です。「エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」」イスラエルの国から見れば、アラムは大国です。その国の軍司令官、最高司令官です。その相手に対して、エリシャは顔を出さなかった。歓迎の挨拶もしない。ただ、使いの者、おそらくゲハジでしょう。彼に、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉だけを伝えたのでした。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という妻に仕える少女が言った言葉に、光を見出し、期待し、その預言者エリシャに対する思いも、良いものばかりだったでしょう。きっといい人で、自分を歓迎し、手厚い治療をしてくれて、病気を治してくれる。そんな思いでいたのに、期待外れだったのです。思い込み見過ぎがあったのです。

 11節、12節には、「ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。」とあります。ナアマンは怒りました。エリシャの家から立ち去りました。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」というのは、ナアマンの勝手な思い込みです。アラムという異教の国に住むナアマンは、呪術的なものに慣れていたのでしょう。「彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」とあるように、今までにナアマンの病気を治療するのに、そのようなことをしたに違いありません。長旅をして苦労してここまで来たのに、川で身を洗えというのなら、アラムの国には、「ダマスコの川アバナやパルパル」の方が綺麗だと憤慨しました。

 私たちも、神様の私たちの祈りに対する答えが、自分の願った、思ったことと違った場合、全く予想もしない結果を見た時、つぶやき、憤慨し、投げ出してしまうというようなことがないでしょうか。期待外れの神様の導きを経験することが私たちにもあるのです。

 

 三、単純であれ

 ナアマンは、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という言葉を聞いて、期待して、重い皮膚病を治してもらうために来たのに、自分の期待通りでなかったという理由で、エリシャの態度が失礼だという、病気の癒しとは全く関係ない所につまずいてしまいました。案外私たちも、本筋と違うところに、枝葉の事に惑わされて、見るべきところ、考えなければならないところを見過ごして見落として、その目的を達せないということがあるように思うのです。ナアマンも希望を見出しながら、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」とそこに答えがありながらも、その癒しを失いそうになるのです。

 けれども、神様はここでもナアマンの癒しのために、神様の備えた人がいるのです。 

13節です。「しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」」

 エリシャが語ったこと、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ということは、難しい事でも、無理なことでもありませんでした。あまりにも、簡単で、単純で、誰にでもできる命令でした。けれども、ナアマンにとっては、馬鹿げた、ありえない方法だったのです。ヨルダン川は汚くアラムの川の方がきれいだという理由はあっても、癒しの方法よりも、エリシャのナアマンに対する態度、癒しの方法、無礼な態度に怒りを感じたのです。家来たちは、誇るべきものがないという祝福があったので良きアドバイスをすることができたのです。

 簡単なことができないで、難しいことをやろうとするというのは、私たち人間の姿をよく表しているように思います。イエス様の十字架と復活を信じるだけで救われると聖書は語ります。簡単なことです。そんなことで救われるのですかと思う人もいる。滝に数時間打たれるとか、裸足でお百度参りするとか、自分の努力で頑張ると救われるような気になるのです。もっと聖書を読んでから、勉強してから、礼拝の生活が続けられたら、祈れるようになったら、あるいは、タバコや酒をやめられるようになったらと自分で自分の救いを難しくしてしまっているのです。そこにも、人間のプライドがあるのでしょう。簡単な事で、単純な事ならば、自分を誇ることはできないのです。しかし、難しければ、自分の努力や頑張りで成し遂げたなら、自分を誇ることができるのです。私たちは、簡単な聖書の言葉に従順になるという方法ではなく、自分の行いによる救いを求めてしまうものなのです。

聖書は、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)と語るのです。

 ナアマンは、家来たちの「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。」という言葉に、素直に従うのです。ヨルダン川に行って、身を一度洗いました。何の変化もない。2度、3度、何の変化もない。少し良い兆しがあるとか、変化があるとかわかれば、4度、5度と実行できます。しかし、何の変化もないままに、4度、5度、6度と家来たちの励ましもあり身を浸しました。何の変化も良い兆しもありませんでした。しかしナアマンは、エリシャの言葉の通りに7度身を洗ったのです。すると、14節には、「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」とあります。リビングバイブルには、「彼の皮膚は幼子のようにつやつやしてきて、すっかり治ったのです。」とあります。「下って行って」という言葉は、「身を低くする。へりくだる。」という意味があるようです。「俺を誰だと思っているんだ。」という傲慢な思いから、素直にエリシャの言葉に神様の言葉に、降参した。従ったのです。このこと以外にナアマンの重い皮膚病は癒されなかったのです。

 

 Ⅲ結論部

 15節には、「彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」とあります。ナアマンは、神様の言葉を信じて、従って重い皮膚病が完全に癒されました。体の癒しだけではなく、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」とまことの神様を知り、信じ、救われたのです。ナアマンは、エリシャの言葉、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉を理解したから救われたのではないでしょう。私たちは、聖書を通して、神であるお方、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられ、死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえられて、罪と死に勝利されたことを信じています。それは、十字架と復活、福音を完全に理解したから救われたというのではないでしょう。救いは、恵みであり神様の賜物、プレゼントなのです。

 私たちは、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、自分の思い通りに行くことが幸せなのではなく、期待外れだからこそ自分を見つめ直し、神様に目を留めるのです。捕虜とされた少女は、期待外れの人生だったでしょう。しかし、彼女は最悪の環境の中で神様に目を留め、ナアマンの癒しのために用いられました。ナアマンの家来も、位も力もありませんが、ナアマンを愛し、ナアマンの癒しを願っていたからこそ、必要なアドバイスをすることができたのです。弱くてもいいのです。小さくてもいいのです。環境は関係ありません。神様は小さい者、弱い者を神様のみ業のために用いるのです。私たちは、ナアマンのように、奴隷の少女の言葉、家来の言葉に聞き、従ったように、私たちのそばに置かれている方々の意見や言葉を大切にして従いたいのです。神様のなさることは、派手なことではないのです。神様の業を妨げるのは、人の期待とプライドなのです。

今年も、自分の願ったことや祈ったことではなく、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、私の期待外れだからこそ、その背後に神様の確実な備えと祝福があるとこと信じて、期待して、この週も神様の言葉、聖書の言葉に触れて、信頼して歩んでまいりましょう。 

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日曜礼拝(24年1月21日)

2024-01-21 15:16:43 | Weblog

孤立から交わりへ         マルコ5:1~20(マタイ8:28~34,ルカ8:26~39)                  2024,1,21

  •  本日の箇所は、イエスさまと弟子たちが、舟でガリラヤ湖を移動中、激しい突風で舟が波をかぶり、弟子たちが恐れたときに、イエスさまが突風を静めたという話のあとのことです。この話は、マタイ、ルカにも出てきます。良く知られていた話だったのです。またこの章では、3つの物語が出てきます。今回の「汚れた霊につかれた人」のほかに、「ヤイロの娘」、「12年間長血をわずらう女」の物語です。いずれもイエスさまにより回復されたという話です。さて、1節、イエスさまは、弟子たちに向こう岸に渡ろうと命じ、着いたところがゲラサ人の地です(今のシリヤ)。イエスさまは、この地にくる目的があったのでしょう。そこは、異邦人の地で、ユダヤ人の弟子たちには居心地が悪かったのだと思います。それだけでなく、2節、舟から上がるとすぐに汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきたのです。3節~5節に、この人は、墓場に住んでいて、足枷や鎖でつながれていたが、それを引きちぎり砕いてしまい、さらには、叫けんだり,石で自傷行為をしていたとあります。マタイでは、凶暴な2人とあります。2人だったのかもしれません。この人の病気が何かは不明ですが、長い間、治療を受けていたのでしょう。それを尽くしてもダメだったので墓場に隔離,拘束されたのだと思います。この地の人々からは、人としての生活と人間性が奪われたのです。叫んだり、自傷行為をしたことから考えてみると、心の内面的なものが、爆発、発散していたのではないかと推測できます。

  社会からは、罪びと、汚れたものとして排斥されていたのです。人格のあ  る人として見られていなく、孤立していたのだと思います。

 6節、この男がイエスさまを、遠くから見ると、走り寄ってひれ伏して大声で「いと高き神の子イエス」と呼んだとあります。イエスさまを、いと高き神の子と信じて求めてきたのです。弟子たちでさえイエスさまが何者であるかわからないでいる時に、異邦人でしかも汚れた霊に取りつかれている人が、最初に「神の子イエス」と叫んだのは驚きです。汚れた霊にとりつかれていても、心の奥に見えるものがあったのかもしれません。あるいは、マルコ1:34に悪霊はイエスを知っていたとありますので、悪霊が言わしめたのかもしれません。1:21~27では、カファルナウムで汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだとあります。同じような記述で、悪霊が言わしめているのです。8節、イエスさまは、この男のなかにいる汚れた霊に気づき、この人から出て行けと命じます。汚れた霊も、イエスに、すぐ気づきこの地方から追い出さないで、豚の中に送り込んでくれと願います。イエスさまが、それを許すと汚れた霊どもは、2000匹の豚の中に入ります。豚の群れは崖を下って湖の中でおぼれ死んだのです。

 9節、イエスさまがこの男に「名は何というのかと」たずねます。名を聞くというのは、人としてその人を受け入れるということです。イエスさまは、何故このような生活をしているのかなどと過去のことは問わず、あるがままに受け入れているのです。この名もなき者を尊厳ある人として扱っているのです。私たちも、君とかそこの人と呼ばれるより名前で呼ばれた方が気持ちよく対応できますよね。イエスは、この人に自分がとりこになっている悪霊に支配されていることを告白するよう求めているのです。彼は、レギオン(ローマの軍団、6000人)大勢だからと答えます。それは、彼を支配していた多くの悪霊の軍団という意味です。イエスさまは、彼が悪霊に気づき、心を正気に戻らせるために、自分が何者であるかを告白させることが必要なことだと思っていたのです。そして、悪霊を追い出し、この男は、服を着、正気になって座ったのです。イエスさまは、この男を汚れたものとは見ていないのです。社会の犠牲者と見ているのです。希望などないと思っていたこの男に憐れみを注いでいるのです。イエスさまは、このことのためだけにこの地に来たのです。

 14節~17節で豚飼いたちは、2000匹もの豚が死んだので、この大損害をびっくりして町に行って知らせたのです。さらにこの男が正気になったのをみて、恐ろしくなったのです。これ以上の損害をださないよう、イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。イエスさまの示された恵みの業を恵みとしてみず、恐れと見たのです。イエスを受け入れなかったのです。わたしたちも、しがちなことです。昨年、マスコミで大きく取り上げられた中古車販売・修理をする会社がありました。利益を上げるために車にわざと傷をつけ修繕したりしていたのです。悪いと知りながら、上司から要求されたことに従っていたのです。利益という偶像に従った結果だったのでしょう。わたしたちも、利益、名誉、地位、評判などを心の中心におくと同じ過ちを起こします。この豚飼いたちも神には目をとめず、資産としての豚からくる利益を偶像化して心の中心に置いたのです。これ以上の損害がでないようにするため、イエスさまを恐れて、追い出したのです。私たちも何らかの犠牲、損害を要求されても、イエスさまを喜んで迎えることができるでしょうか、私たちにも問うているのです。

 神はすべての人を愛し、キリストを通してあがなわれ、回復されることを望んでおられるのです。イエスさまは、そのため十字架ですべての人の罪の贖いのために、いのちと血をそそぎだし、復活したのです。考えられないような犠牲が私たちのためにされたのです。神様の愛です。神は人間を神に似たものとして創造し、自由意志を持つものにしたのです。だから神の先行的贖いにたいして、それに応答するかどうかの判断は人に委ねられています。この恵みに対し豚飼いたちのように神の招きに応答しないという選択の自由があります。神は、救いの手をすべての人に差し出しています。神は,一人でも滅びることを望まず、すべての人が、神を受け入れることを望んでいるのです。(第2ペテロ3:9)しかし、人々の意思に反してご自分の意思を押し付けることはなさらないのです。

 15節には、汚れた霊に取りつかれていた人が、服を着、正気になって座っていたとあります。心の根本的変化があったのです。イエスさまは、この人を愛し、彼の体と霊、生活を回復したのです。18節にこの人がイエスさまと一緒に行きたいと願ったとあります。イエスさまは、それを許さないで、自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにして下さったことをことごとく知らせなさいと言われました。彼を家族と社会での愛のある交わりへ復帰し、人間関係を回復させようとしたのです。彼は、イエスがいかなる人であるか認め、イエスの救いときよめの業を経験したのです。彼はイエスには従っていけなかったが、事実上の弟子になったのです。そして彼は、イエスさまを愛し、イエスさまがしてくれたことを、異邦人の社会の中ではじめての証し人となったのです。私たちも、十字架の恵みを受けたものとして、受けた祝福を人に伝えたいものです。祈りましょう。

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日曜礼拝(23年1月14日)

2024-01-14 12:40:34 | Weblog

主日礼拝

2024年1月14日

あなたには何が見えていますか?

詩篇18篇1〜31節(新共同訳)

 

1導入部

みなさん、おはようございます。一言、お祈りをします。…

昨年7月以来の奉仕になりますので、はじめましての方もいらっしゃるかと思います。最初に自己紹介をしたいと思います。塚本良樹と申します。私は、2018年から2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました。本当にお世話になりました。また、この教会で結婚式を挙げさせていただきまして、本当に感謝しています。今は年に2回のペースで来させていただき、ご奉仕させていただいています。

さて、私がこの教会にいたときから、詩篇を連続して語らせていただいていました。詩篇じゃなかったときもあったのですが、今日は詩篇の続き、18篇から語らせていただきたいと思っています。ただ詩篇18篇は長いので、今日は前半31節までを語らせていただきます。

なお、他の詩篇でもそういうことがあるのですが、新改訳・口語訳の翻訳の聖書をお持ちの方は1節ずれるので、私が言う節から1引いて聞いていただければと思います。

 

2本論部

一 死から救い出された経験

 それでは、早速1節から(口語訳・新改訳だと2節)をご覧ください。

 

18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】

 

この詩篇は、ダビデが、その敵から救われたときの歌であるとあります。具体的にどんな状況かは分かりませんが、5、6節(口語訳・新改訳だと4、5節)を見る限り、絶体絶命の状況から、死を覚悟した状況から救われたときだったと思われます。5、6節をもう一度お読みします。

 

18:5 死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ

18:6 陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。

 

陰府」というのは死後の世界であり、死の力に引っ張られそうになっていた状況から、救い出されたことが見て取れます。確かに、ダビデはサウルという王様から長い間、命を狙われていました。間一髪で、ということもあったのですが、死の危険から、絶体絶命の状況から救い出された経験をもっています。

みなさんも、絶体絶命の状況から救われたという経験があるでしょうか。私は、アメリカに留学していたことがあるのですが、私がいたロサンゼルスは車の運転が非常に荒い地域で、何度か死にかけた、交通事故に遭いかけたことがあります。

あるいは、私の友人で、最近、奥様が危篤状態から奇跡的に回復したという方がいます。あるいは、今回の震災でも、瓦礫の下から救い出されたという方のニュースを聞きましたが、命が助かった。死を覚悟した状況から救われたなら、人はそれを神に感謝すると思います。

 

二 神を賛美するダビデ

ダビデは、神にいのちが助けられた経験を踏まえ、このように神に対して、感謝の祈りを捧げています。2節から(口語訳・新改訳だと1節から)をご覧ください。

 

18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。

18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。

18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。

 

ここでは、神様をさまざまなものに例えて賛美しています。「」、「岩、砦」。「逃れ場」とは避難所のことです。まさに、今多くの方が避難所におられますが、ダビデは言うのです。神こそが、真の避難所である。そこに逃げ込むなら、つまり頼るなら、絶対に大丈夫な存在である。

続いて、神は「大岩」である。そして、「避けどころ」も避難所です。「盾、救いの」。「」は力を象徴します。「砦の塔」も守られる場所です。

神がまさにそのような方であることが示された。だからこそ、神を「慕う」、つまり愛している。「ほむべき方」、つまり賛美されるに相応しい方だと、素晴らしい方であると歌っています。

 

三 神を賛美することが難しい現実のなかで、苦しむ人に寄り添うこと、嘆くことの大切さ

そのように詩篇18篇を読んでいくとき、今の私自身には葛藤が生まれます。今現在、私たちが置かれている状況のなかで、この詩篇を普通に読むのに難しさを覚えるのです。

この詩篇は、敵から助けられた、命が助かったときに、神を賛美している歌だと申し上げましたが、私たちはその一方で、助けられなかった、命が助からなかった人たちのニュースをたくさん聞いています。

この元旦から、いや思い返せば昨年から、私たちは、悲惨な現実をたくさん見てきました。戦争、政治的な混乱、そして自然災害、事故。たくさんの命が失われました。

私たちは悲惨な現実を目の前にするとき、それでも神を賛美するというのは簡単なことではありません。今も、ニュースをつけると、たくさんの悲惨な現実が目に入ります。

もちろん、それを知り、そこに向き合い、悲しむ人々の心に寄り添う必要があります。北陸の被災者の方々のために、あるいはウクライナの、イスラエル・パレスチナの人々のために、私たちにできることは何かということを考える必要があります。特に、現在、多くのキリスト教団体が被災地に入っています。そのために祈り、経済的なサポートをすることは大切なことです。

そして、もちろん、このような現実を前にするとき、なぜ、こんなことが起こるのか、神様はなぜ止めてくださらなかったのか、問いたくなります。もちろん、そのような正直な感情を、そのまま神様にぶつけること、祈り叫ぶことは大切です。最初に申し上げたように、私はこの教会にいたとき、詩篇から連続してメッセージを語ってきました。詩篇の多くを書いたと言われるダビデは、長く苦しい期間を過ごしていました。そのなかで、正直に、悲しみも疑いも、怒りも、赤裸々に祈っています。だからこそ私たちも、正直に祈ることが大切です。

 

四 神の力のスケールを賛美するダビデ

 神を賛美することが難しい現実のなかで、現実に向き合い、苦しむ人に寄り添うこと、そして正直に嘆くことは大切なことです。しかし、それでも、私たちは神を賛美することができるとすれば、なぜなのでしょうか。

そのヒントが、続く8節から(口語訳・新改訳だと7節から)になります。ここでは、不思議な表現で、ダビデは神を賛美しています。

 

18:8 主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。

18:9 御怒りに煙は噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。

18:10 主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え

18:11 ケルブを駆って飛び/風の翼に乗って行かれる。

18:12 周りに闇を置いて隠れがとし/暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。

18:13 御前にひらめく光に雲は従い/雹と火の雨が続く。

18:14 主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられ/雹と火の雨が続く。

18:15 主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。

18:16 主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し/あなたの怒りの息に世界はその基を示す。

 

ここでは、自然界の情景に喩えて、神を賛美しています。8節に「主の怒り」、9節に「御怒り」とありますが、神は、ダビデが苦しんでいるのを見て、怒(いか)られるのです。人々が苦しんでいるのを見るとき、神はそれをご存知で、怒(いか)られるのです。その怒りは自然界の現象に喩えられるほど大きいものであると語るのです。

ここでは、神の怒り、あるいは神の行動が、雲に、風に、霧に、光に、雹、雨、雷に喩えられているわけですが、もちろんこれは文字通り、雷が鳴ったら神様が怒っているなどと言いたいわけではありません。ちなみに「ケルブ」というのは神の乗り物とされる天使のような存在ですが、要は、神の力、神の助けというのは、それほどの大きなスケールのものであるということです。

17節(口語訳・新改訳だと16節)からはこのようにあります。

 

18:17 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。

18:18 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。

18:19 彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり

18:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。

 

 神様が、私たちを助けられるとき、それは、「高い天から御手を遣わして」、「大水の中から引き上げ」るほどのことである。それほどの方が、私たちを「救い」、「支え」、「導き」、「助け」、「喜び迎え」てくださっているゆえに、「」の「」がどれほどのものであっても、恐れなくて良い。恐れる必要がない。

ダビデは歌っているのです。普通に、物理的に目の前を見れば、神様は全然力がないように見えるかもしれない。でも、違う、神様の力というのは、本当は、これほどのスケールなのだということを歌っているのです。

 

五 目が閉じてしまうとき

 この詩篇18篇の内容を理解する鍵となる箇所が、旧約聖書の列王記の下巻という書物にあります。聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、列王記下のなかで、あるとき、イスラエルのある町が敵に包囲されていたとき、エリシャという預言者の召使いが、エリシャに対して、「街が敵に取り囲まれている!エリシャ様、この状況でどうしたらいいですか?」と聞いたのです。それに対してエリシャはこう言います。

 「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」。そして、「主よ、彼の目を開いて見えようにしてください」と祈ったところ、召使いは火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのが見えた。そのような箇所があります(列王記下6:15〜17)。

 確かに、私たちも、同じように見えなくなることがあります。このエリシャの召使いのように、目が閉じてしまっていることがあります。特に、今現在私たちの目の前に広がる困難な、どうしようもないと思えるような現実を前にするとき、神の力のスケールを実感できなくなる、信じられなくなることが、目が閉じてしまうことがあるのです。

 

六 天の現実の実現

だからこそ、この朝、私たちが見たいのは、もう一つの現実です。私たちの目の前に広がる現実とは違う、神様視点の現実です。それが、あなたには見えているでしょうか。

詩篇18篇と列王記下とともに、このもう一つの現実を描いている有名な書物が、新約聖書の最後にヨハネの黙示録という書物です。非常に難解な書物というイメージがあるかと思いますが、基本的に構成はシンプルで、天における理想的な現実と、地の上の悲惨な現実が交互に描かれます。

確かに、この地の上では、悲惨な現実があります。しかし、主は、ヨハネの黙示録を通して語っているのです。目の前の現実とは違う天の現実がある。そこでは、この詩篇18篇で描かれているように、はっきりと、神の力が、そのスケールの通りに分かる。

私たちは先月クリスマスをお祝いしましたが、イエス様がこの地上に来られたとき、そのような天の現実を部分的に現してくださいました。そして、今も教会という場所においては、特に礼拝において、賛美を歌うなかで、祈るなかで、聖書が開かれるとき、天の現実を垣間見ることができます。でも、それはあくまでも限定的で、やがて、イエス様が来られるその日、天の理想的な現実が、この地上に実現するのです。天と地がひとつになるという表現をされることもあります。

詩篇18篇で描かれたような、エリシャとしもべが見たような、そして黙示録で描かれたような神の力が、はっきりとこの目で見えるようになると言うのです。

 

七 ハッピーエンドが待っている

これは以前もお話ししたことですが、私は映画やドラマを観るときには、最新版でなければインターネットに「ネタバレ」のウェブサイトがあると思うのですが、観る前に、終わりがどうなるかをチェックしておくことが多いんです。そして、私にとってはハッピーエンドが望ましいのです。

ただ、チェックすると言っても、あくまでもチラッとです。そうでないと楽しみがなくなってしまうので。そして、そうすると、安心するんです。ああいろんなことがあっても、ドキドキすることがあっても、最後はこうなるんだな。最後はハッピーエンドなんだなって分かる。そうすると、安心して映画を観れるわけです。

何が言いたいのかというと、クリスチャンの「希望」とはそのようなものであるということなのです。困難はあります。苦しみがあります。ハラハラドキドキするんです。そして、映画では、ハッピーエンドの映画だと人は死にません。死んでしまったら、それはハッピーエンドではない。しかし、現実では、誰にも死を避けることはできません。ここにいる全員が、やがて死にます。ダビデのように、死の危険から救い出されることがあったとしても、やがては死を迎えます。災害が起きると、私たちは思い知らされるのです。いつ、若い人が後などという保証はどこにもありません。来年のこの礼拝を、この地上で捧げられるかは分からない。

しかし、イエス・キリストに信頼する者は、イエスの十字架の血潮と、復活の力、聖霊の力、神の力により、イエスが再び来られる日、天の現実がもたらされるその日、私たちはよみがえり、イエスさまと顔と顔を合わせて出会い、永遠に生きることができる。

 

五 苦しむとき、それでも「祈り」と「みことば」に生きる

でも、それまでの間は、この地上においては、苦しみがあるのです。この詩篇18篇の21節からに書かれているのは、苦しみのなかにあったときのダビデの生き方です。お読みします。

 

18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。

18:22 わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。

18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。

18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。

18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。

 

ここで言う「正しさ」は、神さまとの関係における正しさであり、24節にある「無垢」という言葉も、神様との交わりが保たれている、神様から離れていない状態を意味します。つまり、祈ることを、あるいは礼拝することを辞めないということです。

21節の「手の清さ」というのは、実際の行動としての正しさですが、23節にあるように、「主の掟」、つまり聖書のことばから離れないことによって可能となります。

祈るなかで、聖書を読むなかで、慰められ続けることで、神様から離れることなく生きることができるとすれば、それは自分の力ではありません。ただ、神の「慈しみ」、愛ゆえに可能である。26節からをご覧ください。

 

18:26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に

18:27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。

18:28 あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。

18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。

18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。

18:31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。

 

六 納得が与えられる日が来る

ここに書かれているのは、神は、正しく報いてくださる方であるということです。今は、不正が蔓延しているように見えても、やがて、正義を実現してくださる日が来る。その日、私たちには納得が与えられるのです。

私たちは、私たちの人生で起こるすべての出来事に意味があるということは知っています。でも、どんな意味があるかということは、ほとんどの場合、分からないのです。

もちろん、分かるときもあります。今回の震災も、ひょっとしたら、もっと年月が経ったときに、被災された方が、これも良いことだった、神の恵みと言える日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

でも、少なくとも、被災地にいない私たちが、この苦しみはこのためだったとか、これも神様のみこころだと、そんなことを、今、家族をなくし、家をなくし、寒さのなかで、不便さのなかで、将来への不安のなかで涙も流すこともできず、立ち尽くしている方々の前で口が裂けても言えない。

でも、それでも、確かに私たちに言えるのは、これまで、確かに神は、悪すら、私たちの罪すら用いて、私たちの目から見れば、最悪に思える出来事すら用いて、みわざを、驚くべきことをなしてくださったということです。

今回の震災が起こった北陸、特に石川県、能登半島は、全国のなかでも特に仏教、浄土真宗の影響が強く、教会が少ない、小さい教会が多く、宣教が困難な地域です。東日本大震災の被災地である東北の太平洋側も、教会がほとんどない地域でした。北陸はそこまでではありませんが、それでも教会が少ない地域です。

だから神に裁かれたなどと言いたいわけでは決してありませんが、私が祈っているのは、この大きな悲しみを通して、神の愛が、この地にいる人々の心に届くことです。クリスチャンが、教団教派を超えて協力して被災地にある方々に寄り添い、イエス様の愛で仕えていくとき、東日本大震災のときにそうだったように、必ず、イエス様の愛に出会う方が起こされる。主のみわざがなされると思うのです。

 

3結論部

でも、それでも、そうだとしても、目の前の現実を見るとき、「なぜこんなことが」という問いは残るのです。意味があるってことは分かっていても、どんな意味かは分からない以上、嘆かざるを得ないことはある。だからこそ、繰り返しますが、疑いも悲しみも怒りも正直に叫んでいい。

でも、それでも、疑いを、悲しみを、怒りを正直に叫びつつも、目をあげて、天の現実を見たいのです。祈るなかで、みことばを開くなかで、私たちの目の前にある現実とは違う現実を見たいのです。

あなたには、今、何が見えているでしょうか。やがて、すべてを新しくしてくださる神の力を信じつつ、目の前の現実を見つつ、それを超えた天の現実を見上げつつ、それでも、この現実のなかでも賛美しつつ歩む生き方へと、この朝、主はあなたを招かれています。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(24年1月7日)

2024-01-07 12:56:16 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第二)        2024.1.7

         「神様の愛を味わう」 ルカ6:27~36

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。新年あけましておめでとうございます。2024年が始まりました。2024年の最初の日曜礼拝を愛する皆さんと共に持つことができますことを感謝します。

 クリスマスや正月を終えて、たくさんの美味しいものを食べた2週間を送られたのでしょうか。新しい年、2024年の元旦初詣礼拝を終えて、牧師館におりましたが、午後4時過ぎですか、「あれ、何か傾いているような。地震かな」と感じましたが、そんなに揺れたわけではないので、そのまま過ごしていましたが、何と石川県を中心に能登半島地震が起きていたことを後で知りました。大変大きな地震で被害も大っきかったです。新年早々、地震で尊い命が奪われ、多くの人々が家を失い、寒い中避難所での不安の中での生活が続いています。1月1日から2024年は地震から始まったと思っておりましたら、2日には羽田空港の滑走路で、航空機同士の接触事故があり、大変な火の手があがりました。理事長時代に、羽田空港を何度も利用しましたが、このような事故は経験しませんでした。日本航空の客室乗務員の方々の普段の訓練の賜物で、客室乗務員としてお客様の安全第一を考え行動するおかげで、全員無事に救出されました。海外の新聞やニュースでは、このような事故があって死者がゼロは奇跡だと報じていました。2024年の正月から地震や事故、あるいは火事等で、不安な年をだと感じる方々もおられるでしょう。神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるのか。どうして守って下さらないのか、と感じる人々も多くおられることでしょう。神様を信じる私たちも、神様の愛を疑ってしまうのでしょうか。神様の愛と地震や災害が起こること、事故が起こることは関係のないことと言えます。私たちの世界には、自然災害が起こります。事故も起こります。だからと言って、神様を信じない人が、神様はひどいお方だと決めつけるのはおかしいことでしょう。

 2024年の最初の日曜日は、「神様の愛を味わう」という題で、ルカによる福音書6章27節から36節を通してお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、それでもクリスチャンと呼ばれて

 一般的に見て、この世の人々はクリスチャンをどのように見ているのでしょうか。暗い、つまらない、まじめというように言われていたり、愛の人、愛が深いとみる人々もいるのでしょう。または、クリスチャンは、酒は飲まない、タバコも吸わない、ギャンブルはしない、世間的な話はしないという清廉潔白なイメージがあるのでしょうか。それは、昔昔の話でしょうか。皆さんが教会に来て、クリスチャンになる前に、クリスチャンのイメージはどうでしたでしょうか。初めて、教会の礼拝に来て、回りを見たら、みんな真面目そうで、清く、正しく、美しくというように見えた、という方々も多くおられます。そのようなイメージがクリスチャンにあるので、逆にそうでなかった。愛がない、まじめでない。クリスチャンの態度や言葉につまづいて、教会やクリスチャンに対して心閉ざすという人も多くいるのです。クリスチャンは偽善者だと言うわけです。では、当の本人である私たちクリスチャンは、クリスチャンをどう見ているのでしょう。やはり、まじめで、熱心で、信仰的で、愛の人でというようなイメージがあるように思うのです。ですから、この世の人もクリスチャン自身も、クリスチャンに対しての見方,考え方が間違っているのだと思うのです。クリスチャンは、まじめだとか愛の人だとか、清く、正しく、美しくというような事柄は、キリスト教の本質ではないのです。クリスチャンであっても、愛の人もいる。愛のない人もいる。熱心な人もいる。熱心でない人もいる。清く、正しい人もいる。しかし、清くなく、正しくない人もいるのです。クリスチャンとは、自分の心の中に罪があることを正直に認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかり、身代わりに死んだけれども、復活されたお方、つまり、イエス・キリスト様を救い主と信じて、罪から解放されてイエス様と共に人生を歩むようになった人と言えるのでしょう。クリスチャンになったら、罪を犯すようにはならない、失敗しない。問題がないということではないのです。クリスチャンでも自己中心になりますし、罪を犯しますし、失敗もしますし、悪口も言いますし、人を無視することもあるのです。世の中には、クリスチャンでなくても、まじめな人、堅い人、正しい人、酒を飲まない人、タバコを吸わない人、ギャンブルをしない人、優しい人、愛の人は多くいるのです。ですから、クリスチャンはまじめで、優しくて、愛があって、清くて、正しくてというようなことはクリスチャンの特徴にはならないのです。しかし、クリスチャンをそのように見ますし、そのように見られているのも事実なのです。クリスチャンは、そのようなものに、プラス神様の愛なのです。

 

 二、敵を愛せない自分を見るのではなく神様の愛を見る

 人間関係の問題は、私たちが日常生活を送るとき、最も現実的に基本的な問題と言えます。私たちは、一人では生きていくことはできないのです。ですから、他の人とのかかわりは避けることができないのです。27節には、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」とあります。イエス様は、「」と言われましたが、皆さんには、「」という人がおられるでしょうか。私たち人間の世界では、全ての物事に、「敵」を設定して自分を正当化します。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスは、相手は敵です。人間の心を操るには、「敵」の存在を語り、強調し、敵がいるから、今の自分たちは苦しむのだと主張するのです。しかし、神様の目には、人間が勝手に作り上げた区分、つまり「敵」を問題にはされないということなのです。神様は、敵さえも用いて人を救うということもあるのです。

 私たちの日常生活における人間関係において、はっきりと、「敵だ」いう人と自分に良くしてくれる人、つまり「敵」と「味方」にはっきりと分かれているのでしょうか。自分にとってはっきりと、「敵」あるいは、「味方」と思える人がとどれほどいるのでしょうか。「敵」と思われる人はそんなにいないのでしょう。ですから、敵でも見方でもないという人が案外多くいるのかもしれません。それは、少し話しずらい人、一緒にいるとちょっと窮屈な人、一緒にいるとイライラする人、自分をそんなに大事に思ってくれないような人と、「敵」でも「味方」でもないけれど、なんとなく、正しい関係、深い関係になりにくい人という方がいるのではないでしょうか。イエス様が言われた、「敵を愛し」と言われた「」と思われる人だけではなくて、自分にとっては、少しかかわりにくい人、一緒にいると何となく嫌な人、できたら付き合いたくない人を大切にする、愛するということが含まれているように思うのです。「敵を愛する」とは、全ての人に神差の愛をもって接するということなのでしょう。そんなことは可能なことなのでしょうか。「敵を愛しなさい」「全ての人に神差の愛をもって接しなさい」と言われて、私たちは、自分の弱さや未熟さ、不完全さを思う存分知らされるのだと思います。私たち人間は、どこまで行っても欠けがあり、不完全なものなのです。だからこそ、私たちが日常生活の中で、隣人とかかわっていくためには、絶対に神様の愛が必要であることを聖書は語るのです。

 私たちは、不完全であり、不真実なので、「言わないでいいことも言って人を傷つけた」とか、「愛のない行動をした」とか落ち込むことがあると思います。クリスチャンなのに、「愛がない」とか「不信仰だ」と感じることがある。しかし、そのような者だからこそ、神様の愛が必要なのです。こんな者さえも変わらずに愛して下さる、神様の愛に触れて生きたいのです。どうしようもない人間同士だから、神様はイエス様を人間の世界に送って下さったのです。イエス様はご自分の体を犠牲にしてまで私たちを愛して下さったのです。私たちは、自分の不完全さ不真実さを見るのではなくて、神様の愛の完全さを見ていきたいのです。私たちは神様の愛を知っていながらも、愛を受けていながらも、対人関係において良い関係を築けないでいる自分自身を正直に認め、自分のそのままを神様に明け渡すということから始めたいと思うのです。そして、お互いのために祈ることから始めたいのです。私たち人間の力だけでは、どうすることもできない関係をイエス様に全てをお委ねして、祈りたいのです。

 

 三、神様の愛にたっぷりとつかる

 キリスト教は愛の宗教だと言われます。「あなたの敵を愛せよ」と聖書にあり、敵を愛せないと天国には行けません、と言われたら、誰一人天国へは行けないでしょう。私たちはどこまで行っても、神様の愛を知り体験しようとも、自己中心なのです。そんな者をもいつも変わらずに、そのままで愛して下さる神様の愛を感じることです。愛されているという事実を疑わないことです。

 32節から34節の言葉は、私たちがいつもしている人間的なものです。この世の愛、人間の愛でしょう。それは神様を知らなくてもやっていることです。35節には、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」とあります。ここには、重ねて「敵を愛しなさい。」とあります。私たちは罪人ですから、私たちの内側にある愛は、自己中心的な愛しかありません。ですから、自分にとって敵である人を愛することはできないのです。「敵を愛しなさい。」と言われたイエス様は、ご自分が敵を愛する愛を示して下さり、見せて下さったのです。イエス様は弟子たちにも、多くの人々にも裏切られ、不正な裁判にかけられ鞭打たれ、笑われ、からかわれ、馬鹿にされ、唾をかけられ、無実の罪で両手両足を釘で打たれ、十字架につけられ死なれたのです。イエス様は十字架の上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られたのです。自分の敵のために祈られたのです。イエス様の心の内側にあるのは、どんな人をも愛し、一人でも、多くの人に神様の深い愛を伝えること、見せることだったのです。私たちは、「敵を愛しなさい。」という愛を、自分の内側に見出そうとするのではなく、愛に溢れている神様の愛、イエス様の愛にこそ見出すのです。聖書は、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。「敵を愛しなさい。」と言われて、愛のない自分を見るのではなく、愛に溢れているイエス様、神様の愛に目をとめ、罪深い、醜い、汚れた私をも愛されているという事実を信じ、そのような愛を感じて生きるのです。36節には、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とあります。神様は情け深いお方、憐れみ深いお方だと言います。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)とマタイは記しています。神様には敵も味方もないのです。私たちは、この無限の愛、いつも私たちの上に、注がれ続けている愛をたっぷりと味わいたいのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちが、「敵を愛する」ということは、相手に対する憎しみや恨みを忘れてしまうという消極的なものではなくて、神様が自己中心的で、打算しかない罪ある私たち人間を愛して下さったように、お互いを覚えて、お互いのために祈るということだと思います。イエス様は十字架刑の苦しみの中で、私たちのために祈られました。私たちは、イエス様のこの祈り、「父よ彼らを赦し給え」という祈りによって、罪人であるにもかかわらず、汚れているのにもかかわらず、自己中心であるのにもかかわらず、私たちは、神様の深い愛、無限の愛を受けることが、いただくことが赦されているのです。イエス様は、十字架の上で自分を苦しめ、罵倒する者、十字架につけた者たちのために祈られたのです。私たちは、このイエス様の愛の祈り、イエス様の愛をいただいて、満たされて、私たちも自分に対して敵と思われる人、敵ではないけれども、合わない人、一緒にいたくない人、イライラする人のために祈りをささげる者となりたいのです。そのためにも、自分を見ないで、イエス様の愛に、変わらない愛に、触れたいのです。そのためには、神様からのラブレターである聖書に触れ、み言葉を読み、み言葉から神様の愛を確信し、そのままで愛されていることを感謝して、神様との祈りの中で、祈りたくないない人への祈りをイエス様に導いていただきたいのです。私たちは、この週も、2024年の1年間も、神様の愛イエス様の愛に触れ、この愛を毎日たっぷりと味わいたいのです。愛のイエス様が、いつも私たちと共におられます。何があっても大丈夫です。どんなことが起ころうとも、イエス様の愛を疑わず、信じて、イエス様の愛を味わう歩みをしてまいりましょう。

 

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元旦礼拝(23年1月1日)

2024-01-02 12:07:13 | Weblog

元旦初詣礼拝          2024.1.1

       「てんやわんやの人生だから」 創世記39:1~6。19~23

 

 Ⅰ導入部

 新年あけましておめでとうございます。昨年は皆様に大変お世話になりました。心から感謝致します。2024年の年も、よろしくお願いいたします。2024年も、あと364日となりました。昨日は、2023年最後の礼拝、年末感謝礼拝をささげました。2023年から2024年カウントダウンで、新しい年を迎えました。2023年11時59分59秒から、たった1秒過ぎて、2024年12時で新しい年となりました。2023年の1年間いろいろあったのでしょうが、1秒過ぎて、リセットして、新しい歩みとなりました。昨年、悲しいこと、辛いこと、苦しいことを経験された方々は、そう簡単にリセットして、新しい歩みをすることは難しいのかも知れません。私たちの心に、どのような辛い、悲しいことがあっても、時は過ぎていきます。神様がその苦しい、悲しい、辛い心に触れて下さり、神様からくる平安で満たして下さいますように心から祈ります。新しい年が、皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

2024年の元旦初詣礼拝は、「てんやわんやの人生だから」という題で、創世記39章1節から6節と19節から23節を通してお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様に目をかけられたヨセフ

  今日は、ヤコブの子どもヨセフについてです。ヨセフ物語は教会学校でもよく話される個所です。父ヤコブの愛を一人占めして、父の守りの中で、ある意味で高慢に、兄たちにも強い態度でおれたヨセフは、兄たちに反感、殺意さえも持たれて、兄たちによって、イシュマエルの商人に売られ、エジプトに連れて行かれることになったのです。初めて父ヤコブのもとから離され、父の助けもない、自分の故郷からも愛する家族からも離されて、言葉もわからない、宗教も文化も、生活様式も違うエジプトの地に奴隷として連れて行かれたのです。自分の思いで行動することもできません。命令されたことは、即座に忠実に実行しなければならない。家畜と同じ、労働力としてだけの存在でした。兄たちに対する恨みや憎しみの思いで満たされたことでしょう。しかし、兄たちを憎んでも、人のせいにしても解決しないのです。奴隷の生活は変わらないのです。ヨセフは全てのものを奪われ、丸裸にされて、ある意味で初めて自分の意志で、神様を見上げた、神様を見つめたのではないでしょうか。父の信じる神、アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、かつてヨセフにとっては、身近なものではなかったのでしょう。その神様に、自分の今の環境を許されたことにつぶやいたのかもしれません。

 しかし、神様を見つめた時、すべてを失い、奴隷という自由のない自分に対して、神様が共におられることを感じた、信じたのではないでしょうか。ヨセフが神様を神様と認めるための、信じるための神様の計らいだったのかも知れません。

 奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフを買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人、侍従長のエジプト人ポティファルという人でした。2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。」とあります。ヨセフは奴隷でありましたが、「うまく事を運んだ。」とあります。多くの奴隷がいたことでしょう。ほとんどの奴隷の仕事は、外です。重労働です。しかし、聖書は、「彼はエジプト人の主人の家にいた。」とあります。神様が共におられて、主人の家の中での仕事をしていました。ですから、主人に仕事を見られるということもあるのでしょう。3節、4節には、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」とあります。主人は、ヨセフのすることなすこと、すべてがうまくいくことが、ヨセフ自身の働きは勿論のことながら、ヨセフの信じる神様が、彼のすることを、その仕事を祝福されていることを知ったのです。ヨセフは家の中にいたので、ヨセフの祈りの姿を主人はよく見たのかも知れません。主人は「ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」のです。萩本欣一さんは、芝居の仕事を始めた時、歌も踊りもさんざんで、ものにならないと言われたそうです。しかし、一番上の人に、芝居も歌もう一つだけれど、返事がいいし、一生懸命だと一番上の人に目をかけられたそうです。人生の成功は、歌がうまいこと、踊りが素晴らしいことだけれども、上の人に気に入られることが出世の成功につながることだと、萩本欣一さんの首を切ろうとした人が言ったそうです。ヨセフは、彼の性格、努力もあったでしょうが、何よりも、「主が共におられ」ることであり、ヨセフ自身もそのことをよく理解していたのだと思うのです。私たちの2024年の今日からの歩みが始まります。何があるかはわからない。すべてを失い、丸裸になるかも知れない。だからこそ、神様を見つめなおすという時になるのかも知れません。ですから、イエス様はいつも私たちと共におられることを疑うことなく信じて歩みたいのです。

 

 二、祝福の基となったヨセフ

 5節には、「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。」とあります。ヨセフに全てを任せたら、何もかも祝福されたのです。祝福はヨセフ、主人ポティファルにとどまらず、農産物の収穫も家畜も増え、祝福され。他の奴隷たちの働きも祝福されたのです。6節には、「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。」とあります。リビングバイブルには、「ヨセフさえいれば、何の心配もありません。」とあります。奴隷ヨセフに、家の全財産を管理させたのです。ありえないことですが、ヨセフに任せたほうが、祝福される、全てがうまくいくことが主人にわかったのです。

 神様は、ヨセフと共におられたように、私たちと共におられるお方です。そのように約束しておられますから、今共におられるのです。私たちの2024年歩みを祝福して下さるのです。そして、私たちと家族だけではなく、私たちがかかわる親戚、職場の同僚、学校の友達、サークルの仲間、私たちがかかわる全ての仕事、働き、人々を神様は祝福して下さるのです。神様はアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2-3)と約束されたのです。私たちは神様によって、神様が共におられるので、祝福の基となるのです。そう信じてこの年を歩みたいのです。

 6節の最後には、「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。」とあります。イケメンでスタイルもよかったのです。それは、ヨセフの長所、良いところでした。その長所が、良いところが誘惑の原因となったのです。私たちの悪い所、弱さが誘惑につながるのではなく、良い所、自慢できる所、長所が誘惑の的になることを聖書は語るのです。あなたの音楽的な才能が、芸術的な才能が、勉強がよくできることが、仕事が良くできる所が、得意のすることが誘惑の的になるのです。

 ヨセフが父の愛を独り占めして、のほほんと優雅に暮らしていた状態ならば、誘惑に簡単に負けていたでしょう。しかし、ヨセフは全てを失い丸裸にされ、頼るものが神様しかいないこと、自分がいかに弱く小さな者であるかを知り、認め、いつも神様の目を意識し、共におられることを感じ信じていたので、誘惑に勝利しました。しかし、サタンはヨセフと共に神様がおられて、祝福されていた時、絶頂期の時に誘惑し、無実の罪なのに、ヨセフを監獄にいれるのです。

 主人ポティファルは、妻の言葉に怒り、ヨセフを王の囚人をつなぐ監獄に入れました。通常、主人の妻と関係を持とうとしたなら、即死刑です。しかし、主人はそうしなかったのは、妻の証言のあやふやさや妻の性格等をよく知っていたのでしょう。しかし、この王の囚人をつなぐ監獄にヨセフが入れられることで、エジプト宰相の道が開かれていくのです。ヨセフにとって、奴隷以下の囚人にまでなりさがったという悲しい出来事は、神様にとっては、将来ヨセフの家族をはじめ、イスラエル民族を救うことになるのです。私たちの2024年の歩みが、私たちにとって最悪の出来事であっても、神様にとっては、意味あることであり、神様ご自身は、私たちを救うために、祝福するために、み業を進めておられるということを信じて、なおイエス様が共におられることを疑うことなく、信頼たいのです。

 

 三、何があっても神様はヨセフと共におられた

 20節には、「ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。」とあります。ヨセフにしてみれば、自分は誘惑から避けて、自分を守ったのに、神様はどうして助けて下さらないのか、と神様につぶやきたい思いであったでしょう。聖書は、「ヨセフはこうして、監獄にいた。」とあります。ヨセフは、自分が無実の罪で監獄に入れられたことを受け止めたということでしょう。事の成り行きの中に神様が共におられることを信じたのです。だから、21節から23節には、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」とあります。神様が共におられるということは、何という幸いなことでしょう。自分が今どのような状況に置かれていても、大した問題ではないのです。自分の人生を狂わせるような状況であろうとも、どうしようもない状況であろうとも、苦しみや悲しみがどんなに深くあろうとも、たとえ絶望の中に置かれようとも、一番大切なことは神様があなたと共におられるという事実なのです。

 私たちは、神様を信じていても、神様が共におられても、間違いを犯し、失敗を繰り返します。それでも、愛なる神様は、聖なる神様は、私たちのそばから離れることなく、見捨てることなく、見限ることなく、共にいて下さるのです。神様は何があっても、私たちがどのような者であっても、離れることはないのです。神様は、ヨセフと共におられましたが、ヨセフは試され、無実の罪で訴えられ、監獄で囚人となりました。これに関しては、うまくいっているとは言えないでしょう。それでも、神様はそこに共におられるのです。苦しみや悲しみ、恥ずかしさを経験したヨセフから神様は離れることはなかったのです。全てのことが良いことも悪いことも超えて、全てのことが神様の導きの中に確かにあったのです。神様が、どのような時もヨセフと共におられたように、いつまでもいつも、神様は、私たち一人ひとりと共にいて下さるのです。

 神様が共におられるということは、無病息災、商売繁盛という生活を送るという意味ではありません。神様の確かなご計画の中に、何があろうとも、どのようなことを経験しようとも、私たちが神様に生かされるということが、神様が私たちと共におられるということだと思うのです。私たちが、人生で経験することは、全ての事において意味があります。それは、私たちが本当に神の子となるためであり、神様のご計画がなり、神様の栄光があらわれるためなのです。神様がいつも共におられることを信じたいのです。

 

 Ⅲ結論部

ノートルダム清心学園の理事長でありました渡辺和子先生は、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれました。本の中で「私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんな所に置かれても、そこで環境の主人となり自分の花をさかせようと決心することができました。・・・咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったには間違いではなかったと、証明することなのです。」と言っておられます。また、「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものになるために。」とも言っておられます。まさにヨセフですね。

 奴隷になったら終わりではないのです。囚人になったからおしまいではないのです。奴隷であろうが、囚人であろうが、栄えることができるのです。絶望的な状況、悲しい情けない状況にあっても、勝利することができるのです。たとえ、人に誤解されても、黙って神様に全てをお任せして、忍耐をもって神様の導きを待ち望むことができるのです。イエス様は 

私たちの罪を赦すために、お生まれ下さり、神様に裁かれて十字架につけられ、尊い血を流し、命をささげられました。死んで下さり、墓に葬られましたが、3日目によみがえらされて、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架で流された血と復活の力により、私たちの犯した罪、2024年に犯すであろう全ての罪を赦し、清め、義とし、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。私たちは、この恵みにあずかって2024年を歩んで行くのです。

私たちは、20224年の1月1日元旦を迎え、これから365日何があるのか、未来のことはわかりません。しかし、何があっても大丈夫です。てんやわんやの人生かもしれない。様々な苦しみや辛い事が起こるかもしれない。しかし、その苦しみや辛い経験や絶望を経験して倒れそうな、いや倒れてしまう私たちとイエス様は共におられるのです。何があろうとも、イエス様がいつも一緒にいて下さるのですから、マイナスをプラスに、問題を恵みと祝福に変えて下さるのです。そのことを信じて、2024年の全てをイエス様にお委ねして、お任せして、安心して、落ち着いてイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(23年12月31日)

2023-12-31 12:36:44 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第一)        2023.12.31

異邦人」  マタイ2:1~12

Ⅰ導入部

おはようございます。12月の第五の日曜日、大みそか、12月31日の年末感謝礼拝を愛するみなさんと共にささげることができますことを感謝いたします。先週、私たちは救い主イエス様の誕生をクリスマス礼拝、キャンドルライトサービスを通して、共にお祝いすることができました。全世界のキリスト教会がクリスマスのお祝いをしたのです。キャンドルライトサービスが終わって、すでにクリスマスツリーを片付けて、新年の準備がなされたのかも知れません。青葉台教会も以前はそうでしたが、最近はクリスマスツリーは、1月6日まではそのままにして置くようになりました。1月6日は、公現日、顕現日、エピファニーと言われ、救い主イエス様が人々の前に明らかにされた日とされています。ですから、1月6日まで降誕節、クリスマスの祝いの期間となっています。この日に東方の占星術の学者(博士)たちが救い主イエス様を訪ね礼拝した時となっています。

2023年1月1日は元旦初詣日曜礼拝から始まりました。聖書の個所は、今日と同じマタイによる福音書2章1節から12節でした。ですから、2023年は、最初の日、1月1日と最後の日、12月31日で、マタイによる福音書2章1節から12節で始まり、マタイによる福音書2章1節から12節で終わるということになります。

大みそか、2023年12月31日の礼拝は、マタイによる福音書2章1節から12節を通して、「異邦人」という題でお話しします。「異邦人」という歌が、以前ヒットしました。コマーシャルでもよく歌われていました。久保田早紀という人が歌いました。彼女はクリスチャンになり、久米小百合さんという名で、現在賛美を通して神様をほめたたえておられます。

 

Ⅱ本論部

一、異邦人に示された救い主誕生

1節を見ると、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、」とあります。新共同訳聖書にはないのですが、新改訳聖書や口語訳聖書には、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあって、「見よ」という言葉があります。この「見よ」という言葉は、「イドゥ」という言葉で、思いがけない驚きを表現する言葉のようです。はるばる東の国から長い旅をしてきた占星術の学者たちの姿を見て、驚きのあまり「見よ」、「見て見て」と示しているのです。それほど、東方の占星術の学者たちの来訪は驚きに満ちていたということです。9節にも、新共同訳にはありませんが、「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、」とあり、「見よ」と東方で見た星の出現に驚いているのです。ここには、2つの驚きがあります。一つは、東方の占星術の学者たちの訪問です。2節に、「言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」と、何の備えもなく突然、東方の国から来た占星術の学者たちから、ヘロデ王と宗教指導者たちは、ユダヤ人の王となるお方の誕生の知らせを聞かされたのです。ですから、東方の占星術の学者たちのエルサレム訪問は、始めから終わりまで驚きの出来事でした。

2つの目の驚きは、占星術の学者たちに救い主出現を示した不思議な星が、現れて救い主のいる所まで先導したということです。それは、驚きの出来事でした。神様は、ユダヤ人の王として生まれた救い主イエス様の誕生を、選民ユダヤ人を差し置いて、ユダヤ人ではない異邦人、律法の言葉も知らない、ユダヤ人から見たら、神様から遠くは離れている存在の異邦人である東方の占星術の学者たちに語らせているのです。ユダヤ人ではなく、異邦人の東方の占星術の学者たちが、救い主を礼拝する姿こそが、神様の確かな導きでした。学者たちの訪問によって、当時のエルサレムのユダヤ人指導者たちが、忘れていた旧約聖書のみ言葉を思い出さなければならないことを教えたのでした。エルサレムの宗教指導者たちは、ユダヤ人が長年待ち望んでいた救い主の誕生を異邦人から聞かされて、とてもショックだったはずです。自分たち、ユダヤ人は神の民、神様に選ばれた、特別な存在だと自慢していた。ユダヤ人ファーストでした。旧約聖書には、多くの預言者たちが、神様のみ言葉が異邦人の世界に広がるということを語っているのです。パウロも、異邦人が救われことを通して、ユダヤ人が救われることを示しています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(ローマ11:25-26)

神様の救いは、選民イスラエル、ユダヤ人だけに限定されているのではなく、世界を創造された神様の救いのみ業は、全世界の全ての民に与えられるという希望をマタイによる福音書は、神様の救いが、異邦人に与えられていることを、この東方の占星術の学者の訪問を通して語るのです。学者たちが、不思議な星に導かれて、救い主にお会いしたことから、神様の恵みの道は、異邦人からユダヤ人へ伝えられたのです。そしてまた、異邦人へ伝えられていくのです。

 

二、異邦人が神の言葉にたどり着く

東方の占星術の学者たちのことを、原語でマゴスと表現し、元来ペルシャの宗教者で祭司の働きを担った人という意味があるようです。マゴスは当時の天文学や薬学を用いて、神々を伝える働きをしていました。また、星座の研究によって、人々の運命を占いました。彼らは、星によって未来が占えると思っていたのです。ある星の下に生まれると、その星によって運命が定められると信じていたのです。星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表していました。それが突然明るい星が現れ、特別な現象によって天体の秩序が乱れると、それは神様の創造の秩序を破って、何か特別なことが示されると考えられていたのです。

かつてユダヤ人たちは、バビロンの国に捕囚となりました。ダニエルはその国で豊かに用いられました。当時のネブカデネツァル王は、ダニエルを「お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。」(ダニエル5:11)とあり、「占い師、祈祷師、賢者、星占い師」と呼び、ダニエルの信じる神にネブカドネツァル王は、栄光を帰したのです。このような記録が強烈に残っていて、何百年もユダヤ人の神、ユダヤ人の王を求めていたということも考えられえるのです。かつて、過去のユダヤ人が残した証を神様は決して無駄にはなさらないのです。私たちは小さな信仰かも知れません。小さな証かも知れない。しかし、私たちがイエス・キリスト様を信じて歩んだ信仰の歩みの証を、神様は絶対に無駄にはなさらないのです。家族や友人たちにとって、やがて、いつか、神様の時に花開くということを聖書は私たちに語るのですから、2023年の自分の信仰の歩みを振り返りつつ、問題があった。課題もあった。不信仰だったのかも知れない。罪を犯してしまったのかも知れない。しかし、そのような私たちを見捨てず、切り捨てず、共におられて、私たちの信仰の歩みを導いて下さった神様に感謝したいのです。

3節から6節には、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」」とあります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と東方の占星術の学者たちから問われてヘロデ王も、時の宗教指導者たちも不安を抱きました。「寝耳に水でした。」ヘロデ王は、時の宗教指導者たちに、救い主はどこで生まれるのかとその場所を調べさせ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」と旧約聖書のミカ書5章1節の預言の言葉から、その場所は「ベツレヘム」という場所を示しました。東方の占星術の学者たちは、自分たちの専門の知識とユダヤ人が待ち望んでいた言い伝えによって、エルサレムまで危険を冒してまで、旅をしてきたのです。しかし、今は聖書、神様の言葉を聞いて、それを信じてベツレヘムに向かおうとするのです。聖書の言葉もあまり知らない彼らが、預言の言葉を信じて、その言葉によって救い主のもとに行こうとするのです。神様の言葉が、聖書の言葉が救い主のもとに導くのです。 

私たちは、2023年の1年間、聖書の言葉に触れて、聖書の言葉を通して、神様に出会い、神様の導きの中で、信仰生活を歩んでまいりました。2024年も神様の言葉に信頼して、聖書に触れて、聖書を読んで、聖書を学んで、神様の言葉に満たされ、従って歩みたいのです。

 

三、異邦人が礼拝をささげるようになる

学者たちがでかけると、9節、10節には、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。あの救い主の誕生を知らせた星が現れたのです。その星を見て彼らは喜びに満たされました。そして、その星が救い主のいる所に導いたのです。

11節には、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、」とあります。2章2節には、「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、学者たちの目的は、救い主イエス様を礼拝することでした。彼らは自分たちの人生をかけて、イエス様を礼拝するために来たのです。遠い遠い国、ユダヤから約2千キロ離れた所からユダヤ人の王、救い主イエス様を礼拝することを第一としたのです。アブラハムは、行き先を知らないで、神様の言葉だけを握りしめて信じて旅に出たのも神様を礼拝するためでした。アブラハムは、要所要所で祭壇を築いて礼拝したのです。イエス様を礼拝することを第一にすることが、私たち信仰者の真の歩みだと思うのです。10節の「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」という喜びは、東方で見た星を喜んだのですが、その星が救い主のもとへ導くこと、長い長い旅をして来て、彼らを支えていたものは、救い主を礼拝できるという喜びだったのです。救い主イエス様にお会いできることを喜びとしたのです。長旅も、莫大なお金を使うことも、危険を冒してまで旅に出るほどの覚悟をもって、学者たちを押し出したのは、救い主イエス様に会うためであり、イエス様を礼拝するためであり、ユダヤ人の王救い主に対する愛があったからなのでしょう。ただ、新しいものとか、珍しいものを見るためだけなら、このような喜びはないはずです。学者たちの目線は、ずっとこの星に集中していたのです。それは、彼らが占星術の専門家、星の専門家だったからでしょうか。そではありません。彼らの目は、星そのものではなく、星が導くであろう救い主イエス様をしっかりと見ていたのです。

彼らは、救い主イエス様に会い、心からの礼拝をささげたのです。ユダヤ人の王に礼拝をささげることが、そもそも旅の目的でした。信仰の旅は、救い主イエス様に礼拝をささげることが目的地に達するといえるのでしょう。信仰者の人生は、イエス様に出会って、喜びに満ちた礼拝をささげることに向かうのです。また、私たち信仰者の生活のリズムでもあります。日曜日の礼拝は、喜びにあふれてイエス様に出会う場所です。一週間の歩みを通して、神様が私たちを日曜礼拝に導くのです。日曜日の礼拝を待ち焦がれることが、信仰的なことなのでしょう。エルサレムの宗教指導者たちは、エルサレムから約8キロしか離れていない場所ベツレヘムで生まれた救い主を礼拝するために行動しなかったのです。

神の言葉、律法に触れ、救い主を待ち望むユダヤ人にとっては、身近な存在であるから、慣れ親しんだ存在だから、救い主を礼拝することをないがしろにしたのかも知れません。

私たちキリスト者も、礼拝があまりにも慣れすぎて、親しみすぎて、礼拝をささげることから離れてしまうということがあるのかも知れません。だからこそ、約2千キロ離れた所から、人生をかけて、財をささげ、命を懸けて救い主を礼拝した東方の占星術の学者たちの礼拝の姿勢に学びたいと思いますし、礼拝の姿勢を模範にしたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

11節後半には、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。占星術の学者たちは、自分たちの大切なものをささげました。私たちも自分の大切なものをささげましょう、というのではありません。ここでは、何をささげるかというよりも、「宝の箱を開けて」というのが大切なことなのです。私たちの宝のある場所を開けるということでしょう。イエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)と言われました。私たちの心こそ、宝の箱だと言っているのでしょう。私たちは、自分の大切なもので心満たす生き物です。愛する人がいると一日中愛する人のことを考えます。いつもいつも愛する人のことで、頭と心がいっぱいで何もできなくなるのです。私たちの心は、愛するもので、好きなもので、私たちの心は患うぐらいに、私たちの心の箱という宝の箱は、すぐに一杯になってしまうのです。そうすると、本来やるべきことができなくなり、見るべきものが見えなくなってしまうのです。自分の大切な宝が、自分の首を絞めてしまう。占星術の学者たちが、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。だから、帰りは荷物がないので軽くなったのです。それは、今まで持っていた宝物が、彼らにとっては、重荷になったということになるのでしょうか。

私たちは、自分にとっては大切なものがたくさんあります。財も、知識も、健康も、仕事も家も、車も、社会的な地位も、それぞれに大切なものです。しかし、そのことだけに、そのものだけに執着している限り、自分の宝の箱を開けない限り、人生の重荷は、自分にとっては重荷のままで残るのです。私たちの心の中には、自分を苦しめている過去の出来事、人に言えないこと、墓場まで持って行くべきことを全て、イエス様に打ち明ける、お委ねするなら解放されるのです。イエス様は、私たちの全ての重荷、罪の重荷を私たちに代わって背負って下さったのです。あの十字架の上に、罪のないお方が罪ある私たちの罪の身代わりに、神様に裁かれ十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられた。死んで下さり墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の血と復活の力により、私たちの犯した全ての罪が赦され、清められ、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。

 私たちは、2023年様々な重荷を負って歩んで来たことでしょう。イエス様は今、私たちが握りしめている、負っている重荷を全て引き受けて下さるのですから、イエス様のもとに全ての重荷をおろして、イエス様にお任せし、2024年を迎えたいのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-29)と聖書は語ります。g-@

 私たちは自分の宝の箱を開けて、イエス様の十字架と復活の恵みでいっぱいにしていただこうではありませんか。私たちは、イエス様を礼拝することを第一のこととして、自分の心をイエス様に明け渡す時、新しく生きるためのみ言葉、神の言葉が与えられるのです。

 2023年が今日で終わります。イエス様がいつもそばにいて、守り導いて下さったことを感謝しつつ、明日から始まる2024年の歩みに、イエス様を礼拝することを第一として歩みたいと思うのです。私のもとに来なさい、と言われるイエス様の身元に、全ての重荷をおろして、イエス様に全てをお任せして2023年を終え、イエス様に全てをお任せして2024年を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年12月24日)

2023-12-24 14:03:23 | Weblog

日曜礼拝(クリスマス)        2023.12.24

第一発見者」  ルカ2:8~21

Ⅰ導入部

おはようございます。クリスマスおめでとうございます。12月の第四の日曜日を迎えました。アドベントクランツに4本火がともりました。全世界のキリスト教会でクリスマスの礼拝が捧げられ、御子イエス様の誕生がお祝いされています。今日は礼拝後に、岩崎羽紀さんが洗礼を、イーサン君が幼児洗礼を、イーサン君のご両親の入会式が行われます。神様の豊かな祝福がありますようにお祈り下さい。

今日は、ルカによる福音書2章8節から21節を通して、「第一発見者」という題でお話いたします。私の一番好きなドラマは、「相棒」というドラマです。杉下右京さんの推理で事件を解決していくのです。事件には、必ず第一発見者がいます。事件ではありませんが、神様が人間の世界に介入された最初、驚くべき出来事の第一発見者となった羊飼いに目をとめたいのです。

Ⅱ本論部

一、クリスマスは天における喜び

8節には、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。「その地方」とは、ベツレヘム近郊であり、町は丘陵地にあり、その周辺に放牧地域が広がっていてようです。羊飼いたちは、いつものように、自分たちの仕事をしていました。彼らの仕事は、動物、羊相手ですから、臭い、汚い、24時間365日のブラックの仕事で、仕事の性質上、神殿に行って礼拝も祈りもできない。食事をするときには手を洗うこともできない。宗教的な行為はほとんできない人々、宗教指導者たちから見たら、不信仰極まりない罪人とレッテルを張られ、どうしようもない人々として見捨てられていたのです。「野宿をしながら」とありますから、ホームレスです。聖書は、神様を知らない人を失われた者とか、迷える魂と表現します。自分の本来帰るべき故郷、ホームを探し求めている人々です。私たち人間は、私たちを創造された神様のもとに帰らない限り、いつまでも宿無しであり、野宿者、ホームレス、帰るべき家のない者なのです。羊飼いは、その代表でしょう。イエス様は帰るべき家のない人々のために、救い主として来られたのです。

クリスマスの夜、人間の世界は静かな夜を迎えていました。忙しかったのは天でした。クリスマスは、天上の出来事、父なる神様は,独り子なるお方、救い主イエス様を人間の世界に送り出すために、天使たちに命じて、羊飼いたちに救い主誕生を知らせることと、天使たちに救い誕生の喜びを表現するために、聖歌隊を編成し、賛美をささげさせるのです。普段通りの生活様式で、夜野宿しながら羊の番をしている労働者羊飼いは、何の状況もの見込めないままに、救い主誕生と天使の大合唱を聞くという栄光に預かるのです。クリスマスの季節は、多くの場所でクリスマスの演奏会が開かれています。バッハのクリスマスオラトリオやアベマリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九と日本全国で、世界中で演奏が奏でられていることでしょう。ユーオディアのメンバーも大忙しでしょう。

それぞれのコンサートは素晴らしく、拍手喝さいでしょう。しかし、それらの演奏とは比べものにならないような、天使の大軍勢の大讃美が、救い主の誕生の時、天からささげられたことが記されています。今日はクリスマスイブの日、この世では多くの人々がクリスマスのお祝い、クリスマスランチ、クリスマスディナーとにぎあうことでしょう。12月24日の今日は、最高潮ににぎあうのです。しかし、クリスマスの華やかさやにぎやかさは、本来地上の人間が作り出すものではなくて、天においてすでにあったものなのです。私たち人間が、そのことを忘れてしまって自分たちだけで、クリスマスだからといって、にぎやかに楽しさを作り出そうとするのには無理がある、限界があるのです。

クリスマス、全世界の救い誕生の時、救い主のためには、人間の側には、何の準備もなく、突然もたらされたのでした。クリスマスは、人間の側で華やかさや楽しさを作り出すのではなく、思いもよらない、知らないうちに突然天からもたらされたものがクリスマスなのです。そして、クリスマスは神様からもプレゼントですから、救い主の誕生はすべての人々に与えられているものであり、すべての人々がクリスマスに招かれていることを覚えたいのです。

二、クリスマスはあなたのためにある

救い主の誕生は、全ての人々に招かれているのですが、その一番に救い主誕生の知らせと天使の大合唱を聞くために選ばれたのが羊飼いたちでした。毎日、与えられた働きを一生懸命に、貧しいながらも、頑張っていた羊飼い、夜の星を眺めながら、救い主の到来を祈り続けていたのでしょう。10節から12節には、「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」」とあります。

旧約聖書の時代には、神様のみこころは、アブラハムやその子どもたち、預言者という特別な人々にしか伝えられませんでした。しかし、クリスマス、救い主の誕生という神様のみこころは、羊飼いたちに直接、天使を通して人間の救いにとって最も大切なことが告げられたのです。ごく普通の労働者、ユダヤの社会では、裁判の席で、法廷の証言から羊飼いは除外されるという証人にもなれないという信用のない、まともな一人前の人間とはみなされなかった、不信仰だとレッテルを張られた羊飼いたちに、神様にとって最も重要なことが示されたのです。最も大切な出来事を知らされた羊飼いですが、その後聖書には、神様の働きにおいて特別な役割は何もしてないのです。ただ、救い主誕生のこの時だけに、救い主誕生の知らせを受けた者、告げられた者としてだけに登場しているのです。使徒言行録1章には、イエス様の12弟子の中でイエス様を裏切り死んだユダに代わって弟子の選出の記事がありマッテヤという人が選ばれますが、その後マッテヤのことは何も知らされていません。ただ、12弟子のひとりとして選ばれたことだけのために登場したのですが、そのことがペンテコステに大切な意味となりました。毎年、クリスマスが来るたびに、羊飼いのことが説教で話され続けているのです。神様は救い主誕生のことをどうしても人間に伝えたかったのです。そして、そのために選ばれたのが羊飼いだったのです。2023年、この年も苦労の連続、石川啄木ではありませんが「働けど働けどなお、わが暮らし楽にならず、じっと手を見る」と、どれだけ働いても自分の生活は楽にならない。羊飼いの生活であり、現代人の生活でもあるように思います。

その苦労しいる人々に、神様は語られるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と。救い主イエス様は、全世界の人々のためにお生まれになりました。しかし、あえて「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と羊飼いに語られたのです。神様は、あなたがた羊飼いのことをひと時も忘れていませんよ、一人ひとりが大切な存在なのだというメッセージです。傷つき、痛み、恐れ、苦労し、日々の仕事に一生懸命に働く羊飼い、いや私たちに、救い主はあなたのために生まれた、と神様は語られるのです。自分には関係がないと思っておられるかもしれない、あなたのために救い主イエス様は生まれたのです。傷ついている、痛い経験をしている、苦しい、悲しい状況にある、辛い、切ない、希望が持てないとしたら、そのあなたのために救い主イエス様はお生まれになったのです。

三、クリスマスは神様が人間と共に生きることを願われた

天使は言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 救い主のしるしは、しるしなので、目立つもの、あるいは、珍しいものでければならないでしょう。「しるし」の意味は、見間違いのない、異様な光景というような意味でもあるようです。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」という「飼い葉桶」は、原文は「ファトニ」と言って、家畜の餌をまくためのくぼみを意味します。家畜小屋を掃除する際に汚物を水で流す下水の開渠(かいきょ)「蓋をしていない水路」にもなる長い溝でした。そんなところに赤ちゃんを寝かしていることがしるしというのです。驚きです。普通絶対にない光景でしょう。これが全世界の人々の救い主として人間の世界に来られたしるしだというのです。

天使が羊飼いたちに救い主誕生の知らせをした後、天使に天の大群が加わり、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美したのです。神様はいと高きところの天の栄光が、地上に平和をもたらすために、救い主イエス様を地上に、人間の世界に送られたのです。弱い、小さな、見栄えのない姿の赤ちゃんを送ることによって、天の栄光は地上で、人間の世界で平和となるのです。救い主イエス様によって、天と地、神様と人間が結ばれたのです。クリスマスは、神様が独り子のイエス様を地上に送ることによって、絶望が絶望のままで終わることはないという希望のメッセージなのです。すべての人間が平和を願い求めます。だからこそ、平和の主であるイエス様が全ての人に与えられて大きな喜びとなるのです。イエス様がもたらす平和は、ローマ帝国のような絶対的な力による支配によって作られるものではなくて、布にぬくるまれて飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんの姿において、平和を示されたのです。神様は、弱い人々、貧しい人、平和を奪われた人、暴力によって痛みの中にある人の声を聴かれるのです。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルに民の嘆きを叫びを聞かれ、モーセを送られました。救い主イエス様は、私たち人間の嘆き悲しむ声が聞こえる所まで、降りてこられたのです。イエス様は、人間とともに生きることから平和を作り出されるのです。イエス様は、私たちの悲しむ声、傷む声、嘆きを聞き、その私たち共に生きて下さるのです。イエス様は、私たちの罪を赦すために、私たちに代わって父なる神様に裁かれ、罰を受け、十字架にかかって尊い血を流し、命をささげ、死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて、罪と死に打ち勝ち神であることを証明なさったのです。イエス様の十字架で流された血と復活により、私たちの犯した全ての罪が赦され、清められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。このように、救い主イエス様は、私たちの罪を赦し、復活して勝利を与えるために、お生まれになったのです。それがクリスマスです。あなたの罪はイエス様の十字架と復活で赦されているのですから、感謝して、その救いを受けようではありませんか。

Ⅲ結論部

羊飼いたちは、天使の賛美を受け、自分たちのような者のために生まれて下さったイエス様に会いたいと願いました。そして、ベツレヘムに急いだのです。そして、しるしを頼りにイエス様を探し当てて、天使の告げた通りだったので大いに喜び感謝しました。羊飼いたちは、世界で最初の救い主の第一発見者になったのです。そして、自分たちだけが救い主の誕生を知るだけでは収まらず、天使の話したこと救いイエス様にあったことなどを伝えたのです。うれしくて、うれしくて黙っていることなどできなかったのです。

羊飼いたちは、天使の告げたとおりの救い主イエス様に出会って、神様をあがめ賛美しながら、帰って行ったのです。また、いつもと同じ生活24時間365日、臭い、汚い、きつい場所に戻っていきました。しかし、彼らの心には大きな喜びがありました。赤ちゃんイエス様の笑顔が心にありました。羊飼いたちは、天使から救い主誕生を聞きました。そして、救い主に会いに行き、喜びに満たされました。聞いただけではわからないのです。

来てみなければわからないことがあります。聖書の言葉も聞くだけでは、読むだけではわかりません。聖書を読んで聞いて、そして、信じて実行する時に、神様の深い恵みを体験することができるのだと思うのです。こうして、教会に来て見てわかることもあるのです。オンラインで礼拝に参加しておられる方々も、ぜひ一度、教会にお越しになって見て下さい。今晩のキャンドルライトサービスにお越し下されば感謝です。

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と天の大軍は賛美しました。御心に適わない罪びとには平和が与えられないから、御心に適う人にならなければならないというのではありません。罪人である私たちは、すべて御心に適う人ではありません。その御心に適わない私たちを神様は、イエス様の十字架の死と復活を通して、「あなたは私の御心に適う」と言って下さるのです。私たちが、どういう人間かにかかわらず、イエス様を与えて下さった神様の愛によって、私たちは、御心に適う人にされ、神様との間に、平和が与えられているのです。私たちは神様によって与えられた平和によって、人間同士の間にも平和を築くことができるのだと思うのです。天における栄光が、救い主イエス様を通して、私たち人間の世界に平和が実現されていくことを願い祈りたいと思うのです。来週は、大みそか、2023年最後の礼拝です。2023年の最初の日1月1日は日曜礼拝で始まり、2023年の最後の日、12月31日は日曜礼拝で終わるという恵みの年として終わりたいと思うのです。この週もイエス様が共におられます。イエス様と共に、2023年の最後の週を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年12月17日)

2023-12-17 13:20:07 | Weblog

日曜礼拝(アドベント第三)       2023.12.17

イエス様がいないクリスマスなんて」  ルカ2:1~7  

  

Ⅰ導入部

おはようございます。12月の第三の日曜日を迎えました。クリスマスキャンドルに3本の火が灯りました。来週は、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。そして、2023年もあと2週間となりました。2023年の日本漢字能力検定協会の12月12日の漢字の日に選ばれた漢字一字は「税」という漢字でした。増税やインボイス制度などの税に関する制度が変わったこと、増税メガネという岸田首相の呼び名も話題になりました。2014年も、「税」という漢字で、消費税8%に引き上げられた時以来の2度目になります。また、2位は猛暑の暑、「暑」、3位は戦い、「戦」、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマス等の戦争ということでしょう。皆さんにとっての今年の漢字一字は何になるのでしょうか。

今日は、ルカによる福音書2章1節から7節を通して、「イエス様がいないクリスマスなんて」という題でお話しいたします。

Ⅱ本論部

一、人類救済計画にローマ皇帝さえ用いられる

2章1節には、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。「そのころ」と聖書は時代を特定します。ローマ皇帝アウグストゥスの名前があります。彼の正式な名前は、ガイウス・ユリウス・カイサル・オクタビアヌスです。彼は、BC27年に元老院から「アウグストゥス」という称号を贈られました。BC27年からAD14年まで、41年間皇帝として統治しました。ローマ帝国の最初の皇帝です。当時の記録には、彼は「神」とか「全世界の救い主」と呼ばれ、彼の誕生は、グッドニュースとまで言われたのです。

イスラエルの敵であり、イスラエルを支配する皇帝アウグストゥスの命令によって、神様は神様ご自身の全人類の救済計画を進められるのです。ユダヤ人は、神様の約束がありながらも、その生活は脅かされ支配者に牛耳られていました。エジプトを脱出し荒野の放浪の果てにたどり着いた乳と蜜の流れる土地であったはずが、支配者による圧迫された生活でした。そのような支配された状況の中にあって、苦しみの中で神様のみこころである、救い主誕生という人類救済計画は進められるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスが、神様のご計画の中で用いられるのです。ローマ皇帝の名のもとに全世界の住民登録の命令が出されました。全領土というのは、当時のローマ帝国の領土、地中海一帯のことです。この住民登録は、住民から「税」をとる徴税を目的とした登録です。イスラエルのこの年の漢字一字は、やはり「税」という漢字であったでしょう。時の権力者の命令は絶対で従わなければなりませんでした。どのような理由や都合があっても、この命令には従わなければなりませんでした。ベツレヘムに本籍がある人は、ベツレヘムにまで行って登録しなければならなかったのです。

4節には、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」とあります。5節には、「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」とあります。「いいなずけのマリア」とありますが、新改訳聖書や口語訳聖書には、「いいなずけの妻マリア」とあります。当時のいいなずけは、現在の結婚に等しい法的にヨセフの妻ですから、ヨセフと一緒に登録する義務があったことがわかるようです。発掘された陶器によると、ベツレヘムからナザレに移住をする人々があったようです。ですから、そのような人々はベツレヘムに行って住民登録をしたのです。

聖霊によって身ごもるという人類の歴史上でただ一人マリアだけに与えられたものであり、ただマリアだけが人類で初、そして、ただひとりだけの特別な経験でした。けれど、マリアのお腹が大きくなるにつれて、ナザレの人々はマリアの妊娠に疑問を持ったり、冷たい目で見るようになったのかも知れません。そのような時、時の権力者の命令でヨセフとマリアはベツレヘムに行くことになりました。時の権力者の自分の力を見せつけいけたいという欲望からの命令であったのかもしれません。しかし、神様は人間のそのような欲望さえも用いて、ローマ皇帝アウグストゥスをさえ用いて救いの計画を進められたのです。

聖書は語ります。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ5:1)ミカはベツレヘムで救い主が誕生することを預言していました。

旧約聖書の預言の成就として、救い主はベツレヘムで生まれることになるのです。

 

二、全くふさわしくない場所で救い主は生まれた

6節から7節の前半には、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」とあります。当時、男の子が生まれた時は、家族、近隣、地域の人々が共に喜び祝いました。バプテスマのヨハネが誕生した時は、近隣の人々も共に喜びました。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」

(ルカ1:57-58) けれども、世界の救い主イエス様の誕生では、親類、地域の人々からは見捨てられたようなものでした。布にくるんで、飼い葉桶に寝かせたのでした。異例の場所、イエス様をくるんだ布も新生児には、とてもじゃないですが、ふさわしいものではありませんでした。誰からも歓迎されない無き者のように扱われ、家畜同然の場所に追いやられたのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)と聖書は告げています。イエス様は、全世界の王、救い主としては、ふさわしくない場所、ふさわしくない世界に来られたのです。イエス様は、救い主として、ふさわしい場所、ふさわしいもてなし、ふさわしいところに落ち着くために来られたのではなかったのです。誕生されたイエス様は、政治的にも、社会的にも、人間的にも、人間としてはふさわしくない扱いを受けたのでした。このように、救い主でありながら、神様でありながら、最もふさわしくない扱いを受けたイエス様にこそ、私たちにとって、真実なふさわしさを見出すことのできる鍵があるように思うのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)

ベツレヘムは、ヨセフの知らない町ではありません。彼の故郷ですから、親類縁者もいたことでしょう。ヨセフが自分の名前を明かせば、故郷の人々は無下に扱うということはなかったのでしょう。ヨセフはダビデ王家の血筋です。血筋をとても大切にする民族です。古代の中東においては、旅人をもてなす文化というものは定着していたことでしょう。旅人に対しては、「どうぞお泊りください」と迎え入れるのが通常であったはずです。まして、出産が近いマリアを連れているのですから、それは当然でしょう。普通、村の女性に陣痛が起これば、村の共同体としてみんなが協力して助けたのです。出産の手助けをするのが普通でした。それなのに、マリアは、一人で産んで、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」

のでした。ユダヤ人の女性は、お産が軽いので一人で産んでしまうことも珍しくなかったようです。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト1:19)とファラオ王から男の子なら殺せと命令を受けた助産婦は言っています。

「布にくるんで」の、この動詞は、「産着(うぶぎ)」という名詞から生まれた言葉のようです。協会共同訳聖書では、「産着にくるんで」と訳されています。人間に過ぎない者、アウグストゥスが、神とあがめられた時期に、あえて神様は、この時期を選んでと言いましょうか、まことの神様が、まことの人間となって全世界の救い主として来られたのです。家畜であふれる居場所に、人間の姿、最も弱い存在の赤ちゃんの姿で来られたのです。私たち人間には、絶対に考えられない、予想もできない神様の考えられたみ業でした。

 

三、私のために卑しめられた救い主

7節の後半には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。この「宿屋」には、2種類あったようです。1つは、「パンテオン」という言葉で、「商業施設としての宿屋」で、ちゃんとした旅館とかホテルを指しています。もう一つは、「カタルマ」という言葉で、「荷物を解いておろす」という言葉に関連して、スペース、空間、という滞在場所の程度の意味があるようです。人が集まる宿泊程度の建物ということでしょう。荷物を解いておろして休むことができればいい程度の空間です。この宿屋「カタルマ」という言葉は、「客間」とも訳せる言葉で、口語訳聖書では、「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」となっています。また、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とありますが、「泊まれなかった」とはいっていないのです。当時の宿舎には、今で言えば駐車場、その代わりに家畜小屋が併設されていたようです。当時の旅の乗り物はロバでした。ロバの駐車場、家畜小屋があったのです。宿屋から追い出されたというよりも、この家畜小屋に移動してイエス様を産んだということでしょう。この家畜小屋は、洞窟であったと言われています。ベツレヘムには岩屋がいくつもあったようです。今でも、家畜や羊を雨宿りさせるために使われているようです。イエス様が生まれたとされる洞窟、岩屋に教会堂が建てられ、ベツレヘムの聖誕教会として知られています。

この宿屋とは、平屋の三部構造になっていて、真中が家族用の居間、客間の右側が客間、家族の居間と客間は、部厚い壁で仕切られ、居間の左側は、家畜小屋で、仕切りの壁が半分で、家畜が顔を出せるようになっていたようです。そして、居間との仕切りの居間側に飼い葉桶があったようです。マリアとヨセフは、宿泊所にいることができなくなって、併設する家畜小屋ないし、岩屋、洞窟の家畜小屋に移動して、そこで出産したのでしょう。当時、洞窟は墓場としても使用されていたようですから、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」の「布」は、死体を包む布であった可能性が高いのです。イエス様は、誕生されたその瞬間から十字架の死に向かっていたのです。世界の王、救い主として最もふさわしくない場所や環境でお生まれになったイエス様は、やがて神の子としては、最もふさわしくない場所、ゴルゴダで全人類の罪の身代わりに、父なる神様に裁かれて十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、三日目によみがえらされて、罪と死に勝利されたのです。十字架で流された血と復活の力により、私たち人間の犯した全ての罪が赦されて、清められ、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが、全ての人に与えられたのです。イエス様は、神様の立場をおしまず後にして、寒い、汚い、臭い、飼い葉桶に寝かされるという低さまで降りてきて下さいました。赤ちゃんはデリケートです。神であるお方が、小さく、弱く、人の助けを受けないと生きていけない存在となられました。救い主イエス様は今、この世の現実において、卑しめられている人々と同じ扱いを受け、ご自身が卑しめられることを嫌がられなかった。受け入れられたのです。それは、私たちを愛し、私たちのために、世界の全ての人々のためにそうして下さったのです。

Ⅲ結論部

瞬きの詩人水野源蔵さんは、「救いの御子の降誕を」という詩を作りました。「 一度も高らかに クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない 一度も声を出して クリスマスを祝うあいさつをしたことがない 一度もカードに メリークリスマスと書いたことがない だけどだけど 雪と風がたたく部屋で 心の中で歌い 自分自身にあいさつをし まぶたのうらに書き 救いの御子の降誕を 御神に感謝し喜び祝う 「わが恵み汝に足れり 水野源三第一詩集」より」

私たちは、自分にできないないこと、ないことを直ぐに悲観します。しかし、水野源蔵さんは、何もできない中で、自分と同じように弱く、小さくなって下さったイエス様に目をとめて、こんなに弱い者だけれども自分のできること、心で賛美し、自分に挨拶をし、瞼の裏にメリークリスマスと書き、わたしのために生まれて下さったイエス様の誕生を、自分のできる形で、精一杯にお祝いしたのです。

 今、クリスマスと世間は楽しく、おかしく、ツリーやケーキ、プレゼントと浮かれ気分かも知れません。それとは、対照的に辛く、悲しく、痛み、弱さの中におられるかも知れません。だとしたら、そのあなたのためにクリスマスはあるのです。イエス様が、救い主として来られたのに、だれにも歓迎されず、誰も知らないところで、片隅に追いやられた所でお生まれになった。あなたの苦しみを、悲しみを、辛さを、痛みを誰よりも理解し、体験しておられるイエス様は、あなたのために生まれ、あなたを救い、あなたを支えられるのです。イエス様は、汚い場所、悪臭に満ちている所にお生まれになりました。清い、きれいな、問題のないところではありません。私たちの心がいかに汚れていようとも、悪臭に満ちていても、イエス様は、そのあなたの心に宿って下さるのです。多くのクリスマスは、救い主イエス様抜きのクリスマスです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」というみ言葉の通りです。イエス様がいないクリスマスはありえないのです。私たちは、私の心に宿られるイエス様のご降誕を心から、感謝してともにお祝いしたいのです。

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日曜礼拝(23年12月10日)

2023-12-10 15:54:37 | Weblog

不安から喜びに   ルカ1:39~45        2023,12,10

 

  • ロウソク2本に灯がともり、今日はアドベント第2主日です。今年も、世界中でいろいろのことが起きました。ウクライナとロシアの戦争、ガザ(ハマス)とイスラエルの戦争もまだ先が見えません。地球沸騰化ともいわれている温暖化の影響による大洪水、サイクロン、森林火災、火山の爆発等も世界中で頻発しました。いま、COP28が中東、ドバイ(UAE)で行われています。一日でも早く世界中に平和で平安な時が訪れますよう祈りたいものです。そんな中でも、クリスマスの時は、世界中の町にクリスマスソングが流れ、クリスマス市が開かれ、多くの人々を平安な気持ちにします。平和の神であるイエスさまの誕生にふさわしく世界中に愛と希望があふれます。第1次大戦の時、戦争中のドイツ軍とイギリス軍がクリスマスに、双方が聖歌を歌い合い、お互いクリスマスを祝い、その間停戦したということもありました。戦闘中のところでも、せめてこのシーズンだけでも停戦し、家族と共にクリスマスを祝うことができることを願いたいものです。そして、世界中の人々を救いに招いている平和の神、イエスさまの誕生を心の底から祝いたいものです。

 

  • 今朝の聖書箇所は、突然、主の召しにより受胎告知を受けた2人の女性(マリアとエリサベト)の分かち合い(交わり)の話です。マリアは天使ガブリエルから「あなたは、身ごもり男の子を生む、イエスと名付けなさい。さらに、その子は聖なるもの、神の子と呼ばれる」(ルカ1:31,35)と言われ、びっくりし、不安がおそったのだと思います。天使に「神にはできないことはない」(1:37)と言われ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(1:38)といったものの不安があったのでしょう。天使はそのことがわかり、マリアに助け舟として、親類のエリサベトも、高齢であるが男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ケ月になっていると話したのです。それを聞いて、マリアはエリサベトにも同じようなことが起こっていることが分かったのだと思います。ナザレから約100km離れた所に住んでいる彼女のもとに急いで走ったのです。その場所はエルサレム郊外の、緑豊かな町エン・カレムと言われています。人間的には、ありえないことが起こった2人の女性、だれとも分かちえなかったのでしょう。2人が出合い、互いに見つめ合って確認し合ったのではと思います。エリサベトは、身ごもって5ケ月の間身を隠していた。彼女は主が私に目をとめ、人々の間から私の恥を取り去ってくださった。当時の社会では不妊の女と言われることがどんなにつらく、恥ずかしかったのでしょう。それでも、妊娠がはっきりわかるまで5ケ月も身を隠していたのです。マリアは、結婚前なので、それ以上に悩みは深かったのだと思います。

 

  • この2人の女性の共通点をみてみましょう。①天使から受胎を告げられる(エリサベトは既婚、マリアは未婚) ②男の子が生まれ、名も決めれた ③成長したあとの使命まで決められた。エリサベトの子、バプテスマのヨハネは、「主に先立って行き、その道を整える」(1:76)と、マリアの子、イエスは、「偉大な人となり、いと高き方の子、聖なるもの、神の子」(1:35)といわれる。そして、のちには2人とも子を失うことになるのです。

 

  • 他人の痛み、悩み、不安を理解、わかるということは難しいことです。同じ体験をしたものにしかわからないものがあるのです。おなじ病気をしたものが、励まし合うことができるが、体験していない人は本当の痛みはなかなかわからないものです。マリアとエリサベトはまさに、同じ不安、痛みをもっていたのです。突然、主の使いから受胎告知され、そのうえ生まれる前から全て決められるという母親の気持ちはどんなものでしょうか。不安でたまらなかったでしょう。特に、未婚のマリアの不安は想像できないくらい大きかったのでしょう。自分の身に起こったことを、いいなづけのヨセフにも両親にも言えなかったマリア。不思議で、考えられないような体験を同じようにしているエリサベトに会って、どんなにか慰められたでしょう。ともに励ましあったことでしょう。マリアは3ケ月も滞在したのです。それだけ不安が大きかったのだとおもいます。2人の出会いを主がすべて取り計らってくださったのです。3年前くらいから、多くの人に読まれている「ネガテイブ・ ケイパビリテイ」(答えの出ない事態に耐える力)という本(帚木蓬生、朝日新聞出版)があります。よくわからない、もやもやしたことにあったとき、答えをだすことを急がず、心にとめ耐えて時の流れの中で答えを見つけ出していくという考え方、対応の仕方というものです。マリアをみると、受胎告知も、もやもやとして、よく理解できず、どうしたらいいのかわからなかったのだと思います。ルカ2章に、イエスさまが馬小屋で誕生したとき羊飼いたちがきて、天使がイエスのことを話してくれたと聞いたとき、マリアは、不思議に思いながら「これらの出来事をすべて心に納めて思いめぐらしていた」(2:17~19)とあります。さらに同じ章には、イエスさまが12歳のとき、両親に過ぎ越し祭にエルサレムに連れていかれ、帰りにイエスがいないことにきづき探しに戻ったマリアに「わたしが自分の父の家いるのは当たり前だということを知らなかったのですか」(2:49)と言われ、このときもマリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(2:51)とあります。まさにネガテイブ・ ケイパビリテイを実践できた人だったのです。

 

  • マリアがエリサベトに挨拶したらエリサベトの胎内の子は喜んで踊った。そしてエリザベトは聖霊に満たされて声高らかに「あなたは女の中で祝福された方です。私の主のお母さまがわたしのところにきてくださるとは」(1:42)と、主のお母さまと言い、イエスさまが主であると言っているのです。聖霊が言わしめているのです。そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(1:45)とマリアに言ったのです。マリアは心から「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(1:38)と心の底から受け止め、主にすべてを委ねたのです。そしてマリアは主を賛美するのです。

 

  • アダム以来、人は多くの罪を犯し、神と離れてしまった。神はそれを憐れみ、その罪をあがなうためにひとり子を人としてこの世に降したのです。私たちの罪をあがなうための犠牲としてイエスさまを降したのです。十字架で私たちの罪をあがない、復活し昇天しわたしたちを招いているのです。神は人を愛し、最大のプレゼントとしてイエスさまをくださったのです。アドベントの時、わたしたちはこのことを覚え、イエスさまの誕生を心整えつつ、待ち望みたいものです。
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